どうすればよかったか?のレビュー・感想・評価
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老いによる光
正月明けの平日にもかかわらず、7割も埋まった劇場から本作の注目度の高さが伺える。小規模公開でも素晴らしい作品にはちゃんと劇場に人が入る。「侍タイムスリッパー」に引き続き、映画館好きとしては嬉しい気持ちでいっぱいになる。
「どうすればよかったか?」
始まりと終わりでこのタイトルの感じ方が大きく変わる。悔いが残っている言葉。藤野監督はまだ傷が癒えておらず、なんなら現在進行形で傷を負っているようにも思える。見る前はどうすれば家族は幸せになれるのか?を考える作品かと思っていた。だけど違った。始まってすぐその考えは打ち消される。
答えを見つけることを目的としていない。当たり前だが、家族には多種多様、それぞれの幸せがあり、やり方がある。それを他人がとやかく口出しすべきではない。明言しているわけではないが、火のないところから煙を立てようとする現代人に対する提言のように思えた。
ドキュメンタリーは基本、客観的に撮影したものばかり。観客は監督と同じ目線に立ち、真相をおったり、問題に目を向けたりしていく。ただ本作は、監督自身が経験したことであり、考えは客観的でありながらも主観的に撮影しているため、監督までもがドキュメンタリーの中の人物となっている。
家族だから当たり前だと思われるかもしれないが、カメラの反対側の様子がこんなにも伝わってくる作品は、未だかつて見たことがない。監督は20年もの間家族を記録し続けたが、観客はその家族の記録と監督の葛藤や苦しみを見ることになる。冒頭のナレーションから様々な思いが一同に伝わってくる。
姉が放った言葉ですごく印象的なものがある。
「だめだっつうの だめだっつうの」
彼女は自分が言った言葉に対して過度に否定を続ける。頭と心が一気に表面化されたシーン。何かと戦っている、何かに苦しめられている。姉が誰かと話しているかのようだが、その正体はわからない。ただただ追い詰められ続け、ひたすらに否定を続ける。
何か気に障るようなことがあれば、姉は突然早口で話し始める。だが、そんな彼女の言葉の言い回しはとても母親に似ていた。偶然か必然か。
愛するとは、寄り添うとは。
彼女は幸せだったのか。その答えを知る者はいないのだから、観客である自分たちは何も言うべきでは無い。非難する対象はたくさんいる。だけど、それでは意味が無い。言わない、言えない、どうしようもないということが、この映画の伝えたかったことでは無いだろうか。
老い、そして光。どうにもならないやるせなさで胸がいっぱいになる。そして、監督はいまも考え続ける。
「どうすればよかったか?」
タイトルは、困難が起きた時の問いそのものかもしれない。
家業のあるうちの大変さをまず感じた。
天皇家や歌舞伎などの伝統芸能、老舗の旅館や店舗など。
医者は家業ではないけれど、子どもにとって最も身近な親の生き方(性格、価値観、職業観など)は影響力が大きい。
しかし、医者になるのは、ハードル高し。
開業医の子どもが裏口や替え玉受験など騒がれるのは、たいてい医学部、医師国家試験だったりする。
小中成績優秀でした…では太刀打ちできないところがあるんだろうなあ。
障がいに対するとらえ方は、時代により、人により、幅がある。
周囲にどのくらい開示できるかも、それぞれ。
このおうちは、とても閉塞的で、本質的な話し合いをしない。
私の育った家庭も、戦中生まれの両親、私(長女)、弟2人だった。
父権の強さ、弟の発言力のなさが、似てる。
ただ、我が家は、親族や近所にうちの内情が駄々洩れの開放的な家だったので、同じ状況に陥っていたら、違う展開になっていただろう。
父の上を行く祖父も近くに住んでいたし。
家族問題の肝は、周りと繋がることだと思う。
順番として、親は、子どもより、早く死ぬ。
親が子育てで最も重要視することは、子が自立できるようにサポートすることだ。
成人した娘がひとりで外出もできない状況ならば、やはり信頼できる医師に出会うまで受診し、様々な試みをすることが、やるべきことだったのではないだろうか。
自分にとって受け入れがたいことでも(その葛藤は理解できる)、娘のために、事実と対峙する必要があったろう。
超高齢のご両親が、自分たちだけで娘の世話をする姿に、胸が痛んだ。
この映画の価値は、まさしくそこにある。
我が事なら、こんなに冷静に考えられない。
パニックになるし、自分の不運、娘の不幸を受け入れるまで時間もかかる。
こうして、映画として、事前に疑似体験すれば、同じような境遇になった時に、葛藤する時間が少なくなるかもしれない。
観てよかったと心底思った。
世界が今、すごいスピードで変化している。
メンタルを病む人も、これから増えていくだろう。
だからこそ、風邪みたいに、受診して休んですんなり復帰するような、そんな社会になったらいいなと思う。
しかし、人の怒鳴り声って、聞くのしんどいな…。
統合失調症×認知症×脳梗塞×カメラマン
家族の在り方
映画の冒頭で、これは統合失調症についてのドキュメンタリーではないという旨のテロップが出る。観終わってみると、なるほどと思った。確かにこれは病気についての映画ではない。むしろ病気に対応する周囲の家族についての映画だと思った。
極めて個人的なドキュメンタリーである。にも関わらずこちら側に鋭く突き刺さってきた。それは、この映画が”家族”のあり方というものについて問うているような気がしたからである。
もし、家族の誰かが身体的、精神的に弱っていたら、自分は上手くフォローすることができるだろうか?家族同士できちんと話し合って解決できるだろうか?そんなことを考えさせられた。これは介護の問題にも置き換えられかもしれない。あるいは、子育ての問題に置き換えることもできるかもしれない。
ラストにタイトルの「どうすればよかったか?」という問いが監督から投げかけられる。これは観客に向けた言葉ではない。しかし、まるで自分に言われているような気がした。そして、観終わった今でもその答えを出せないでいる。
ただ、一つ確実に言えるのは、この家族のように「どうすればよかったか?」という後悔だけはしたくないということである。
それにしても、観ている最中は、両親のことが腹立たしくてならなかった。この両親は共に医学研究者で、かなりのインテリである。そんな両親の影響で姉も医学の道を目指した。しかし、思うようにいかず挫折をしてしまう。姉は間違いなく両親のプレッシャーに圧し潰されてしまったのだと思う。
更に、最悪なことに両親は病気が悪化する姉を周囲に相談することもせず部屋に閉じ込めてしまった。この罪は非常に大きい。きちんとそれ相応の対処をしていれば、姉の人生はもっと違うものになっていただろう。姉は完全にこの両親のエゴの犠牲になってしまったのだと思う。
そんな姉のことを唯一理解し、傍に寄り添ってくれるのが、カメラを持った弟=監督である。彼の姉に対する語り掛けは非常に優しい。自分だけは味方だと励まし、常に気遣い、愛情を示し続ける。
しかし、映画を観終わる頃には、彼の言動もどこか悍ましいものに感じられた。実は、この監督も両親と大して変わらないのではないか…という気がしたのだ。
姉の病状が発症したのは約40年前。その時まだ学生だった監督は実家で一緒に暮らしていた。しかし、卒業と同時に家を出て一人暮らしを始めた。そして、映画学校に入ってこのドキュメンタリーの製作をスタートさせたと言う。その間、彼は姉を入院させるよう両親に何度も説得している。しかし、聞き入れてらえず、淡々とカメラを回し続けたのである。
本当に姉のことを思うのであれば、強引にでも彼が病院に連れていくべきだったのではないだろうか。しかし、彼は映画を撮ることを優先させてしまった。
ドキュメンタリーは常に真実を伝えているとは限らない。そこには必ず作り手の恣意的な視点が入るからである。
本作を観る限り、両親が姉を追い詰めたように見える。しかし、その傍で弟である監督は一体何をしていたのかというと、それを撮影していたのである。そのことについて、この監督はどう考えているのだろうか。弟としてよりも作家としてのエゴが勝ってしまった…ということなのだろうか。
受診して合う薬が見つかって三か月後に退院し、様子が変わった姉の姿を...
凄い映画
精神疾患の現実を目の当たりにする鑑賞体験
精神疾患の疑いがある人を病院につれていくのに障壁となるのは本人の同意だ。同意なしに通院させたとしてもトラブルの元だし症状が改善しづらいらしい。でも家族が病院に連れていくという強く決心しないと始まらないケースもあると思う。
本作は統合失調症の疑いがある姉と、彼女を通院させないでいる両親を記録したドキュメンタリー。冒頭で聞こえてくる姉の音声でまずギョッとさせられる。何を言っているのか意味不明だし、家族であろうと敵意をむき出しにするその声は相当のインパクトだ。
その後の映像は、最初に統合失調症と疑われる症状が出てから10年以上経ってからのもの。若干朦朧としながら弟や両親の問いかけに反応する(もしくは無反応な)姉の姿は、通常の社会復帰が難しいと感じさせるのに十分だ。その後、撮影者である弟の行動と両親の対応は、統合失調症という病を抱える者の家族が抱える問題の奥深さを考えさせられるものだった。
何が正解だったのかはわからない。あの両親の対応が間違っている!と言い切ることもできない。監督である弟さんも正解をつかんでいるわけではない。彼らの両親に、あの対応でよかったのか?と確認し、間違っていたかもしれないという言葉を聞きたいだけなのかもしれない。そりゃそうだ。人生とは多かれ少なかれ、もっと他の方法があったんじゃないかと悩むものだから。悩みながら決断してきたことを共有したかったんじゃないか。両親の対応を責め立てる目的の映画ではない。たぶんそうなんだろう。ただ、自分たちの対応を間違っていなかったと言い切れるあの父親の感覚が明らかにおかしいことだけはわかる。それだけでも本作の目的を一つ達成しているのかもしれない。
あの家族の抱えてきたことの重さを考えるととてもつらくなる。でも、同時にここから目を逸らしてはいけないなとも感じる。観た人がそれぞれ感じるものが多い映画だったと思う。とても稀有な映画だ。万人には勧められないが、多くのことを考えさせられる人も多いはずだ。
ピースサイン
家族という呪縛が視界を曇らせる
東京での公開から1ヶ月以上が経過し、名古屋でも年末から一館だけだが上映スタート。
1月13日時点でまだ劇場は満席(増補席で対応中)という人気ぶり。
こういう家族モノの作品はすごく苦手な私。
どんなコミュニティより「家族」こそが地獄たと思っているからだ。
作品中でも、この『家』という小さな宇宙に、独立して存在する法(「法律」というより「物理法則」に近い)によって、客観的に見れば明らかに「(姉は)専門的な医療を受けるべき」だと子供でも分かることが否定され続け、25年という途方もない時間が経過してしまう。
父も母も、監督である弟も、姉への対応を通して「何かを守りたい」と思っている。一人として家族の誰かを傷付けたい・悲しませたいなどとは思っていないのに、結果はひどく皮肉なものになる。
誤解を恐れず言うなら、私がこの家族にとって最も不幸なことがあるとすれば、
「治療・投薬を受ければ、あっという間に症状が改善する、という事実を知ってしまったこと」だと思う。
身体に合う薬が見つかり、普通の会話どころか、簡単な家事もできるようになる。
カメラに向けたぎこちないピースや、おどけたポーズは、おそらく監督が幼い頃に見ていた優しい姉の姿を十分過ぎるほどに思い出させたに違いない。
我々から見ても、チャーミングな人だったことがうかがい知れるくらいだから。
決してこの家族は崩壊していたワケではない。おそらく父も母も彼女のことを諦めてはいない。
姉の症状が良くない中でも、母親の喜寿を祝い、家族で誕生日やクリスマスを祝っていたことからも、彼女を家族の一員として大切にしていたことがよく解る。
だからこそ
彼女が自分のために使えたはずの25年間を悔やみ、症状の寛解と同時にやってくる次の病魔に愕然としてしまう。
「もっと早く治療を受けていれば」
もしかすると、母親の認知症は姉の介護に起因していたかも知れない。
「もっと早く治療を受けていれば」
もちろん、医療は長年の進歩に依存していて、25年前の医療ですぐ改善したとは限らないし、「タラ・レバ」は不毛だ。
家族が崩壊しなかったのも、「絆」などといったものではなく、靴紐やレジ袋など、玄関にあったものでとりあえず繋ぎ止めた様な、あの程度の脆弱なものだったかも知れない。
専門医療を受けさせなかったことについて、母の言う「(姉を医者に見せたら)パパは死ぬぞ」も、父の言う「ママが隠したがったから」も、嘘かも知れないし本当かも知れない。
カメラの前では誰でも無意識に何かを演じてしまう。
でも、経過した25年だけは現実。
エンドロールの後に添えられた、家の前まで出て、ダブルピースで車を見送ってくれた姉の姿。
「ドキュメンタリー」といったって、編集された時点で恣意性を強く持つものだ。
監督はど真ん中の当事者であり、起きた現実を客観的に評価することなんかできるワケがない。
監督は早く医者に診て欲しかった。
おそらく、カメラの回っていないところで、必死で親の説得もしてたんじゃないかな。
でも、それは叶わなかった。
「どうすればよかったか」
姉への対応は誤っていた、という前提で問いかけた監督に父親は「あれで良かったんだ」「後悔はない」と答えた。
これも彼の本音かどうかは分からないが、彼には彼の「正しさ」が存在する。
第三者である我々の誰もがこの件については答えを持っている「どうすればよかったか」という問題について、その問いそのものが意味を持たない世界。それが『家族』という宇宙だ。
この映画を観て、観客が父親や母親を責め、お姉さんに憐れみの感情を向けるのは簡単だ。
でも、家族という呪いは、一般常識や客観性などを軽々と否定し、それが当然だという顔で世の中と対面している。
だからね。
家族にしか分からないこともあるし、一般論で片付けちゃいけないんだろう、って(ここまでダラダラ書いておきながら)ずっと考えてる。
他の方のレビューに「何て言ったらいいか分からない」って書いてあるの、まさにその通りだなって。
率直に何て言っていいのか分かりません。 愛情を持ってお世話していた...
パパそれはないやろ
南京錠をかけて外に出さない、医者にかからせないって、
これは虐待だし、この両親は医師で研究者である自分たちの家から統合失調症患者を出すのは恥だと思っていると
てっきり思っていた。
だけど、また勝手に海外に行ってしまう危険があるとか、
監督のインタビューによると、
病歴がつくと国家試験に不利になるとか、
娘を思うがための考えがあったのかもしれない。
でもそれはやっぱり娘の幸せにつながるものでは
なかったという事実を、むきだしのまま見せられる。
3ヶ月入院しただけで薬が効き、人が変わったように落ち着いた姿はほっとすると同時に、それまでの外界から遮られ続けた20数年がなんだったのかと、私たちでさえ思ってしまう。
棺桶に論文を入れ、自分の研究を手伝ってくれたと親戚に語る父。最後まで、自分が望む娘の姿しか見ようとしない。
「娘の人生はある意味充実してた」って
パパそれはないやろと思ってしまった。
現実に胸がつまった
どうすればよかったか
みてほしい みるべき作品
面白い映画、感動する映画、興奮する映画―。何本かに1本はそういう映画はある。しかし、すごい映画は滅多にない。
年間20本も映画を見ていない(スクリーンで見るもの限定)が、★2つの作品が3分の1くらいある。それでも過去のレビューで、★5つは結構つけているかもしれないが、本作はぜひ見てほしい1本だ。
薄っぺらな作り物ではない、本当にリアルな迫力を感じた。
統合失調症の姉を持つ監督の視点で家族を見つめるのだが、会話が聞き取りにくい部分もすごく集中して聞いた。
観客にすり寄るよう、安易に会話を字幕にしていない。説明的なテキストは最小限だが、監督と家族が抱えてきたものが映像と音声からビンビン伝わった。
舞台は札幌。統合失調症の娘を抱えた親は父親も母親も医大を出た研究者というインテリでかつ裕福な家庭である。娘も多浪したとはいえ医学部に進んだという。しかし、心を病んでしまった―。
そうした子供を抱えた親はどうすればいいのか。この家庭はどうなったのか。映画は一度は家を出た弟である監督の決意のカメラが一家を解剖してゆく。
同じ札幌で起きたあの殺人事件。医師の父親、そして母親が殺人を犯した娘に取り込まれたあの家族を思い出したりした。
精神障害を抱えた娘に、適切な治療を施さなかったのはなぜか―。
監督は家族でありながら、映像作家の視点で冷静に迫り、作品化している。
家族という、自分の意思で選べない場に生きる業について考えさせられた。
どうすればよかったか? どうすればよかったか どうすればよかったか どうすればよかったか―。
最後の「?」が重い。
新宿の映画館は、平日の昼間ながら結構な入りだった。公開から1カ月がたつが、映画通の口コミが広がっているのだろう。
この監督はこれ以外に作品を撮れるのか、撮りたいと考えているのか。それにも興味が湧く。
作者の傷口から今もまだ血が流れているような作品だった
家族のひとつのあり方に、誰も簡単な論評を加えて良いわけではないと自らを戒めた。
というのは、この映画はいとも簡単に、父親が,母親が、親族が、この弟が、医者が、世間がと、その不作為を責めることを簡単にできてしまうから。そして、その誰かを責めた瞬間に、この映画のもつ視点の総体が,失われてしまうから。
この映画の感想は第一に、なんともいえない、と重く口から言葉を漏らすことが正しい作法だと思う。それ以外の断罪は、目撃することに心が耐えられなかった証拠にしかならないのではあるまいか。
どうすればよかったか。
これは、この家族当事者である映像作家のこの弟からすると、人生の最後まで抱え続ける問いになるのだろう。しかし一面では現実的にはすでにほぼ終わってしまった事案であるともいえる。そしてその最後の後片付けをする時にはなにをそこに改めて感じるのかを視聴者としては想像して、むしろ作者のその思春期から抱き続けた傷の縫合を自らやらざるを得ないこれから訪れる総括の時を思うと、視聴者としては同年代の彼に、しっかり生きてくれとエールを送りたくなるのだ。
なんともいえない、そしてその次には、やりきれない。
だが、この映画は歴史の中で残る必要がある。利発で美しい少女の頃の姉の魂と、その自慢の優しい姉を思っていた時の弟の心は、必ずどこかで誰かに意味をなすだろう。それを必ず見届けてほしいし、この映画を見た、おそらく多くの医療福祉の関係者は、これを無駄にしてはいけないのだと思う。その時に、やはり簡単な結論を出すようでは、いけない。
星は4.5にした。この映画に、星5をつけても、監督はうれしいか?だから4.5にした。
家族内の閉塞感は他人事でない
ドキュメンタリー映画好きなので、どうしても観ておきたかった作品。動員数が多く話題のようだが、いわゆる映画的な展開を期待すると肩透かしを喰らう。ひたすらモヤモヤと閉塞感のある場面が続くからだ。
ただし統合失調症の当事者と両親を家族の視点から長年に渡って捉えた映像は大変貴重。かつ、受診していない統合失調症患者と家族という側面は特殊だが、「正論」が通じない家族というのはどこにでもあり、他人事としても見ていられず、心が痛くなる。
この貴重な映像を長期間撮影して、映画として完成した監督にただただ感服。そして語りたくなる映画であることは間違いがない。(実際、私もこのようなサイトに初めて投稿しました。)
誰にでも勧められる映画ではないが、個人的には観ておいて良かった。どなたかのレビューでもあったが、星を付けるのはとても困るが、上記の理由から無理やり付けました。(印象チェックに「考えさせられる」はないんですね。私はそういう映画が好きなので、少し意外でした。)
2025/4/4 再度鑑賞 テアトル新宿
詳細には書けないが、最近この映画を思い出すような出来事が身近にあったため、再度鑑賞した。
今回感じたのは、「確かに家族に愛はあった。しかし親からの強い支配もあった」ことだ。
虐待やDVも含めて、「愛ゆえの行為」は存在する。「◯◯(子ども)のためを思って」と言うことで、自分の思う通りに仕向けることだ。
本当にそう思うなら、相手(子ども)の意見を聞く、さらには意見を聞く姿勢を持っていることを相手(子ども)に感じてもらうことが大切だろう。
主人公のお姉さんは優秀であったからこそ、親も期待をしたし、ご自身も期待に応えようとした。しかし、どこかで違和感があったなら、その感覚を無視するべきではなかった。
実際、最後に監督との対話でお父さんは「統合失調症だと思ったことがある」と告白している。
さらに違和感があれば、本人や周囲の人とも話し合えれば良かった。
お母さんは頑なそうだったので、仲の良い叔母さん(母の妹)にも、もっと早く相談して、説得できるなら、それも良かっただろう。
未成年であれば、周囲の誰かが異変に気づけば、児童相談所が関わるかもしれないが、親元を離れていない大学生相当の年齢の人に対しては難しいかもしれない。
どうすればよいかを考えてみたが、やはり家族、特に親の考えによって、無理があるようだ。難しい。。。
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