「家族という呪縛が視界を曇らせる」どうすればよかったか? キレンジャーさんの映画レビュー(感想・評価)
家族という呪縛が視界を曇らせる
東京での公開から1ヶ月以上が経過し、名古屋でも年末から一館だけだが上映スタート。
1月13日時点でまだ劇場は満席(増補席で対応中)という人気ぶり。
こういう家族モノの作品はすごく苦手な私。
どんなコミュニティより「家族」こそが地獄たと思っているからだ。
作品中でも、この『家』という小さな宇宙に、独立して存在する法(「法律」というより「物理法則」に近い)によって、客観的に見れば明らかに「(姉は)専門的な医療を受けるべき」だと子供でも分かることが否定され続け、25年という途方もない時間が経過してしまう。
父も母も、監督である弟も、姉への対応を通して「何かを守りたい」と思っている。一人として家族の誰かを傷付けたい・悲しませたいなどとは思っていないのに、結果はひどく皮肉なものになる。
誤解を恐れず言うなら、私がこの家族にとって最も不幸なことがあるとすれば、
「治療・投薬を受ければ、あっという間に症状が改善する、という事実を知ってしまったこと」だと思う。
身体に合う薬が見つかり、普通の会話どころか、簡単な家事もできるようになる。
カメラに向けたぎこちないピースや、おどけたポーズは、おそらく監督が幼い頃に見ていた優しい姉の姿を十分過ぎるほどに思い出させたに違いない。
我々から見ても、チャーミングな人だったことがうかがい知れるくらいだから。
決してこの家族は崩壊していたワケではない。おそらく父も母も彼女のことを諦めてはいない。
姉の症状が良くない中でも、母親の喜寿を祝い、家族で誕生日やクリスマスを祝っていたことからも、彼女を家族の一員として大切にしていたことがよく解る。
だからこそ
彼女が自分のために使えたはずの25年間を悔やみ、症状の寛解と同時にやってくる次の病魔に愕然としてしまう。
「もっと早く治療を受けていれば」
もしかすると、母親の認知症は姉の介護に起因していたかも知れない。
「もっと早く治療を受けていれば」
もちろん、医療は長年の進歩に依存していて、25年前の医療ですぐ改善したとは限らないし、「タラ・レバ」は不毛だ。
家族が崩壊しなかったのも、「絆」などといったものではなく、靴紐やレジ袋など、玄関にあったものでとりあえず繋ぎ止めた様な、あの程度の脆弱なものだったかも知れない。
専門医療を受けさせなかったことについて、母の言う「(姉を医者に見せたら)パパは死ぬぞ」も、父の言う「ママが隠したがったから」も、嘘かも知れないし本当かも知れない。
カメラの前では誰でも無意識に何かを演じてしまう。
でも、経過した25年だけは現実。
エンドロールの後に添えられた、家の前まで出て、ダブルピースで車を見送ってくれた姉の姿。
「ドキュメンタリー」といったって、編集された時点で恣意性を強く持つものだ。
監督はど真ん中の当事者であり、起きた現実を客観的に評価することなんかできるワケがない。
監督は早く医者に診て欲しかった。
おそらく、カメラの回っていないところで、必死で親の説得もしてたんじゃないかな。
でも、それは叶わなかった。
「どうすればよかったか」
姉への対応は誤っていた、という前提で問いかけた監督に父親は「あれで良かったんだ」「後悔はない」と答えた。
これも彼の本音かどうかは分からないが、彼には彼の「正しさ」が存在する。
第三者である我々の誰もがこの件については答えを持っている「どうすればよかったか」という問題について、その問いそのものが意味を持たない世界。それが『家族』という宇宙だ。
この映画を観て、観客が父親や母親を責め、お姉さんに憐れみの感情を向けるのは簡単だ。
でも、家族という呪いは、一般常識や客観性などを軽々と否定し、それが当然だという顔で世の中と対面している。
だからね。
家族にしか分からないこともあるし、一般論で片付けちゃいけないんだろう、って(ここまでダラダラ書いておきながら)ずっと考えてる。
他の方のレビューに「何て言ったらいいか分からない」って書いてあるの、まさにその通りだなって。