「家族愛ゆえに陥る「正常性バイアス」」どうすればよかったか? かみさんの映画レビュー(感想・評価)
家族愛ゆえに陥る「正常性バイアス」
「どうすればよかったか」に対する答えは、監督・撮影者である弟にとって決まっている。同じ答えをどうして両親と共有することができなかったのか、それが本当の問いだ。
精神の病いに伴う恥の意識、医療への不信とともに、次のようなバイアスが働いて両親を治療という選択肢から遠ざけてしまったのではないか。
〇 異変は一時的なことで、見守っていれば元の優秀な娘に戻るのではないか(正常性バイアス)
〇 それには親のプライドでもある研究者としての道を一緒に目指すのが早道だ
〇 お父さんがそう言うなら口を挟まないほうがいい
両親もそれぞれ方針に疑問を持つことがあったようだが、互いに相手に遠慮して口を出せず、家族の中でこれまでの慣例が継続、黙認されてしまう。
レビューのなかには、この家族は愛情をもって娘に接しているからまだ救われるという声もある。しかし実は愛情こそが曲者ではないか。家族としてできることがあるのに専門家に頼ることに対する罪悪感が生まれ、医療や治療という選択肢を選ぶことができないのだ。
実際に、このような親心が働いているうちは問題が好転せず、親が老境に入って諦念を抱き始めたことが入院、薬物療法に結びついたように見える。発症から25年間、対話も成り立たなかった娘は3か月の入院で料理や外出をするなど見違えるように回復する。
できれば知りたかったのは、こうした治療の成果を父親はどう感じていたのかということだ。ラストシーンで監督は「これまでのことを正しいと思ったか」を尋ねるが、これは父親を愛情か治療かという二者択一に再度追い込んでしまったのかもしれない。
それよりも、治療を受けることで見られた娘の新しい表情を、父としてどう思っていたのか、尋ねてみたかった。「愛情ゆえに治療を遠ざける」「専門家を頼るために家族愛を裏切る」のではなく、家族を愛し続けるために専門家を頼る選択肢が広まることを願いたい。この映画でも治療することによって家族として過ごせる時間が増えたのではないだろうか。
なお、家族から半分離れながら家族を問うような監督の姿勢について好まないレビューも多いようだ。しかし、それでは結局「家族でない者が口をはさむな」という理屈と同じになってしまう。必要なのは家族をよく知ったうえで新しい提案をすること、家族と社会の仲介ではないか。
(パンフレットには映画の理解に有益な情報が含まれており、以上のレビューもその内容を一部参考にしています。)
追記:この映画が、答えをオープンにしたまま、みんなで悩みましょうというような話ではないこと。弟の立場から「医療が遅くなって良かったことは一つもない」と、下記のタイトルのWeb記事で語られています。
統合失調症を否定して姉を家に閉じ込めた両親、家族はなぜ25年もすれ違い続けたのか?