「統合失調症の姉と、姉を匿った両親。 その姿を捉えたセルフドキュメン...」どうすればよかったか? りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
統合失調症の姉と、姉を匿った両親。 その姿を捉えたセルフドキュメン...
統合失調症の姉と、姉を匿った両親。
その姿を捉えたセルフドキュメンタリー。
医学部進学を目指した姉が突然叫び出したりなどの統合失調症めいた症状を発症したのは1983年頃。
8歳年下のわたし(監督の藤野知明)は、まだ十代の少年だった。
基礎研究分野の医学博士の両親は、他の医者に姉を診察させるも統合失調症などの病気ではないと判断し、以後、姉を周囲から遠ざけるようにした。
家を出、いくつかの変遷の後、映像関係の学校に進学したわたしは、帰省などの折に「家族の旅行などの記念」及び「自身の仕事の習作」の名目で、姉や両親をカメラに収めることにした。
それが2001年のことで、姉が発症したと思われる日から18年経っていた・・・
といったところからはじまり、現在に至るまでが収められている。
タイトルには、監督自身の後悔と仕方がないという納得が詰まっている。
映画は、「どうすればよかったのか?」「××すればよかった。○○すべきだった」といった「べき論」的なことを求めていない。
第三者(観客)にみせることを前提にしているが、第三者視線での「統合失調症発症の原因」や「その後の行うべきだった対処」などは求めていない。
監督が提示しているのは、「わたしの家族は、このとおりだった」ということ、それだけなのだ。
ここが観ていて苦しい。
見ていて苦しい、心苦しい。
もっと言えば、観ることに「後ろめたさ」や「疚しさ」を感じてしまう。
それがどこから来るのかがわからなかった。
観終わってすぐ思ったのは、「あぁ、自分の家族も別の事象だけれど、ほんとうにひどかったなぁ」という心苦しさだったが、「観ることへの後ろめたさ」を感じる要因とは別のものだ。
「観ることへの後ろめたさ」を感じるのは、姉及び両親を撮りはじめる際に監督自身が言っていることに起因している。
撮影の名目は「家族の旅行などの記念」であり、「姉及び両親の生活の実像の記録」ではない。
端的にいえば、「真の目的を隠匿したうえでの隠し撮り」であり、そこに映し出されているのは「秘密の姿」なのだ。
その「秘密の姿」を観ること・視ることに「後ろめたさ」を感じてしまったのだろう。
さて、問題は、視てしまった観客としてのわたしだ。
安易に「べき論」的なこと感想を口にすることは決してできない。
監督と同じく、「仕方がないけれど納得するしかない」のかもしれない。