「大入り満員! 極めて個人的であるからこそ普遍的な、統合失調症の姉と家族のドキュメンタリー。」どうすればよかったか? じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
大入り満員! 極めて個人的であるからこそ普遍的な、統合失調症の姉と家族のドキュメンタリー。
ほんと、どうすればよかったんだろうね……?
この映画の「どうすればよかったか?」という問いかけには、
いろいろと考えさせられる部分がある。
もちろん一義的には、この映画で扱っているのは、
「姉を」どうすればよかったか、という話なのだが、
「このご両親を」どうすればよかったか、のほうが
より根源的で、監督自身の悩みに寄り添った問いかけになる気もする。
あと、映画を観はじめた段階では、むしろこれは、
「問いかけるまでもない」話だったりもするのだ。
すなわち「病院に連れて行ったほうがよかった」。
それに尽きる。
だが、20年以上に及ぶ生活ぶりを見せられ、
統失患者のいる「日常」が実際に平常化し、
それなりに構築されている姿を見せられると、
だんだんとその「義憤」に「ためらい」が生じてくる。
パパとママの主観からすれば、これって意外に
それなりに「やりきった」生涯だったのではなかったのか。
姉はたしかに20年間を無駄にしたのかもしれないが、
くるったまま混濁した意識のもと生活する日々と、
半ば正気のまま自分のお荷物ぶりを自覚しながら過ごす日々。
どちらがどれくらい幸せだったといえるのだろうか。
「実際にあった日常」の「重ねた年月の重み」と、
最後まで、ぶれることのないご両親の価値判断に、
むしろ観ているこっちが、だんだんぶれてくる。
一応の正義を信じてはいても、若干不安になってくる。
意外にお姉さんが、これはこれで「あり」の人生だったと
いっちゃったりしたら、どうする?
なにが正解だったとか、どうすればよかったとか、
2時間付き合っただけのわれわれに、
いえることなのか? いっていいことなのか?
― ― ― ―
それにしても、薬ってマジで効くんだな。
ちょっと、びっくりした。
映画だけ見ていると今一つわからないが、
まだ外出できていたころのお姉さんは、
相応に「ふつう」を偽装できる程度には、
ふるまって過ごせていたのだと思う。
ある時期までは、ご両親と「共同研究」をして、
翻訳なども手伝っていたそうだし。
だが、パパが終盤にいっていた「ここ数年」は
本当にひどい状態だったのだろう。
意思疎通もできない。汚言を吐き続ける。
衝動的に動く、そんな感じだったに違いない。
それが、3か月の入院で、あれだけしゃべれるようになった。
意思疎通できるどころか、会話が交わせるようになった。
笑うようになった。ポーズを決めるようになった。
通常の人からすればかなりまだおかしいけど、
少なくとも、人として普通にやりとりができるようになった。
そして、なによりも花火を喜べるくらいの感性が戻った。
医療ってすげえな、薬ってすげえな、ってのが率直な感想。
ちょっと不謹慎だが、リアル・アルジャーノンくらいの衝撃だった。
なんか、このままハッピーエンドでもいいんじゃないか。
そう思えるくらいのカタルシスが、弟の問いかけに対して、
姉が「ふつうに」応えた瞬間には確かにあった。
いや、マジで、こんなに簡単に「効く」んなら、
ほんと早く医者に診せておけばよかったんだよ、
とは思うんだけど……、
この「時期」だったから効いたのかもしれないし、
若くして正気に戻っても、はたして
お姉さんにどんな人生が待っていたかはわからない。
でも、とにかく薬があれだけ効いて本当に良かったと思うし、
パパとママにどれだけの「咎」があったとしても、
お二人が娘の「復活」を目に出来て、本当に良かったと思う。
― ― ― ―
僕の周辺には統合失調症を患った人がいないし、
精神疾患の親族もいない。
自分はかなりのADHDだが(専門家の妻が100%そうだと断言しているから、そうなんでしょうw)、発達障碍と精神疾患はまったく別のものだ。
基本的に僕にとってはしょせん「他人事」だし、
この映画も「面白半分」「怖いもの見たさ」で足を運んだ。
だからこそ、当事者の苦しみや悩みや問いかけに対して、
軽々に答えられないし、答えが思いつかない。
多くの観客は、弟さんのあきらめが早すぎると思うかもしれない。
もう少し早い時期に、なんとかできたのではないかという人もいるだろう。
でも、たぶん物事はそんなに単純ではない。
話している様子を見ていると、ご両親も結構な確率でASDの傾向が見られる気がする。
理系分野で相応の研究成果を残したインテリ夫婦で、こだわりが強く、意見を変えず、一度決めた生活ルーティンを壊したがらない。
パパはあくまで冷静で温和で紳士的だが、決して現状変更を認めようとしないし、かたくなに「娘が医師国家試験をどうこう」という(傍から見ているととてもあり得ないような)話に固執している。
ママも少し言葉は聞き取りにくいが優秀な人で、晩年ボケてきても、ボケているなりに「推理」して「論証」して「侵入犯の行動原理について仮説を立てようとしている」ことにけっこう驚いた。
こういうご両親がいったん「娘はああ見えてまともだ」という物語を組み立てて、「医者に診せる必要はない」と結論付けて、娘を隠しこもうと決め込んだとき、それを変えさせるのは、傍から思うよりも何倍も大変なことだったのではないかと思う。
娘が妄言を口走ろうが、うろうろしはじめようが、「ほとんどなかったことのようにふるまう」パパとママ。
観ていて、とてもおそろしいシーンだ。
これは創作ではない。実際にあったことなのだ。
彼らは、「見たくないこと」は「見ない」。
都合の悪いことは、認識の外に追いやる。
そうやって、娘は「そこそこまとも」で
「医者に診せる必要も治療の必要もなく」
「今でも医者を目指して勉強している」
という「仮想の物語」を守り抜いていく。
それは、幹線道路沿いに住んでいるうちに騒音がまったく気にならなくなったり、どぶ臭い家のにおいがだんだんわからなくなったりするのと同じ、精神の自衛機能だ。
娘の異常性が、日常に溶け込んでいく。
見えなくなる。気にならなくなる。感情がオフになる。
こうして、「昭和・平成の座敷牢」が生み出される。
なにより、この「座敷牢」は、実在しただけではない。
20年以上維持された、どこまでも堅牢でゆるぎない、筋金入りに実体的な「座敷牢」なのだ。
僕は弟さんにこの現状が変えられなかったのは、そうおかしなことではないと思う。
何よりこの「座敷牢」は、それなりに安定して、落ち着いた状態を保っていた。
少なくとも維持されている間は、なんの事件も起きなかった。
安寧が約束された、ある種の「失楽園」だった。
言い方は悪いが、動物園の平和と変わらない。
親御さんにとっての、偽りの安息所。
この均衡が崩れたら、「パパは死んでしまう」とママはいった。
実際、無理に現状変更を図って壊してしまったほうが、何が起きるかわからない。
弟さんにとっても、一歩踏み出せない状況が長く続き、
長く続けば続くほど、余計に動けなくなった。
そういうことではなかったか。
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弟さんという「観測者」の立ち位置も、実はこの映画ではけっこう重要なファクターだったりする。
監督は、単なる傍観者でもなければ第三者でもない。
れっきとした家族であり、最も身近な間柄であり、事態に一定の責任をになう存在だ。
しかも、特定の見識を家族に持ち込み、「混乱を生じさせている」張本人であるともいえる。
表面上、ある種のバランスをとって平穏に過ごせている三人のところに、ときどき帰ってきては延々ヴィデオを回し、姉に質問をくどくどと投げかけては、発作を引き起こすトリガーになっているわけだから――。
彼がヴィデオを回すこと自体が、両親の行動や姉の症状に影響を与えている可能性もある。
彼がドキュメンタリーを記録することで、取材対象者自体になんらかの変化をきたしていることだって、十分に考えられるわけだ。
一方で、疾患のせいで感情表現がうまくできず、親への怨念を抱えながら、静かに座って怒りを秘めたまま、じっと時間が過ぎるのを待っていた姉にとって、弟の来訪とカメラを通じての呼びかけは、大きな喜びであり、支えであり、心のよりどころであった可能性もある。
実の家族によって行われたこの取材行為が、いびつな家族の在り方にどのような影響を与えたかについては、結局のところ誰にもわからない。
ただ、監督がこの件に関しては単なる取材者ではなく、れっきとした「プレイヤー」だったことは疑いようのない事実であり、映画を撮るという行為自体が撮られている内容と不可分の影響関係にあったこともまた、無視できない現実である。
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その他、思ったことなどを箇条書きにて。
●統合失調症を患っているあいだ、お姉さんの見た目は驚くほど若い時のまま変わらない。それが、3か月の治療が奏功して「ある程度まともにやりとりできる」ような状態になって戻ってきてからは、年相応にだんだんと老け込んでくる。
まさに、お姉ちゃんの「停まっていた時が動き出した」のだ。
●また北海道か、というとえらく怒られそうだが、ススキノの「あの事件」を想起せざるを得ない部分はどうしてもある。親御さんの職業、抱え込んで悪化させる流れ、孤立無援で煮詰まっていく様子、娘に言われて占星術の本を出版しているあたりなど、あまりにいろいろと両者には類似しているところが多くて、考えさせられる。「あれ」の悲惨なカタストロフィと比べると、本作の場合はまだ「軟着陸」できたケースなんだな、と率直に思う。
●ある日、実家に帰省したら「南京錠」が玄関につけられていた。あるいは、連動した「鳴子」のような仕掛けが付されていた。それを見つけた弟は、さっそくカメラを取り出して撮影を始める……いろいろと怖すぎる。非日常が日常化する恐怖。
●ママが明らかにおかしくなって(認知症というより、統失っぽい妄想だった)、何度も部屋に突入してくる母親に刺激されて、お姉ちゃんまで金切声を上げ続けているくだりは、まさに映画としての恐怖の頂点――「この世の地獄」とでも言いたくなるような「こわい瞬間」だった。
パンフによれば、われわれ観客が「あれ? ママ、娘の首絞めてるのかな」と思わずビビったあたりで、監督もまたビビッて、いったんカメラを置いて部屋に入ろうとしていたらしい。
●逆に「言葉」を取り戻したお姉ちゃんが、家の前で花火を見るシーンは、眠り姫が王子のキスで目覚めるくらいの高揚感があった。母親のいなくなった家で、ある程度の「機能」を取り戻したお姉ちゃんが、家事の実権を握り、好きなものを買いにフリマに赴き、人としての「威厳」を取り戻してゆく。
たとえとしてはひどいもので申し訳ないが、実家で多頭飼いしていた犬たちのあいだで、一頭死ぬ毎に如実にパワーバランスが変化したのを思い出した。いままでいじめられていじけていた子が、一席「空く」ことで生き生きと力を得て、群れのなかで新たな地位を得る。生物である以上、そこは人も同じなのだなあ、と。
●お棺にあふれかえる趣味のものと占いの呪物。あの過剰な死出の装いには、周りの人の「申し訳なさ」が反映してるんだろうなあ。
●全体として、あまりプロっぽくないカメラワークと、ほとんど素人同然の語り(でもとても聞き取りやすい)が、ドキュメンタリーというより「ホームムーヴィー」を見せられているような感覚を与え、お話の親密度というか、リアリティというか、生々しさを高めているように思う。
●テアトル新宿の朝10時の回、客席は満席! パンフを買う列にも行列が出来、明らかに他の映画とは別次元の「何か」が起きているような熱気だった。
この映画は、監督にとって「告発」の映画であると同時に、「身内の恥」の映画でもあり、「家族をネタに商売をする」映画でもある。あるいは、20年以上に及ぶ「私怨」を「人々にさらしものにする」ことによってはらす、「私的復讐」の映画でもある。
きっとつくるには、並々ならない苦悩と、逡巡と、うしろめたさもあったに違いない。
それが、この思いもよらぬ大ヒットで、少しでも報われたらと思わざるを得ない。