名もなき者 A COMPLETE UNKNOWNのレビュー・感想・評価
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高田渡が好きです
まだ幼かった頃親父のカーラジオから流れてくる音楽にジャンルはなかった
なかったと言うよりも幼かったから知らなかっただけなのだけど
それから薄々と音楽のジャンルがわかるようになり自分はフォークやロックが好きなのだなと思うようになっていった
しかし映画が好きなこともありありとあらゆるジャンルの音楽を聴くようになりました
彼のことはあまりよく知らない
もちろん曲は聴いたことはあります
ただね、彼の歌詞を読んだことがなかった
海外の曲のほとんどを歌詞の内容も知らずに今までその雰囲気だけで聴いてきました
だから彼がなぜそれほどに崇拝されるほどの人気があるのか分からなかったし考えたこともなかった
彼の歌詞はシンプルで分かりやすい
そして威圧感がない
「俺についてこい」とか言いそうにない
不思議なことを不思議だと言い
おかしな事をおかしいと言う
いたってシンプルなのだ
ブルーハーツを思い出す
金子みすゞを思い出す
そして周りが勝手に騒ぎ担ぎ上げようとする
でもきっと、彼は風になってどこかへ行ってしまうのかも
彼の歌をちゃんと聴く機会をありがとうございます
自分を生きる
既成概念を実際に打破して行く。多分ご本人はそんなことは意図していなかったのではと思いました。ただただ自分を生きて行くということだったのではと感じました。最近においても例えばノーベル賞の授賞式に出席しなかったのは、今も自分の人生を生きていることの証だと思います。自分を生きる人は真実に幸せな人だと思います。人や立場によっては我儘に思われることもあるけれど、結局それは旧来の自分を保身する事であり、人目を気にした視野の狭い、それこそ自己中心的なことなんだと思います。ビジネスや自分の社会的立ち位置中心的なことなんだといつか気づく時が来るのかもと思います。
PS: 自分を生きることは日本では未だに難しいことかもしれませんが、音楽だけでなくどんなフィールドでもこの映画のようにブレークスルーを起こせる可能性があるという事だと思います。
フォークを定義したがる奴ら
ティモシー・シャラメはディランになりきっているし、エル・ファニングも素敵なのですが、イマイチ心に響かなかったのは期待値が大きすぎたからか。最後のフェスでなぜあそこまで罵声を浴びるのかが理解しにくかったです。「アコギが善でエレキが悪」という構図がわからないまま物語が進んでいくので、後半は曲だけがBGMとして流れていく感じでした。あと、存命中の偉人に対する忖度みたいなものもあったのでしょうが、演出が手堅すぎて何の意外性も無かったような印象。「ソーシャルネットワーク」みたいな「訴訟上等!」みたいな気骨を期待してしまいました。エンドクレジットで「ノーベル賞の授賞式には出席しなかった」という文言だけ少し遅れて出てくるのも嫌らしかったたです(笑)。
音楽映画にハズレなし
ドキュメンタリーであったり、歌手(バンド)を主人公に据えた伝記的なフィクションであったりしても、音楽(ポピュラー音楽)を主題にした映画にハズレはほとんどない。
それは、ヒット曲そのものに魅力があるため、たとえ映画の中で描かれる物語が薄いものだとしてもそれを補って余りある映画として完成するからだ。
本作も、ディランの初期ヒット曲が多数流れ、おそらくご本人は基本的に協力しない中、既に知られている物語をなぞった体の映画だと思う。
しかし、ディランの歌そのものに魅力があり、主演俳優をはじめ、違和感なくその世界を再現している。合格点の出来栄えといえる。
映画を見る分には、若き日のディランの生き方はそれほどドラマチックなものでもなく、中盤はダレた印象も受けた。
ジョーン・バエズと深い仲だったというのは初めて知ったのだが、そのほかガールフレンドとの関係なども描かれるが、ディランの深い人間性を感じるようなシーンはほぼなく、ドラマ的には深みも見せ場もないなあ…と思いながら見ていた。
しかし、映画のクライマックスとなる、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキサウンドをフィーチャーしたことで大ブーイングを受けながらも「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌う場面。あそこはひきつけられた。
あれを見るだけでもこの映画の価値はある、と思った。
帰りに売店でパンフレットを買おうと思ったら、品切れだった。封切られたばかりというのに、配給元は何をやっているんだ?!
東京都心のシネコン、平日昼間の回は入りは4分の1くらいで年齢層は高かった。200円高いDolby-ATMOS版で見たが、その必要はなかった感じ。
名も無き私へ 気分はどう?
かつてフォークの神様こと、岡林信康が、エレキギターを使うバンドを引き連れて、ステージに上がったことがあるそうです。全くウケなかったそうです。そのバンドとは、はっぴぃえんど。後の邦楽業界に、少なからず影響を残すメンバーが、そこにいたわけです。
時代は、変わるものですね。
ボブ兄さんに、ほとんど興味のない私です。強いて言えば、清志郎が、無理やり日本語カバーした曲、聴いていたな。(そう云えば、清志郎も駆け出しの頃、アコギとウッドベースだけで活動してましたね。)そんなわけで、逆に抵抗なく映画を観ていました。
たださ、あのフェスに、私が御見物として参加していたら、どうだろう。変わりゆく時代について行けたかな。称賛とブーイング、どちらに組したかな。
その答えは、風の中。風が知っているだけかな。
カッコ良すぎて、真似のしようもありません。赤狩り、公民権運動、ベトナム戦争、そして大統領暗殺。そんな激動の時代から逃げることなく、唄い続ける、問い続ける。決して留まらない。他者におもねることもない。
まるで、転がり続ける石のように。
ところで最近のアメリカの音楽業界、フォークとか、カントリーとかジャンルを超えた、ボーダーレスなスタイルの曲が増えているそうです。そもそも、ジャンル分けして、レッテル貼り付けて、区分けしているほうが、オールドタイプだよね。とはいえ、やはりエンタメには、自分の見たいもの、聴きたいものを期待しちゃうわけです。他者に期待を押し付けて、自分に期待しない、そんな名も無き私に、ボブ兄さんの名曲が問いかけます。
気分はどうだい?。
追記)
どれだけ弾が 飛び出せば
それが 過ちだと気づくの?
どれだけ人が 死んだなら
それが 過ちだと気づくの?
先程、動画配信にて、若き日のボブ兄さんをチェック。ノーベル賞とか関係なく、英語が解せるヒトなら、みんな聞いたことあるだろう、このフレーズ。
どうしてヒトは、変わらないんですかね。
時代は変わろうとしているのに…
極上のアイドル映画
1960年代と言えばカウンターカルチャーが生まれようとしていた時代で、伝統と言うのが崩れかけていた時代。
その中から出てきたのがボブ・ディラン。
クライマックスでエレキギターを手にするのはボブ・ディランにとっては普通だけど、その前の世代に取っては大問題ってストーリーは、別段大したことない。
でもこの映画の魅力は役者たちに尽きる。エドワード・ノートンは過去の役柄のイメージとは真逆の人当たりの良い中年を演じきっていて、彼の演技の振れ幅に心底感心した。
ティモシー・シャラメに至ってはトム・クルーズを超える美男俳優で演技力は抜群。今まさに乗りに乗ってる彼にとって、この企画は彼の魅力を最大限に引き出している事に成功した。
トライアンフのボンネビルT100に跨るシャラメの後ろにはギターか可愛い女の子。
イケメンだけどちょっと寂しそうな表情を浮かべ、どこか頼りない雰囲気を醸し出しながら、その時代を憂う詩を語る美声を披露する。これには女の子は絶対放っておけないでしょう。
エドワード・ノートンが完全に引き立て役になってしまった終盤はちょっと可哀想なくらい。
昔のアイドル映画は中身空っぽで、アイドルは下手な演技が当たり前だったけど、サーチライトはこの映画でアート映画レベルに引き上げてしまった。
これは見事で究極のアイドル映画です。
【洋画関係者非常事態発令!】こりゃ、マズイ。やばいよ。やばいよ。
3月2日日曜日21:20〜レイトショー。
230人劇場。観客は俺とどっかのオヤジの2人のみ。しかも何故かオヤジは一番前の端っこに。
おかげさまで俺は特等席ではぼ貸し切り。
じゃねぇよ、どうすんの。これ。思わず映画館のお兄ちゃんに言っちゃったよ。
俺:「これやばいんじゃないの?」、「いくら日曜の最終回さからってさ。」
「あっ、日本映画は結構入るの?」
兄ちゃん:「いえ、日本もこんなもんです。」
俺:「えっ、マジ? なんでこうなっちゃったの?ちょっと前まで少なくても
1/3は入ってたじゃん。」
「あっ、コロナで?」
兄ちゃん:「いえ、サブスクで来なくなっちゃったんですよ。」
俺:「サブスクか〜。あぁ、そうだよな〜。」
「いまどき、物好きなのは俺だけかぁ〜。」
兄ちゃん:「ぜひ、どんどん来てください。」
あのさぁ、この映画、調有名歌手の自伝で人気俳優主演でアカデミー作品賞候補だよな。
そんな映画でこんな贅沢していいの?230人劇場だぜ。
言っとくけどおれは、「マイケル ジャクソン」じゃねぇぞ。
わざわざ¥2000〜¥2500払わなくてもちょっと待ってれば家で観れちゃうんだからよ、そりゃ来ねぇよ。
ヤバい、ヤバい。潰れちゃうよ映画館。まじで。IMAX上映してたよな。これ。
こりゃ、映画館興行無くなるよ。
『驚いちゃったよ。』
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シャラメもなんか一生懸命やってたけど、「モノマネ」かな。
歌もやってたけど、やっぱり「カラオケ」かな。
ガスリーが映画に出るの50年ぶりかい?
60年代感も良かったし格調あり、曲にグルーブありで悪くないが、まぁ飽きなかったよ。
まるでライブ会場にいるような
期待度◎鑑賞後の満足度○ 音楽(歌・詩)が世界・社会を変えられると人々が信じていた時代を活写している風俗映画の価値はあると思う。然しボブ・ディランという人の伝記映画として成功しているかは少し疑問。
①映画全体の印象としては、ティモシー・シャラメは全て自分で演奏し歌唱するという熱演ぶりだが、私にはどうしてもボブ・ディランには見えず、最後までそっくりショーを見せられている感じが付きまとってしんどかったのが真っ先に来る。 映画としてはそんなに悪くないとは思うのだが…
②一方、モニカ・バルバロ演じるジョーン・バエズは、そんなに(顔が)似ているわけではないのだが中々良かった。
『トップガン マーヴェリック』のあの女の子(パイロット)だったとは全然わかりませんでした。
③然しながら、“役を生きる”という意味で最も素晴らしかったのはエドワード・ノートン。
何をやらしても上手いから当たり前と言えば当たり前なのだが、付け鼻をしていると思うけれども(最初は誰かわからなかった)、エドワード・ノートンではなくピート・シーガーその人がスクリーンの中で生きているとしか思えない。
此れが演技というものだろう。
ボブ・ディランの歌声も完コピ!
ボブ・ディランを知っていますか…⭐︎
今やある意味「伝説の人」になってしまったようなボブ・ディランの若き日を描く物語。
とにかく、皆さんのレビュー通りティモシー・シャラメのディランが素晴らしい。
そして、彼がデビューした時代感満載にして物語は進む。
60年代のアメリカ。
本当にキューバ危機、ケネディ大統領の暗殺等、作り話ではないかと思えるような事件が
次から次へと起こる。
その時にon timeで彼の歌を聴いていた人にはたまらない作品だと思う。
ジョーン・バエズ、ウディ・ガスリー、ピート・シーガーなど歴史上の人のようなミュージシャンが
登場して、あの頃の音楽を少しでも知っている人はそれだけで充分楽しめるのでは。
バエズを演じるモニカ・バルバロの歌声もすごく良い。
「ボヘミアン・ラプソディ」と同じミュージシャンの物語だけれどジャンルが違うような気がする。
自分自身の状況に疑問を抱くように、フォークフェスでフォークからロックに変貌していくディラン。
年上の知人もエレキギターを使い出した時の不評のことを話していたことがあった。
でも、やはりディランはディラン。
天才なんだと思った。
ただ、「風に吹かれて」、「時代は変る」、「ライク・ア・ローリング・ストーン」などディランの曲を
少しは聴いたことがある人でないと興味が持てない映画かも。
そういった意味では、見る人を選ぶ作品。
シャラメが素晴らしい
1961年の冬、ギターとわずかなお金を持ってニューヨークへとやって来た19歳の無名のミュージシャン・ボブ・ディランが、恋人となるシルヴィや音楽上のパートナーで歌手のジョーン・バエズ、そして、ウディ・ガスリーやピート・シーガーら先輩ミュージシャンたちと出会い、彼の天才的メロディの創造力と画期的な歌詞、そして魅力的な歌声で注目を集めていった。そして、フォーク界のプリンスと言われるようになったが、次第に違和感を抱くようになったディランは1965年のニューポートフォークフェスティバルで・・・という若い頃のボブディランの話。
タバコを吸い、酒を飲み、クスリもやり、女を抱き、作詞作曲をし、・・・ボブ・ディランの天才ぶりがよくわかる作品。
そしてディラン役のティモシー・シャラメが素晴らしい。ギターも弾けるし歌も上手かった。あの顔であの音楽センスを持ってたらそりゃあモテるわ。
ジョーン・バエズ役のモニカ・バルバロの歌声も素敵だった。
シャラメにアカデミー賞主演男優賞を取って欲しかったが、残念だった。
ティモシー・シャラメの本気と役者魂
青春の孤独と疾走する葛藤
ボブディランの初期の自伝的映画。
60年代の世相とカルチャーを再現して、ティモシー・シャラメがボブディラン役を見事に演じている。
恋人との出会いと別れ、バイクでの疾走に青春の孤独と新しい希望のざわめきに感じたのは、アーティストの自伝映画だからか。
作品の終盤、ボブディランが観客が望むフォークソング(タンブリングマン、風に吹かれて)を唄わずに、ロック調のバンド編成のスタイルに観客が暴動を起こすシーンに、大ヒットの定番を聴きたい観客と、新しく進化したサウンドを聴かせたいアーティストの認識のずれが描かせて、アーティストのジレンマを上手く表現していた。
そして恋人が皿回しの皿になりたくないと、ボブディランから去るシーンに、メジャーに行ってしまう寂しさの心理なのかと感じたのは、考え過ぎか。
春は別れと出会いの季節。
いま観る事で何かを感じる傑作です
ティモシー・シャラメの覚醒
孤高の天才ミュージシャンが駆け抜けた、一つの時代
伝説のミュージシャン、ボブ・ディランの若き日の姿を描く伝記映画。2015年のイライジャ・ウォルド著『Dylan Goes Electric!』原作。ボブ・ディラン役にティモシー・シャラメ、劇中では実に40曲もの生歌を披露している。彼を世話するフォークソング歌手ピート・シーガー役に演技派俳優エドワード・ノートン。女性フォークソング歌手ジョーン・バエズ役に『トップガン/マーヴェリック』(2022)のモニカ・バルバロ。ボブの恋人シルヴィ役に『メアリーの総て』(2017)のエル・ファニング。監督・脚本に『フォードvsフェラーリ』(2019)のジェームズ・マンゴールド。その他脚本にジェイ・コックス。
1961年、ヒッチハイクでニューヨークにやって来た20歳の若き青年ボブ・ディラン(出生名:ロバート・アレン・ジマーマン)は、ニュージャージー州の精神病院で療養中の尊敬するフォークソング歌手ウディ・ガスリーを見舞いに訪れる。ウディに曲を披露するよう求められたボブは、ウディと彼の友人であるピート・シーガーの前で自作の曲を披露。
ボブの天性の才能に目を付けたピートは、彼を家に招き、クラブや教会で演奏させる。ボブは教会で知り合ったシルヴィ・ルッソと恋仲となり、同棲を始める。
やがて、ボブの実力はタイムズ紙の評論もあって次第に拡散されていく。しかし、レコードデビュー作『ボブ・ディラン』の売り上げは、既に人気アーティストとなっていたジョーン・バエズには遠く及ばなかった。そんなある日、米ソ間によるキューバ危機の緊張感が極限まで高まり、街中がパニックに陥る最中、ボブはクラブで反戦ソングを披露し、その光景を目撃したジョーンの心を掴む。ボブはジョーンと組み、コンサートホールやチャートの寵児となった。
しかし、大衆に愛されるフォークソング歌手としてのカテゴライズ化やレッテル貼りに反発するかの如く、ボブは当時台頭してきていたロックンロールを自らの楽曲に取り入れる事を望むようになる。
先ず何よりも、作中の全歌唱パートを担当した、ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、モニカ・バルバロに惜しみない拍手を。その中でも特筆すべきなのは、やはり主演のティモシー・シャラメの歌唱力と披露する楽曲の圧倒的な多さだろう。その歌声は、エンドロールで掛かる本物のボブ・ディランの曲と比較しても遜色ない完成度の高さ!エンドロールで確認すると、使用楽曲の多さに改めて驚く。
その圧倒的な歌唱パートの多さから、作品としては、伝記映画というより、どちらかと言うとミュージカル映画に近いレベル。
【真の天才は、凡人も時代も置き去りにして一人孤独に走り出す】
ウディの病室を訪ねた際、彼にどんな音楽をやるのか訪ねられたボブは「なんでもやる」と答える。彼は貪欲に吸収し、それらを曲にして表現する事に全てを捧げているのだ。だからこそ、マスコミやメディアが安易にミュージシャンにレッテル貼りする様子をテレビで目の当たりにした際に、「レッテルを貼るな。クソが」と、明確に「NO」を突き付ける。
当時台頭してきていたロックンロールにいち早く目を付け、アコースティックからエレキギターに持ち替えて曲作りに励む先見の明に惚れ惚れする。
時代性か、作詞・作曲中、舞台袖で出番を待つ瞬間さえ、常にタバコに火を灯し続けているボブの姿が印象的。絶えず新曲を作り続け、録音してレコード盤になった作品は、彼にとっては既に過去のもの。彼は、常に未来だけを見据え、新曲を作り続けてはステージで披露する事を繰り返す。また、観客が彼に「風に吹かれて」をはじめとしたヒットソングを求める姿勢にも、反発する意思を示す。彼のセットリストに“定番の一曲”など存在しないのだ。
そして、そんな彼の姿に、恋人のシルヴィは勿論、ピートやジョーンさえも次第について行けなくなってゆく。端的に、そして淡々とした語り口で描かれてはいるが、ボブが周囲との関係性に並々ならぬ問題を抱えていた事は、想像に難くない。しかし、それで良いのだ。時代も人も後からついて来るもの。
事実、エンドロール直前に提示されるテロップでは、彼が波乱を巻き起こした1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルの直後に発表したアルバム『追憶のハイウェイ61』が、最も影響力のあるアルバムとして評価されていると述べている。
ニューポート・フォーク・フェスティバルにフォークソングを求めてやって来た観客の多くは、エレキギターを手にロックンロールをするボブに野次を飛ばし、物を投げつけて罵倒する。確かに、フォークソングを披露する為のステージで、ロックンロールを演奏するのは御門違いである。しかし、若い観客の中には、新しい面を披露したボブを賞賛する者も少なからず居た。
何より、『Like A Rolling Stone』の素晴らしさは、ロックが市民権を獲得した今日を生きる我々にこそ深く突き刺さる不朽の名曲なのは間違いない。ステージの上で果敢にもこの曲を披露するボブの姿には、胸が熱くなった。
だが、最後にボブはフォークソングで観客に「さよなら」を告げ、舞台を後にする。フォークソングでスターダムにのし上がった彼だからこその、彼にしか出来ないケジメの付け方だろう。
ラスト、ウディの病室を訪れたボブは、ウディから受け取ったハーモニカを彼に返そうとする。しかし、ウディはハーモニカが握られたボブの手を彼の方に押し返し、「持っていろ」と意思表示する。病室で掛かっているレコードは、ウディの『Dusty Old Dust』。歌詞の一節「ありがとう、出会えてよかった(So long, it's been good to know ya)」をバックに、1人バイクで走り去るボブ。
それは、ウディ・ガスリーという尊敬する偉大なアーティストとの別れであると共に、彼の意志さえも引き連れて新時代に向かって走り出したかのようにも映る。
エンドロール前に流されるテロップ
「ボブ・ディランは55枚のアルバムを発表し、ノーベル文学賞を受賞。」
「受賞式には現れなかった」
この最後の一文の何とカッコイイことか。本当に曲作りに人生を捧げたのだなと。
『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)の世界的な大ヒットを受けてか、近年は『エルヴィス』(2022)や『ホイットニー・ヒューストン/I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』(2022)と言った、世界的なミュージシャンの伝記映画が熱い印象がある。だからこそ、本作もアカデミー賞戦線の注目作になるほどに至ったのではないだろうか。しかし、やはり『ボヘミアン〜』のクライマックスでのライブエイド出演シーンの完コピ具合と、それによる抜群の没入感と比較してしまうと、どれも見劣りしてしまう。本作においても、それは間違いない。ステージの規模が違うから仕方のない事だが、クライマックスのフェスティバルシーンにはもう少しカタルシスが欲しかった。
また、喫煙描写こそ臆せず描かれているが、大麻などの薬物描写がオミットされ、スマートな語り口も相まって、まるで爽やかな青春映画のように描写されている印象はあった。掴みどころの無い人であるのは間違いないのだろうが、シルヴィといつの間にか別れていたり、ジョーンとの関係性が悪化している様子も、少々淡々と描き過ぎてはいないかと思う。
そう、全体的にスマートに語り過ぎていて、引っ掛かりとなる部分が少ないように感じたのである。
ところで、ロックンロールをするボブに対する観客のブーイングの中に、「この雑音を止めろ!」といったものがあったが、私は普段、メタルコアやポストハードコアを好んで聴く性質なので、そういったジャンルの曲をあの会場に居た客が聞いたら、きっと卒倒するだろうなと思った。
ボブ・ディランはボブ・ディラン
仕草もよく真似てる
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