劇場公開日 2025年2月28日

「「天才」の孤独を、周囲の「凡人」の視線の集積によって逆照射する、すぐれた音楽映画。」名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5「天才」の孤独を、周囲の「凡人」の視線の集積によって逆照射する、すぐれた音楽映画。

2025年3月6日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

エンドロールのおしまいに流れてきた、
「これみよがし」な楽曲紹介に思わず笑う。
大量に流れてくる楽曲名の最終行に、ぜんぶ
「パフォームド・バイ・ティモシー・シャラメ」
「パフォームド・バイ・ティモシー・シャラメ」
「パフォームド・バイ・ティモシー・シャラメ」
って……(笑)。
あと、たまに
「パフォームド・バイ・モニカ・バルバロ」とか。
要するに、この映画って、歌も演奏も全部「俳優が自身でやってる」んだよな。
しかも概ね、生録りらしい。
それって、すごくない????

パンフによると、コロナとストがあったせいで5年近く撮影が延期されている間に、出演者が猛特訓して、やったこともなかった楽器や歌をマスターしてきたらしい。
ライブシーンを音は後入れでやろうとしたら、ティモシーが「なんのために俺が5年間練習してきたと思ってるんだ、このときのためなんだよ」って、生録音を希望したんだってさ。
やっぱり、ハリウッドの最前線でやってる連中ってのは、モニカ・バルバロやエドワード・ノートンも含めて、モノが違うなあ、と。
ポテンシャルとか、モチベーションとか、目標設定とか。
ただただ、頭がさがります。

― ― ― ―

正直、観る前は、自分にこの映画が愉しめるのか、あまり自信がなかった。

その1。ボブ・ディランに興味がない。
もともとクラシック9割、あとはシャンソンとシナトラ周辺を嗜む程度で、カントリー/フォークにはまったく関心がなく、ロックはツェッペリンとクイーンとプログレくらいしか聴かない人間なので、ボブ・ディランの楽曲全般にピンとくるものがあまりない。
あと、プロテスト・ソング自体、痛々しくて肌に合わないのでめったに聴かない。
なので、出てきた楽曲で聴いたことがあるのは、ボブの代表曲数曲と、あとは「朝日のあたる家」くらい(これ、おんなじことを『PERFECT DAYS』の感想でも書いたなw)。
知ってる人名も、ジョーン・バエズ、アル・クーパー、ジョニー・キャッシュくらい。ジョニー・キャッシュはカントリー歌手としてではなく、「刑事コロンボ」の「白鳥の歌」で犯人役をやっていたから知っているだけである。

その2。ティモシー・シャラメが、あまりかっこいいと思えない。
いい俳優だとは思う。凄い才能だとも思う。でも、顔が苦手(笑)。
なんか、DeNAのバウアーみたいな顔してるし。ちょっと目つきが橋本真也みたいだし。
個人的にはアラン・ドロンや岡田将生のような美形か、リー・ヴァン・クリーフみたいな渋めのおじさん俳優が大好物で、この手の二枚目の「変化球」に即応できないタイプ(だから韓流男性歌手の大半も全く受け付けない)。

その3。『ボヘミアン・ラプソディ』が全く肌に合わなかった。
すべての演出がトゥーマッチで、説明過多で、個人的にはただただ気持ちの悪い凡庸な映画にしか思えなかったので、世間的に大評判になっていて、大きな疎外感を感じた(笑)。
とくにラストライブでカメラをぐるぐる回したり、いちいち泣いてる家族のアップをインサートしたりするのにはさぶいぼが出た。あれがいいってやつは、月9でも観ていればいいとマジで思う。

なので、僕には『名もなき者』はかなり「ハードルが高い」かなと警戒していた。
でも……、いざ観たら、とても面白かった!
ふつうに楽しいし、演出は王道だし、とても映画として「ちゃんと」していた。
なにより音楽映画として、きわめて高い水準の音楽性をクリアしていた。

別にこれを観て、ボブ・ディランのことが好きになったとか、曲を聴いて胸がふるえたとかは残念ながらあんまりないけど、ちゃんとボブ・ディランとティモシー・シャラメの「本気」はビンビン伝わってきた。
おっかなびっくりだったけど、観に行って本当によかった。

ジェームズ・マンゴールド監督の名前は記憶になかったが、後で確認したら、あの本格ミステリー系どんでん映画の名作『アイデンティティー』の監督ではないか。『インディー・ジョーンズと黄金のダイヤル』も、クソミソに叩く声も多かったが個人的には★4.5をつけるくらい楽しめた快作だった。
なるほど、この監督なら「ちゃんと」撮れる人だよな、と腑に落ちた。

― ― ― ―

なにが「ちゃんと」しているかというと、
無理に感動させようとか、盛り上げようとか、
そういう姑息なことを考えていないのが良いのだと思う。

この物語では、60年代前半のボブ・ディランのデビューからロック転向までの5年程度を描いているが、そこに「成り上がり」ストーリーとしてのギラツキや、世間の狂奔はあまり感じ取れない。
つねに、ボブ・ディラン個人と、その周辺にいた人々の目に映る「私」の部分にのみ、焦点が当たっているからだ。すなわち「公」のボブを語ろうとしていない。
「外から」観れば、ヒットチャートを駆け上がり、政治的時代の寵児として君臨したライジングスター、ボブ・ディランを描くなら、もっと描くべきことがたくさんあるのかもしれない。ラジオ出演とか、大観衆を前にしたライブとか、全国ツアーとか、世界ツアーとか。あるいは、彼の政治的な発言とか、公民権運動とのかかわりとか。
でも、この映画では、そういったシーンは極力抑えられる。
かわりに、
●部屋で恋人と過ごすボブ・ディラン
●部屋やスタジオで作曲するボブ・ディラン
●中規模のホールやフェスで演奏するボブ・ディラン
●スタジオで録音するボブ・ディラン
といった、ボブ自身の視点、もしくはボブが連れてきた恋人や友人の視点から見える範囲でのナラティヴに終始していることがわかる。

一瞬、ドキュメンタリー映像のような形で、公民権デモの大観衆のただ中で歌う「ヒーローとしてのボブ・ディラン」が映り込むが、引きで撮った遠望の短いショットに過ぎない。映画が「こういうボブ」からは、あきらかに「距離を取っている」ことが伝わってくる。
(そしてそれは、おそらくジョーン・バエズほどには「骨の髄からの社会運動家」だったわけではなく、あくまで「素材」として政治を歌っていただけだった、ボブ・ディラン自身の政治との距離感でもあるような気がする。)

本作でのボブ・ディランは、
おおむね歌っているか、曲を作っている。
それを身近な誰かが見ている、聴いている。
羨望や、憧れや、妬みや、諦めを胸に秘めながら。
基本的に、この映画はその積み重ねで構成されている。
だから、誇張がなく、内省的で、インティメットな映画になっている。

― ― ― ―

『名もなき者』は、どこまでも「視線」の映画だ。
そして、同時に常に「聞き耳を立てている」映画だ。
誰かが、誰かを見つめるとき。
誰かが、誰かの演奏を耳を澄まして聴くとき。
そこには常に、相手への愛情や友愛の感情とともに、批評的観察や、お互いの優劣を見極めるライバル心が絡んでくる。
見つめること(聴くこと)は、常に二者間の闘争の行為でもあるのだ。

最初のころ、舞台袖で羨望を秘めた眼差しをピートやジョーンに向けているのは、ボブのほうだった。歌に関しても、序盤は人の曲を聴いたり歌わされているシーンが多い。
そこから、オリジナル曲が次第に増えていく。作曲と、録音という、地道な「曲を増やす」作業が何度も何度も丁寧に描写され、やがてボブは完全に自身のオリジナル曲「だけ」を歌う歌手になり(これは当時のフォーク界ではむしろ稀なことだったらしい)、ついには「自分の過去の曲」すら歌わなくなる。
ジョーン・バエズとのデュエットでも、歌うのはボブ作曲の曲になり、いつしかボブの歌を「舞台袖」から羨望の眼差しで見つめるのは、ジョーンのほうになる。

恋人であるシルヴィの、歌うボブを見つめる眼差しも、ボブの出世と交友関係の広がりを受けて変化せざるを得ないし、師匠としてボブを世界に引き出したピート・シーガーが彼に向ける眼差しも、優劣の逆転とともに変化していく。

この「視線」に関して、監督が面白いことを言っている。
「周囲の人々を描くことによって天才とはどういった存在かを理解しようとしている。また、天才を描く方法として私はそういうやり方しか知らないとも言える。(中略)周囲から向けられる視点や感情を描いて、天才の内面を想像させるやり方が、映画として有効なんだ」
さらに続けて、彼は師匠であるミロス・フォアマンの『アマデウス』を引き合いに出す。

要するに、「天才」は「天才」であるがゆえに、凡人にその内面を描くことはできない。
かわりに、その「周辺の人物」の想いを多面的に描くことで、いろいろな方向から天才に光を当て、「外から」立体的に把握しようと試みている、というわけだ。

「立ち位置」と「視線」によって演出を微細に組み立てていく手法は、カール・テオドア・ドライヤー以来の「映画の骨法」でもある。そこが「ちゃんと」しているからこそ、『名もなき者』は140分、ボブ・ディランの5年間を見せて、ぶれない。ゆるがない。

― ― ― ―

音楽映画としての完成度も、十分に高い。
代表曲と画期となる曲の大半をしっかりかけて、詰め込んだ印象になっていないのは、構成の妙といえる。
きちんと全身を映したあと、右手と左手のアップをしっかり見せて、本人が細かい手技まで駆使して演奏していることを強調している点や、必ずしも「歌マネ」をさせていない点にも、制作陣の見識が感じ取れる。監督いわく、「細部を忠実に丁寧に演じる、描くことによって真実が宿るというのがジョニー(・キャッシュ)からの教えで、今も忘れずに守っているよ」とのこと。とくに、当時の録音ブースの再現には力を入れたという。

細かいといえば、「客の反応」の描き方も細かい。
たとえば、終盤のあの有名なライブのシーンで、フォーク寄りの観客がモノを投げたりして反発を見せるのは確かなのだが、結構な観客が手を叩いて喜んでいるのが生々しい。ロック・パートの最後の曲近くになってくると、意外なくらいの数の観客がタテノリしながら曲に興じている様子を、ちゃんと描写しているのだ。
ピートが斧を見て妻のトシに制止されるあたりだけは、僕には演出過剰でちょっと気持ち悪かったが、総じて「無理やり感動させようとしない」抑制された演出が功を奏していたと思う。

― ― ― ―

以下、雑感。

●ボブ・ディランの女捌きがひどい(笑)。
ジョーン・バエズにしても、スーズ・ロトロ(映画では、ボブ・ディラン本人の要請によって名前をシルヴィに変えられている)にしても、もう少しくらいちゃんと扱ってやればいいのに。なんか、ちょっとカミーユ・ビダンみたい……。

●エドワード・ノートンの、ピート・シーガーへのなりきりぶりが素晴らしい。体じゅうから慈父のような良い人オーラが出ているし、出だしの包み込むような愛情と、終盤の焦りを含めた劣等感のギャップが、視線と表情だけで巧みに表現されている。
この人、スケジュールの都合で降りたカンバーバッチの代役だったんだってね!

●車の窓に自作の絵を押し付けてくる女とか、バーで「ファッキン本物がいる!」って叫ぶ女とか、ポイント毎に挿入される「追っかけ」の描写がこわい(笑)。スターと大衆の心理的距離が今より遠かった代わりに、SNSなどで頻繁に交流できないぶん、「生で会う」ことの衝撃性が段違いに強烈な時代だったんだろうなあ。

●僕は未見なのだが、『ウォーク・ザ・ライン 君につづく道』でのホアキン・フェニックスの演じたジョニー・キャッシュと、この映画のボイド・ホルブルックのジョニー・キャッシュって、演出的に共通点とか整合性とかあるんだろうか?

●パンフを読んでいたら、宇野惟正がマンゴールド監督の、こんな発言を引用していた。「自分の映画の主人公は大体、天賦の才の持ち主で、それが仇となって周囲と軋轢を生み、孤立していく人間なんだ」
こういう、「どういう人物像を撮りたい」という核となるものが明確にある監督だからこそ、逆に音楽映画、サスペンス、西部劇から、マーベル、インディー・ジョーンズまで、あらゆるジャンルで仕事ができるんだろうな、と思った。

じゃい
sow_miyaさんのコメント
2025年3月16日

眼差しの映画という指摘、納得です。
本当にその通りですね。
パンフが売り切れで残念だったので、その内容に触れていただいているのもありがたく思いました。

sow_miya
Mr.C.B.2さんのコメント
2025年3月13日

羨望や、憧れや、妬みや、諦めを胸に秘めながら。⇒それぞれのまなざしが感じられました。

Mr.C.B.2
Mr.C.B.2さんのコメント
2025年3月13日

ちゃんとボブ・ディランとティモシー・シャラメの「本気」はビンビン伝わってきた。この監督なら「ちゃんと」撮れる人だよな⇒シャラメにも万ゴールドにもオスカー上げたかったですね。

Mr.C.B.2
talismanさんのコメント
2025年3月6日

充実のレビューに感動しました!ボブ・ディラン知らないから見るのやめる、と思ったのに見たのは、知らないことを知るためにも映画っていいのでは?と真面目な同居人に言われたから。いっぱい知ることできました!若いときとはいえ、ディランは女好きで同時に女にかなり失礼な奴だな、歌詞が溢れ出てくる天才なんだな、シャラメもノートンも歌が上手いんだな!などその他沢山。カンバーバッチも大好きですが、「慈父」役はノートンが適役だと思いました!

talisman
トミーさんのコメント
2025年3月6日

共感&コメントありがとうございます。
あの後ディランを聴き直しましたが、シャラメのが明らかに美声ですね。それにエレクトリック以降の方が音もクリアーな造りで、やはりその時代ってのが大きかったんだろうなと感じました。

トミー
トミーさんのコメント
2025年3月6日

ニューポートでの少数派に自分もなりたい!と思わせてしまうのが、音楽映画の強みですね。
ライブエイドへの募金が止まりません!も良いんですが、他より余計演ってるんですよね。鎮静化で1曲演って!の方が良いですね。

トミー