「孤高の天才ミュージシャンが駆け抜けた、一つの時代」名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
孤高の天才ミュージシャンが駆け抜けた、一つの時代
伝説のミュージシャン、ボブ・ディランの若き日の姿を描く伝記映画。2015年のイライジャ・ウォルド著『Dylan Goes Electric!』原作。ボブ・ディラン役にティモシー・シャラメ、劇中では実に40曲もの生歌を披露している。彼を世話するフォークソング歌手ピート・シーガー役に演技派俳優エドワード・ノートン。女性フォークソング歌手ジョーン・バエズ役に『トップガン/マーヴェリック』(2022)のモニカ・バルバロ。ボブの恋人シルヴィ役に『メアリーの総て』(2017)のエル・ファニング。監督・脚本に『フォードvsフェラーリ』(2019)のジェームズ・マンゴールド。その他脚本にジェイ・コックス。
1961年、ヒッチハイクでニューヨークにやって来た20歳の若き青年ボブ・ディラン(出生名:ロバート・アレン・ジマーマン)は、ニュージャージー州の精神病院で療養中の尊敬するフォークソング歌手ウディ・ガスリーを見舞いに訪れる。ウディに曲を披露するよう求められたボブは、ウディと彼の友人であるピート・シーガーの前で自作の曲を披露。
ボブの天性の才能に目を付けたピートは、彼を家に招き、クラブや教会で演奏させる。ボブは教会で知り合ったシルヴィ・ルッソと恋仲となり、同棲を始める。
やがて、ボブの実力はタイムズ紙の評論もあって次第に拡散されていく。しかし、レコードデビュー作『ボブ・ディラン』の売り上げは、既に人気アーティストとなっていたジョーン・バエズには遠く及ばなかった。そんなある日、米ソ間によるキューバ危機の緊張感が極限まで高まり、街中がパニックに陥る最中、ボブはクラブで反戦ソングを披露し、その光景を目撃したジョーンの心を掴む。ボブはジョーンと組み、コンサートホールやチャートの寵児となった。
しかし、大衆に愛されるフォークソング歌手としてのカテゴライズ化やレッテル貼りに反発するかの如く、ボブは当時台頭してきていたロックンロールを自らの楽曲に取り入れる事を望むようになる。
先ず何よりも、作中の全歌唱パートを担当した、ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、モニカ・バルバロに惜しみない拍手を。その中でも特筆すべきなのは、やはり主演のティモシー・シャラメの歌唱力と披露する楽曲の圧倒的な多さだろう。その歌声は、エンドロールで掛かる本物のボブ・ディランの曲と比較しても遜色ない完成度の高さ!エンドロールで確認すると、使用楽曲の多さに改めて驚く。
その圧倒的な歌唱パートの多さから、作品としては、伝記映画というより、どちらかと言うとミュージカル映画に近いレベル。
【真の天才は、凡人も時代も置き去りにして一人孤独に走り出す】
ウディの病室を訪ねた際、彼にどんな音楽をやるのか訪ねられたボブは「なんでもやる」と答える。彼は貪欲に吸収し、それらを曲にして表現する事に全てを捧げているのだ。だからこそ、マスコミやメディアが安易にミュージシャンにレッテル貼りする様子をテレビで目の当たりにした際に、「レッテルを貼るな。クソが」と、明確に「NO」を突き付ける。
当時台頭してきていたロックンロールにいち早く目を付け、アコースティックからエレキギターに持ち替えて曲作りに励む先見の明に惚れ惚れする。
時代性か、作詞・作曲中、舞台袖で出番を待つ瞬間さえ、常にタバコに火を灯し続けているボブの姿が印象的。絶えず新曲を作り続け、録音してレコード盤になった作品は、彼にとっては既に過去のもの。彼は、常に未来だけを見据え、新曲を作り続けてはステージで披露する事を繰り返す。また、観客が彼に「風に吹かれて」をはじめとしたヒットソングを求める姿勢にも、反発する意思を示す。彼のセットリストに“定番の一曲”など存在しないのだ。
そして、そんな彼の姿に、恋人のシルヴィは勿論、ピートやジョーンさえも次第について行けなくなってゆく。端的に、そして淡々とした語り口で描かれてはいるが、ボブが周囲との関係性に並々ならぬ問題を抱えていた事は、想像に難くない。しかし、それで良いのだ。時代も人も後からついて来るもの。
事実、エンドロール直前に提示されるテロップでは、彼が波乱を巻き起こした1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルの直後に発表したアルバム『追憶のハイウェイ61』が、最も影響力のあるアルバムとして評価されていると述べている。
ニューポート・フォーク・フェスティバルにフォークソングを求めてやって来た観客の多くは、エレキギターを手にロックンロールをするボブに野次を飛ばし、物を投げつけて罵倒する。確かに、フォークソングを披露する為のステージで、ロックンロールを演奏するのは御門違いである。しかし、若い観客の中には、新しい面を披露したボブを賞賛する者も少なからず居た。
何より、『Like A Rolling Stone』の素晴らしさは、ロックが市民権を獲得した今日を生きる我々にこそ深く突き刺さる不朽の名曲なのは間違いない。ステージの上で果敢にもこの曲を披露するボブの姿には、胸が熱くなった。
だが、最後にボブはフォークソングで観客に「さよなら」を告げ、舞台を後にする。フォークソングでスターダムにのし上がった彼だからこその、彼にしか出来ないケジメの付け方だろう。
ラスト、ウディの病室を訪れたボブは、ウディから受け取ったハーモニカを彼に返そうとする。しかし、ウディはハーモニカが握られたボブの手を彼の方に押し返し、「持っていろ」と意思表示する。病室で掛かっているレコードは、ウディの『Dusty Old Dust』。歌詞の一節「ありがとう、出会えてよかった(So long, it's been good to know ya)」をバックに、1人バイクで走り去るボブ。
それは、ウディ・ガスリーという尊敬する偉大なアーティストとの別れであると共に、彼の意志さえも引き連れて新時代に向かって走り出したかのようにも映る。
エンドロール前に流されるテロップ
「ボブ・ディランは55枚のアルバムを発表し、ノーベル文学賞を受賞。」
「受賞式には現れなかった」
この最後の一文の何とカッコイイことか。本当に曲作りに人生を捧げたのだなと。
『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)の世界的な大ヒットを受けてか、近年は『エルヴィス』(2022)や『ホイットニー・ヒューストン/I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』(2022)と言った、世界的なミュージシャンの伝記映画が熱い印象がある。だからこそ、本作もアカデミー賞戦線の注目作になるほどに至ったのではないだろうか。しかし、やはり『ボヘミアン〜』のクライマックスでのライブエイド出演シーンの完コピ具合と、それによる抜群の没入感と比較してしまうと、どれも見劣りしてしまう。本作においても、それは間違いない。ステージの規模が違うから仕方のない事だが、クライマックスのフェスティバルシーンにはもう少しカタルシスが欲しかった。
また、喫煙描写こそ臆せず描かれているが、大麻などの薬物描写がオミットされ、スマートな語り口も相まって、まるで爽やかな青春映画のように描写されている印象はあった。掴みどころの無い人であるのは間違いないのだろうが、シルヴィといつの間にか別れていたり、ジョーンとの関係性が悪化している様子も、少々淡々と描き過ぎてはいないかと思う。
そう、全体的にスマートに語り過ぎていて、引っ掛かりとなる部分が少ないように感じたのである。
ところで、ロックンロールをするボブに対する観客のブーイングの中に、「この雑音を止めろ!」といったものがあったが、私は普段、メタルコアやポストハードコアを好んで聴く性質なので、そういったジャンルの曲をあの会場に居た客が聞いたら、きっと卒倒するだろうなと思った。