今日の空が一番好き、とまだ言えない僕はのレビュー・感想・評価
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青き痛みを抱えること。
福徳秀介さんの関大時代の実体験をぶち込んだ原作、言葉にはならない複雑な気分を自分の言葉でポツポツと言わせる映画の語り口、場面によってスクリーンのサイズを変えてまでも伝えようとする監督の強い意志、演出意図をくみ取って劇中人物になりきったキャストのアンサンブル、しかも劇伴なしで、違和感なく画面上に音楽を配するセンスの良さ、ラジオやデモなど、命をめぐる社会の動きをさりげなく取り込んでいること、そして何より、ここぞという場面で臆することのない撮影で画面に釘付けにする粘り。大九明子監督の再発見となる、痛い映画。観るべし!
音フェチ
今日の空が1番好き、とまだ言えない僕は
どう見ても
“独白”から浮かび上がる情景
前半は全部コントのような説明だった
後半で伏線回収というか巻き返しというか
漫画で言う上下巻的要素があった
そうこの作品が魅力的に感じ始めたもう1つの要素として3人のの“独白”について。
①バイト帰りのみっちゃんの思いの丈(このき)シーン
②桜田花に起きた身の丈(みっちゃんはさちすだったのか)シーン
③テレビの音大音量で頭の整理をし始める小西(このき)シーン
1人が画面いっぱい使って間髪入れずに長い長いセリフが流れる。
それを聞いているといつの間にか頭の中で映像が流れてて表情や声のトーンがその世界観を創り出していていたのに気づくとそれは素敵だなと感じた。
小っ恥ずかしいアレを言うには助走が必要で、つまるところ“このき”なのだが恥ずかしいんじゃ仕方ない。
この作品は“いきなり”
飛んだり
叫んだり
暴言吐いたり
走ったり
自由気ままやねん
って雰囲気かと思えば
何かに縛られてたり
画角とかワンカットシーンの視点が変態ちっくでなんやこれって思ったとこも多々あったけど!
うん。見て良かったかも(?)とか思ったり思わなかったり
あと“間”の取り方が漫才のような雰囲気も感じた
うちも好きな人にこのきな曲オススメして、うちのいない所でうちを思い出して欲しいわぁ〜!!(~完~)
痛かった…
途中、長い台詞回しが何回か‥。積もり積もった思いを吐き出すには、あ...
おばちゃんの胸がキュゥゥゥン
実家が関大に近く、関大前の駅前はなじみがあるので観てみようと
気軽な気持ちで鑑賞。
なんだかキラキラした青春を覗き見しているようで
いいなぁーと思いながら観ていたら、、、
さっちゃんの告白に胸がキュゥゥゥンとして涙が…!!!
なんか自分の遠い昔の切ない恋を思い出して涙が止まりませんでした。
さっちゃん可愛くて好感持てる。
後半の展開はいかにも邦画って感じの展開だなーとは思いますが、
これはこれでまあいいか。
小西くんの被害妄想(?)のシーンでの
花ちゃんがバイト先の人に小西くんの悪口を言ってるところが
すごくリアリティがあり、さすが河合優実!と思いました。
河合優実、次はめちゃくちゃ悪人の役をやってほしい。個人的願望。
花ちゃん、小西くん、さっちゃん、みんなそれぞれ長台詞のシーンがあるけど
見事に演じててスゴイと思いました。
小西くん(萩原利久)とさっちゃん(伊東蒼)は初見でしたがほかの作品も観てみたい。
めちゃくちゃ小っ恥ずかしい
なんというか大学生の話だけど、映画撮ったのも大学生なのかと思った。
なぜかというと、セリフはもちろんだが、撮り方や撮るものがあまりにも小っ恥ずかしすぎる。
なにか意味ありげに、主人公野立ち姿を真ん中に映して、だんだんズーム(コレやり過ぎ)していくのとか、ちょっと古風な喫茶店や2つのレーンしか点灯していないボーリング場とか、そりゃ綺麗なんだけどとりあえずお洒落なものを特に意味もなく意識高い撮り方で撮ってる感じ、撮るものの選び方とか撮り方が、大学生になって、なんかお洒落でみんなやってるからビリヤードやろうとかシティ・ポップ聴いてみようとか、なにも自分のアイデンティティや考えを持ち合わせてないよく居る大学生みたいで恥ずかしかった。
そういう撮り方も1つや2つなら何も言わないが、最初から最後までそればっかで構成されてるからしんどい。
ラストシーン主人公の告白が終わって、カメラが外れていくシーンなんか鳥肌者だった。
河合優実を
最初は感動した長台詞も、後から考えると酷い
今時、男性が日傘をさすことは珍しくなくなってきていると感じるが、この映画ではそれを特異なものとして描いている点に違和感を覚えた。
お笑い芸人原作という背景があるためか、食事シーンでの口の周りの汚れ方や、寝癖の不自然なほどの強調など、演出が過剰に感じられた。
個人的には、こうした誇張された表現に馴染めず、鑑賞の妨げになった。
萩原利久と河合優実演じる男女二人が街中を会話しながら並んで歩くシーンは、リチャード・リンクレイター監督の『ビフォア・サンライズ』や『ビフォア・サンセット』を彷彿とさせた。
しかし、『ビフォア』シリーズの会話が知的な示唆に富んでいて興味深く観られるのに対し、本作の二人の会話は瑣末な内容が多く、苦痛に感じた。
大学をずる休みする場面が「青春の1ページ」として肯定的に描かれているが、個人的にはこうした描写、ほんとうに嫌。
中盤の伊東蒼による長台詞での心情吐露の場面は、当初はその圧倒的な演技に引き込まれ、「このシーンは素晴らしい」と感じた。
しかし、いくらなんでも台詞が長すぎ。
途中から説教くさく感じてしまった。
さらに冷静に考えてみると、彼女の行動は「失敗する可能性の高い一か八かの告白(しかも自身の傷つきを前面に出した)」であり、その後の展開も含めると、テロにも近い迷惑行為に感じた。
もし男女を入れ替えて描かれていたら、受け止め方がさらに変わっていたかもしれない。
前半もたいしてコメディとしての面白さを感じなかったが、後半に突然ショッキングな悲劇が起こり、怒鳴り声や泣き出すシーンが増加し、急に感動的な展開へと誘導しようとする作りに不快感を覚えた。
自身が傷ついている状況で男友達にひどい言葉を浴びせる場面は、あまりにも言葉が過激だったため、その後のあっさりとした謝罪と仲直りは都合が良すぎると感じられた。
終盤における萩原利久と河合優実が親密になる場面は、個人的には生理的な嫌悪感を覚えた。
今年鑑賞した映画の中で、現時点でのワーストは宮藤官九郎脚本の『サンセット・サンライズ』だが、本作も同程度に苦手な作品だった。
どちらも世間的には絶賛されている印象で居心地悪い。
両作とも最終的に伝えたいメッセージが「自分さえ良ければ他人の気持ちなんてどうでもいい」というもので、トランプ大統領が再選するような世の中だとこういうメッセージが受けるのかと思うと悲しくなった。
この息苦しいストーリーも山根のおかげで・・・
タイトルなし
甘っちょろいラブストーリーではない
桜田はおだんごヘアーで完全武装する。小西は日傘で他人の視線をさえぎる。二人は自分を守っている。他人との馴れ合い、不必要な人間関係を拒否している。二人は「自分」を持っているから人に惑わせられたくないのだ。この自分たちを守る二人のデティールが丁寧に描写される。
桜田は九歳の時父親を亡くした。小西は祖母をつい最近亡くした。二人とも「死」に向き合っていた。「死」とは完全なる喪失である。一度喪失しているから「自分」と亡くした人を常に意識する。そうして今の桜田と小西が存在している。
恋愛ドラマだが登場人物たちの言葉は「重い」。単なる甘っちょろいラブストーリーではない。不要な台詞や過剰な説明を一切削ぎ落していた映画になっていた。泣く、叫ぶ、慟哭する姿が自然だ。感情が言葉ではなくアクションで見事に表現されている。言葉が少ないから言葉が「重い」。
二人が水族館に行き、小西が祖母の死について話したとき、小西は言葉にならないで泣く。泣く人に桜田はじっくり時間をかけて言葉を発する。二人の性格と人間性がにじみでているシーンである。朝の喫茶店通い。常連の道を二人で目指し店でのマスターも含めた会話などから二人の距離は近づいていく。
バイト仲間のさっちゃんが、小西に好意を寄せている。しかし小西はまったく気づかない。さっちゃんは、小西にたいする思いのたけ、自分の心情をありったけの言葉でいいきった。まるで感情が爆発したみたいな「告白」。爆発したあとさっちゃんは消える。それゆえさっちゃんの言葉は「重い」。
しかし、小西と約束していた桜田まで「消える」。「消える」ことは一時的と思っていたが、桜田は消えたままだ。小西は桜田への疑念の塊になり裏切られた思いになり「自己喪失」になりなにもできなくなる。小西の「自己喪失」も安易な言葉ではなく肉体の痛みで描写されている。
桜田がなぜ小西の前から消えたのか理由があった。それはある人の「死」であった。桜田もその人の「死」によって完全に「自己喪失」していた。偶然小西と桜田は対峙する。小西は完全なる喪失から桜田へ感情を爆発させる。「告白」として。聞こえない状態で桜田に語りかける。聞こえないはずの言葉。それでも桜田は聞こえて理解している表情をしている。桜田は小西の言葉で「わかった」のではなく小西の「目つき」で「わかった」のだ。その目つきがあまりにも真剣だったから。
庭から無言の二人の姿を映し出したラストシーンは秀逸で胸に迫ってくる。二人の完全なる喪失を乗り越えようとする思いが、ゆっくり、ゆっくり時がいやすようにやさしかった。
ポスタービジュアルと予告からは想像できない展開で、青春の爽やかさだ...
さっちゃんはね~同大軽音本当ダヨ…
雨の日の庭に水まきしているような
なんとなく映画館に入ったので誰が原作とか監督とか俳優とか知らずに鑑賞しました。いい映画だと思いました。「いい映画」というジャンルはないけれど「いい映画」という映画を制作したのですね。
映画は鑑賞者とのコミュニケーションでもあります。日常の人間関係と同じです。監督さんは「この人変わった人」。観たときはよくわからない。後で考えると「こうかもしれない」というわからせ方が多用されていて、しかもそれがとても変わった人のそれなのでわかったあとも私の気持ちの中には入ってこない。でもなぜ?という不思議な感覚で、表題に書いた、雨の日の水やりをする人、と会話しているような感覚が多くを占めます。
「雨降っているのに水やるの?」
「うん、いつもこの子達に私がお水あげているから」
「そうか、まぁ別に悪いことではないけど・・・マイルールなのね」
いくつかありましたが、意外なドンデンみたいなところがあるのですが、「におわせ」の貼り方が知的すぎて私は驚くどころか、眼の前を急に何かが猛スピードで飛び去り遠くのほうで落下したのが見えてそれが鳥だったみたいな、驚きも感動も意外性もすべて置いていかれた感じ。家に帰ったら家族が突然なんの相談も匂わせもなくベンツを買って駐車場に置いてあるみたいな。「なにこれ・・・」あ、もしかして買ったんだ・・・、それで時間の経過とともに、「ちょっとまってこれいくら?・・・・・え!支払いどうすんのよ!」のような「判断」を利用した伏線みたいなものは私的には素直な感覚を超えているためか、感動という感情が湧いてきません。
理由はわかりませんが、この映画の3人の主要キャストさん、シーンによって「別人」になっています。人間にはいろいろな面があってとか出来事で違う面を見せるとか成長するんだとか、という変化ではなく、監督のせいなのか俳優のせいなのかは私にはわかりませんが、ただ「別人」です。そのせいだと思うのですが、登場人物に対する共感が長続きしません。日常でもそうですよね、会うたびになにげに違う感覚を醸す人とあまり仲良くはしたくないです、そういうこの人なんだろう感が出てくると怖いというか距離を取りたいというか、可愛いから美しいからと言うのはマイナスの感情的要素になってしまう。あ、この人はあの人ね、と話の流れでわかった上に、だがしかし同じ人とは思えない。いきなり登場人物が一人増えたみたいな驚きが勝ります。天才俳優でない限り様々な場面で状況で、「同じ人間」をわからせるように演じるというのが難しいのはわかりますが、登場時の要素が微塵もないということはなにか監督が変な方向にいじりすぎなのか、表現者の理解の問題なのか、こうなってしまった理由はもちろん専門家でもない私にはわかりません。
シーンを逆に考えたらわかると思いますが、後半の自宅シーンが先にあって、回想として大学生活を持ってきたら・・・ほら、何があったにせよ関連の感じられない別人でしょう?
出来事で人が変わるというのはこういうのではないと私は思います。
一所懸命思い出して書いています。
帰りのエレベーターで、自分から人に強烈にぶつかっているのにぶつかっといて「なんでどかね〜んだよ」的不快な顔をあらわにする今どき超カワイイ女子を目の当たりにして生の感情がくるくるしたら、私の中からこの映画はきれいに上書きされて消えてました。
全196件中、1~20件目を表示
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