「甘っちょろいラブストーリーではない」今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は かなさんの映画レビュー(感想・評価)
甘っちょろいラブストーリーではない
桜田はおだんごヘアーで完全武装する。小西は日傘で他人の視線をさえぎる。二人は自分を守っている。他人との馴れ合い、不必要な人間関係を拒否している。二人は「自分」を持っているから人に惑わせられたくないのだ。この自分たちを守る二人のデティールが丁寧に描写される。
桜田は九歳の時父親を亡くした。小西は祖母をつい最近亡くした。二人とも「死」に向き合っていた。「死」とは完全なる喪失である。一度喪失しているから「自分」と亡くした人を常に意識する。そうして今の桜田と小西が存在している。
恋愛ドラマだが登場人物たちの言葉は「重い」。単なる甘っちょろいラブストーリーではない。不要な台詞や過剰な説明を一切削ぎ落していた映画になっていた。泣く、叫ぶ、慟哭する姿が自然だ。感情が言葉ではなくアクションで見事に表現されている。言葉が少ないから言葉が「重い」。
二人が水族館に行き、小西が祖母の死について話したとき、小西は言葉にならないで泣く。泣く人に桜田はじっくり時間をかけて言葉を発する。二人の性格と人間性がにじみでているシーンである。朝の喫茶店通い。常連の道を二人で目指し店でのマスターも含めた会話などから二人の距離は近づいていく。
バイト仲間のさっちゃんが、小西に好意を寄せている。しかし小西はまったく気づかない。さっちゃんは、小西にたいする思いのたけ、自分の心情をありったけの言葉でいいきった。まるで感情が爆発したみたいな「告白」。爆発したあとさっちゃんは消える。それゆえさっちゃんの言葉は「重い」。
しかし、小西と約束していた桜田まで「消える」。「消える」ことは一時的と思っていたが、桜田は消えたままだ。小西は桜田への疑念の塊になり裏切られた思いになり「自己喪失」になりなにもできなくなる。小西の「自己喪失」も安易な言葉ではなく肉体の痛みで描写されている。
桜田がなぜ小西の前から消えたのか理由があった。それはある人の「死」であった。桜田もその人の「死」によって完全に「自己喪失」していた。偶然小西と桜田は対峙する。小西は完全なる喪失から桜田へ感情を爆発させる。「告白」として。聞こえない状態で桜田に語りかける。聞こえないはずの言葉。それでも桜田は聞こえて理解している表情をしている。桜田は小西の言葉で「わかった」のではなく小西の「目つき」で「わかった」のだ。その目つきがあまりにも真剣だったから。
庭から無言の二人の姿を映し出したラストシーンは秀逸で胸に迫ってくる。二人の完全なる喪失を乗り越えようとする思いが、ゆっくり、ゆっくり時がいやすようにやさしかった。
本当にそうでした。キーワードは、倍音、爆音、さっちゃん、パパ、さくらのキューピット化かなと。倍音、心の共鳴が小西と花にあり、さっちゃんには無かった。しかし、二人が結ばれるためには、さっちゃんの言う通りになった。風が吹きさくらの毛が飛び、二人は仲直り。吹かしたのは、さっちゃん、パパかな。爆音で長々でないと言えない告白が消され端的になり、すきです、が花に届いた。皆の思いが実を結び、魔法の様な静寂が二人のこれからを予感させた。愛を信じたい、そう思わせてくれたエンディングでした。