劇場公開日 2025年1月31日

「揺れる地面の上で——無国籍者の生と絆」Brotherブラザー 富都(プドゥ)のふたり ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0揺れる地面の上で——無国籍者の生と絆

2025年2月11日
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鑑賞方法:映画館

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発展著しいマレーシア、クアラルンプールの貧困街に暮らす兄弟の物語。
彼らは 身分証明書を持たない無国籍者 だ。

無国籍であるとはどういうことなのか?
恥ずかしいことに、僕はこれまでそれを深く考えたことがなかった。
しかし、この映画は、無国籍者が直面する現実を丁寧に映し出し、それを考えさせてくれる映画だった。

彼らは、安定した職に就くことは困難で、現金日払いの仕事で食いつなぐ。
銀行口座を持てないから、稼いだお金は缶の中に貯めるしかない。
普通の家を借りることは困難で、無国籍者や違法入国者が集まるアパートに住み、時々ある強制捜査に怯えながら暮らす。

生活が極端に不便であるとか、貧困から抜け出せない、それは大変なことだ。
そして、映画が進むにつれ、それ以上の不安定さ—— 「自分の拠り所がない」ということの恐ろしさ が伝わってくる。
無国籍者の兄と弟は、お互いを唯一の支えとして、 ギリギリのバランスで立っている。グラグラと揺れる地面の上で、かろうじて踏ん張っているように。

僕は今年、定年を迎える。
雇用延長するか、それとも思い切って退職するか、今は迷いの日々だ。
早めに退職して、1人で細々とでも、趣味をやり、それが仕事になればいいなと考えている。これまで忙しくて十分にできなかった読書や勉強をして、考察を深めて、気づいたことをブログにまとめる。そんなことをすることで、 自己実現に近づけたらいいな、と思っていた。

マズローの5段階欲求説によれば、 下位の欲求が満たされていなければ、自己実現には到達が困難だという。
まあ対して誉められることも少なくなったが、それでも会社にいれば第4段階の承認欲求も満たされる瞬間というのはあるものだ。
それに、会社を辞めてしまったら、 さらに下位欲求である所属欲求を満たす場所を失うのではないか?
自己実現なんて夢のまた夢で、やっぱり会社に残ったほうがいいのでは?
そんな迷いを抱えていた。

でも、この映画を観て、「所属する」ということの本当の意味を考えさせられた。
所属先とは、会社や地域、家族といった小さな枠組みだけではない。もっと根本的な 「国家に認められていること」 が、人間にとってどれほど大きな所属基盤なのか、僕は気づいていなかったのかもしれない。
社会保障、健康保険、年金、警察や行政サービス——そうしたものに 、僕は当たり前のように守られている 。しかし、無国籍者はそれを 何一つ持っていない。

日本にも無国籍者は存在する。調べてみると、約1,000人 の無国籍者がいるという。実際は1万人を超えるのではという説もあるようだ。この映画の舞台、マレーシアには 推定約45万人 の無国籍者がいるとされている。何しろ国勢調査などでは対象外のはずだから、そもそも把握されていないのかもしれない。

彼らは国によって存在を認められず、そのほかの帰属集団を持つことも困難だ。互いに愛情があっても、結婚相手には選ばれない。国に帰属しないとはどういうことか、この映画はまざまざと見せつけてくれた。
そして無国籍であることは、人間の基盤でもある生存欲求や安全欲求すらまだ揺るがすことを教えてくれる。役名のつかない俳優たちが演じる無国籍者たちも真に迫って素晴らしく、いかに自分の悩みがのんきであったかを思い知らされた。

映画を観ていて少し違和感を覚えた。
弟アディは罪の意識が薄いのではないか?
しかし、それは 安定した社会の中で生きている僕の発想 だったのかもしれない。

そもそも、 道徳や倫理は「社会の中で生まれるもの」 だ。
社会に属していない人間にとって、それをどこで学び、どこで育てるのか?
生存基盤すら危うい状況で、社会のルールを守ることにどれほどの意味があるのか?

それでも、この映画の中で 兄アバンは善良であろうとする。
それがどれほど困難なことか。
彼自身も無国籍で、生きるのに必死なはずなのに、何度もアディに「善良であれ」と言い聞かせる。
彼の中にある「善良さ」は、一体どこから生まれたのか?
それを考えると、胸が詰まる。

タイトルは『Brother』=兄弟。
しかし、本作で描かれるのは、それ以上のものだ。
本作は同時に「無国籍者同士の絆」 を描いている。
たとえ、それが儚く消えるものであっても、たとえ、日雇い仕事の場で、 数回ランチを共にしただけの相手であっても、あるいはほんのひとときだけ恋心を共有して、別れた相手でも。

そうした不確かな関係性を「brother=仲間」と感じられる 感性 を持つこと。それが 自分自身を支え、そして相手もまた支えることにつながる。
会社から離れる不安を感じている今、この映画を観られて良かった。

ストーリーは心を揺さぶるもので、映像も美しい。
控えめな音楽が、観客に内省を促す。
マレーシアと台湾では 記録的大ヒットだそうだ。
日本では公開館数は少なめだが、映画館は満員だった。
エモーショナルであると同時に、多くの人に所属基盤の確かさに気づいていますか?と問いを投げかける映画 でもあった。

ノンタ