「琉晴の批判を見かけないのが解せない」366日 あけるんさんの映画レビュー(感想・評価)
琉晴の批判を見かけないのが解せない
この映画のようにHYの歌を彼女にプレゼントされ、奇跡的な邂逅を何度か繰り返した体験が私にもあったため、並々ならぬ期待を寄せて観た。
率直な感想としては、制作側のご都合主義による「不自然さ」と「理不尽さ」が随所に透けて見え、没入できなかった。
まず、湊の白血病は大学の仲間は知っていたのに、当事者の美海には最後の最後まで伝わらずに終わってしまったこと。
美海は「結婚しない」と公言し、湊との子を育てながら純愛を守ろうとしてきた。これは湊と向き合い直す余地を残すための“操”でもあり、本来なら二人には復縁の可能性が確かにあった。
湊は難病を理由に美海を遠ざけたが、物語後半で病を克服し、うるう年の約束の日にそれを果たそうと戻ってくる。その原動力は身勝手さではなく、「巻き込みたくない」という未熟な優しさに根ざしている。
そして今になって思う。なぜ真実を告げず別れを選んだのか。おそらく彼は、本当の意味で「遺された側の悲しみ」を知っていたのだ。湊自身は「美海が自分のためにすべてを捨てようとするから」と語るが、その先を想像すれば、“大切な人がいなくなった世界”を生きたことのある彼だからこそ、同じ想いを背負わせたくなかったのだろう。愚かではあっても、私はそれを不器用な誠実さと受け取った。
対照的に琉晴は、湊の存在にいち早く気づき、美海と会わせまいと動く。自分のことしか考えておらず、当事者である美海を蔑ろにする行為だ。
その際、湊は自分が父親である事実を知った一方で、美海は依然として真実を知らないまま。結果として琉晴は、開かれていた復縁という選択肢を、美海の意思より先に外側の論理で封じた。ここに私は強い怒りを覚えた。
もし琉晴が湊に接触しなければ、すれ違いの瞬間に湊は声をかけられたはずだ。だが介入によってその機会は失われ、湊はたとえ自分が彼女を幸せにできなくても、美海が幸せならそれでいいと身を引いてしまったのだろう。
もし美海が蚊帳の外に置かれず、真実を知らされたうえでなお自分の意思で琉晴を選べていたなら、まだこの映画にも救いはあったはずだ。
だが琉晴は、そうはならない結末――美海が湊を選ぶ未来――を見越し、その可能性を先に断った。私はこの卑劣さに強い憤りを覚えた。
極めつけは、美海の余命が限られた段になって、琉晴が罪悪感を和らげるために自らの行為の一部だけを吐露し(核心部分である「介入して湊を引かせた」事実は伏せたまま)、湊の職場への訪問の約束も段取りもないまま中学生の娘をいきなり東京へ向かわせた場面だ。
正気の沙汰ではない。これでは湊の社会人生活まで壊しかねない。しかも、自分の尻拭いを義娘にさせるな。母親の死に目に立ち会えなかったら、MDを盗んだ罪以上に償えない一生の傷になり得る。どこまでも自分勝手だと感じた。
さらに、陽葵に「本当のお父さんは湊なの?」と問われたとき、琉晴は実父と暮らす機会を奪っておきながら、「二十歳になったら話すとお母さんと約束していた」と言い放つ。ぬけぬけと。
よくある物語なら、脇役は「主役のお出ましだ。俺の役目はここまでだな」とバトンを渡す。ところが本作は、周囲の善良さに甘えた脇役が手段を選ばずヒロインと結婚し、物語を乗っ取ってしまった極悪人(サイコパス)のように映った。
『彼女、お借りします』を引き合いに出すなら、水原が“罪悪感の清算”のために臨終間際の祖母へ真実を明かすとか、水原が海くんに“持っていかれる”展開を強引に見せられるような、はっきりとした不快感を味わった。
レビューを読み漁っても琉晴の行動を「自分本位」ではなく、「美海のための献身」と解釈されてるものしか目につかず納得いかなかったので共感してくれる人がいてよかったです。
全くその通りで、琉晴の身勝手な行動や言動をどうして批判する事無く、それどころか美化されている投稿が多く、納得いきませんでした。
琉晴の行動は湊と美海の復縁の機会をことごとく潰していったと思っています。
それでも何も知らない美海はたとえ余命が無くとも、琉晴や家族に愛されしあわせな生涯を過ごせたと思いますが、湊は両親を亡くし愛する人を諦め、どういう思いで生きてきたのかと切なくなります。
