遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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自分の答えや感想を大切にしたくなる
昨今の映画特有のCGやVFXによる、映像のチープさや無機質さ。舞台やセットの作り物感。美しすぎる服や顔は非常に残念。しかし、この映画のマイナスな点は、それくらいであり、他の点においては非常に完成度の高い作品と言える。
私がこの映画を見に行こうと思うきっかけとなったのが、映画館で放映されていた予告編の音楽だった。そして劇中の音楽も素晴らしい。アコースティックな楽器本来のサウンドをベースに、特殊奏法を多用した前衛的なサウンドも使われていた。この2つのサウンドを演出と心理描写で使い分けていたところも評価できる。はっきり言ってしまうと、この映画は答えを求めようとして見ると、非常にわかりづらい。そこで劇中で重要なシーンや、ヒントとなる箇所では、わかりやすい音楽で盛り上げ、音楽で訴えかけてくる。一見すると、滑稽で、笑いが込み上げてくる。しかしもし、その訴えかけてくる音楽がなかったら、私は重要なシーンを「ふーん」と見逃していたに違いない。音楽によって説得力を持たせる手法に気がついた時、音楽を効果的に使っていたのだなと感服させられた。これは作り手の聴衆に対する優しさと言えるのではないだろうか。そして劇中最後に流れるF.メンデルスゾーンの「無言歌集 第二巻 Op.30 1.変ホ長調〈瞑想〉」は、今までの緊迫したストーリーや音楽を最大限に緩和し、強烈な印象を残す。食後のデザートのような。
この映画のもう一つの核となっているのが、光や画角による心理描写である。役者に光を当てる角度や、役者を撮影するカメラの角度によって、目の中に反射する光の量を変化させている。また、日本の伝統芸能の能の面のように、顔にあてる光の量や角度を変化させることによって、表情そのものは変わっていないにも関わらず、印象を大きく変化させる手法が多用されている。それらは言葉以上に何かを強く訴えかけてくる。また、様々な画角を使い分け、聴衆に予感をさせる。重要なのはその予感が当たるかどうかではなく、それによって聴衆に強い恐怖心や期待感を抱かせることだ。この光と影、画角への凄まじいこだわりは、極めて芸術的である。
前述したように、この映画は答えを求めようとして見ると、見終わった後に腑におちない感じがして納得できない。それは、劇中で重要なことについて明言されず、多くのヒントや匂わせが張り巡らされ、見ている人一人一人によって気がつくものが違えば、それを重要なことか、そうでないことかに分ける線引きも違う。その気づきと取捨選択によって、見ている人一人一人によってストーリーや解釈が大きく変わってしまう。この映画には模範解答はなく、答えはこの映画見た聴衆の数だけあるのではないだろうか。「もう一度見ればこの映画の答えに近づけるのではないか?」と思い、もう一度見に行き、さらにもう一度見に行ったとしても、最初の「もう一度見ればこの映画の答えに近づけるのではないか?」に戻ってしまうだろう。ゴールのない迷路のような、錯視によって登り続けてしまう「ペンローズの階段」のような。そのもう一度見たくなる欲求を渇望させる魅力や力がこの映画には秘められている。
この映画についての様々な人の感想や、考察は数多く見ることができるだろう。しかし私は見たくない(だからこの文章には考察はおろか、ストーリーについては一切触れなかった)。自分の答えや感想を最も大切にしたと思えた映画は今までにない。そしてこの映画を見た多くの人がそう思っているのではないだろうか?正直、このような作風の映画は日本ではウケが悪く、はやらない。予想するに、多くの聴衆は「怖い」「よくわからない」といった負の感情を抱く。しかし、そこがこの映画の魅力であり、最も評価されるべき点であることは間違いない。
最後に、この映画で私が最も心を打たれたセリフを一つ。
「ただ生きているだけ」
広瀬すずは合わない
記憶はすべてが事実ではなくとも、真実でないとは言えない
小津安二郎の映画を彷彿とさせる悦子:広瀬すずと、義父の緒方さん:三浦友和の微妙な関係性の描き方が素晴らしいです。広瀬すずを原節子のような往年の美しい女優という撮り方をしている点からも、小津映画へのリスペクトが感じられます。
だけど映画の内容は、小津作品のような普通の人の日常生活よりも、ずっと重いものがあります。それはこの時代の日本の悪夢のようなものであり、繰り返し語られる『人は変わらなければならない』というメッセージを際立たせています。
ラストは観客に判断を委ねるようなところがありますが、この映画は決してミステリーではありません。解釈は観客が自由に考えれば良いということです。
『記憶はすべてが事実ではなくとも、真実でないとは言えない』ということではないかと、私は思います。たとえ事実ではなくとも、すべては悦子の人生において感じているリアルなのではないでしょうか。
古い絵葉書のような長崎の遠景など美しいシーンも多いのですが、小津作品ファンとしては、もう少し構図にこだわって欲しいところでした。その点で星マイナス1です。
映像とミステリーを楽しむ
原作未読で最後の方までこれはどういうこと?と考えながら観て、その後パンフレットやレビューを拝見して、なるほどと思った。
2大女優の聡明さと美しさを堪能した。原作を読んでみたい。最近長崎舞台の映画を観ることあり(国宝(冒頭)、夏の砂の上など)、長崎を訪問したくなった、
見終わったあとに残る???
書き換えられる記憶、、、
大人の映画だね。二階堂ふみが川辺に向かうシーンでドキドキした。脳みそが刺激された。落ち着いたイギリスの田舎&室内シーンに対して、原爆の被害を受けたはずの終戦直後の長崎がやけに輝かしく人工的な光を思わせたが、この対比がストーリーの展開につれて意味を持つことが分かりゾクゾクした。原作は読んでいないが、ここは映画ならではの演出だろう。三浦友和と渡辺大和のやりとり・対立はイギリスに移住した日本人としての戦後日本への思いの象徴なのかな。「日の名残り」「上海の伯爵夫人」「生きるliving」などのカズオ・イシグロ関連作品を見たが、もっと今作を含めて滋養あふれる味わい深い映画を見たい。「ニュー・オーダー」の楽曲が見るものを惑わせる。観客は思ったよりも若い層で、30代ぐらいの女性が多かった。
遠い山なみの光
被爆し復興する1952年の長崎を1980年代初頭のロンドンで回想する。
どこまでが真実でどこからが虚構なのか。どれが記憶の改竄でどれが意図した嘘なのか。
1952年の長崎、僕はまだ生まれていなかったけれどどこか懐かしくて美しい映像。被爆地長崎はまだ戦災の色濃い一方で復興も進み活気に満ち溢れてもいる。何もない原っぱに真新しい団地。団地のベランダから見えるバラック小屋。バラック小屋に入るとなぜか高級感のある家具に食器。小屋の住人がアメリカ兵にもらったんだろう。悲惨な被災者への共感と被爆者に対する酷い差別が共存している。今では考えられないことだが、そんな社会だったんだろう。二郎が子供を宿す悦子の腹を擦りながら「君が被爆してなくてよかったよ」というデリカシーゼロの発言。その二郎だって傷痍軍人なのだ。彼のデリカシーのなさも擁護されるべきなのか、だからこそ強く糾弾されるべきなのか。何から何まで対立する二つの事柄が頭のなかを交錯する。悦子の行動、そして嘘や記憶の改竄。僕の頭のなかで謎が交錯し、さらにこの映画に登場する人々の行動をどう解釈し評価されるべきなのか、頭の中の葛藤はここには書き切れないほどにある。
僕はカズオ・イシグロの小説が好きで多くの作品を読んでます(「遠い山並みの光」は読んでませんが)。「日の名残り」「私を離さないで」は好きな小説であり映画です。そしてこの映画は僕の好きなカズオ・イシグロの世界です。
過去の自分と向き合う
「過去に戻ってやり直したい」という人もいますが、私は過去を振り返るのが苦手で、そんな風に考えることはありません。
経験しているものの重さは比になりませんが、悦子もそんな風に考えていたのかと想像しました。絶望的な景色や目を覆いたくなるような出来事を眼にしてきたり、思い描く「なりたい自分」になれずにいたりした彼女は、工夫してそれを昇華しながら過ごしていました。
夫の靴紐を体をかがめて結ぶ自分からは変わろうとしていましたよね。
でも、そんな彼女が本当に変われたのは、次女ニキに財産やこれまでの記憶をつなごうと、過去の自分に向き合えたときからなんでしょう。そんな彼女の姿勢がニキを変えることにもつながったようでした。
そんな彼女が義理の父に「変わらなきゃ」と促していたのは皮肉な感じにも映りました。
節目の年だからとかいうのではなく、いろんな意味で「変わらなきゃ」いけない状況にある現代を生きる私たちに課題を投げられたような気がしました。
苦手だとしても、過去と向き合うことも必要なんでしょうね。悦子が過去の自分と長女と向き合ったときの表情が印象に残りました。
戦争の後遺症といった場合、男性の視点で語られることが多かったわけですが、当然、女性もいろんな想いや傷を背負わされたわけですよね。悦子に辛い半生を押し付けた悲惨な過去、歴史が終始鮮やかな色彩で描かれていたことで、脳裏に鮮明に訴えるものがありました。
「長崎とロンドン」
映画女優広瀬すず
説明過多の映画はあまり好きではないが、もう少し解りやすく作ってくれてもいいのに。映画なんだから。
今でこそ被曝者の方を差別するようなことはないだろうが、当時は差別がひどかったんだろうなぁ。
被害に遭った者が、地獄のような体験をして、さらに同じ日本人から差別を受ける。原爆・戦争・人間の恐ろしさ。
広瀬すずはワン・シーンを除けば、ほとんどが受け身の抑えた演技ばかりだったけれど、さすがに人気・実力とも備えた映画女優、大きな画面に映える、映える。
三浦友和が渡辺大知に詰め寄るシーンは見応えがあったけれど、悦子の回想だからなくてもよかったような。どうしても描きたかったシーンだとは思うが、インパクトが強すぎて。これだけで別に一本作ってもいいくらいのテーマだと思う。
あの女の子は上手いんだろうけど、なんかあの時代の子どものような感じがしなかった。
英語のタイトル(原題)と過去の回想へ入っていくところなど、内容は関係ないけれど、カズオイシグロは「ジュリア」好きだったんだろうなと思った。 フレッド・ジンネマンの、ジェーン・フォンダとバネッサ・レッドグレープの映画。 なんとなくそう思った。
この映画いろいろみなさんの考察を読んでからもいちど観に行こうかな。
小説ではなく映画という観点で言えば駄作は否めない
信用のできない語り手
どこまでが“嘘”なのか・・・ 想像することを楽しむ
俺の再推し女優広瀬すず作品なので、早速2回観賞。近年分かり易いとは言えない作品に出演が続いているが、今作もそう。「メチャ難しい」と言うほどではないが、観賞者の想像力に託される部分が大きく、複数回観たくなる作品だと言える。
【物語】
長崎生まれの母(吉田羊)が一人で暮らすロンドン郊外の実家にイギリス人の父との間に生まれ、今はロンドンで暮らす娘ニキ(カミラ・アイコ)が帰っていた。大学を中退し、ライターをしているニキは被爆地ナガサキの記事を書くため、今まで母が話したがらなかった長崎の話を聞き出したかったのだった。母悦子はニキに聞かれ、少し躊躇いながらイギリスに来る前、長崎での30年前の夏の記憶を語り始める。
被爆から7年経った長崎は活気を取り戻しつつあった。悦子(広瀬すず)は戦争から復員した二郎(松下洸平)と戦後結婚し、団地で暮らしていた。腹には一人目の子供を宿し、つつましくも平和な日々を送っていた。そんなある日、部屋の窓から見える粗末な小屋で暮らす女性・佐知子(二階堂ふみ)とその娘と知り合う。その夏のことを悦子が話したのは、最近その頃の夢をよく見るからだった。
ニキは母と佐知子母子の話を一通り書き留めるが、近く売却されることになっている実家に仕舞いこまれていた母の古い収納品をたまたま目にして、母の話にはある “嘘”が隠されていることに気づく。
【感想】
中盤までは、「被爆地長崎」「敗戦後間もない日本」が強調される。事前に読んだ作品の記事によれば、そこは原作より濃い味付けになっているようで、「あの時代の長崎を舞台にするなら」という監督の思いが込められていそうだ。
そして全編にわたるキーワードは「変わる」。悦子、佐知子、ニキ、作品の中心にある3人の女性の「変わって行く」決意。時代の変化に応じて「変わる」ということもあるが、人生のどのような状況の中でも「常に前を向いて進む」という意志が込められていそうだ。
しかし、ハイライトは終盤に明かされる悦子の“嘘”。そのシーンに観客は結構驚かされることになる。嘘は、ボヤっとではなくハッキリ描かれるのだが、嘘の解釈には想像力を働かせることになる。悦子が語った話のどこからどこまでが嘘なのか? また、二郎は・・・
もちろん、全てが作り話のはずはなく、真実と嘘が入り混じっているはず。
また、嘘なのか、悦子は嘘を言っているつもりはなく記憶がそう書き換えられているのかどちらかも分からない。意図的嘘ではなくて、30年の間に記憶が置き換えられたと俺は解釈したい。
原作を読もうかとも思った。原作を読めばカズオ イシグロの意図はどうだったかのヒントは読み取れるかも知れない。でも、やっぱりやめておこうと思う。観賞者に委ねられる場合は、解釈に正解は無く鑑賞者がそれぞれ物語を作ることが作品の一部だと思うから。むしろその想像こそが本作の楽しむべきところだと思いなおした。
いずれにしても、文学的作品だ。脚本・演出は非常に丁寧に作りこまれていることは冒頭5分で感じた。そして役者の演技も素晴らしい。広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、そしてカミラ・アイコの4女優が中心となるが、それぞれ納得感の高い演技を見せてくれている。
最後に役者に目当ての広瀬すずについて。
今年は“阿修羅のごとく”に始まり、なぜか大正・昭和の作品が続いていて、必然的に古いファッション、現代の感覚からすればダサい風体になってしまうので、ファンとしては現代的なファッショブルな彼女をもっと観たいと思たりもするのだが、オールドファッションでも「やっぱりキレイだ」と実感してしまった。 また、興行的には不利なエンタメ性の低い作品への出演が続くのもファンとしては若干歯痒さも感じるのだが、今作も才能ある監督が熱を持って制作した作品で一流の役者共演する機会を得たことは間違いなく財産になったはずなので、今後の益々の進化と活躍に期待したい。
最近では“国宝”が異例の大ヒット中ではあるが、昨今実写邦画は全般的に興行的に苦境にある。 前述のとおり特にこういう映画芸術に真正面から取り組んだ作品は特に厳しい傾向にあり、本作もやはり地味な興行成績になりそうだ。自分が観た上映回では年齢層が高く、若者には興味が薄いことが良く分かる。でも、エンタメ作品ももちろん良いのだが、こういう作品も観たいし、無くなっては困るので本作も大いに応援したい。
思い出としての長崎
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