遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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書き換えられる記憶、、、
大人の映画だね。二階堂ふみが川辺に向かうシーンでドキドキした。脳みそが刺激された。落ち着いたイギリスの田舎&室内シーンに対して、原爆の被害を受けたはずの終戦直後の長崎がやけに輝かしく人工的な光を思わせたが、この対比がストーリーの展開につれて意味を持つことが分かりゾクゾクした。原作は読んでいないが、ここは映画ならではの演出だろう。三浦友和と渡辺大和のやりとり・対立はイギリスに移住した日本人としての戦後日本への思いの象徴なのかな。「日の名残り」「上海の伯爵夫人」「生きるliving」などのカズオ・イシグロ関連作品を見たが、もっと今作を含めて滋養あふれる味わい深い映画を見たい。「ニュー・オーダー」の楽曲が見るものを惑わせる。観客は思ったよりも若い層で、30代ぐらいの女性が多かった。
遠い山なみの光
被爆し復興する1952年の長崎を1980年代初頭のロンドンで回想する。
どこまでが真実でどこからが虚構なのか。どれが記憶の改竄でどれが意図した嘘なのか。
1952年の長崎、僕はまだ生まれていなかったけれどどこか懐かしくて美しい映像。被爆地長崎はまだ戦災の色濃い一方で復興も進み活気に満ち溢れてもいる。何もない原っぱに真新しい団地。団地のベランダから見えるバラック小屋。バラック小屋に入るとなぜか高級感のある家具に食器。小屋の住人がアメリカ兵にもらったんだろう。悲惨な被災者への共感と被爆者に対する酷い差別が共存している。今では考えられないことだが、そんな社会だったんだろう。二郎が子供を宿す悦子の腹を擦りながら「君が被爆してなくてよかったよ」というデリカシーゼロの発言。その二郎だって傷痍軍人なのだ。彼のデリカシーのなさも擁護されるべきなのか、だからこそ強く糾弾されるべきなのか。何から何まで対立する二つの事柄が頭のなかを交錯する。悦子の行動、そして嘘や記憶の改竄。僕の頭のなかで謎が交錯し、さらにこの映画に登場する人々の行動をどう解釈し評価されるべきなのか、頭の中の葛藤はここには書き切れないほどにある。
僕はカズオ・イシグロの小説が好きで多くの作品を読んでます(「遠い山並みの光」は読んでませんが)。「日の名残り」「私を離さないで」は好きな小説であり映画です。そしてこの映画は僕の好きなカズオ・イシグロの世界です。
過去の自分と向き合う
「過去に戻ってやり直したい」という人もいますが、私は過去を振り返るのが苦手で、そんな風に考えることはありません。
経験しているものの重さは比になりませんが、悦子もそんな風に考えていたのかと想像しました。絶望的な景色や目を覆いたくなるような出来事を眼にしてきたり、思い描く「なりたい自分」になれずにいたりした彼女は、工夫してそれを昇華しながら過ごしていました。
夫の靴紐を体をかがめて結ぶ自分からは変わろうとしていましたよね。
でも、そんな彼女が本当に変われたのは、次女ニキに財産やこれまでの記憶をつなごうと、過去の自分に向き合えたときからなんでしょう。そんな彼女の姿勢がニキを変えることにもつながったようでした。
そんな彼女が義理の父に「変わらなきゃ」と促していたのは皮肉な感じにも映りました。
節目の年だからとかいうのではなく、いろんな意味で「変わらなきゃ」いけない状況にある現代を生きる私たちに課題を投げられたような気がしました。
苦手だとしても、過去と向き合うことも必要なんでしょうね。悦子が過去の自分と長女と向き合ったときの表情が印象に残りました。
戦争の後遺症といった場合、男性の視点で語られることが多かったわけですが、当然、女性もいろんな想いや傷を背負わされたわけですよね。悦子に辛い半生を押し付けた悲惨な過去、歴史が終始鮮やかな色彩で描かれていたことで、脳裏に鮮明に訴えるものがありました。
「長崎とロンドン」
映画女優広瀬すず
説明過多の映画はあまり好きではないが、もう少し解りやすく作ってくれてもいいのに。映画なんだから。
今でこそ被曝者の方を差別するようなことはないだろうが、当時は差別がひどかったんだろうなぁ。
被害に遭った者が、地獄のような体験をして、さらに同じ日本人から差別を受ける。原爆・戦争・人間の恐ろしさ。
広瀬すずはワン・シーンを除けば、ほとんどが受け身の抑えた演技ばかりだったけれど、さすがに人気・実力とも備えた映画女優、大きな画面に映える、映える。
三浦友和が渡辺大知に詰め寄るシーンは見応えがあったけれど、悦子の回想だからなくてもよかったような。どうしても描きたかったシーンだとは思うが、インパクトが強すぎて。これだけで別に一本作ってもいいくらいのテーマだと思う。
あの女の子は上手いんだろうけど、なんかあの時代の子どものような感じがしなかった。
英語のタイトル(原題)と過去の回想へ入っていくところなど、内容は関係ないけれど、カズオイシグロは「ジュリア」好きだったんだろうなと思った。 フレッド・ジンネマンの、ジェーン・フォンダとバネッサ・レッドグレープの映画。 なんとなくそう思った。
この映画いろいろみなさんの考察を読んでからもいちど観に行こうかな。
小説ではなく映画という観点で言えば駄作は否めない
信用のできない語り手
どこまでが“嘘”なのか・・・ 想像することを楽しむ
俺の再推し女優広瀬すず作品なので、早速2回観賞。近年分かり易いとは言えない作品に出演が続いているが、今作もそう。「メチャ難しい」と言うほどではないが、観賞者の想像力に託される部分が大きく、複数回観たくなる作品だと言える。
【物語】
長崎生まれの母(吉田羊)が一人で暮らすロンドン郊外の実家にイギリス人の父との間に生まれ、今はロンドンで暮らす娘ニキ(カミラ・アイコ)が帰っていた。大学を中退し、ライターをしているニキは被爆地ナガサキの記事を書くため、今まで母が話したがらなかった長崎の話を聞き出したかったのだった。母悦子はニキに聞かれ、少し躊躇いながらイギリスに来る前、長崎での30年前の夏の記憶を語り始める。
被爆から7年経った長崎は活気を取り戻しつつあった。悦子(広瀬すず)は戦争から復員した二郎(松下洸平)と戦後結婚し、団地で暮らしていた。腹には一人目の子供を宿し、つつましくも平和な日々を送っていた。そんなある日、部屋の窓から見える粗末な小屋で暮らす女性・佐知子(二階堂ふみ)とその娘と知り合う。その夏のことを悦子が話したのは、最近その頃の夢をよく見るからだった。
ニキは母と佐知子母子の話を一通り書き留めるが、近く売却されることになっている実家に仕舞いこまれていた母の古い収納品をたまたま目にして、母の話にはある “嘘”が隠されていることに気づく。
【感想】
中盤までは、「被爆地長崎」「敗戦後間もない日本」が強調される。事前に読んだ作品の記事によれば、そこは原作より濃い味付けになっているようで、「あの時代の長崎を舞台にするなら」という監督の思いが込められていそうだ。
そして全編にわたるキーワードは「変わる」。悦子、佐知子、ニキ、作品の中心にある3人の女性の「変わって行く」決意。時代の変化に応じて「変わる」ということもあるが、人生のどのような状況の中でも「常に前を向いて進む」という意志が込められていそうだ。
しかし、ハイライトは終盤に明かされる悦子の“嘘”。そのシーンに観客は結構驚かされることになる。嘘は、ボヤっとではなくハッキリ描かれるのだが、嘘の解釈には想像力を働かせることになる。悦子が語った話のどこからどこまでが嘘なのか? また、二郎は・・・
もちろん、全てが作り話のはずはなく、真実と嘘が入り混じっているはず。
また、嘘なのか、悦子は嘘を言っているつもりはなく記憶がそう書き換えられているのかどちらかも分からない。意図的嘘ではなくて、30年の間に記憶が置き換えられたと俺は解釈したい。
原作を読もうかとも思った。原作を読めばカズオ イシグロの意図はどうだったかのヒントは読み取れるかも知れない。でも、やっぱりやめておこうと思う。観賞者に委ねられる場合は、解釈に正解は無く鑑賞者がそれぞれ物語を作ることが作品の一部だと思うから。むしろその想像こそが本作の楽しむべきところだと思いなおした。
いずれにしても、文学的作品だ。脚本・演出は非常に丁寧に作りこまれていることは冒頭5分で感じた。そして役者の演技も素晴らしい。広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、そしてカミラ・アイコの4女優が中心となるが、それぞれ納得感の高い演技を見せてくれている。
最後に役者に目当ての広瀬すずについて。
今年は“阿修羅のごとく”に始まり、なぜか大正・昭和の作品が続いていて、必然的に古いファッション、現代の感覚からすればダサい風体になってしまうので、ファンとしては現代的なファッショブルな彼女をもっと観たいと思たりもするのだが、オールドファッションでも「やっぱりキレイだ」と実感してしまった。 また、興行的には不利なエンタメ性の低い作品への出演が続くのもファンとしては若干歯痒さも感じるのだが、今作も才能ある監督が熱を持って制作した作品で一流の役者共演する機会を得たことは間違いなく財産になったはずなので、今後の益々の進化と活躍に期待したい。
最近では“国宝”が異例の大ヒット中ではあるが、昨今実写邦画は全般的に興行的に苦境にある。 前述のとおり特にこういう映画芸術に真正面から取り組んだ作品は特に厳しい傾向にあり、本作もやはり地味な興行成績になりそうだ。自分が観た上映回では年齢層が高く、若者には興味が薄いことが良く分かる。でも、エンタメ作品ももちろん良いのだが、こういう作品も観たいし、無くなっては困るので本作も大いに応援したい。
思い出としての長崎
ノーベル賞作家の日系イギリス人カズオ・イシグロの小説が原作。 この...
ノーベル賞作家の日系イギリス人カズオ・イシグロの小説が原作。
この原作は読んでいないけれど、2005年に読んだ小説の『わたしを離さないで』のイシグロ・ワールドが甦る。
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、三浦友和という今や日本を代表する役者揃いで、特に女性3人の確かな演技力に裏打ちされた存在感がすごい。
ただしこの作品、あらすじとかストーリーとかを「理解」しようとしたり、スッキリしたいと思わないほうが良い。
物語が進むにつれ、そしてラストに近くなって重層的に示されるシーンは、合理的に理解したいという自然な人間の欲求を、ことごとく裏切ってくる。
夢だったのか? 妄想だったのか?
あるいは自我が分裂しているのか、はたまたいわゆる「偽りの記憶」の映像化なのか?
周到に観る者を混乱させる。
こんな人の悪いシカケは、濱口竜介『悪は存在しない』に匹敵するかもしれない。
つまり、鑑賞中はもちろん、鑑賞後もしばらくのあいだ「曖昧さ」に身を置く覚悟は必要だ。
別に「耐えろ」とか「我慢しろ」と言うつもりはない。
もやもや、イライラしたって構わないのだが、「『曖昧さ』という苦痛をあえて受け容れる」つもりでないと、フラストレーションが高まるだけだろう。
これ、たぶん最低1回、ひょっとしたら2回以上観に行って初めて腹に落ちる、と言うか、自分なりのケリを付けられるのかもしれない。
それはむしろ不快ではない。
浅知恵のトリックではなく、深く、重い、簡単に答えられないことにアンダーラインを引き続ける行為だからだ。
戦争が終わり平和が訪れたはいいが、しばらくしてやってくる「どうや...
戦争が終わり平和が訪れたはいいが、しばらくしてやってくる「どうやって生きていくか?」。新しい価値観が入り込みながらも依然、男社会。その男たちもまた生きていくための仕事で疲れ、イライラしているか、価値の変化に苛まれているような時代の中で、頼る者無き女性、加えるなら戦前、裕福で高学歴だった女性ほど辛い時代だったと思います。これまでの価値とは違う生き方を貫くためには、嘘をつき、過去を消し、強い男(戦勝国男性)に付くこともあったと思われますが、「子供」の存在はそれをするに大きな障害だったのでしょう。とはいえ生々しく泥臭いシーンはほとんど無く、幻想的な映像も絡めながら「影の部分」は観る側の想像に任せていくシナリオです。一方で男社会に迎合しつつも、清々と生きている雑草女性:藤原(演・柴田理恵)が対比して描かれているようにも見えます。あの時代はまだ、どちらに向かう女性が幸せだったのか、考えさせられるとこでもあります。
総じて清楚な女性・悦子を演じる広瀬すずさんのお姿と耳触りの良い長崎弁?に終始目と耳を奪われながら、過去との葛藤をミステリー絡みで追っていく映画でした。と言いたいところですが、結論めいた物語でもなく、悦子の「走馬灯的夢映像」、もしくは「グレー・ファンタジー」に包まれた時間でした。
昭和シネマの陰影の裏に隠された真実
戦争、原爆、差別、偏見の中、もつれた糸のように入り組んだ、一女性の自分史。
イギリスに住む母親が娘にその自分史を初めて語る。だが、その物語はなぜかミステリーじみてくる。
現実と幻想、嘘と真実を超えた時空間が、イギリスと長崎の間を行き交う。
誰にも語ったことがなかった母親の過去。
戦争シーンも原爆シーンも登場しない。なのに、その傷跡が戦後の復興に向かう日本の映像に投影する。
高度成長期に向かう仕事人間の家父長的な夫。戦前の教育は何だったのかという問いに苦悩する義父。米兵との間に娘がいる謎の女性。
母親の過去は、くっきりとした昭和の映像とは対照的に、輪郭が陽炎のようにゆらめいている。
彼女が一体どこに身を置いているのか、一瞬見失ってしまう。
なにが現実でなにが幻想なのだろうか。
だが、ひとたび彼女の娘が、亡き姉の開かずの部屋の扉を開けた時、一気にすべての焦点が合う。
そのあまりの衝撃に予期せぬ涙が頬を伝う。
彼女の辿ってきた運命がどうあろうとも、彼女が長女の部屋とともに封印してきたもうひとつの自分に胸が打ち震える。
昭和シネマの陰影を見事に再現してくれた石川監督、広瀬すず、二階ふみら女優陣の力量に完全に圧倒された。
お母様の!
思い出に「嘘」はつきものです
カズオ・イシグロのデビュー作が原作である事以外の詳細はなるべく情報を入れずに観ました。
映画の終盤、稲佐山で佐知子が悦子に「わたしたちは似てるもの」のセリフでこの映画の謎が見え始め、ニキが母と景子の長崎での写真を見ることになり、悦子の「嘘」は何処にあるのか?をどうしても突き止めたくなり鑑賞後に原作本を購入し読ませていただきました。
映画は物語の背景や登場人物など基本的な部分は原作に忠実であり重要なエピソードもそのまま描かれていますが、戦後7年経過した長崎が舞台でもあり(終戦80年の節目でもあり)日本人が持っている戦争への後悔や傷跡をより表現する為、悦子のバイオリンのシーンで「私のせいなんですと」と涙ながらに吐露させたり、二郎も戦争で大きな傷を負った設定にされたとのことです(映画パンフに記載)。戦争シーンも原爆シーンも一切無くてもあらゆる背景やセリフで充分にこの映画が伝えたいことは観客は理解できます。
そして、問題の「嘘」は原作では悦子がニキに「あのときは景子も幸せで、みんなでケーブルカーに乗ったの」と思い出を話す時だけであり、それ以上の物語の解釈は読者に任せていた。
映画を作るにあたって石川慶監督は大胆にその解釈を悦子=佐知子にして表現してみせたのでした(もちろんエグゼクティブプロデューサーのカズオ・イシグロも納得して)。
監督が熱望した広瀬すずと二階堂ふみの「対決」は大正解でした。2人の噛みあわないような会話(原作通り)が映画の不可思議な雰囲気を醸し出しましたし、50年代60年代映画に出てくるツンとすました女優のような演技をこなした二階堂ふみが特に素晴らしかったです。又三浦友和(緒方)は渡辺大知(松田)と対峙するシーンで、戦時中「愛国教育」が正義と信じていた教職者の苦悩、葛藤を見事に演じていた。とにかく素晴らしかったです。スタッフ・キャストの皆さんの入念な仕事への取り組みがスクリーンいっぱいに表現されたと思います。観て良かったです!
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