遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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ミステリアスな女性たち
戦後の長崎を舞台に、原爆や戦前教育という背景を持ちつつ、イギリスに渡った日本人女性の回想をミステリータッチで描いているという感じなのかな。
カメラワークがミステリーっぽくて、何が謎で何が現実なのかドキドキしながら観ました。
吉田羊、広瀬すず、二階堂ふみの三女優の競演が、それぞれにミステリアスで面白かったです。
何となく違和感を持ちながらイギリスパートを観てきて、最後は腑に落ち、それが一寸怖くて、でも納得いった感じかな。
吉田羊さんの流暢な英語に、セリフとはいえ驚きました。
三女優皆さんピッタリな配役だったと思います。
舞台を観てるようでもありました。
曖昧が引きずり出す観客との鬩ぎあい、圧巻の広瀬すずに刮目
戦後80年の節目を目指したのか、よりによってノーベル文学賞の巨匠カズオ・イシグロの処女作を以って、長崎原爆の残影を描く。脚本・監督・編集を担った石川慶は映画的なアプローチを果敢に攻め、ミステリーの仕掛けを内包し女性の懺悔を温かく。と同時に、親に従うと言う当たり前の概念で遠く日本を離れされられた理不尽を、原作者自身の来し方に重ねることにより生きづらさにリアルを重ねる。ミステリー形式とは言え、隠されたパズルは決して解かれることはなく、むしろ曖昧なまま提示される、敢えて答えを避けることによる深淵を感じ取って頂ければと。文学でなら可能でしょうが、映像で具象として描く作品でそれを実践し成就させた技量は相当なものです。
この監督の挑戦を確実に支えたのが主演の広瀬すずです。圧巻とはここでの彼女の演技であって、可愛いアイドル女優はあれよあれよで既に大女優の風格に確実に成長しておりました。映画全盛期の頃の映画スターは当然に美男美女であった、スクリーンを注視し続けうる「美」が必要だったから。吉永小百合が引っ張りだこだったのは当然で、彼女に限らず「美」の上に「演技」が花開く。その意味でピークの頃の吉永に生き写しの圧倒的な広瀬の「美」がスクリーンを支配。そのうえで、視線から眉ひとつ口元ひとつ指先ひとつ肢体の僅かな捻り、そして口跡の的確な表現、すべてを駆使して監督の目指す人物をスクリーンに具象化する。素晴らしい「主演女優」に心奪われるってのは本当にあるのですね。来年春の日本アカデミー賞の主演男優は吉沢亮なのは100%で、主演女優は本作での広瀬すずでしょう。もっとも出演作が怒涛の勢いで、続く「宝島」でどう観客を揺さぶるのかまだわかりませんが。
まるでタイプの異なる二階堂ふみにとっても、最高の魅力を発揮できたのは確かで、スカーフを巻いたキリリとした意思を湛えた明確な美女は目も覚める程。広瀬と二階堂の2人で行動する長崎の陽光輝く光景は戦後の復興目覚ましい勢いを感じさせる。対する1983年のイギリス式庭園の美しい邸宅の光景はしかし日差しがあるにも関わらず、どんよりと薄暗い。実際にまるでライティングを自然光に委ねたような暗過ぎの中で、吉田羊とカミラ・アイコの噛み合わない会話劇によるコントラストが秀逸です。ネイティブスピーカーのカミラ・アイコの欧米風の演技に対し、吉田の重い演技が本作の肝でもある。ほぼ総て英語のセリフをこなし、結局のところ本作における30年間の総括を滲ませなければならない難役を見事にこなされてました。
対する男役ももちろん、松下洸平も三浦友和も心地よい演技でしたが、何故か浮いたような存在感の希薄を敢えて滲ませたのでしょうね、作品の方向性の必要性から。終戦を境に価値観の180°の転換により戦前の忠心を非難され、激高する主人公の義理の父親(三浦)。しかしずっとロングショットのままの醒めた描写に留め、何事かしらと立ち上がる広瀬の風情の凄まじさ。なんてことないただ立ち上がるだけなのに、起きている事象を涼風のように流してしまう映画的表現に舌を巻く。
(以下、ネタバレ含む) 解釈もいろいろですが私的には、長崎での佐知子こそが本当の悦子であり、そこで語られる悦子はとりもなおさず、望ましかった自分を理想的に夢想で描写。万里子は景子であって、ニキとは異父姉妹となる。従って前述の男2人の存在の薄さから、すべては悦子の意識の中だけの息遣いでしょう。とりも直さず原爆の直接・間接の影響を忌避したい闇の存在が浮かび上がる。ケイト・ウィンスレット主演の「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界」原題「Lee」2023年での晩年のイギリス邸宅での庭の描写と、語られる謎も含め、本作と極めて類似する描写に驚きました。
カズオ・イシグロはノーベル文学賞受賞でも映画への訴求は強く、本作ではエグゼクティブプロデューサーとしても参加。「生きる LIVING」原題 Living 2022年では脚本も製作総指揮も担ってますね。石川慶との接点は知りませんが、望むべき最高の化学反応が起きたのが本作です。日本・イギリス・ポーランドの3カ国合作による国際共同製作ってステージが効いているのでしょう。
信頼できない不安に塗りつぶされた過去
主人公視点(一人称)で語られる「殺人事件の犯人が主人公」ってミステリー、小説なら面白くできるけど、映画だと(=映像化すると)めちゃつまらないケースが多いじゃないですか。
語り手の信頼度を落とすことで、客を不安で揺さぶる、いわゆる「信頼できない語り手」。
本作も、そんな作品に似た印象。
語り手の自分(主人公)が嘘をついているというか、妄想を信じたがっているというか。
おそらく「こうだったらいいな」という夢見た過去、目指した姿を、虚実入り混じえて娘(=観客)に語り、そこに生じる謎を"ミステリー"と言われても……
原作未読なので、再現度、忠実度は分かりません。
ただ、おそらく原作小説は語られない事項を増やしてより曖昧模糊とすることで、「人間の記憶の曖昧さ」と「信じたいもので自己の記憶が塗り替えられていく罪深さ」みたいなものを伝えるために、もっと解釈の幅を広げる余地を残し、読者の心理を揺さぶったもののようにしている気がします。
映像化した故に、過去の記憶が具体性を帯びて生臭く、そしてうさん臭くなったような。
ちゃんと原作が読みたくなりました。
石川慶監督は、『ある男』『蜜蜂と遠雷』は好きだったんだけどな……
今回は『不都合な記憶』『愚行録』寄りで、ちょっと苦手。
意味わからん。
あの頃の自分を抱きしめる
後半になって、佐知子は、悦子本人だったと判る、悦子がどのように景子という娘を得たのか?
夫の二郎、悦子と二郎を繋いだであろう緒方も、映画のあるエピソードは、真実ではなさそう。こういう暮らしの中で、景子を産みたかったということではなかったか?
自分の生き方を嫌う景子とは、景子が自殺する最後まで、和解することはなかったようである。
お祭りからの帰りの電車のシーンが一番秀逸、捨て猫のおうちをゲットして喜び、珍しく悦子にやさしい景子。
その電車の中の母子を遠くから見つめる
悦子の心、悦子は嗚咽していたか。
自分の生き方の犠牲者になってしまった景子に対する贖罪か、でも
当時の長崎の状況、被爆し、頼る者をすべて失った境遇の中、娘を守って、なんとか生き抜こうとすることの過酷さは、想像を絶する。
英国で、なんとか暮らしを立てたのに、
一番守ろうとした景子が自殺してしまう悲しみは、自分の行き方を二度と許されないことが確定した絶望。
それでも、もう1人の娘、ニキには
なんとか、解ってもらいたくての回想、作り話、一人語りだったのだろうと思う。
悦子は、あの頃の自分を、
思いきり抱きしめて、「でも、よく頑張って生き抜いたね」と言ったのだと思う。
遠い山なみを見ながら。
光と影
あの原爆破壊から7年、決して癒やす事の出来ないトラウマを隠して、朝鮮特需と高度経済成長で日本は復興に邁進。
暇になった旧い父世代男性は過去を正当化したく、新しい息子世代男性は新しい時代の超多忙戦士。
置き去りにされるのは相変わらず女と子どもだが、どの女も生き延びる為に自立しようと男たちより逞しい。
悲惨な戦後なのに、希望に向かって明るく、若き主人公広瀬すずと二階堂ふみはキラキラ輝いてて美しい。
一方、その後渡英し我が道を選んだ老いた主人公の暮らすイギリスの静かな田舎家は、雨か曇かのトーンで明るさはなく、様々なトラウマの影が朧げに、母と娘の会話も冷え冷えとしている。
その光と影のコントラストが、悲惨な被爆、戦争戦後時代よりも、現代の方が更に生きづらいのだろうかと、(自分もカズオ・イシグロ世代なので)考えさせられた。
配役はなかなか良い。広瀬すず、二階堂ふみは巧い。三浦友和はアウトレ...
原作のモヤモヤを吹き飛ばす演出!
原作者であるカズオ・イシグロ氏をエグゼクティブプロデューサーとして参加させ、原作に忠実な写実と、原作にはない要素をバランス良くブレンドした傑作です。
カズオ・イシグロ氏の小説の特徴でもある…読者によって捉え方が分かれる…ある意味読み手の自由度が高い構成は…時に、読後にモヤモヤ感が残ります。それが彼の作品の真骨頂でもあるのですが…捉え方のバリエーションの一つにフォーカスを当て、斬新でミステリアスなストーリーに展開させたのは、脚本の勝利とも言えましょう。
広瀬すずの演技が光ります。「こんなに…演技うまかったか…」と唸ります。また二階堂ふみの圧倒的存在感と美的オーラは、才能でという言葉では表せない。彼女は役者が天職なのでしょう。そして吉田羊の英語が美しく、その佇まいは、当時、外国に移住した日本人の持つ憂いや諦念を描き出します。三浦友和は…やっぱりカッコイイ。アウトレイジばりのど迫力演技は圧巻です。
生き残った者の視点から、原爆後の長崎を捉えています。私たちが気付かされることも多くあり、戦後80年の今年にふさわしい良作だと思います。おすすめです。
ちなみに原作を読まなくても、全く問題ありません。
その時代を目撃するWitnessing an Era
映画を観て、その後、原作読了。
直後に原作に当たったのは、
映画の肝になるストーリーの確認のため。
原作にはハッキリとは書かれていなかった。
映画観た後で、
筋立ては尺に合わせて短くなり
話は前後し、
内容も一部変わっていたけれど
恐ろしいくらいまで、
原作との違和感がないことに驚いた。
むしろ、実写化の力を存分に味わえる。
原作者がスタッフとして関わりそれが
良い方向に作用した好例。
広瀬すずさんと、二階堂ふみさんのやりとりは
まさに悦子と佐知子の関係そのもの。
物語によってあの時代を生きた
あの時代を経験した人々を
永久保存して未来に繋げたと感じた。
物語の力によって真実を語る、
それを具現化している。
キャスティングにより、
時代の変化に取り残された者
時代の変化に対応していった者
時代の変化を受け入れた者
彼らが描かれ、
あの時代を垣間見たような感覚に襲われる。
今の映像技術ゆえに、
描く事が可能になったんだろうな。
10年前だとチープになった可能性もある。
やっぱり映画って凄い。
I first watched the film, then immediately picked up the novel it was based on. I wanted to confirm the core storyline, only to find that in the original text, it wasn’t as clearly stated as in the adaptation.
The film shortened the plot to fit within its runtime, shuffled the order of events, and even altered parts of the narrative. And yet, astonishingly, it felt seamless—there was no sense of dissonance with the source material.
Instead, the adaptation demonstrated the true strength of live-action filmmaking. It became a perfect example of how the involvement of the original author as part of the production team can enhance the work in a positive way.
The exchanges between Suzu Hirose and Fumi Nikaidō perfectly embodied the relationship between Etsuko and Sachiko. Through their performances, the story seemed to preserve the lives and experiences of that era, carrying them forward into the future like a time capsule.
This is the power of storytelling: to convey truth through fiction, and the film brought that idea to life.
The casting highlighted those left behind by the tides of history, those who adapted, and those who embraced change. Watching them unfold on screen gave me the uncanny sense of peering directly into that bygone age.
Thanks to modern filmmaking techniques, the film could achieve this depth of portrayal. Had it been attempted a decade ago, it might have felt flat or cheap.
In the end, I was left with a renewed sense of awe—cinema really is something extraordinary.
登場キャラが理解できなかった。
原作は全く知らないけれど広瀬すずが主役なので、かなり楽しいんじゃ無いかと期待しながら着席。日本・イギリス・ポーランドの合作なんだけど、登場人物は日本人ばかりだから、ずっと日本語かと思ってたら、日本人親子で英会話、イギリスに住んでても日本語使うんじゃないかと思ってたが、娘のニキはイギリス生まれだったので、日本語喋れなかったのね。ずっと過去と未来が行ったり来たりで、会話が楽しかったんだけど、分からない事だらけだった。広瀬すず演じる悦子は、いつイギリスへ移住したのか?旦那と長女が亡くなった理由がわからなかった。えっ!?広瀬すずと二階堂ふみは名前が違うのに同一人物だったの?モヤッ!長崎の近所に住む佐知子の娘、万里子の性格にイラっとしちゃった。万里子はアメリカに行くって言ってたのにイギリス?万里子の猫に対する行動ひどかったよね。ストーリー的にはあまり楽しくなかったが、すずのお陰で眠くならずに最後まで観られました。ソコソコでした。
先が気になる感じじゃなかった
2025年劇場鑑賞241本目。
エンドロール後映像無し。
文学作品ということで小難しそうだなぁと思っていましたが、そうでもなかったです。今年は原爆投下後の長崎フィーチャーの映画が多い気がします。
時系列が行ったり来たりしますが、広瀬すずと吉田羊なので全く混乱しません。ストーリーも難解ではなく、演技にも不満なく、最後もなるほどという感じでした。でもこの先どうなるんだろう的な事はなかったのです。確かに昔と今で主人公を囲む環境が大きく変わっていて、間をどう埋めるのだろう、というところはあるにせよ、思っていた経緯と若干違っていても、結果は序盤で与えられる情報からやっぱりそうだよねという感じだったのでこの先どうなるのかな、という感じでは観られませんでした。
長崎駅ホームの背景に見える車両が変です。(欧州の車両のようです。)こういうところでガッカリ
カンヌ映画祭がらみの映画は、難解なものが多くて苦手です。今回もその印象です。わからないままのものが多い、(エピソードが回収されていない。)それは観衆が各自考えろと言うことなのでしょうか? いちいち伏線ガー 回収ガー と言うなよ という映画通はいますね。
皆さん気が付いたでしょうか? 鉄道ファンの私は、長崎駅のプラットホームのシーンで後ろに映る留置線の紺色の客車に違和感を感じました。
窓の配置といいシルエットといいヨーロッパの客車です。(オリエント急行のような)連結器が自動連結器ではなく日本では1925(大正14)年に一斉に取り換えたバッファーが付いた連結器が見えます。
本題には関係ない。いちいち重箱の隅をつつくなと言われそうですが、なにか参考にする画像にしてもちょっとは考証してほしいと思いました。(映画制作側に鉄道に少しだけ詳しい人はいないのか?)
(日本映画にある時々見られるエラーの例 東海道新幹線、ABCの席(本来海側)で真横に富士山が映るというもの。(実際にはありえません) 海側←ABC通路DE→山側(富士山真横)です。)
※なお長崎市内の街路のシーンで走る路面電車も鉄道ファンの目で見れば変なのですが、これは茨城県つくばみらい市にある商用撮影施設「ワープステーション江戸」で撮影したと一目でわかるので(この施設には自走できる路面電車まで用意されている。)不問です。
※高倉健主演「鉄道員(ぽっぽや)」に出てくるディーゼルカーは、その当時の新しい車両を苦心してレトロ化したもので、ファン的にはまだ違和感が残るものの、こだわろうとしたことを高く評価します。(今も前頭部の実物カットが廃線となった幾寅駅(映画の中では幌舞駅)に保存されています。)
地味な作品だけど、いろいろ解釈できそうだ。
長崎の原爆投下が作品の背景にある。それぞれの登場人物には、過去のトラウマがあって作品を奥深くしているが、本当に地味な物語で退屈してしまう人もいそうだ。
私は自殺した長女と二階堂ふみの娘が重なって見えた。また、義理の父三浦友和も教師として戦前の軍国教育を推進した過去を教え子に批判され、悩みを抱えている。被爆した広瀬すずは、その事を心の奥底に抱えている。自分を自制し行きてきた彼女は、自由奔放に生きる二階堂が、気になって仕方がない。また、その娘にも。たくましく見える二階堂も新しい人生を切り開くためアメリカ軍人と結婚し米国へ渡るという、他人任せの人生のなっている。
自宅を売却することがきっかけとして、過去のトラウマに向き合う主人公の物語だった。
原作を読んだのだが、すっかり忘れていた。製作者に作家本人の名があり、原作を尊重した映画になっている。映像化に成功している映画だと思う。最後に家族写真を見て、救われた気持ちになった。
本年度トップクラスの余韻
絵画的なファーストショット。徐々にピントが合うと、呼吸の荒い、うなされている人物が浮かび上がってくる。
他人を丸ごと理解することは難しいけれど、共感的に理解しようとしなければ、いつまでも明確な像を結ばない。
この映画全体を象徴するような、美しく見事な導入だった。
物書きを目指す娘が、母親へのインタビューをまとめるといった形で、1950年代の長崎と1980年代のイギリスとが、行きつ戻りつしながら描かれる今作。
ロケーション、調度品・インテリアなどの美術、ライティング、映像に重なる音や楽曲の一体感が素晴らしく、鑑賞後の余韻でいうと、今年度観た作品の中でトップクラス。様々な側面から振り返りたくなる、とても複雑な味わいを感じた。
今作を論理的に解ろうとするには、一回の鑑賞で自分が手に入れたピースは充分ではないし、それが解ったからといって、受け取ったものがより豊かになるとは思えないので、一つ一つには細かく触れないが、自分が特に考えさせられた点についてのみ、記録に残したいと思う。
<一部内容に触れた、個人的な感想や解釈です>
=記憶の曖昧さとその向き合い方について=
つい最近のこと。小学校時代の友人と話していて、自分の記憶の中に残っていた「とある友人とのエピソード」が、いつの間にか「別の友人とのエピソード」にすり替わっていたことに驚かされたことがあった。
本作で感じたのは、正にそのこと。
何が事実なのか、そもそも本人にとっても記憶の輪郭は曖昧なのだ。
しかも、悦子のように、できれば目を背けたい過去がある場合には、意図的な欠落や改変も混じって、余計に真相はわかりにくくなる。
ただ、本作では、娘のニキが自分の中にあるわだかまりを乗り越えようと一歩踏み越えたことをきっかけとして、母の悦子自身も、長く蓋をしてきた自分の過去を掘り起こすことにつながった。市電の中から見えた黒い服の女性が、自分の顔だったシーンが象徴的だ。
生きるためには、目を背けることが必要な時もあるけれど、見つめ直すことで改めて前を向けることもあるのだろうと思ったし、希望の光が見える終わり方だった。
=悦子にとっての「縄」=
川縁の沼地を走る悦子の足に絡みつく葛のツル。ツルは編めば、リンゴを収穫するカゴにも、思い出の品を保管するトランクにもなるが、景子が自死に利用したり、また連続幼児殺人の犯人が凶器にしたりした縄にもなる。
悦子は、自分の尊厳を守り生き抜く「抑圧に屈しない強さ」を持ってはいるが、合わせて、受け持ちの子どもたちを見殺しにして、自分ばかりが助かってしまったのではないかという自責の念と、景子を自死させてしまった原因が、長崎を離れたいがためにイギリスに連れてきた自分にあるのではないかという悔恨も持っている。(もちろん、景子が被曝による誹謗中傷を受けずにいられる環境を願った意味もあっただろうが…)
そうした悦子が、夢の中で手に持つ縄は、その悔恨の象徴なのだろう。
本作の中では、連続幼児殺人が報じられている。
この犯人は、何の為に殺人を犯しているのか不明だが、悦子自身は、心の奥底で「自分のしたことは、この幼児殺人と何が違うのか」という自問を繰り返していたのではないかと思わされた。
=信念と価値観について=
日本は、原爆に負けたのか。それとも、元々、皇国の嘘を教えて洗脳していたことが間違いだったのか。
三浦友和演じる元校長と、渡辺大知演じる教え子の教師とのやりとりが重かった。
指示を出す側ではなく、応召で戦地に赴いた人々や、積極的に送り出した人々は、心情的には、自分の良心からの行為だった訳で、そこを否定できない苦しさが、三浦友和の佇まいに滲み出ていた。
それに対して、渡辺大知は若さゆえの直情を感じさせる演技で、正論と思われる言葉を吐くが、戦時下で検挙された教師たちの多くは、教え子たちの貧困や社会的階層による不条理に対する憤りがきっかけだったものの、彼らが教室で行った行動の中身的には、逆の意味での洗脳を企図する危うさもあり、それが戦後の「教育の政治的中立性」につながっているのだろう。
後の時代の者が、簡単に当時の人々のことを断じることはできないし、今、生きている我々も、信念と価値観は、常にアップデートを求められ続ける。
松下洸平演じる息子二郎が、自分の指を失うという代償を払ったことで、父へのわだかまりを募らせながらも、急激な価値観の変化には自分もついていかれず、同じ長崎市民ながら被曝者への偏見を口にしたり、男性性にとらわれたりしている様子は、決して遠い昔のことと切り捨てられないと思わされた。
※ただ、本編とは関係ないが、映画のプロモーション方向はちょっと迷走していると感じる。
「5つのヒント」のような手段は、作品の質とフィットしていない印象。
全277件中、181~200件目を表示
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