遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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最後でなるほどとわかる
1980年代のイギリスで、日本人の母とイギリス人の父の間に生まれたニキは、大学を中退し作家を目指しロンドンで執筆活動をしていた。ある日、彼女は執筆の取材のため、疎遠になっていた実家を訪れた。その家では夫と長女を亡くした母・悦子がひとりで暮らしていた。かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、ニキは母の過去についてこれまで聞いたことがなかった。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、長崎での生活について語りはじめた。それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の話だった。長崎でどんなことがあったのか、そんな話。
長崎で何があってイギリスへ移住したのだろうか、とか、異父姉の景子の死に関わる謎、など気になり、広瀬すずと二階堂ふみの演技に引き込まれた。
吉田羊の英語、上手かった。イギリスで英語を特訓したらしいが、ほとんどのセリフが英語で、大変だったろうなぁ、と思ったし、彼女の俳優魂に感動した。
佐知子と悦子、万里子と景子の関係がわかると鳥肌ものだった。
悦子は二郎に原爆を受けた事を告げて離婚に至ったんだろうと想像した。
広島でも被曝体験を語れなかった被爆者がほとんどだから。
1950年代の長崎での悦子を広瀬すず、悦子が長崎で出会った佐知子役の二階堂ふみの2人は名演技、名女優だ。
そして、1980年代のイギリスで暮らす悦子役の吉田羊も素晴らしかった。
悦子の夫二郎の父緒方役の三浦友和もプライドと過去の栄光が捨てれない元校長役が上手かった。
名俳優、名演技、そしてなるほどと納得の脚本、素晴らしい作品だった。
映画女優広瀬すず
説明過多の映画はあまり好きではないが、もう少し解りやすく作ってくれてもいいのに。映画なんだから。
今でこそ被曝者の方を差別するようなことはないだろうが、当時は差別がひどかったんだろうなぁ。
被害に遭った者が、地獄のような体験をして、さらに同じ日本人から差別を受ける。原爆・戦争・人間の恐ろしさ。
広瀬すずはワン・シーンを除けば、ほとんどが受け身の抑えた演技ばかりだったけれど、さすがに人気・実力とも備えた映画女優、大きな画面に映える、映える。
三浦友和が渡辺大知に詰め寄るシーンは見応えがあったけれど、悦子の回想だからなくてもよかったような。どうしても描きたかったシーンだとは思うが、インパクトが強すぎて。これだけで別に一本作ってもいいくらいのテーマだと思う。
あの女の子は上手いんだろうけど、なんかあの時代の子どものような感じがしなかった。
英語のタイトル(原題)と過去の回想へ入っていくところなど、内容は関係ないけれど、カズオイシグロは「ジュリア」好きだったんだろうなと思った。 フレッド・ジンネマンの、ジェーン・フォンダとバネッサ・レッドグレープの映画。 なんとなくそう思った。
この映画いろいろみなさんの考察を読んでからもいちど観に行こうかな。
小説ではなく映画という観点で言えば駄作は否めない
信用のできない語り手
どこまでが“嘘”なのか・・・ 想像することを楽しむ
俺の再推し女優広瀬すず作品なので、早速2回観賞。近年分かり易いとは言えない作品に出演が続いているが、今作もそう。「メチャ難しい」と言うほどではないが、観賞者の想像力に託される部分が大きく、複数回観たくなる作品だと言える。
【物語】
長崎生まれの母(吉田羊)が一人で暮らすロンドン郊外の実家にイギリス人の父との間に生まれ、今はロンドンで暮らす娘ニキ(カミラ・アイコ)が帰っていた。大学を中退し、ライターをしているニキは被爆地ナガサキの記事を書くため、今まで母が話したがらなかった長崎の話を聞き出したかったのだった。母悦子はニキに聞かれ、少し躊躇いながらイギリスに来る前、長崎での30年前の夏の記憶を語り始める。
被爆から7年経った長崎は活気を取り戻しつつあった。悦子(広瀬すず)は戦争から復員した二郎(松下洸平)と戦後結婚し、団地で暮らしていた。腹には一人目の子供を宿し、つつましくも平和な日々を送っていた。そんなある日、部屋の窓から見える粗末な小屋で暮らす女性・佐知子(二階堂ふみ)とその娘と知り合う。その夏のことを悦子が話したのは、最近その頃の夢をよく見るからだった。
ニキは母と佐知子母子の話を一通り書き留めるが、近く売却されることになっている実家に仕舞いこまれていた母の古い収納品をたまたま目にして、母の話にはある “嘘”が隠されていることに気づく。
【感想】
中盤までは、「被爆地長崎」「敗戦後間もない日本」が強調される。事前に読んだ作品の記事によれば、そこは原作より濃い味付けになっているようで、「あの時代の長崎を舞台にするなら」という監督の思いが込められていそうだ。
そして全編にわたるキーワードは「変わる」。悦子、佐知子、ニキ、作品の中心にある3人の女性の「変わって行く」決意。時代の変化に応じて「変わる」ということもあるが、人生のどのような状況の中でも「常に前を向いて進む」という意志が込められていそうだ。
しかし、ハイライトは終盤に明かされる悦子の“嘘”。そのシーンに観客は結構驚かされることになる。嘘は、ボヤっとではなくハッキリ描かれるのだが、嘘の解釈には想像力を働かせることになる。悦子が語った話のどこからどこまでが嘘なのか? また、二郎は・・・
もちろん、全てが作り話のはずはなく、真実と嘘が入り混じっているはず。
また、嘘なのか、悦子は嘘を言っているつもりはなく記憶がそう書き換えられているのかどちらかも分からない。意図的嘘ではなくて、30年の間に記憶が置き換えられたと俺は解釈したい。
原作を読もうかとも思った。原作を読めばカズオ イシグロの意図はどうだったかのヒントは読み取れるかも知れない。でも、やっぱりやめておこうと思う。観賞者に委ねられる場合は、解釈に正解は無く鑑賞者がそれぞれ物語を作ることが作品の一部だと思うから。むしろその想像こそが本作の楽しむべきところだと思いなおした。
いずれにしても、文学的作品だ。脚本・演出は非常に丁寧に作りこまれていることは冒頭5分で感じた。そして役者の演技も素晴らしい。広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、そしてカミラ・アイコの4女優が中心となるが、それぞれ納得感の高い演技を見せてくれている。
最後に役者に目当ての広瀬すずについて。
今年は“阿修羅のごとく”に始まり、なぜか大正・昭和の作品が続いていて、必然的に古いファッション、現代の感覚からすればダサい風体になってしまうので、ファンとしては現代的なファッショブルな彼女をもっと観たいと思たりもするのだが、オールドファッションでも「やっぱりキレイだ」と実感してしまった。 また、興行的には不利なエンタメ性の低い作品への出演が続くのもファンとしては若干歯痒さも感じるのだが、今作も才能ある監督が熱を持って制作した作品で一流の役者共演する機会を得たことは間違いなく財産になったはずなので、今後の益々の進化と活躍に期待したい。
最近では“国宝”が異例の大ヒット中ではあるが、昨今実写邦画は全般的に興行的に苦境にある。 前述のとおり特にこういう映画芸術に真正面から取り組んだ作品は特に厳しい傾向にあり、本作もやはり地味な興行成績になりそうだ。自分が観た上映回では年齢層が高く、若者には興味が薄いことが良く分かる。でも、エンタメ作品ももちろん良いのだが、こういう作品も観たいし、無くなっては困るので本作も大いに応援したい。
なかなか難解…⭐︎
カズオ・イシグロの作品は自分にはなかなか難解なものが多く、この作品もこのサイトで
他の方のレビューを拝見しないとそこまで読み取れなかったと思う。
二階堂ふみ演じる佐知子が存在しないかもしれないとは思いもよらなかった。
レビューを拝見しても、そうか!と言う気持ちといや違うと言う思いが以前としてある。
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊と旬の女優達がそれぞれ素晴らしい演技で松下洸平、
三浦友和も良い。
ただ、自分には関係性が今一つ良く分からず、悦子とは一体何者という思いや夫の
松下洸平は亡くなったのか⁇
どうしてイギリスに渡ったのかなどが全て観客(読者)に委ねられている。
原作を読みば分かるのかなぁ…
それでも何とも言えないメッセージは感じるし、ここが良いというシーンがある訳では
ないにも関わらずすごくインパクトのある映画だった。
年に何本か見る映画の中で意外に印象が残る作品になりそうな気がしている。
思い出としての長崎
教えは多いけれど
原作未読。
混乱した、というレビューをいくつか読んで、肝のネタバレ一文「悦子=佐知子」のみ仕入れて鑑賞。
肝さえ押さえておけば楽勝だろうと思いましたが、いや逆に混乱したような。
えっ、じゃあ娘の父親って誰なの?その父親はいまいずこ?おなかの子供はまた別?
その他いろいろ分からないことだらけで「???」となり、そのことばかりに意識がいきがちになりました。
が、次第に、訴えたいテーマはおそらくそこじゃなさそうだ、と思えてきます。
(ちなみに「???」の謎は今も解けていない。原作を読めば分かるのか?)
平和を生きる私から見て、佐知子はなかなかの毒親に見える。
実際、長女の自死のいくばくかは責任あると思うし現代ならそう捉えられると思う。
けれどニキは、違うと言う。お母さんのせいじゃない、時代のせいだと。
そこで私は、認識の甘さを知りました。
生きることに必死じゃなくてもいい現代の幸せな価値観を。
また、この映画には、時代に合わせた変化を相手に促すセリフが何度も出てきます。
三浦友和は生徒に罵倒されていたし→「あれは教育じゃない、洗脳だった。時代は変わった」
ニキも母悦子に言う。→「結婚や子育てが全ての時代じゃない。変わらなきゃ」
このへん、時代に応じたアップデートを求められがちな世代の私は耳が痛い。
正直、昨今のネットニュースでセクハラ(orパワハラorモラハラ)問題を見ていて内心感じることがあるのだ。
「私が若い頃はこの程度はたいした問題にはならなかった」と。
映画のテーマに比べて些末な置き換えですけれど・・・。
などなど、教えも多かったです。
ただ、いかんせんストーリーをちゃんと把握できていないので☆3.5で。
あとは見る側に委ねます系もそれがごく一部ならアリだと思うけれど、あっちもこっちも委ねられちゃうと消化不良が先に来てしまいます。
それと、私は戦争モノは苦手ですがコレは戦後復興からだから大丈夫だろう、と見る前は予想していました。
が、根底に流れるものはとても重く、ヒタヒタと暗い何かが迫ってくる感じ。
そか、カズオイシグロですものね。
ちょっとクスッとしたところもあって、二階堂ふみさんから「跳んで埼玉」を彷彿をさせるセリフが聞けたこと。→「あんたたちに食べさせるうどんはないよ!」(これって狙ってないよね?偶然よね?)
そして広瀬すずさんはどんな髪型でもかわいらしかったです。
イシグロらしく観る人に解釈を委ねた構成が良かった。
広瀬すずの透明感と二階堂ふみのミステリアスな存在感は、この物語に完璧にピッタリ!
二人が立つだけで物語は儚くも妖しい輝きを帯び、観る者を引き込む。息をのむ美しさだった。
【ネタバレ】
私は佐知子を緒方悦子の幻想=もう一人の自分と捉え、団地での夫の緒方二郎との整った生活は戦後何も無かったかのように繁栄し、被爆の爪痕を残した自分だけが取り残されて行く不安と絶望の象徴としての幻想で、その部屋から俯瞰する河原のボロ屋で娘・万里子との生活こそが現実だったのではないかと感じた。
万里子=恵子(長女)悦子の記憶や幻想の中で重なり合う存在。
そうなると、夫 緒方二郎の父 緒方誠二の存在は?
という事になるがこの二人の親子関係がどこか取ってつけたような空々しさ… 父、誠二は二郎の存在にリアリティをもたせるためのイシグロの戦争を誇張した小道具で、悦子の教員時代の校長に過ぎないのではと言う気がしました。
幻想と現実、過去と未来が交錯する構造が、イシグロ作品らしい不確かさと余白を映し出している。
軒並みレビューに【⚠️ネタバレ注意】があるようにw
最後に観た人と語り合うことでさらに深まる作品。
それぞれ観る人が自分の「答え」を探し出す
まさにイシグロの真骨頂を味わえる映画だった。
ノーベル賞作家の日系イギリス人カズオ・イシグロの小説が原作。 この...
ノーベル賞作家の日系イギリス人カズオ・イシグロの小説が原作。
この原作は読んでいないけれど、2005年に読んだ小説の『わたしを離さないで』のイシグロ・ワールドが甦る。
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、三浦友和という今や日本を代表する役者揃いで、特に女性3人の確かな演技力に裏打ちされた存在感がすごい。
ただしこの作品、あらすじとかストーリーとかを「理解」しようとしたり、スッキリしたいと思わないほうが良い。
物語が進むにつれ、そしてラストに近くなって重層的に示されるシーンは、合理的に理解したいという自然な人間の欲求を、ことごとく裏切ってくる。
夢だったのか? 妄想だったのか?
あるいは自我が分裂しているのか、はたまたいわゆる「偽りの記憶」の映像化なのか?
周到に観る者を混乱させる。
こんな人の悪いシカケは、濱口竜介『悪は存在しない』に匹敵するかもしれない。
つまり、鑑賞中はもちろん、鑑賞後もしばらくのあいだ「曖昧さ」に身を置く覚悟は必要だ。
別に「耐えろ」とか「我慢しろ」と言うつもりはない。
もやもや、イライラしたって構わないのだが、「『曖昧さ』という苦痛をあえて受け容れる」つもりでないと、フラストレーションが高まるだけだろう。
これ、たぶん最低1回、ひょっとしたら2回以上観に行って初めて腹に落ちる、と言うか、自分なりのケリを付けられるのかもしれない。
それはむしろ不快ではない。
浅知恵のトリックではなく、深く、重い、簡単に答えられないことにアンダーラインを引き続ける行為だからだ。
戦争が終わり平和が訪れたはいいが、しばらくしてやってくる「どうや...
戦争が終わり平和が訪れたはいいが、しばらくしてやってくる「どうやって生きていくか?」。新しい価値観が入り込みながらも依然、男社会。その男たちもまた生きていくための仕事で疲れ、イライラしているか、価値の変化に苛まれているような時代の中で、頼る者無き女性、加えるなら戦前、裕福で高学歴だった女性ほど辛い時代だったと思います。これまでの価値とは違う生き方を貫くためには、嘘をつき、過去を消し、強い男(戦勝国男性)に付くこともあったと思われますが、「子供」の存在はそれをするに大きな障害だったのでしょう。とはいえ生々しく泥臭いシーンはほとんど無く、幻想的な映像も絡めながら「影の部分」は観る側の想像に任せていくシナリオです。一方で男社会に迎合しつつも、清々と生きている雑草女性:藤原(演・柴田理恵)が対比して描かれているようにも見えます。あの時代はまだ、どちらに向かう女性が幸せだったのか、考えさせられるとこでもあります。
総じて清楚な女性・悦子を演じる広瀬すずさんのお姿と耳触りの良い長崎弁?に終始目と耳を奪われながら、過去との葛藤をミステリー絡みで追っていく映画でした。と言いたいところですが、結論めいた物語でもなく、悦子の「走馬灯的夢映像」、もしくは「グレー・ファンタジー」に包まれた時間でした。
昭和シネマの陰影の裏に隠された真実
戦争、原爆、差別、偏見の中、もつれた糸のように入り組んだ、一女性の自分史。
イギリスに住む母親が娘にその自分史を初めて語る。だが、その物語はなぜかミステリーじみてくる。
現実と幻想、嘘と真実を超えた時空間が、イギリスと長崎の間を行き交う。
誰にも語ったことがなかった母親の過去。
戦争シーンも原爆シーンも登場しない。なのに、その傷跡が戦後の復興に向かう日本の映像に投影する。
高度成長期に向かう仕事人間の家父長的な夫。戦前の教育は何だったのかという問いに苦悩する義父。米兵との間に娘がいる謎の女性。
母親の過去は、くっきりとした昭和の映像とは対照的に、輪郭が陽炎のようにゆらめいている。
彼女が一体どこに身を置いているのか、一瞬見失ってしまう。
なにが現実でなにが幻想なのだろうか。
だが、ひとたび彼女の娘が、亡き姉の開かずの部屋の扉を開けた時、一気にすべての焦点が合う。
そのあまりの衝撃に予期せぬ涙が頬を伝う。
彼女の辿ってきた運命がどうあろうとも、彼女が長女の部屋とともに封印してきたもうひとつの自分に胸が打ち震える。
昭和シネマの陰影を見事に再現してくれた石川監督、広瀬すず、二階ふみら女優陣の力量に完全に圧倒された。
お母様の!
思い出に「嘘」はつきものです
カズオ・イシグロのデビュー作が原作である事以外の詳細はなるべく情報を入れずに観ました。
映画の終盤、稲佐山で佐知子が悦子に「わたしたちは似てるもの」のセリフでこの映画の謎が見え始め、ニキが母と景子の長崎での写真を見ることになり、悦子の「嘘」は何処にあるのか?をどうしても突き止めたくなり鑑賞後に原作本を購入し読ませていただきました。
映画は物語の背景や登場人物など基本的な部分は原作に忠実であり重要なエピソードもそのまま描かれていますが、戦後7年経過した長崎が舞台でもあり(終戦80年の節目でもあり)日本人が持っている戦争への後悔や傷跡をより表現する為、悦子のバイオリンのシーンで「私のせいなんですと」と涙ながらに吐露させたり、二郎も戦争で大きな傷を負った設定にされたとのことです(映画パンフに記載)。戦争シーンも原爆シーンも一切無くてもあらゆる背景やセリフで充分にこの映画が伝えたいことは観客は理解できます。
そして、問題の「嘘」は原作では悦子がニキに「あのときは景子も幸せで、みんなでケーブルカーに乗ったの」と思い出を話す時だけであり、それ以上の物語の解釈は読者に任せていた。
映画を作るにあたって石川慶監督は大胆にその解釈を悦子=佐知子にして表現してみせたのでした(もちろんエグゼクティブプロデューサーのカズオ・イシグロも納得して)。
監督が熱望した広瀬すずと二階堂ふみの「対決」は大正解でした。2人の噛みあわないような会話(原作通り)が映画の不可思議な雰囲気を醸し出しましたし、50年代60年代映画に出てくるツンとすました女優のような演技をこなした二階堂ふみが特に素晴らしかったです。又三浦友和(緒方)は渡辺大知(松田)と対峙するシーンで、戦時中「愛国教育」が正義と信じていた教職者の苦悩、葛藤を見事に演じていた。とにかく素晴らしかったです。スタッフ・キャストの皆さんの入念な仕事への取り組みがスクリーンいっぱいに表現されたと思います。観て良かったです!
夢と記憶と事実と
全429件中、261~280件目を表示
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