「軽やかな「旅エッセイ」のようだが、とても味わい深い」リアル・ペイン 心の旅 いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)
軽やかな「旅エッセイ」のようだが、とても味わい深い
ジェシー・アイゼンバーグの初監督作(『僕らの世界が交わるまで』)は未見。そして今回、ウェス・アンダーソン作品のように水平横移動するカメラワークが印象的な監督第二作は、軽妙な「旅エッセイ」のような愛すべき小品だった。
NYに住むいとこ同士のベンジー(キーラン・カルキン)とデヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)。ふたりは最愛の祖母の遺言に従い、ホロコーストの生存者だった彼女の故郷ポーランドで強制収容所跡などを巡る「ホロコースト・ツアー」に参加する——。
…こう書くと、深刻な内容を予想して身構えてしまうが、それは良い意味で裏切られる。ショパンの名曲の数々にのせて描かれる「ふたりの旅時間」は軽やかで、時にくすっと微笑ませ、時にじんわり心に沁みてくる。
その一方で、本作には、現代人が抱える生きづらさの問題だとか、日々暮らす中で目を背けがちな「20世紀最大の負の遺産」、あるいは現在の恵まれた立場からそうした「負の遺産」に向き合った際に覚える違和感などが、さりげなく織り込まれている。これらの深刻さと軽やかさが奇跡のように“同居”している点が本作の見どころだ。
ここで思い出されるのが、同じくホロコーストを題材に扱った『関心領域』だ。同作は、現実から意識的に目を背け続ける人間の暴力性や醜悪さを、まるで現代アートの“考えオチ”のように描いてみせたが、ある意味、それと対極にあるのが本作『リアル・ペイン』だとも言えるだろう。
そんな本作で特に目を惹いたポイントは3つ。
1つめは、カルキンとアイゼンバーグの演技だ。作品を成り立たせている大半は、ふたりの絶妙な掛け合いに依ると言ってもよい。
素直で表裏のないストレートな感情表現を大切にするベンジー。だがその裏返しとして、周囲の空気が読めず、こみ上げる思いをすぐ言動に出してしまう。どうやら社会からもハミ出しているらしい。そんな、軽度の多動性障害・双極性障害のフシもうかがえる難しい役どころを、キーラン・カルキンは好演している。
対するデヴィッドの方は、自らの感情と向き合うのが苦手で、自分を抑え込むことが染みついている。ここでジェシー・アイゼンバーグの“受けの演技”がまた実にいい。そんな彼が唯一、いとこに抱く複雑な想いを感情も露わに吐露する夕食のシーンは、涙があふれて止まらなかった。
2つめとして、見事な映像美が挙げられる。ショパンの調べにのせて切り取られるポーランド・ルブリン旧市街の様子は、いわば“旅行者の観光目線”を意識しつつも、決して通俗に堕することがない。古くから残る建築はもちろん、戦後建てられたであろう建物にも明るさと美しさが宿り、日々の息づかいが感じとれる。撮影監督は、スコリモフスキ監督作『EO イーオー』なども手がけ注目を集めるポーランド出身の俊英ミハウ・ディメク。だからこそのアプローチなのか、とナットク。
3つめは、アイゼンバーグ自身による脚本の妙を挙げたい。ふたりの凸凹コンビ珍道中を、派手な見せ場こそないが巧みな構成とセリフで引っ張り、まったく飽きさせない。早口で速射砲のように交わされる会話のリズム感が心地よい。事実統計に絞った話を淡々と喋り続ける「ホロコースト・ツアー」のツアコンを、ふたりとは対照的に配しているのも良い。さらにハッパ、足の指、小石、平手打ち(!)など、ささやかな仕掛けも物語の中で巧く効いている。
ところで、本作の原題 “A Real Pain”は、日本語にすると「すごく面倒くさい」「ほとほと困った」「本当に厄介」といったところか。一見、ベンジーのことを指したタイトルのように思えるが、あるいは、互いの気持ちをうまく共有し合えない主人公ふたりの関係性を象徴しているのではないか。
おばあちゃん子だったベンジー。そのおばあちゃんの足指のカタチを受け継いだデヴィッド。今後も彼女は二人の中で生き続ける。いやもっと言えば、ベンジーとデヴィッドの存在だって互いに相手の人生の中で生き続けているんだ。
ロビーに佇むベンジーはこの先、過去にしがみつくだけではなく、いとこの愛情も感じながら世知辛い現実をなんとか歩んでいけるだろうか。もどかしさとともに、そんな愛しさも抱かせるラストショットだった。
以上、「サーチライトプレミア試写会 —シネマラウンジー vol.1」にて鑑賞。
劇場で再見するつもり。