「美談のフォーマットに安住した、惜しい“実話の再構成”」てっぺんの向こうにあなたがいる こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
美談のフォーマットに安住した、惜しい“実話の再構成”
阪本順治監督と吉永小百合の再タッグという時点で、ある程度の品格と安定感は約束されていた。問題は、その“上品さ”がこの題材──女性として初めてエベレストに登頂した田部井淳子さんをモデルにした物語の持つ荒々しい実像を覆い隠してしまったことにある。本作は、実話をベースにしながらも主人公の名を「多部純子」と微妙に変え、脚色を施した「実話風フィクション」として成立している。だが、その“曖昧な立ち位置”こそが作品の強みでもあり、最大の弱点でもある。
まず本作は、登山映画というより“人生訓映画”として設計されている。頂上をめざす過程における技術や危険性はほとんど描かれず、焦点は「どう生きるか」「何を大切にするか」という普遍的な問いに置かれる。ここまでは理解できるが、問題はその問いを支える“現実の重さ”が、脚色によって軽くなってしまっている点だ。女性が山岳界で生きるということは、単に勇気や努力で乗り越えられるものではない。資金・差別・家族の犠牲という構造的な壁がある。それを曖昧なまま「心の強さ」の物語に変換してしまった時点で、現実の田部井淳子が闘った“時代”は消えてしまった。
加えて、家族の物語も浅い。夫や長女・長男の葛藤は多少のドラマはあれど、“理解ある家族”というテンプレートで処理され、彼らが背負った孤独や社会的摩擦はほとんど描かれない。つまり、主人公の栄光を引き立てるための背景装置に留まってしまっているのだ。観客が求めるのは「彼女が登った山」だけでなく、「家族が登った別の山」でもある。そこが描けていれば、物語はもっと立体的になったはずだ。
ただし、阪本監督の意図は理解できる。彼は“事実”よりも“意味”を撮る監督だ。山頂の向こうにあるもの──それは達成ではなく、孤独と静寂である。多部純子という仮名を用いたのも、実在の人物を守りながら「象徴的人間像」に昇華させるためだろう。つまりこれは、田部井淳子の伝記ではなく、“彼女の魂が宿る誰か”の物語なのだ。その詩的アプローチをどう評価するかで、この映画の印象は大きく変わる。
結局のところ、この作品は「実話をどう語るか」という永遠の課題に正面から挑んだ意欲作である。だが、挑んだ結果として“曖昧なフィクション”に留まった。観客は実話としての感動を期待し、映画は寓話としての普遍性を目指す。その乖離のまま終幕を迎える。もしこの作品が「頂上を超えてもなお登り続ける者の孤独」を描く詩として受け止められるなら、静かな余韻が残る。だが“実話の映画化”として観るなら、何かを語り残したまま終わった印象は拭えない。
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