「「崩落事故でカンナは亡くなっている」もう一つのストーリー」ファーストキス 1ST KISS 5witsさんの映画レビュー(感想・評価)
「崩落事故でカンナは亡くなっている」もう一つのストーリー
タイムリープの設定が腑に落ちなくて2度鑑賞し、2度目の鑑賞で標題の「崩落事故の段階で、カンナは死んでる」説に立ったもう一つのストーリーを考えるようになりました。「これが正解」というつもりはなくて、作中で「ミルフィーユのように時間が成立」しているように、この映画自体も複数のストーリーを許容する重層的な作りを意図して作られているのではないかと想像しています。
「なぜそう思うか」を、つらつらと書いていきます。
まず、三宅坂JCTで崩落事故に遭遇したカンナの車はコントロールを失い、横滑りしています。迫りくる障害物に恐怖するカンナの顔が映された後、衝撃音とともに暗転。そこで過去にタイムリープします。どうみても無傷ではすまない状況ですが、トンネルを抜けたカンナは無事。車も傷一つない。アナザーストーリーを想像するきっかけは、このシーンの不自然な演出。(もしかしてカンナはここで死んでる…?)と思い始めたことが理由です。
では、トンネル事故後に展開されるストーリーは何かというと「カンナが死の間際に見る予知夢」なのではないでしょうか。自分が生きていたら体験したかもしれない「希望的な未来」を、事故に巻き込まれたカンナが臨終間際に走馬灯のように見た。この解釈に立つと、いろいろ言われている時空の設定上の矛盾も、タイムリープも「夢」ということで説明がつきます。
この「死の間際に見る予知夢」のプロットは、古くはアンブローズ・ビアスの短編小説「アウルクリーク橋の出来事」で描かれています。これは絞首刑に処される男が主人公の話。男は処刑のために首に縄を結ばれ、橋の上に立たされています。いざ処刑が執行され橋から落とされるのですが、運よく縄が切れて助かります。上から射撃されたりしながらも、命からがら川を泳ぎ切り家へたどり着きます。そこで妻がやさしく手を広げて自分を迎えるのが目に入る。「なんて幸せな人生なんだ」と実感したその瞬間、男は首に強い衝撃を感じて絶命するというストーリーです。本当は縄は切れておらず、橋から落ちて縊死するまでのわずかの時間に、もしかしたら起こりえるかもしれない未来を、まるで本当に起こったことのように幻想して死ぬ男の不思議な物語です。ネタバレになりますが、映画「ジェイコブス・ラダー」や「ルル・オン・ザ・ブリッジ」でもこのプロットは使われています。
このプロットをうかがわせる要素がいくつか本作に散りばめてあります。
例えば、駈の研究テーマであるハルキゲニアのラテン語の意味は「夢想」です。上下左右が逆転するこの生物の学術的な発見エピソードは、「夫婦生活は視点を変えることで不幸を幸せに変えることができる」といった含蓄のようにも思えますが、他にも様々な解釈が成り立ちいまいちピンときません。ここは「カンナの予知夢」を暗喩する存在としてのハルキゲニアだったのではないでしょうか。
同じような暗喩がもう一つ。主人公の名前は「栞奈」や「環奈」ではなくカタカナのカンナです。カタカナで書くカンナは南米原産の花の名前でもあります。この花の花言葉は「妄想」。さらに赤いカンナは「堅実な最期」です。臨終の際に駈との堅実で幸せな生活が実現した様子を夢に見て、安らかに眠りにつく。そんなストーリーを演じる主人公だからカンナという名前なのかもしれません。
カンナが駈とかき氷屋に並んでる場面で、駈は地球の歴史と比較して「人の一生なんてチュンという間に終わってしまう」と語ります。このセリフは、映画冒頭の電車事故のシーンでも駈のモノローグとして流れます。まるで「これから描かれるストーリーは、カンナが死の間際に見るチュンという間のできこと」と暗示しているように感じます。
もう一つ、カンナが過去に戻った際に「森林からカンナを見ている鹿」が何度か登場します。鹿はシシ神と呼ばれ、生命与奪の力をもつといわれています。死の間際にいるカンナを見守る存在として、鹿を登場させているのではないでしょうか。
要所要所で登場するチェキで撮影する2人の子供の存在も謎めいていて、まるで冥府からの使いのようにも思えます。
他にもあるかもしれませんが、これらの要素からだけでもこの映画が「カンナが臨終間際に見ている夢」である解釈を許容できそうな気がします。
最後に、このプロットのみで成立する一つの幸せな結末について書いてみます。
多くの方が指摘しているように本作は時間軸の設定があいまいです。(だから予知夢のプロットが成立する隙があります)前半で不幸な結婚生活の描写があり、終わりに幸せな結婚生活が存在するような演出から、複数の時空が存在するマルチバース(多元的宇宙)のようでもあります。また、作中でカンナの同僚の森七菜が「過去も未来もミルフィーユのように存在している」とブロック宇宙論らしき解説をしてくれます。このように複数の宇宙理論が登場するため観客を混乱させますが、トウモロコシや非常ベルのエピソードが描いている通り、過去に干渉すると未来が変わる同一時間軸上のユニバース(一元的宇宙)が一番しっくりきます。
では、ユニバースだった場合どうなるか?映画の最後に描かれる「幸せな結婚生活を送った硯夫妻の世界」では、私たちが感情移入していた、何度もタイムリープして駈を救おうとするカンナは存在しません。駈が亡くなった後、未亡人として生きるカンナの人生が続きます。離婚するほどの関係であっても、自分を残して死んだ駈を恨んで(想って)いたカンナです。まして、幸せな生活を送ったカンナが駈を失った喪失感に耐えられるでしょうか?映画で描かれた後の時間は、カンナにとってとても悲しいものになりそうです。
マルチバースでは、過去を変えても、そこから分岐した別世界の未来が作られるため、元のカンナがいる世界は変わりません。トウモロコシや非常ベルのエピソードが成立しないので、理論的な説明ができず、無理くり結果を想像してみると、最後のタイムリープの延長線にある未来は、上に書いたユニバースと同じ結果になります。一方で、最後のタイムリープで自分の素性を明かして若い駈との幸福な時間を過ごしたカンナは、元の世界へ戻ります。元の世界では、遺影の駈は難しい顔をしているし、離婚届を書いた事実はそのまま。餃子も焦げています。タイムリープで若い駈と過ごした思い出が生きていく励みになるかもしれませんが、経験していない幸せな結婚生活を実感することはありません。
タイムリープするカンナが幸せを実感できるとしたら、不幸な結婚生活の後に過去へ戻り、若い頃の駈に影響を及ぼし、その先の未来で幸せな結婚生活が実現するという一連の流れを「映画の観客のように見届ける」ことでしか達成できません。
「夢」の話にもどります。このプロットを採用すると、本作はメタ構造になります。本作の主要パートである三宅坂の事故後のストーリーはすべてカンナの夢。私たちは夢を見ているカンナを鑑賞していることになります。この視点の構造的な変化は、カンナは「私たちが鑑賞している映画」と同じ情景を「夢」として見ていることを意味します。まるで映画の観客のように一連のストーリーを見届けているわけです。そして私が(おそらく多くの方が)本作を見て感じたように、満ち足りた感情を持って幸せのまま天に召されるわけです。
予知夢落ちのストーリーでは、最後に主人公がすでに死んでいる情景を見せて落ちを明かしますが、この映画ではそれがありません。そう描くことでストーリーが固定化してしまい、重層的な解釈をする楽しみがなくなることを懸念して、このラストになっているのだとしたら、まさに今、私はその楽しみをしみじみと味わっています。いい映画でした。