「駈(松村北斗)を殺すな!!!」ファーストキス 1ST KISS オニオンスープさんの映画レビュー(感想・評価)
駈(松村北斗)を殺すな!!!
私は主人公もしくはその近しい人が物語序盤または中盤に死期が明確に宣告され、終盤にその人の死を以て完結するという、いわゆる「余命もの」が大っっ嫌いである。
その理由は主に2つ
1つは物語として安易である事。
死は無慈悲で容赦がない。恋人、家族、友人が亡くなれば、深い悲しみを抱える。それは至極当たり前。
死は観客の感情に直接訴えかけやすく、映画内に於ける演出の工夫や人物描写の積み重ねが不十分でも「命の尊さ」「別れの悲しみ」と言った、人が持つ普遍的な感情につけ込み帰結させ、一定程度の悲しみや感動を担保させてしまう。結果として「泣かせよう」という制作側の意図が過剰に押し出され、非常に作為的に感じてしまう。そうした「死=感動」という簡単な図式を立て、死を表面的な感動として回収してしまう事への反発や違和感を覚えてしまう。
また、脚本家や映画監督に限らず、広く表現を生業とする者にとって、自らの作品を通じて鑑賞者に何らかの問いを投げかけ、心を揺れ動かすことこそが、その本分ではないのか。それを死という究極的な出来事を用いながら、受け手にただ「尊い」「悲しい」といった極めて通俗的で予測可能な感情のみを抱かせて終わらせてしまう事に創作者としての責任や覚悟が果たしてあるのかという疑問も生まれてしまう。
2つめは、死が目的化されている事。
アクション映画で殺される敵役、推理映画で殺される被害者といった死と「余命もの」で扱われる死とでは意味合いが大きく異なる。
前者は物語を動かす契機や背景として、謂わば映画の単なる要素として存在し「死」そのものが主題ではない。
一方後者は「死」そのものが物語の終着点、すなわち目的として設定される。映画内の人物は死に向けた物語の進行を余儀なくされ、その死を以て作品が完結する構造がみられる。この場合の予定調和的に組まれた死は、死の持つ不可逆性、理不尽さ、無慈悲さといったものが切り捨てられ「感動出来る結末」として物語を完成させる役割を担わされ、感動を誘発させる為だけの道具として扱われてしまう。
結果として、「余命もの」は死が本来有するはずの尊厳を大きく傷つけ、死が「死にゆく役割」として矮小化されてしまう。
以上から私が「余命もの」を忌み嫌う理由である。
前置きが長くなってしまったが、本作は例に漏れず、この「余命もの」という枠組みに入る。
ただ、私が3.5という高評価(個人的な評価軸に基づいて3.5は秀作の部類である)を下したのは、本作が「余命もの」に分類される作品ではあるものの、そこに「タイムトラベル」(タイムトラベルの際の様々な設定の粗さについて今回は目を瞑る)という要素を巧みに織り交ぜ、「関係の修復」という新たな視点を打ち出している事に特色が見られたからである。さらに、物語後半において主人公カンナと駈の立場が逆転する構成も、鑑賞者に新鮮な印象を与える要因となっている。
劇中、カンナは駈の死を回避すべく奔走し、併せて2人の関係を修復するためにも奮闘する。その過程で、ある一言の言葉を聞くためだけに幾度となくタイムスリップを繰り返す様子が描かれるが、そうしたドラマ展開に時折コミカルな表現を差し挟む脚本構成や、節々に輝きを放つセリフの数々は秀逸である。
そして、物語前半ではカンナが過去に遡ることで駈と未来について語り、駈自身が自らの行く末を受け入れ、残された15年をいかに生きるかを模索する様が描かれる。その過程で、未来を知らぬ過去のカンナと改めて出会い、今度は駈がカンナとの日々に思いを馳せながら、前向きに人生を歩もうとする姿勢を見せる。この両者の優位性という立場の転換が、個人的には新鮮で興味深く感じられた。
また、同種の作品が若年層を主要な対象として制作されることが多い中、本作は冷え切った夫婦関係に焦点を当て、その再生過程を描いている点において異彩を放ち、むしろ、本作の想定する視聴層は、長年連れ添ったパートナーを持つ中高年層であったというギャップ、その点においても他作品との明確な差別化が図られている。
ただやはり私にとって厄介であったのは、幕引きである。
本作においては、過去に介入することで未来が変化し得ることが明示されている。たとえば、とうもろこしが皮ごと茹でられた写真に変わっていたり、事故が発生する前に訪れる店がコロッケ屋からドーナツ屋へと替わっている描写が、その例である。したがって、駈が死亡するという未来もまた、変更可能であったはずである。
確かに、「死は定められた運命であり、変えられない」という反論も考え得る。しかし、その論拠に準じた場合、作中で描かれたある場面において矛盾が生じてしまう。それは、駈が非常停止ボタンを押した未来において、電車が脱線事故を起こし、駈を含む(確か)62名が犠牲となった場面である。当初、駈ただ一人が命を落とすはずであった場面が、彼が非常停止ボタンを押した結果として、他の61名も死亡する未来へと変容してしまったのである。この場面から「死が定められた運命である」とする仮定から齟齬が生まれる。
以上の点から考察するに、本作における「死」は、絶対不変の運命ではなく、過去の出来事からの連なりとして形作られる未来の一部であると推測できる。
では、なぜ駈はどのような未来においても最終的に命を落とす結末を迎えてしまったのか。それは、本レビュー冒頭で述べたように、駈が「余命もの」というジャンルに則った作品構造を成立させるため、物語の演出上、死を免れ得ぬ存在として、いわば物語によって殺されたのである。私は駈の死を安易的かつ目的として扱うことがやはり許せないのである。
もちろん、これらは大衆娯楽において「死」を題材にし、取り扱うこと自体を否定するものではない。私が強く指摘したいのは「人の生き死にを物語の主題に据えておいて、それを軽薄な道具として扱うべきではない」という事である。そして、そのような願いを込めて、本レビューのタイトルを決めた。
ただ、留意すべき点は、物語の発端と結末に関して、あくまで個人的な好みに合致しなかったに過ぎず、本作そのものを低評価する意図はないということである。
むしろ、先述の通り、本作は「余命もの」というジャンルにありがちな、表層的かつ凡庸な作品に陥るところを、「タイムトラベル」という要素の導入や視点の工夫によって新たな価値を見出し、物語としての面白さを確立している点に特筆すべきものがある。
さらに、物語中盤における脚本構成と、出演者らによる説得力ある確かな演技と魅力あるセリフの数々によって作品を力強く下支えしており、総じて良質な作品に仕上がっていることは間違いない。
追伸、題名の意味が十分に汲み取れなかった。
個人的には「靴下」「餃子」「トースト」などでも良かったのではないかと邪推だと承知の上で考えてしまった。
追伸、パンフレットが非常に素敵でセンス抜群です。ぜひ買うことをおすすめします!