「「花」ならぬこれも有村架純の華(はな)が味わえる一本」花まんま talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
「花」ならぬこれも有村架純の華(はな)が味わえる一本
偶然の出来事を介して別々の人間の記憶が交錯する―というのは、これまでに『ラストレター』や『ラブレター』などのミラクル系(?)の作品を多くものしてきた岩井俊二監督ばりの「ミラクルワールド」なのですけれども。
しかし、映画作品としては、素直に「あり」の一本だったのではないかと、評論子は思います。
自分が自分であることは分かっているが、しかし、自分が別の自分であることも、また否定しがたい素直な感情。
そして、良き人を得て人生の岐路を迎えたフミ子にしてみれば、自分が「自分」と同時に「別の自分」でもあることの、いわば二様性(人格の多重性?)に、結婚を契機として、踏ん切りをつけようとしていたということなのでしょう。
意識はしていなくても、彼女としては。
その心情に思いが至ると、本当に胸が痛くなるような感慨を覚えますし、最後の最後には妹を理解する兄・俊樹の(妹・フミ子の幸せを願う)温かな心根にも、深い深い兄弟愛を感じます。
世上では別作品『花束みたいな恋をした』が、有村架純には出色の作品とされていますが、なかなか、どうして。
本作も、彼女の演技の「華」が味わえる、充分な佳作だったと、評論子は思います。
(追記)
結婚を機に、フミ子はフミ子に戻ろうとしていたと思われることは上述のとおりですけれども。
その反面では、フミ子の内なる喜代美も、フミ子をフミ子に戻してあげよう(もう自らの呪縛から解放してあげよう)としていたのだと、評論子は思いました。
フミ子の人生の一区切りである結婚(結婚披露宴と、おそらくはそれに先行していたであろう結婚式そのもの)を契機として、繁田家の記憶がフミ子から消えたのは、その証(あかし)だったと、評論子は理解します。
観終わって、そんな気がして、評論子はなりません。
(追記)
そして、繁田家のお父さんも、素敵ですね。
不意にフミ子から「どちらからいらっしゃいましたか。」と声をかけられて、彼女から喜代美の記憶が抜けたことに気がついて、ほんの一瞬は戸惑いの表情を見せるものの、すぐに実の娘を嫁がせるかのような父親の表情を繕(つく)える―。
こんなナイスなお父さんは、そうザラには、いないかも知れません。
(追記)
花まんま―。
それは、おままごとの食事であって、もちろん食べることのできないものなのですけれども。
しかし、相手(の空腹)を満たしてあげたいという贈り主の温かな心根がいっぱいに詰まった贈り物でもあることは、疑いのないことです。
本作のタイトルとして、これ以上に相応しいものは、ちょっと他にはなかったようにも、評論子には思われます。
talkieさん、お邪魔します。・_・
フミ子の中に長いこと同居していたのは
喜代美の記憶 なのか
喜代美の意識 なのか
考え続けているのですが、結論が出ずに考え続けていました。
ガイコツのように痩せてしまった「繁田仁」の姿を見て
「花まんま」を作って届けたのは幼いフミ子でした。
フミ子が、「喜代美の記憶」にある
「花まんま」「父にあげた」「喜んだ」
といった記憶を読みとって
フミ子が考えついての行動だったのか それとも
「喜代美の意識」がフミ子にとらせた行動だったのか…
フミ子の自主的な判断と行動だとすると、とても5歳の
幼児のなせる業とは思えない気がします。
やはり、喜代美の意識がフミ子を誘ったのでしょうか。
うーん。…あ。
” 頭の中で、もう一人の自分の声がする ”
もしかしてこんな感じで、
フミ子の中に喜代美の意識が同居していたのなら、
決して悪くはない穏やかな関係性だったのかも。
喜代美にとっては、妹を見守るような感じ。
末っ子の喜代美には妹はいなかった訳なので、妹分が
できたような感覚だったのかも。
色々と、想像して楽しむことのできる作品です。 ・_・
共感ありがとうございます。
喜代美さんがバスを置いて向こうへ行ってしまったので、フミ子の過去の記憶は完全に消えた・・でなくてもレビューに書かれた様にフミ子だけで生きようと決意した、どちらでも仲々深い幕切れだと思いました。引出物の花まんまも、薄れゆく記憶を振り絞って作った・・でない方がじんわり来ますね。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。