「娘を愛する殺人鬼の姿と、娘を盲愛するシャマラン監督の姿がオーバーラップする……(笑)。」トラップ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
娘を愛する殺人鬼の姿と、娘を盲愛するシャマラン監督の姿がオーバーラップする……(笑)。
調子にのって保存もかけずに書いていたら、突然どこのキーにも触ったつもりないのにメルセデス・ベンツの広告がやおら立ち上がって、二度と元の原稿画面に戻れず、書いていた原稿が全部パーになりました(泣)。なんだよ、このクソ仕様。
前から何度も何度もこの現象の被害にはあっていたので、気を付けてときどき保存はかけるようにしてたつもりだったんだが、久しぶりにしてやられた。
ぜ、ぜ、絶対にメルセデス・ベンツだけは買わねーんだからな!!!
お、お、覚えとけよ(そもそも免許をもってないんですがww)
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まあ、映画はふつうに面白かったけどね。
でもなんか、すごくないすか?
実の娘を映画デビューさせて、
それがアリアナ・グランデみたいな、
世界的な歌姫の役とか(笑)。
やるかな、ふつう、そんなこと?
『ノック 終末の訪問者』では、実の娘に第二班の監督をやらせて、
『ザ・ウォッチャーズ』では、その娘に初監督をやらせて(自分は製作)、
『トラップ』では、別の娘に音楽制作の全権と準主役をあてがう。
どんだけあんた娘、好きやねん!!(笑)
しかも、やり口が臆面もへったくれもない……。
なんていうか、いちばん怖いのは
殺人鬼が見せる実娘への慈愛以上に、
監督が見せる実娘へのなりふりかまわぬ愛だったりして(笑)。
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ここ数作、シャマランは、何よりもまず「家族の絆」に重きを置いた映画を撮り続けている。
「家族を大事にする」ことを、無上の価値として描き上げた作品。
それをある種の口実にして、家族への身びいきを推し進めているとでもいうべきか?
彼は自分の娘たちを自作にスタッフや演者として引っ張り込み、全力でサポートし、親として最大限の「飛翔するためのチャンスメイク」をしてやっている。
なんら、悪びれる様子もなく、嬉々として、むしろ誇らしげにやっている。
単純にお金がないから家族でやっているとか、
こぢんまりつくってるから家内制手工業とか、
断じてそういう話ではない。
そんなにお金がないなら、こんなスタジアムを借り切ったコンサート・シーンとか、最初からできるわけないからだ(ただしパンフによれば、ステージはリアルで撮ったが、観客のほうは300人をCGで30000人に増やしているらしい)。
自分の家を抵当に入れて撮るくらい、創作上の自由度を優先している以上、もはやこれは「ファミリービジネス」であって、自分の好きなようにキャスティングして何が悪いんだ、くらいの割り切りをもってやっている感じがする。
まあアメリカの小説界では、クライブ・カッスラーが息子のダーク・カッスラーと共作して、ダーク・ピットもののシリーズを引き継がせているし、イギリスでもディック・フランシスが奥さんや子供と一緒に執筆して、死後は競馬シリーズを息子のフェリックス・フランシスに引き継がせている。
フランスの映画界では、クロード・ルルーシュという監督がいて、そこまで有名ではない女優の奥さん(新旧ふたり)と、自分の娘を自作に出しまくっている。
職権濫用ではない。これも立派な「家族愛」の発露である。
だから、そう異端視するような動きではないのかもしれない。
にしても、作品のテーマとしての家族愛と自分の家族愛を「セット売り」にして、娘たちを次々と全世界デビューさせるお父さんってのは、まさに「マイホームヒーロー」だよなあ、とは思う。
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映画としては、きわめてシンプルだ。
「凶悪な連続殺人鬼が、家庭では良きパパで、掛け値なしに娘を愛している」
「スタジアムのコンサートに行くことがバレて、このままでは捕まってしまう」
以上の2点で、キャラクターとサスペンスのすべてが構築されている。
やってることは「ハンニバル・レクター」の逃走劇だけど、
表と裏の顔設定としては『トゥルーライズ』みたいな。
素材がシンプルなぶん、観ていてストレスが少ないし、
ピカレスクもの、ダークヒーローものとして、ふつうに楽しめる。
あの手この手でブッチャー(この殺人鬼の通称)が脱出に向けて知略を練るさまには、コンゲーム的な面白さがあるし、パパの顔と殺人鬼の顔を使い分けてバタバタ行ったり来たりするブラック・ユーモアには、「必殺」シリーズの中村主水やかんざし屋の秀みたいなところもあって、なんとなくなじみがある。
女子供には優しくておちゃらけてるけど、非情な凄腕の殺し屋としての一面を隠し持つって意味では、『シティーハンター』っぽい設定でもあるしね。
あと、全体として、アルフレッド・ヒッチコックへのオマージュが強い映画であることはたしかだ。
スタジアムを舞台に展開するサスペンス・スリラーとしては、なんといってもブライアン・デ・パルマの『スネーク・アイズ』(98)がまず想起されるが、あれもヒッチコック・フォロワーによる模倣作で、源流をたどっていくとヒッチコックの『知りすぎていた男』(56)におけるロイヤル・アルバート・ホールでの攻防に行きつく。
あの映画では、息子を見つけるために母親が「ケ・セラ・セラ」を歌ったが、
この映画では、父親が自分の脱出計画のために、あえて娘を舞台で踊らせる!
(そういや、危機的状況から脱出するために、あえて舞台に立ってステージで歌い踊る超有名な映画があったような……とひとしきり頭をひねったが、なんのことはない、『サウンド・オブ・ミュージック』でした(笑)。)
それに、終盤の展開とか、あえて詳細はいわないけど『断崖』(41)とやってることはあまり変わらなかったり。
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総じて面白い映画だったし、作り手もB級エンタメを志向して気楽に作っている作品だし、細かいリアリティの欠如とか、警備やスタッフのお粗末さ加減をいちいち指摘しても感じが悪いだけなので、細部の揚げ足を取るのはやめておく。
ただ、自分の娘をドリーム・ガールに選ばせる展開だけは、ちょっとさすがにどうかと思ったなあ。あそこだけ、リアリティ・レヴェルが低すぎる。
3万人もスタジアムにいて、そのうち1万人はティーンがいて、スタッフだって何百人と稼働している状況下で、偶然近くにドリーム・ガールを指名する役の重役スタッフ(演ずるは出たがりシャマラン監督!)が通りかかって、その人物にブッチャーが接触して、娘の白血病(これも大嘘だろう)の話を相手に伝えた結果として、娘がドリーム・ガールに抜擢される確率って、いったいどれくらいあるんだろうか??
ここだけは、「なんかうまくいった」レヴェルの僥倖ではとてもなさすぎて、ちょっと引いちゃいました。
あと、父娘とステージの関連でいえば、この大規模捜査って、ブッチャーの隠れ家からチケットのレシートの残骸が見つかったことから始まってるんだよね。このチケットを買うときに、ブッチャーは間違いなく、「連番で2枚」チケットを買ってるはずなんだが、そこが捜査陣のあいだでちっとも強調されないのは、かなり違和感があった。それだけでだいぶ捜査対象が絞り込めるはずだと思うんだけど。切れ端だったからわからなかったってこと?
そもそも、「日時」と「場所」は特定できてるのに、「席」も「購入日時」も「金額(=枚数)」もわからない状態でレシートが見つかるのって、どういう状態なんだろう? チケットって偽名では買えないわけで、ちょっとの情報があれば買い手までたどれるはずなんだが。それなのに「日時」しかわからないって、かなり作為的というか、捜査側からするとむしろ「怪しい」証拠にも思えるよね……(笑)。
だいたい、このチケットのレシートが警察の手に渡る経緯が最後に明らかになるんだけど、この通報者って、他にいくらでも密告する手段があるわけ。
なんで、わざわざ3万人の観客を巻き込んで、警察も大量動員しないと検挙できないような「猛烈に回りに迷惑のかかる」さし方をとったのか、個人的にはよくわからない。
だって、これって、自分の●●まで、巻き込まれることが「最初から」わかってるんですよ? そんなこと、人の●としてふつうするかな?
俺はしないと思うなあ。
結局、監督が「スタジアムに閉じ込められる殺人鬼」って設定を作りたいからこうなってるんだけど、うまく「逆算」ができていない脚本ってことなんじゃないかと。
同じ理由で、最終盤でブッチャーが取ろうとするある行動も、個人的には大いに納得がいかない。
だってそんなことしたら、100%最愛の娘がめっちゃ悲しむじゃん。
そこまで娘が好きだっていうのなら、俺はそれだけは絶対やらないと思うけどね。
あとは、中盤以降の警察が本当に間抜けすぎるとか、そんなにふたりとも簡単に●●外せちゃっていいのかとか、運転手を放っておいたら指示とかなくても通報されるだろとか、総じて「出てから」の後半戦は、後ろに行くほどグダグダな感じになってる気がする。いつまで経っても蛇足みたいな付け加えが終わらないあたり、なんかアルジェントの中期作でも観てるみたい(笑)。
って、揚げ足を取らないって最初に言ったのに、嘘つきで文句が多くてすみません。
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文句ついでに、あと一つだけ。
ジョシュ・ハートネットの百面相演技自体は素晴らしかったのだが、あまりに「ブッチャー」のキャラクターが単純化されすぎてるような気がするんだよね。
表の顔は、やさしい家庭人で良きお父さん。
裏の顔は、ジグソウみたいな凶悪な殺人鬼。
はい、お父さんの顔。
はい、殺人鬼の顔。
オン、オフ。
オン、オフ。
なんか、アメコミ映画の変身前/変身後なみに、薄っぺらい。
二つの人生を同時に生きるのって、結構ブッチャーにとっては大変だと思うんだよね。
そこを戯画的なくらいに単純化してしまっているので、殺人鬼としての深みがぜんぜん出てこない。これが、一人二役のコメディとかだったら、それで十分なんだろうけど。
せめて、善と悪のあいだのあわいの部分とか、二重生活の苦労とか、ダブルバインド状態とか、スパイス程度には利かせてあってもいいんじゃないのか?
殺人鬼の顔のまま、娘への愛をむき出しにするとか(ラスト近くでちょっとあるけど)。
お父さんの顔のまま、娘をいじめた同級生にぞっとするような仕返しするとか。
そんなシーンが欲しかったかも。
なんか、あまりにマシンみたいに善悪の両面を切り替えられると、キャラとしての人間味がどんどん希薄になって、ただでさえ全く応援できない「悪」の主人公に、どんどん寄り添えなくなっちゃうんだよね。記号的というか、ゲームキャラっぽいというか。
このへん、キャラクターの人間くさい複雑な内面に踏み込んでいくような、『動物界』の人物描写を観た直後にハシゴしたものだから、よけいにそう感じてしまったのかもしれない。
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とはいえ、先に書いたとおり、ジョシュ・ハートネットはさすがの演技で引き込まれた。
やっぱり、トップ張ってた人ってのは、何をやらせてもうまい。
マイケル・ケインとか、ニック・ノルティとか、玉木宏とか、岡田将生とか、二枚目もできるのに癖の強い悪役をやりたくてやりたくてしょうがない業の深い俳優さんっているけど、彼もそんな感じで、いい演技でした。
娘さん役のアリエル・ドノヒュー(ちょっとテイタム・オニール系の顔立ち)も上手。最近の子役は、『アビゲイル』にしても、『コット、はじまりの夏』にしても、みんな本当に上手な子が多い気がする。素人くささが全然ないっていうか、こなれてるっていうか。
あとは、ウザ絡みしてくるいじめっ子の母親役の人が助演賞っすかね(笑)。
いやあ、怖いわあ、あんなん。
あれに後ろから背中ツンツンされて、「今なんておっしゃいました??」とか言われたら、俺とかマジでちびっちゃいそう……。ドリームガールのくだりの観客席で見せる母子の小芝居は、本作のなかで一番面白いシーンだったかもしれない。
ちなみにレディー・レイヴンのスマホを使った一連の行動って、熊切和嘉監督、中島裕翔主演の『#マンホール』(23)とおんなじネタだったな。今後もあのネタはいろいろと重宝だからあちこちではやりそう。