「個人的には色々気になる点があり、合わない作品でした‥」誰よりもつよく抱きしめて komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
個人的には色々気になる点があり、合わない作品でした‥
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
(レビューが遅くなりました、スミマセン‥)
結論から言うと、今作の映画『誰よりもつよく抱きしめて』は、個人的には色々気になる点があり合わない作品になりました‥本当に申し訳ありません‥
ところで今作には2種類の絵本が出て来ます。
1つ目は、水島良城(三山凌輝さん)が描いている「モジャ」の絵本です。(「空をしらないモジャ」「モジャの冒険」)
2つ目は、桐本月菜(久保史緒里さん)が薦め、イ・ジェホン(ファン・チャンソンさん)の人生を変えたという「まいにちがプレゼント」(いもとようこ さん 作・絵)です。
この「空をしらないモジャ」と「まいにちがプレゼント」の2種類の絵本をそれぞれ読んで、桐本月菜もイ・ジェホンも、2人とも評価、あるいは感銘を受けています。
ところが、「空をしらないモジャ」は変われない(飛ぶことが出来ない)モジャのお話であり、一方で「まいにちがプレゼント」は変わることが出来る(と励ます)お話であると、それぞれ実は扱われている題材で真逆の内容の絵本だと思われるのです。
もちろん、変わることが出来ないことと、変わりたいと願うことは両立するので、(話の根幹が真逆と思える)「空をしらないモジャ」と「まいにちがプレゼント」の、どちらも一般の読者が感銘を受けるのは全然あり得ると思われます。
しかし作者の側や、それを根底から愛する話になると、究極的には両立は困難だと思われるのです。
仮に、水島良城が、強迫性障害での潔癖症から変わることが出来ないと苦しんでいる時に、”変わることが出来る”と訴える「まいにちがプレゼント」を読んで、根底で受け入れる事は不可能だっただろうと思われます。
すると次に、(「空をしらないモジャ」と「まいにちがプレゼント」を同時に評価していた)桐本月菜は、なぜ水島良城を好きになり愛していたのだろうとの疑問が湧いて来ます。
もし、桐本月菜も(水島良城の強迫性障害での潔癖症のように)変われない何かを抱えていたのであれば、水島良城の描いた「空をしらないモジャ」に共感し、共感的に水島良城を愛して行くことになるのは自然だと思われます。
しかしながら、桐本月菜の、変われない何かは映画の中で、明確には描かれないままなのです。
すると、(変わることが出来る(と励ます)お話である「まいにちがプレゼント」をイ・ジェホンに薦めることが出来る)”変わることが出来る”桐本月菜ならば、(ひどい表現をすれば)かわいそうと【同情的に】水島良城を好きになっていたのではないか?との疑念が、この映画では払しょくされないままなのです。
一方で、水島良城の方にも個人的には疑問がありました。
水島良城の描く「空をしらないモジャ」には、自分とは違い羽の生えているヒナを助ける場面があります。
この場面は、自分とは違う存在の他者を認識した上で、それでもちゃんと救う感銘があったと思われます。
ところで、水島良城が、桐本月菜と一緒に食べる為に(といってもそれぞれの鍋での)鍋を用意をする場面があります。
水島良城はこの時、自身の潔癖症から、ネギやゴボウを(私の見間違いでなければ)洗剤を使って何度も洗っています。
そして、(こちらも見間違いでなければ)桐本月菜が食べるネギやゴボウも洗剤を使って何度も洗っていたと見えたのです。
もちろん現在の洗剤は、通常の使用の仕方で直ちに人体に影響を及ぼすほど毒性は高くないのかもしれませんが、食品に洗剤を使うのはやはり問題に思われます。
(というより今作は問題だと観客に思わせるような描写だった)
それを、(強迫性障害での潔癖症でない)桐本月菜が食べる野菜まで洗剤を使うのは、自分とは違う他者への思いやり配慮が希薄化している、絵本のモジャが自分とは違うヒナを他者として尊厳を持って接した姿勢とは真逆で違っていると、残念ながら思われました。
この、水島良城が、自分とは(強迫性障害の点で)違う桐本月菜へ思いやりの希薄さの鈍感さは、自分と同じ強迫性障害での潔癖症の村山千春(穂志もえかさん)を、桐本月菜と暮らしている部屋に桐本月菜に無断で招待するところで頂点に達していたように思われました。
強迫性障害での潔癖症の苦しさと、それとは違う相手への思いやりは(飛べない変われないモジャが、自分とは違うヒナと接したやり方のように)両立可能だったはずです。
一方で、桐本月菜のことを愛していると繰り返し言うイ・ジェホンにも違和感がありました。
映画の最終盤になってようやく、イ・ジェホンが桐本月菜のことを愛している理由が判明するのですが、それが理由ならイ・ジェホンは桐本月菜に対してこの映画のような振る舞いを初めからしますか?との疑問がありました。
つまり、イ・ジェホンの桐本月菜に対する言動は、映画を劇的にするために都合良く描かれていたように不自然に見えたのです。
そして映画の終盤、水島良城が、桐本月菜と別れた後で、強迫性障害での潔癖症で愛する人にも触れられない自分たちは何なんだと、村山千春と互いに涙する場面があります。
しかし、桐本月菜と水島良城とが別れた後、月日が流れて、今は自分を変えることが出来てアフリカでボランティアをしている桐本月菜は、強迫性障害を克服した水島良城と再会し、ついに2人は互いに抱きしめ合うことが出来て映画は終了します。
もちろん、互いに変わることが出来てついに2人が触れ合うことが出来たラストシーンは感動的な面はありました。
しかし一方で、今も変わることが出来ない(かつての水島良城や、村山千春のような)強迫性障害の人に対して、そして羽が元々無いモジャに対して、この作品はどう着地させているのだろうと、残念ながら疑問も思わざるを得ませんでした。
強迫性障害の人達を、変わることが出来ない人達を、”自分たちは何なんだ”と涙をさせるように置いてきぼりにする着地にしてないだろうかと、残念ながらラストシーンを観て思われました。
私は僭越、この映画は、(病気に苦しむ人たちの孤独を描いているのではなく)それぞれの孤独を描くために病気を利用してはしまいか?との、疑義を感じてしまいました。
その点でこの映画は誠実だっただろうかと、僭越疑問に思われました。
よって、個人的には今作に対して評価が低くならざるを得ないと僭越、今回の点数となりました。
ただ、それぞれの俳優の皆さんの演技は、観るべき点も多いと思われ、特に桐本月菜を演じた久保史緒里さんの憂いに満ちた表情の演技は心に響く素晴らしさがあったと思われました。