「「弾を込める」か、「想いを込める」か。火薬の二面性と再生の物語」火の華 マルホランドさんの映画レビュー(感想・評価)
「弾を込める」か、「想いを込める」か。火薬の二面性と再生の物語
この映画の白眉は、主人公・島田が行う「込める」という動作の対比にある。
島田は戦場で、銃のマガジンに弾を込めた。それは他者の命を奪うための行為であり、結果として親友を失い、少年兵を手に掛けるという消えない傷を残した。
一方で、帰国後の彼は花火工場で、花火の玉の中に火薬玉を込める。こちらは夜空を彩り、人を楽しませ、平和への祈りを捧げるための行為だ。
同じ「火薬」を扱い、同じ「込める」という動作でありながら、その目的は「死」と「生(祈り)」という対極にある。
島田が昼間は花火師として光を作る作業に従事し、夜は闇の武器ビジネスで銃器製造に関わっている描写は、彼の中でまだ整理しきれていない「過去(戦争)」と「現在(平和)」の分裂、あるいは人間が抱える二面性そのものを表しているように感じた。
2. 内向する島田と、外向する隊長
共に地獄を見た元自衛官でありながら、島田と隊長は対照的な道を歩む。
隊長は、国による事件の隠蔽と欺瞞に怒り狂い、そのエネルギーを外側=社会への攻撃へと向けた。彼の「オッドアイ(左右で色の違う瞳)」は、片方が正常で片方が白濁しており、彼の中にある正気と狂気、あるいは理想と現実の乖離を象徴しているようだ。
対して島田は、エネルギーが常に内側へ向いている。過去に何があったかを語らず、ただぐっと堪え、その内向的な情動を「花火」という芸術へと昇華させようともがく。
決起した隊長は最期、子供を人質に取るが、決して撃たなかった(あの銃撃は空砲だったと思う)。彼の中にも「国民を守る」という自衛官としての志は、完全には死んでいなかったのだと思いたい。しかし、攻撃的な火を選んだ彼は、結局破滅するしかなかった。
3. 「火」は誰のために灯されるか
人類に文明をもたらしたプロメテウスの火は、暖を取り調理をする「生の象徴」であると同時に、全てを焼き尽くす「兵器」にもなり得る。
自衛官たちの決起の果てに残ったのは、死体が転がる虚無の光景だけだった。「何も残らない」というセリフが頭の中に重く響く。
しかし、その凄惨な現場のすぐそばにある洞窟で、島田が見せた「火」の使い方は違った。
真っ暗な闇に包まれた洞窟の中、島田はマッチに火を灯す。
その小さな灯りは、何かを焼くためではなく、奥に隠れていた子供(未来・希望)を見つけ出すための道しるべとなった。
銃口から出る火は命を散らすが、島田の手の中にある火は命を救った。この洞窟のシーンは、彼が過去の呪縛から解き放たれ、未来へと踏み出すための通過儀礼だったのかもしれない。
4. 鎮魂の空へ
花火には本来、鎮魂や供養、悪疫退散といった意味が込められているという。
PTSDに苦しみ、花火大会の現場から逃げ出した島田を、工場の仲間たちは責めることなく「おかえり」と迎え入れた。技術の継承だけでなく、そこには「人を想う心」の継承があった。
物語は、島田が新潟で元気になって終わり、ではない。
彼は再び海を渡り、かつて心を壊したアフリカの地へ向かう。そこで現地の子供たちに、武器ではなく日本の「線香花火」の作り方を教えるのだ。
打ち上げのとき、島田の背後で、銃声を思わせる破裂音が響く。
振り返った島田が見たのは、亡くなったはずの仲間たちと少年兵が、静かに背中を向けて去っていく姿だった。その後で、彼が打ち上げた花火を、子供たちが笑顔で見上げる。
彼らは島田を責めなかった。あの瞬間、島田は本当の意味で過去と決別できた瞬間だったと思う。
そして、映画のラスト付近。スクリーンいっぱいに映し出されるラストの花火。
あれはフィクションの映像ではなく、実際の「長岡花火」の映像だと思う。空襲の慰霊と、震災からの復興を願って打ち上げられる本物の祈りの火。
映画のなかで島田は、自分が作った花火を打ち上げる描写がある。その花火の名前は「夏椿」。
それは島田が背負った亡き親友や少年兵への供養であり、彼自身がこれから生きていくための「希望の光」そのものだったように思う。
「火」は使い方一つで、人を殺すことも、救うこともできる。
花火師になれなかった昭子が自分の夢を島田に託すように、法被(はっぴ)に袖を通すことが「夢」や「想い」の継承であるように、この映画もまた、観る者に「平和への想い」を託してくれる。
傷ついた魂が、鎮魂の夜空でようやく報われる。静かだが、熱い傑作だった。
