アイム・スティル・ヒアのレビュー・感想・評価
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夫を、父を国家的暴力に奪われた家族の記憶を語り継ぐ志が、右傾化する世界へのカウンターになる
のちにブラジルを代表する映画監督になるウォルター・サレスが十代半ばで、「アイム・スティル・ヒア」で描かれるパイヴァ一家と出会い、知識人らが出入りし政治や音楽について自由に語り合うパイヴァ家をたびたび訪れていたという。子供たち5人のうち唯一の男児であるマルセロが後年作家となり、認知症の進行が始まった老母エウニセの記憶を語り継ぐため著した回想録を出版。これに基づきサレス監督が映画化したのが本作だ。監督によると原作自体がエウニセの視点で書かれたといい、映画もおおむね彼女の視点に立つが、息子マルセロの視点も控えめながら混じっていることを意識して鑑賞すると、見える景色が少し変わるはず。
パイヴァ家の大黒柱だった元議員ルーベンスが軍事政権下で不当に連行され行方不明に。絶対に夫を取り戻すというエウニセの不屈の精神と、怒りや不安や悲しみを内に秘めつつ子供らを守り育てる強い母親としての生きざまを体現した、フェルナンダ・トーレスの抑制された熱演が映画を牽引する。この事件を取材しに来た記者とカメラマンから記事に載せる写真を撮影する前に「もっと悲しそうに」と指示されるが、にこやかに拒否し、子供たちに「笑って!」と呼びかける気丈さが胸を打つ。
息子のマルセロは、劇中では成人後に車椅子を使っている姿で描かれるが、20歳の時に湖に飛び込んだ際に脊椎を骨折し、後遺症で下半身不随になった。ラストの家族の集合写真を撮るシーンで、認知症が進んだ老エウニセ(フェルナンダ・トーレスの実母で、サレス監督の代表作「セントラル・ステーション」で主演したフェルナンダ・モンテネグロが演じる)と、マルセロが2人とも車椅子に座った相似形で並ぶ。車椅子使いになった理由は異なるが、図らずも母子で似た姿になったことが、ちょっと哀しくて切ない。
エンドクレジット前の文で、政府がルーベンス殺害を認め、2014年に軍人5人が起訴されたが、いまだに逮捕も処罰もされていないと説明する。サレス監督はインタビューで、極右が台頭している昨今だからこそ、軍政期の国家的暴力を語り継ぎ、同じ過ちを繰り返さないようにする作品の必要性が増しているという趣旨の発言をしている。それはブラジルに限った話ではないし、右傾化する今の世界だからこそ、「アイム・スティル・ヒア」のような映画がカウンター、対抗手段として有効なのだと信じたい。
サレスならではの筆致で描く、人生の歩みを止めない物語
サレスの監督作はいつもゆったりと観客を招き入れ、おおらかに包み込む。代表作の幾つかはロードムービーとして知られるが、しかしそうでなくとも、例えば「ダーク・ウォーター」という一つの場所を舞台にした作品でさえ、そこに至るまでの母娘の長い彷徨を感じさせる。いわばサレス作品は動こうと動くまいと、心と場所の距離移動を大切に謳った物語と言えるのだろう。その点、久々の今作では、独裁政権下で夫を強制連行された妻と子供らの数十年の歳月が織り成される。リオ育ちのサレスは幼少期に彼ら一家と親交があったそうで、まさにこの物語は彼にしか具現化し得なかったものだ。当時の緊張と恐怖、悲しみや怒りに押し潰されることなく、ヒロインは意志と気高さを持って人生を歩む。その生き様は確実に子供たちへと受け継がれている。この母娘、継承というテーマは配役からも窺え、私は久々に「セントラル・ステーション」の懐かしさを思い切り噛み締めた。
家族の平穏を無惨にも奪われた専業主婦が変容していく
革命家、チェ・ゲバラの青春時代にフォーカスした『モーターサイクル・ダイアリーズ』((04年)や、1950年代のビート・ジェネレーションを代表する作家、ジャック・ケルアックの自伝的小説を映画化した『オン・ザ・ロード』('12年)等で、ロードムービーの達人と言われてきたウォルサー・サレス監督。ブラジルに生まれ、外交官の父と共にフランスとアメリカを行き来して育った彼が、ロードムービー、つまり旅する映画にシンパシーを感じるのは必然なのかもしれない。
同時に、15歳でブラジルに帰国したサレスが離れて暮らしていた母国をテーマに映画を作るのも、また、必然。離れていたからこそ見えてくる真実や独特の距離感が、作品に深みと客観性をもたらすこともあるからだ。『モーターサイクル~』はその2つの要素が合体した傑作だと思うし、本作『アイム・スティル・ヒア』は軍事独裁政権下のブラジルに生きた実在の家族に密着して、平和なコミュニティが少しずつ破壊されていくプロセスを計算し尽くされた演出で見せていく。冒頭で描かれる家族の風景が平穏であればあるほど、その後にやって来る暴力の足音が覚悟はしていても、身に沁みて恐ろしいからだ。
元下院議員だった夫が政権に批判的だったことから、ある日突然、軍によって連行される。本作は、残された妻が平凡なハウスワイフから闘う女性へと否応なしに変容していく姿を通して、国家的弾圧にも負けない個人の強さを描いている。妻とは、母とはいかに強靭であるかというパワフルなメッセージだ。
サレスが最後に仕掛けた過去作との見事なリンクに思わず膝を叩く映画ファンがいるに違いない。筆者もその鮮やかさ、旨さにニヤッとしてしまった。
ブラジル-アメリカ- そして日本
久々に見応えのある作品に遭遇
すっかりキネマ旬報シアターはホームグランドになってしまいましたね。シャンテまで行こうと思っていたのが行けずしまいで・キネマ旬報シアターでかかったのでいさんで行きました、文春のシネマチャートでも割合好評価だったし、見ても大丈夫かなと思って、
私の映画選定は雑誌のキネマ旬報もですが子供の時からスクリーンの双葉先生が勧めたものを見てました。あとは荻昌弘さんのも淀川先生のもです。情報交換は虎ノ門の映画友の会でした。淀川先生の話も聞けたし、今はfacebookでグループとかでやりとりとかと
キネマ旬報シアターでも映画好きが集まって話したりです
アイムステイルヒアは「ミッシング」の大人版ですね。お父ちゃん帰ってこない、お母ちゃん頑張ると言う実話なのがやるせないですね。丁寧に作っているので好感が持てますね。
繰り返される不条理な世界
ブラジルの裕福な家庭の穏やかな日常がかなり長めに描かれる。どのような国でも豊かなる人々でいられるにはそれ相当の理由があるのだろう。軍事政権であっても夫の元議員の肩書きが効いているのかもしれないし建築技師として有能なのかもしれない。妻と5人の子供は何の疑いもなく、ひたすらに幸せそうである。
そして突然、その幸せそうな穏やか日常は軍政府の横暴で破壊される。夫は軍事クーデターで議員資格を剥奪されたりヨーロッパに亡命したりの過去はあるものの逮捕されるほどの罪は犯しているようには思えない。更に妻と次女も事情聴取と称して連行され妻に至っては12日間も勾留されてしまう。軍事政権が恐れるのは共産主義者やテロ組織だろうが民主化を求めるインテリ層は全て敵対勢力なのだろう。だから彼らが行うことは連行した者に仲間を売るように強要する。
軍事政権では、かつての韓国でも今のミャンマーでも同じように彼らの側から都合の悪い人々は排除し殺戮も厭わない。今、権威主義国と言われるロシアや中国でも言論は統制され秘密裏に不満分子は迫害される。更に自由民主主義のアメリカでさえトランプが政権にいる限り彼の意にそぐわない者は追放されてしまう。日本だって検察の横暴で罪なき人を投獄することもある。
つまり、1970年代のブラジルのこの出来事をブラジル政府も歴史上の小さな話としてるようだし、世界のどの国も教訓と捉えてはいないだろう。そして、残念ながら今後もこのような事は世界の何処かで繰り返されてしまう。
だからこそ、映画やドキュメンタリーで記録に残すこと、そしてそれが遍く多くの人々に知れ渡る事は何より重要である。
事件後、生活の維持が難しくなったエウニセは新居予定の土地も売り、家族で暮らした家も手放すことになる。外国の新聞に告発する為に撮った家族写真で皆が笑いながらカメラに収まる姿は名シーンとなっていつまでも語り継がれていってもらいたい。
仲間がいる
軍事独裁政権時のリオデジャネイロにて、反政府的だった元議員の旦那が連行され…。残された妻と子ども達の人生を描いた作品。
序盤は家族の幸せな風景が見せられる。家の目の前にビーチ、羨ましい…。友人たちを家に招き、楽しそうに暮らしていたのだが…。
改めて独裁政権、恐ろしいですね。あんな男達がいきなり家に居座って。。
この話は過去のものだけど、別の国では現在もこんな非人道的なことが…。
自身も拘束され、あれだけの恐怖体験をしながらも子どもたちを守る為、そして夫を取り戻すため闘う母の姿。
また、印象的だったのは友人たち。強大すぎる相手を向こうに回してもエウニセに協力してくれる。この場面は目頭が熱くなりました。残酷だけど、最初のマルタの反応を誰が責めることができようか。そんな彼女も遂に…。
政府も政府で必死なのはそうなんだろうけど…。罪もない子どもたちまで巻き込まれるこの理不尽を目の当たりにするのはとても辛いですね。
…なんて言ってられるのも、平和な日本だからなのでしょうか。今の所は…。そして末っ子ちゃん、あの場面で悟っていたのか。
厳しすぎる現実と闘い続ける過酷さと大切さを感じたとともに、観ていてとても恐くなるほど、平和が続いてほしいと願った作品だった。
エウニセの壮絶な人生…せっかくの佳作なのに、邦題が何とかなりませんか?
家族愛が強烈に心に残る
アカデミー国際長編映画賞を受賞したので観に行った。予備知識はほぼゼロ。ブラジルという国自体良く知らない。多民族国家で情勢は不安定。軍事国家だったけど西側。ほんとよく分からない国。
映画は弾圧された市民の様子はほとんど映さない。序盤はブラジルの中ではかなり裕福な家族の日常生活を延々と映す。日本で言えば湘南の海辺のような所で暮らしている弁護士と大学教授の優雅な生活。ここは正直退屈だった。もっと編集で短くしても良かったのではないか?と思っていたが、これが鑑賞後に大きな意味を持つことが分かった。
そして一家の主人である夫が謎の組織に拉致されてからの描写は圧巻。過激な映像描写は皆無なのだけど、演出が驚くほど繊細なのだ。残された家族の母親とその子どもたちの感情と行動が非常にリアルで説得力があり、同時にこれは「家族の絆と愛の叙情詩」というテーマが鮮麗になった。
「国宝」が記録的ヒットで高評価しているからか、来年のアカデミー国際長編映画賞に日本代表作として選出されたが、ドラマのクオリティは月とスッポン。
ただ一つ卑怯なのは子供たちがみんな美人かかわいい子ばかり。これだけは監督の趣味が出たのかな?(笑)
笑顔と強い絆で乗り越える
1 軍治独裁政権時代のブラジルにおいて、主人が当局に連行され行方不明となり、翻弄される一家の姿を描く。
2 映画は、冒頭から町の人々の開放的な場面を写すとともに家族の愛情溢れる温かい有り 様を丁寧に描く。その一方、舞台となった1970年当時のブラジルが強権的で不穏な社会状況にあることも示される。また、この家族の主人が政治亡命者の支援活動を密かに行っていたことがサラリと描かれる。家族はこのことは知らない。妻だけは後日主人の仲間から知らされた。なので、彼が連行された理由を観客は知っているが、彼の家族は分からず混迷する。
3 妻は、主人が拘置されていたことを立証する証言を得て、国に彼の保護や解放を求める訴えを起こしたり、マスコミを利用する。国はそんな妻を一時拘束したり、監視するなどの圧力をかける。そうした中、妻は行方不明中の主人が既に殺されて海に遺棄されたとの未確認情報を得て絶望する。さらに経済的にも困窮し、家を手放し、引っ越す。
4 映画は、そこから約25年後に飛ぶ。1996年、国はようやく主人の死亡に関する公文書を発行し彼の死を認めた。喜ぶ妻と子供達。この間、妻や家族がどんなに苦労して来たかは推察するしかない。この映画は、ブラジルの昔の国家的犯罪を糾す社会派の性格を持っているが、それよりも先ずは、どんな困難にも負ける事なく笑顔と強い絆で乗り越えてきた家族の物語であった。
幸福のすぐ隣には絶望が待っている……?
1970年、軍事政権下で軍部に連れ去られ消息を絶った元国会議員のルーベンス・パイヴァと、その消息を追い続けた妻のエウニセや子どもたちの実話を、一家の長男マルセロが母親の話を聴き取りながら著した回顧録を原作として映像化したもの。
何気なく幸せに過ごす日常生活に突然秘密警察が土足で踏み込んできて、一気に絶望の底に突き落とされる。
夫を奪われたエウニセは武装して軍隊と戦うわけでもなく、法律の知識で身を守りながら静かに訴え続けるのみ。
長い年月の後、ようやく夫の死亡を政府が認めた際のインタビューで、政府の過去の悪事を暴くより大事なことがあるのではないかと記者に問われたエウニセは、過去をしっかりと反省しなければまた同じことが繰り返されると答える。
軍事政権が独裁国家を率いる中で、言論の自由は弾圧され、拷問によって仲間を売ることを強要され、政敵はことごとく排除されていく。それは過去から現在まで何度も繰り返され、ブラジルに限らずどんな国でも起こりうる。
「スパイ防止法」という名のもとで戦前の治安維持法の復活を目論むような政党が選挙で得票を集めるような国では、過去の反省が十分になされたと言えるのであろうか?油断をしていると、幸福のすく隣には絶望が待ち構えていることを忘れてしまうのかも知れない。
骨太に描かれた、家族の歴史の物語
むかし、兵庫県の小さな教会を訪ねたことがある。そこの牧師さんから「教会の歴史」を聞かせてもらった。
― 戦時中、「天皇陛下も神の前には同じ人間だ」と発言したがために警察署に連れて行かれたという その教会の先輩牧師さんのことだ。
シタイヒキトルカ 」
と電報が来て、
署へ行ってみると全裸で転がされていて、牧師の妻は猛抗議で「せめて服を着させて下さい」と食い下がって、“夫”を連れて帰ってきたのだと。子供たちとリヤカーに乗せて連れて帰ってきたのだと。
文書資料では見聞きしていたが、その他ならぬ現地で、そこの関係者から、この「電文」と「閉鎖命令」と「リヤカーの話」を聞いた衝撃は
ちょっと表現が出来ない。
あの時代、日本のキリスト教会の大多数は、官憲に目を付けられて見せしめのためになぶり殺しにされていた その上記のような教会を見捨てしまったのだ。トカゲの尻尾切りで、目をつぶり、国に抵抗したキリスト者をみんなで助けようとはしなかった。
戦後、21年後にその罪責を公に告白し、詫びるまでは。
「黙っていましょう」
「我慢して見ぬふりをしましょう」
「危険に近づくのはやめて!」
と、妻エウニセは夫ルーベンスを止めたかったろうに。
ルーベンスは愛する妻には自分の地下活動の件は一切黙っていたのだった。
映画はブラジルでの実話。
拷問で、死ぬまで殴られるって、どんなに怖くて、痛くて、どれだけ苦しいんだろうか・・
妻子の命も脅かされる。独房では家族の無事がどれだけ気がかりか。エウニセの取り調べのシーンは精神の錯乱の領域まで踏み込む。
・ ・
【原作】末っ子の息子マルセロの手記が原作になっている。その後も政情不安なブラジルなら、息子や妻も命がけだったはずだ
【監督】は、あの「モーターサイクル・ダイアリーズ」のウォルター・サレス。
沈鬱なテーマや悲痛な最期があろうとも、人間には美しくて輝く人生のひとときが同時に必ず伴っている事を、カメラで丁寧に語ろうとする人だ。
【物語】は三分の一ずつの分量で、三つのブロックに分かれて構成されていたように思う、
①夫婦仲は最高で、幸せな子だくさんの弁護士一家。その平和な日常風景。
②家の主の連行と行方不明。
③夫、そして子らにとっては掛け替えのなかったお父さんの不在の日々から〜25年目の「死亡証明書」へ。そしてその後の子どもたちと母の人生の紹介だ。
この映画作品に特別のものがあるとすれば、軍事政権によって亡きものにされたルーベンスの家族が「その後をどう生きていたか」を全体の三分の一をたっぷりと割いて後半で丁寧にエピローグしている点だ。
①と②だけなら類似する構成の告発系社会映画はいくらでもある。
しかし本作は ③=「家族のその後」が殆ど映画の主題なのではないかと思われるほど大きく据えられている。
・警察署から出されて駐車場の見える廊下を歩かされるエウニセの、12日ぶりの呆然とした顔。
・帰宅して子どもたちの寝顔を確認したあとやっとシャワーを浴びて、痩せて疲れ果てた自身の体の黒い汚れをアカスリで落としていくさま。
・「ただ眠りたい」と起きてきた娘に告げるシーン。
・そして夫を取り返すために司法試験に臨む。
強烈だ。
夫を待ち、子どもたちのために耐え、言葉を慎んだ母が強烈だ。
「暗い表情の家族写真が欲しいんです」とリクエストする新聞社に「いいえ、みんなで笑いましょう」と敢えて言う母。しかしこの写真でただ一人最後列で固く強ばった顔で立つ長女。
25年が経ち
末っ子のマルセロに長姉がお酒を注ぎ、そして訊く
「いつお父さんが死んだとわかった?」
「いつ頃お父さんはもう戻らないと悟った?」
・・この、母が席を外した時に姉が弟にそっと尋ねるやり取りには
もう僕はやられてしまった。
なんという家族のリアリズムだろう。
たくさんの実在の写真が、家族の愛の歴史と結束を証明していて、
「アイム・スティル・ヒア」
=私たちは死んでない
=どっこい僕らは生きているぜ
と、弟は家族の記録を著したのだ。
エウニセ役のフェルナンダ・トーレスと、認知症になった後代のエウニセ。=この認知症のエウニセを演じたのはトーレスの実母フェルナンダ・モンテネグロだ。似ているはずだ。圧倒されてしまう。こんな凄い女優たちがこの世にいるのか。
子役たちが成人していく後半でのキャスティングも文句なし。
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今宵の塩尻市・東座。
館主の合木こずえさんは薄いペパーミントグリーンのサマーセーターでした。
猛暑の夏も頑張って良作をかけ続けてくれた。
世に問うべき映画を「これぞ」と見つけて引っ張ってきてくれた。
細身の体を凛とさせて、上映後に客席から出てくる観客をロビーで迎えてくれる彼女。映画ごとに彼女は表情が違う。
闘ったエウニセの面持ちがハッとするほど重なっていて、
かける言葉を失ってしまった。
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実話の重み
原作は本作のモデルとなった一家の末っ子マルセロ・パイヴァの手記ということである。父ルーベンスが軍に連行された時はまだ遊びたい盛りの少年だった。一家の大黒柱を失い途方に暮れる家族の不安と悲しみは如何ほどだったろう。きっと幼い彼の心にも大きな傷を残したに違いない。
ただ、物語はマルセロではなく母エウニセの視点で描かれている。母から聞いた話を元にしているのか、それとも想像を交えながら描いているのか分からないが、ともかくエウニセが我が子を抱えながらルーベンスを必死に捜索する姿がじっくりと綴られている。実に気丈で母性の強さが印象に残った。
エウニセを演じたフェルナンダ・トーレスの熱演も素晴らしく、物語に説得力を与えている。
ちなみに、彼女は今作でも語られていた大使誘拐事件をモチーフにした「クアトロ・ディアス」という作品にも出演していた。そちらでは過激派組織の紅一点を演じており、まだ瑞々しい印象だったが、すでに母親役を演じるようになっていて時の流れを感じた。
時の流れと言えば、老年期のエウニセを演じたのはトーレスの実母フェルナンダ・モンテネグロ。彼女を見るのも「セントラル・ステーション」以来であるが、すっかり老いた姿に感慨深くなった。
監督はその「セントラル・ステーション」や「モーターサイクル・ダイアリーズ」を手掛けたウォルター・サレス。過去に観た2作品はいずれもロードムービーだったが、今回はじっくりと腰を据えて語るホームドラマとなっている。安定感のある演出で真摯にテーマに向き合う姿勢は相変わらずで、悲劇に飲み込まれる家族の苦悩が画面からひしひしと伝わってきた。
また、当時の軍事政権に対する告発も力強く発せられており、社会派作品としても意義深い映画となっている。
特に、印象に残ったのは中盤のエウニセの尋問シーンである。彼女はルーベンスが反政府運動に加担していたことを知らない。しかし、軍はそんな彼女から情報を引き出そうと、薄暗い独房に監禁して尋問を繰り返すのだ。その恐怖と緊張感に目が離せなかった。
惜しむらくは、後半の展開がやや性急に感じたことだろうか…。ルーベンスの行方を必死に追うエウニセの孤軍奮闘が描かれるのだが、ダイジェスト風になってしまたために作品としての力強さが失われてしまったように感じた。
彼女の晩年を描く終盤も然り。子供たちは夫々に成長して家庭や仕事を持ち立派に自立している姿を見ると、エウニセの奮闘も無駄ではなかったのだな…と思うが、表層的にしか描かれていないため胸に迫るほどの感動は得られなかった。
もっともこの辺りをじっくり描くとすれば、それこそ前後編に分けるくらいの大作になってしまうので止む無しという感じもする。
最後に映画は事件のその後を簡単に紹介して終わる。これにはやるせない思いにさせられた。と同時に、事件からすでに半世紀以上が経っており、風化を防ぐ意味でも多くの人に本作が届いて欲しいと思った。
人を強くするもの
実際の回顧録に基づき脚色映画化されたとの事、また軍事政権の話か…と一瞬思ったが、「セントラル・ステーション」の監督の作品と知って見たくなった。あの作品の主演女優の娘さんが本作の主演だとは。
もしかして男性と女性ではこの作品から感じたことは違うかもしれない。国家の波に一般国民が家族が飲み込まれ不条理な目に遭う…という出来事だが、それ以上に、妻として母として悩み苦しみ選択し行動する姿がストーリーの中心にあり、彼女のセリフの無い演技佇まい表情から、滲み出る悲しみがスクリーンに映し出されていた。一つの家族が大きな力に飲み込まれ深い悲しみを乗り越えた、というよりも戦い続けて強くなっていった、という感じがする。笑顔で写る家族の集合写真がその象徴のように見えた。国家と言えども、人権と人々の安全な生活を脅かすのは許されない、という事が覆らない世界であって欲しい。
今私にできること
軍事政権の恐ろしさ
まずブラジルの軍事政権時代がそんなに長く続いたことは、知らなかった
ハンディカメラを回しガンガン音楽を鳴らして、いかにもラテンな若者4人のドライブシーンが、一気に緊張に満ちたものになる冒頭の展開が良い。楽しげな生活のすぐ隣に、何らかの理由をつけては居丈高に暴力を振るう大勢の屈強な男たちが銃をかまえているのだ
リオデジャネイロの美しい海岸、そのすぐそばの素敵な一軒家。そこに夫婦と四女一男と、海岸で拾ってきたカワイイ子犬と気立ての良いメイドさんがいる一家
突然夫が拘留される。男たちに暴力的な振舞いは無いが、有無を言わせない力がある。家に彼らはそのまま居座り、夫の行き先やいつ帰るのか聞いても、要領を得ない。数日後、母と長女も聞きたいことがあると連れて行かれる。二人が乗せられた車は交通ルール無視の猛スピードで走り、突然止まり、頭から黒い布を被れと命じられる(視界を遮る為)
この辺りが民主主義的な法治国家にはまず無い、政府が力による支配を行なっている恐ろしさをひしひしと感じた。逮捕令状も容疑を明かされることもなく、ちょっと聞きたいことがあると連れ去られて、そのまま帰らぬ人となった人間は大勢いるだろう…
やや裕福な、笑いの絶えない明るい、子だくさん一家の普通の主婦であったヒロインが、夫の帰りを待って、待ちわびて、しかし子どもたちのために法律を学んで弁護士となって人権活動をしたと、後半駆け足で紹介されて一気に畳み掛けられるが、そのストーリーのバランスが曖昧で中盤はちょっと眠くなりました
ヒロインの一代記のようなものを期待したのですが、予告編以上の話の展開は無かったように感じました
エンドロールで実在の一家の写真がいっぱい出てきて、ウチは暫く家族写真を撮ってないなぁ…と気付きました
どんなに楽しい思い出も、いつかは曖昧になってしまうもの、積極的にカタチに残しておくことも必要ですね
クーデターで政権が代わる国の恐ろしさ
まず余談から………✒️
客席の傾斜が緩い劇場では、しばしば前の席の人の頭が邪魔になる。そういう劇場だと分かっていれば、中央よりも少し端に寄った席を選ぶ。
本作を鑑賞した劇場もそうだった。
が、2列前の席の、しかも私の真ん前ではなく3席ほど横にずれた斜め前の席の人が邪魔になるという初めての経験をした。
座高が高く頭が大きい方に限って、背筋を伸ばしてお座りになる傾向がある(いや、確かではない。勝手な思い込み)ので、是非ともご自身の座高を意識して席を選んでいただきたい。
洋画は画面下に字幕が出るのがほとんどなので、運が悪いと字幕が全く読めないという不利益を被る。
今回は割と空いていたので、私はさらに端の席に横移動して難を逃れたが、その御仁の真っ直ぐ後ろの(といっても私と同じ列なので、1列前に空席を挟んだ)席にいた女性は、終始体を右に左にくねらせながら字幕を読んでおられた。お気の毒に。
それにしても、座席の背もたれから両肩が完全に飛び出して、なんなら肩甲骨まで見えたかというほどの座高の高いお姿には驚いたが、2時間強の上映中微動だにされない姿勢の良さにも驚いた…。
以上、余談終了…………✒️
🎬️…………
ブラジルは植民地支配を受けた国の典型で、数奇な運命をたどった国だ。独裁政治、民主左派政権など政情は安定せず、第二次世界大戦を経て軍事クーデターの兆しが芽を出したのは1960年代の初頭のこと。政権を奪取した軍事独裁体制は20年余り続いたというから、ある意味では長期安定政権だったのかもしれない。
この映画は1970年のリオデジャネイロを舞台に幕を開けるので、独裁政権はその歴史の半ばに差しかかろうとしていた時期だろうか。
裸足の子どもたちが路上でサッカー遊びをしていて、独裁国にありがちな国民の貧しさが見て取れるが、主人公の家族は決して貧困家庭ではない。
政権軍部によって拉致、殺害されたルーベンス・パイヴァ。その妻エウニセが独裁政権を相手に戦う姿を息子マルセロが著した回顧録をベースとして描いた物語。
ルーベンス・パイヴァという人は、クーデター前の政権時代に下院議員だったが、政権が倒れて議員の職を追われたらしい。
劇中の会話では、いったん国外に避難していたが、帰国して土木工事業を営んでいたという。
政権当局に監視されるような活動をしていることは、家族は知らされていなかったようだ。
なぜ独裁国家となったブラジルにわざわざ戻ったのかと気になったが、その活動が帰国の目的にあったのかもしれない。
妻エウニセが、夫を取り戻すため、あるいは夫の死を知らされた後も家族を守りながら独裁政権の国家的犯罪を追及するため、飽くなき活動を続ける強さには本当に頭が下がる。
万が一自分が同じ状況に置かれたら、早々に挫けてしまうだろう。
取材の家族写真撮影で「悲しい顔をしたほうがいい」と言われても、みんなが笑顔でカメラに向かう場面に、あの母の強さが子どもたちを明るくさせているのだと感じた。印象深いシーンであり、その本物の写真がエンドロールで映し出されるからより感動的だ。
エウニセ役のフェルナンダ・トーレスの演技は、ヴェネツィア国際映画祭でも、アメリカでも、高く評価された。
エウニセの老年期を演じたフェルナンダ・モンテネグロは彼女の母親だとのこと。母娘で一人の女性を演じたとは…。
蛇足…………
ブラジル映画の邦題を、なぜ英題のカタカナ表記にしたのか。日本語のほうがよかったのでは?
まるで秀逸なドキュメンタリー映画
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