ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
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とてもよかった
これでもかと言うほどしっかり死と向き合っている。見ている間ずっと死について考えさせられ、しんどいが緊張感があって引き込まれる。
それにしてもいくら友達とは言え、あんまりなお願いをしすぎではないだろうか。結局警察に詰められるし、しかもあの賃貸物件は事故物件だ。アメリカではあまり気にしないのだろうか。
ジュリアン・ムーアには子どもがいないようだ。作家として充実した人生を送っている。二人とも富裕層でフルーツを食べきれないほど平気で買う。しかしどんなに大金持ちでもお墓にお金は持って行けない。だけど死ぬときにカツカツなのもつらい。
現れた娘が亡くなった友達と瓜二つで、ご本人の二役なのだけど、亡くなったばかりなのに再びご本人登場で喪失感が削がれる。娘だとしてもゲソゲソで末期がん患者みたいだし、お父さん似でぽっちゃりした子がよかったのではないだろうか。
タイトルなし(ネタバレ)
作家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、書店のサイン会でかつての友と再会し、かつて恋人を奪い合った仲の親友マーサが重い病で入院していることを知らされる。
病室で対面したマーサ(ティルダ・スウィントン)は治療に対して後ろ向きだった。
一人娘とも折り合いが悪い。
それは、マーサが子育てを一顧だにせず戦場カメラマンとして活動していたからだが、娘の出生とその後の娘の父親のいきさつも関係していた。
そんなかつての話をイングリッドに語ったマーサは再び治療に専念に、いっとき光が見えたかに思えたが、病状は急激に悪化。
遂には、自身の最期の姿を描くようになった。
それは、自ら選ぶ死。
ただし、誰かに看取られたい。
が、その誰かは娘ではない。
何人かの友人に相談したが断られた末、最後の最後、マーサが頼みにしたのはイングリッドだった。
ふたりは、郊外の森のなかにあるスタイリッシュな邸宅で、マーサ最期の日を迎えることなった。
ただし、その日がいつかは、まだわからない。
いつも開いているマーサの部屋のドアが閉まった日、それがその日なのだ・・・
といった物語。
鑑賞から2週間近く経ってのレビュー。
鑑賞直後は、本作、個人的にうまく咀嚼して飲み込めず・・・という感じでした。
(いまは飲み込めているけれど)
観ていて気になったのは、映画前半の語り口。
森でのふたり暮らしを始めるまでの導入部で、ここをしっかり描かないと後半につながらないので難しいところ。
だが、語り口として採用した演出は、やや安直で上手くない。
マーサから語られる過去のエピソードが、過去シーンの映像となって再現される。
彼女が直接体験したエピソードはそれでもいいのだけれど、娘の父親の最期のエピソードを再現する必要はなかったなぁ。
なにせ、マーサは現場におらず、あくまでも伝聞事項なので、観客にわかりやすくするだけの演出。
イングリッドに語るだけでは観客に伝わらないと思ったのかもしれないが、あくまでもマーサの出来事として描かないと視点に乱れが出る。
マーサの視点で描くなら、語りは語りのままで、娘の父親の最期の地を彼女が訪れ、そこに立つ画を写す、とかか。
森のなかの邸宅のエピソードの数々は、さすがに上手い。
いずれも、すぅっと心に入って来る。
が、映画最終盤で、マーサの娘が登場したあたりから困惑した。
まあ、マーサの娘を○○が演じていることもあるのだが、マーサとイングリッドの話から、アルモドバルお得意の母娘の話にまたしても帰着するのか、と。
なので、鑑賞直後は、あまりうまく飲み込めず。
が、3度登場する「雪降る」シーンから考えると、うまく飲み込めるようになった。
(3度のうち1度は、映画『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』の映像)
死者と生者に等しく雪は降る・・・
死者と生者を隔てるものは、ほとんどない。
ただ、死んでいるか、生きているか。
マーサの娘とイングリッドが並んでいるラストショット、イングリッドにはマーサが生きていることを実感したのだろう。
死の自己決定権、死に方を選べるということ
安楽死、尊厳死の問題は世界中で議論が活発で、もはや避けては通れない問題。誰もが当事者になりうるから本作は身につまされる思いで鑑賞した。
自分がマーサの立場だったら、イングリッドの立場だったら、どうするだろうか。自分と親友とに当てはめて考えた。主演のお二人は少し上の世代だけど、その年齢になって同じ状況に立たされたらどうするだろうか。
イングリッドの立場なら、もし隣の部屋にいてほしいと頼まれたらそうするかもしれない。劇中の彼女のようにマーサの心変わりを期待しつつ何か打開策が浮かぶかもしれないと淡い気持ちを抱きながら親友のそばに付き添ってあげれるし。ただ、毎朝の安否確認のために部屋のドアを確認しに行くのはさすがにメンタル的に応えるだろうな。
たまたま風でドアが閉じてしまってそれを見たイングリッドが悲しみに暮れてるところにマーサが平然とした顔で現れるくだり、あれはやると思ってたけど、イングリッドにしたらたまったもんじゃない。あそこで彼女はリタイアするかと思ったくらい。
自分が自殺ほう助の容疑をかけられるリスクを負いながら引き受けた彼女には感心するけど、ただ仲のいい友人だからというだけでなく彼女の小説家という職業が関係したのだろう。こんな体験はなかなかできないだろうし、実際に本を書きたいと言ってたしね。
ではマーサの立場ならどうだろう。こちらはイングリッドほど答えは簡単ではない。実際に彼女のような状況に置かれないとその心理を読み解くのは想像だけでは難しい。治る見込みのない病の治療を続ける苦痛、薬品投与で自分を失いそうになる恐怖。それはそのときになってみなければ実感できないだろう。マーサは化学療法を受けてる間は自分が自分である部分は10%と話していた。
自分を失ってまで、自分らしさを失ってまで寿命を少しだけ伸ばすよりも、最後まで自分らしく生きて最後は自分の意思で人生の終わりを決めたい。そう考えるのも理屈では理解できてもやはり他人事として考えてしまう。
そうなのだ、所詮は他人事なのだ、人の死というものは。自分の死は他人にとっては他人事なのだ。自分の人生も死も、それは至極当たり前のことだ。だから自分の人生をどうするか、どう終わらせるかはとても個人的なことであり他人にとやかく干渉されるものではないのだ。
自分の人生をどう生きるか自分で決められる権利があるのなら、自分の人生の終わらせ方も自分で決められる権利があるはずだ。死の自己決定権だ。
ただ、その個人的な権利と命を尊ぶ社会倫理とが対立する。この問題が容易に解決できないところがそこにある。
命は尊いものだ、神から与えられた命を粗末にしてはいけない、死んで花実が咲くものか、乗り越えられない試練を神は与えない、命尽きるまであきらめずに頑張れば必ず救われるなどなど宗教的教えからことわざまで。そんな社会の固定観念が自己決定権の邪魔をする。
そんなことは聞き飽きた、そんなことは十分承知の上での決断なのだ。何十年も人生を生きてきた自立した人間が出した答えに水を差さないでくれ。そんな当人の気持ちも理解できる。ただ、逆につらい状況下で通常の精神状態ではないのではないかと周りは勘繰りたくもなる。
マーサがイングリッドから同じ問いを投げかけられた時うんざりした表情をしたのは再三同じことを言われたからだろう。
自分が自分であるからこそ自分の意思で決断したのだ、人生の終わらせ方を。どうかその自分の意思を汲み取ってくれ、私の意思を尊重してくれ。そう言われたら周りの人間は何も言い返せないだろう。
人生はよく旅に例えられる。旅の行程、行き先を本人が自由に決められる。そして旅をいつ終わらせるかも。
私の人生の旅はまだしばらくは続きそうだが、もしマーサと同じ状況に立たされた時、旅を終わらせるかどうかはその時の自分の意思で決めたいと思う。
素晴らしかったのですが…
作品自体はとても素晴らしかったです。
死について色々、深く考えさせられました。
鑑賞しながら両者の立場に自分を置き換え、自分ならどうするか?と都度考えを巡らせていました。
監督がわざとこちらに考えさせる時間を与えたんではないか?と思えるほど、絶妙な間を織り込んでいたようにも感じました。決して展開が遅いというわけではありません。それぞれのシーンに深みがあり、こちらに静かに語りかけてくるメッセージが込められていたのです。
それはもちろん、両女優さんたちの素晴らしい演技によるところも大きかったでしょう。
特にティルダ・スウィントンは、本当に命の危機が迫っているのではないかと思えるほど、鬼気迫る迫真の演技を見せてくれました。静かでありながらも、内面に激しさを秘めた演技でした。
ただ、敢えて言わせてもらうなら、娘役は別の女優さんにやってもらいたかったな。
もし娘が出てくるとしたら、恐らく有名ではあるけど意外な大物女優が起用されているのでは?という期待が少しあったので、いざその人が現れると少し興ざめしてしまいました。
確かに意外ではあったのですが、それじゃないだろう、と。
もちろんその方の演技も良かったのですが、せっかく最後まで充実した大切な物語を重ねてきたのに、こちらの気持ちを切られたような気さえしました。その女優さんの使い方はむしろ、言葉はきついかもしれないですが、この映画のテーマ自体を「冒涜」しているような気さえしました。
あるいは、何かコメディのようなオチにすら感じてしまったのです。
もちろん高度なメーキャップ技術のおかけで、人の顔すら変えられるのは百も承知です。過去に「スキャンダル」と言う作品もありましたしね。
しかし、この作品のテーマを考えると、やはりマーサにはそのままフェードアウトしてほしかったな、というのが私自身の正直な感想です。おそらく誰にも共感されないでしょうが…
せっかく中身の濃い良い作品なのに、女優さんの使い方次第で作品に対する想い変えられてしまうのも、何かもったいない気さえしました。
死に際について思い寄せる映画
アルモドバル監督の映画の作風は大体人間のディープな精神世界をシニカルに描かかれており、画角が色彩豊かで細部まで拘ったカメラワークなので、どんどん映画に魅せられアルモドバル監督の世界感にどんどん惹き込まれる作品でした。二人の主人公の立場は逆でどちらにも感情移入でき、こんな終末を迎えられたら(こんな終末を支えられたら)、確かに幸せだろうなと、重いテーマの映画だけど、ハッピーエンドで終わるのがアルモドバル監督の死生観なのかなと、どこか気持ちがスッキリする映画でした。
美しい映像
アルモドバル監督作品はトーク・トゥ・ハーに続いて2作目。
奇しくも病院つながり。
だれも興味ないと思うけれど、トーク・トゥ・ハーでは、介護士のベニグノはレイプしていないと私は思っている。
その作品もこの作品も、生と死が連続する時間の中のイベントに過ぎない、しかし避けようのないものであることを描いているように思う。
当然、愛に満ちた人生の中で。
序盤に病院に見舞いに訪れたイングリッドと電動ベッドを起動して状態を起こしたマーサが会話するシーンは、カメラが水平ではない。
彼女たちの顔は画面の中で右と左にきれいに配置されているが、不思議な落ち着きの悪さを感じさせる。
その後、マーサが点滴のスタンドを左手に持ってイングリッドを見下ろす様に直立しているシーンは、ファンタジー映画の賢者のようである。
マーサがいよいよイングリッドに提案するあたりから、イングリッドの衣装がマーサ側に寄ってくる。
それまでは、イングリッドは柄物の衣装が多かった。
それが通俗世界から閉鎖世界へ転移する予兆にも思える。
二人とも社会で成功した人たちなので、経済的に豊かであり、都市部のアパートメント、VOLVOのワインレッドの車、最後の贅沢よ、と言って借りる林の中の邸宅、うらやましい限り。
出てくる食べ物も、動物性のものはなく、ベリーを中心とした果実。エデンの園か。
人参スティックも食べていたな。
闘病ものではないので、闘病で苦しむシーンはほとんどない。
経験したことのある人からしたら絵空事にしかみえないかも。
マーサの提案から死まではイングリッドにとってはホラー物語だろう。
舞台を山荘に移動したことで、さらに現実味が薄れる。
妄想と現実の間を漂う時間が、描きたかったことなのだろうか。
そういう点は、たしかにピナに通じるかもね。
会話劇を彩る色彩・詩的表現の美しさと、悲劇を生きること。
ペドロ・アルモドバルが監督をして、ジュリアン・ムーアとティルダ・スウィントンが主演。
どんな仕上がりだろうと、この座組の映画を見逃すのは有り得ない。
そう思う、中年女性による感想です。
舞台がアメリカ・ニューヨークで、英語作品。だけど?相変わらずの鮮やかな色彩。
とはいえ、わたしには今までのスペイン語作品より、寒い地域っぽい色使いに思えた。
トーンがちょっと抑え目で、シックな感じがするような。
太陽の眩しい光ではなく、鈍色の空から降る雪に映える色ってかんじ。
森の中の家で夜更かしして映画を見ているときにマーサが着ていた、
多色切り替えのチャンキーなセーターとか、マネして編もうと思えば編めるなーとか思った。
森の中の家の裏庭の赤と緑の椅子(プールサイドにあるようなやつ)とか、緑のソファーとか、イングリッドの家のガレージっぽさとか、ニューヨークのマーサの家のカラフルなキッチンとか、いろんな色使ってるのにまとまっていて落ち着く感じの部屋に住みたーいと思った。
子宮頸がんを患って、尊厳死を望むマーサは、その日を迎えるとき隣の部屋にいてほしいと、旧友イングリッドに頼む。死を恐れるイングリッドは戸惑いつつも、マーサに寄り添う。
ほぼ2名の会話劇。一人で抱えられなくて、部分的に共通の元カレであるダミアンに、イングリッドは相談する。
アメリカの法律なのか、尊厳死は自殺扱いで、その手助けは自殺教唆として裁かれるみたい。
マーサの娘への思いや、そこに至る経緯や、戦場での思い出、なぜ尊厳死を望むかなどを、
2人は語らう。
ダミアンの厭世的な現実の受け止め方、わかるってなった。
新自由主義となんとか(右翼的ななんかだったっけ?資本主義?全体主義?)があかんのやってところ。
息子夫婦が3人目の子を作るので、それを非難?したら息子に嫌われたとか、あたり前やでと思うが面白かった。すみません。ひとが生まれても木は産まれないってのもわかる。
で、この世は悲劇で、悲劇を生きる苦痛を和らげるのに、性交は効果的で、とかも面白かった。
イングリッドの、悲劇を生きる方法はあるでしょっていうのも、わかる。
どんなに嫌な世の中でも、今生きてるし、マーサは別としてまだ生きたいと思っているなら、どうにかして楽しみを見つけて生きるしかないもの。
で、マーサです。治らない病気、苦しいだけの治療。思考が鈍り、憂鬱になる。
そこから自由に、自発的に逃れたいと決めている。
薬の置き場所を忘れたりとか、その時のサインとしてドアを開けておく約束を忘れたりとか、病気による思考鈍化によって、行動が危うくなる感じ、すごくリアルだと思った。
ああやって重い病気が進行したら、いつかわたしもああなるって、おもった。
まだわたしは生きたいから、心情はイングリッドに重なるけれども、いつかマーサの気持ちを味わうのかもしれない。未来の予行演習をしているような気持ちになった。
ジェイムズ・ジョイス原作の映画『ダブリン市民/ザ・デッド』(見たことないけどね)の引用も印象的だった。雪は生きるものにも死ぬもの(死んだもの?)にも降り積もる、みたいなところ。
自分の死を、詩的に受け止められるというのは、美しいことのように思えた。
いい映画でした。
字幕翻訳:松浦美奈さま
究極の「おひとり様の最期」
元・戦争ジャーナリストで今は末期癌の患者となっているマーサ(ティルダ・スウィントン)と、その古い友人で小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)がともに過ごす数週間が描かれる。苦しむことなく美しいうちに死にたいと望むマーサは、自分の意思で最期を迎えることを決意し、イングリッドに最期まで寄り添ってほしい-隣の部屋(ルーム・ネクスト・ドア)にいてほしい-と依頼する。
マンハッタンの病院とそれぞれの住むアパート、その後に過ごす場所、マーサの衣装、と全篇うつくしい映像で埋め尽くされている。(とくに病院は、セントラルパークを見下す大きな個室で、余程の金持ちでないと入れそうにないが、とにかくゴージャスで美しい。)
しかし。親友とともに過ごす美しい最期の日々、といった話では、実はない。イングリッドは唯一無二の親友というわけではなく、マーサが他の何人かに断られたあげくに頼んだ相手。生涯を通じて疎遠だった娘には知らせることを拒み、会わずに死ぬ。イングリッド以外の、死が近いことを知っている友人や昔の恋人も、訪ねては来ない。
マーサは徹底的に一人で、たたかって生きてきた、現代先進国の「おひとり様」である。徹底して孤独な代わり、それなりの仕事をやり遂げ、多少の贅沢もできる。だから最期まで、自分ですべてをコントロールするのはむしろ当然のことだろう。戦争ジャーナリストとして悲惨な現場を見続けてきたにもかかわらず、あるいはだからこそ、世界一豪華な街ニューヨークで、きれいで贅沢なものに囲まれて、病気でボロボロになる前に、幕を下ろす。死んだあとの世話役も後始末も、みんな手配しておく。実にみごとな「おひとり様の最期」である。
マーサの最期は一つの理想、と考える人は決して少なくないのではないか。徹底して孤独だが、最期まで自分らしく、言い換えればめいっぱい我儘に、自分のやり方で生き抜いた。
しかし、それに対してイングリッドは葛藤を抱え続け、結局生前には会えなかったマーサの娘は死後に訪ねてきて複雑な感情を見せる。マーサの死を取り調べる警官は「自殺は犯罪だ」ときっぱり言う。マーサがイングリッドに「隣の部屋(ルームネクストドア)」にいてほしいと頼むのも、単に後始末のためだけではなく、文字通りの「孤独死」には耐えられないと思ったからだろう。
現代先進国の「おひとり様」(女性だろうと男性だろうと)にとって、死は、自分でコントロールできない唯一のものであり、しかも必ずやってくる。この人生さいごの難題への回答として、アルモドバル監督は、「おひとり様の最期」の一つの究極の形を美しく描きつつ、それを全面肯定してはいない。「おひとり様」にとっての人生さいごの課題、というテーマ設定の鮮やかさがすばらしい。
死を見つめる旅、成熟への道ーーアルモドバル監督の新たな到達点
ペドロ・アルモドバルが初めて長編英語作品に挑んだ『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』。これまでの彼の作品と比べると、情熱的な色彩や感情の爆発は抑えられ、より静かで内省的な作品に仕上がっている。監督自身が老境に入り、死と成熟に向き合い始めたことの表れのように感じられる。
そして本作もまた、監督のその精神性を反映した、、死に向き合うことで、精神を統合し、成熟していく女性二人を描いた作品だと感じた。
主人公は、小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)。彼女はかつての親友マーサ(ティルダ・スウィントン)から突然連絡を受ける。マーサは末期の病に侵され、意識のはっきりしているうちに自死を選ぼうとしていた。しかし1人でそれをすることは叶わず、かつての友人イングリッドに「私が死ぬとき、隣の部屋にいてほしい」と頼む。このリクエストに戸惑いながらも、イングリッドは彼女の最期の日々に寄り添うことを決める。
マーサは10代で妊娠し、母性を発揮することができず、子供を手放すかのように、仕事に邁進した。彼女は「人生をコントロールすること」に執着し、戦場記者として世界を駆け巡った。
極限の状況を生き抜くことで、自分の意志で自分自身と世界を支配できるような男性的英雄像を自分の中に持ち続けたのだろう。
しかし、病に侵され、死が迫ると、自制心が崩れ、思考が曖昧になることを何よりも恐れるようになる。だからこそ、彼女は「死さえも自分で決める」ことで、最後まで自己を支配しようとする。
だが、イングリッドとの再会、そして過去を振り返る対話を通じて、マーサは「コントロールする自己」を手放し、自分が避けてきた無意識の領域と向き合う準備を整えていく。
彼女たちはかつて、時間差で同じ男性と恋人関係にあった。環境学者となったレナード(ジョン・タトゥーロ)は、今や気候変動の研究をしているが、未来に対する恐怖に囚われている。本の発売イベントでは質問を受け付けず、「臆病者」と罵られたと語る。彼は右派の攻撃を恐れ、気候変動についても「もう地球は終わる」と怯えている。
マーサは死と向き合い、自分の過去とも向き合うことで、強さや成熟した精神性を身につけていくように見える。それに寄り添うイングリッドもまた「死が怖い作家」から「死と対峙する作家」へと成熟していくようだ。
そして、かつての恋人の男レナードだけが、成熟を果たせず取り残されてしまう。この精神的な成熟の差が浮き彫りになることで、いずれ別れるのだろうと予感させる。
マーサには、長年連絡を取っていなかった娘がいる。彼女は母に捨てられたという怒りと悲しみを抱えたまま、母のマーサとは和解できずにいた。
マーサは娘と再会せずに旅立つが、マーサが死に場所に選んだ家にマーサの娘を迎えて、母と娘の精神的な和解を見事に仲裁する。和解できなかったことで罪悪感に囚われそうになるマーサの娘に、そっと寄り添い、彼女を勇気づけるかのようだ。
この瞬間、イングリッドは「導く者」としての役割を果たし、彼女自身も精神的に成熟したことが示唆される。
「死を恐れるのではなく、それを受け入れることが、精神の成熟につながる」というメッセージが、静かに、しかし力強く響いてくる。
ペドロ・アルモドバルは、75歳にして、かつてのハイテンションな作風を脱し、静かに、深く、人生の終焉と向き合う境地にたどり着いた。「死と向き合うことは、生を統合すること」というアルモドバル監督の深い精神性と成熟した知性に触れられる名作であると思う。
尊厳のある死を望む
なんとなく海外映画が見たいなと思いちょうど始まっていたこちらを拝見。
自由奔放に生きてきた、だから死ぬのもただ座して待つのではなく自ら選ぶ。
そういう女性の話。
物語としては淡々と進んでいき、別にどんでん返しがあったり大盛り上がりのクライマックスがあったりはしません。あらすじや公開前の紹介内容が全てです。その紹介に興味が持てる人なら満足するだろうし、ピンとこない人は見に行ってもピンとこないと思います。
あらすじ通りの話が淡々と進むだけではあります。
どこまで書いたらネタバレなのかもよくわからないのでネタバレありにしときます。
死を選ぶとは言ってもやっぱり劇中の描写から見る限り強がりや周囲への説得的な面が強く、女性自身も全てに納得がいってるかというと、そうでもありません。
そもそも死ぬ時に近くに誰かがいてほしいというのがそれを端的に表しています。
自由に生きてきた結果、人生の中で色々なものを切り捨ててきた。
死の間際に立った時、自分の周囲に残されたものの少なさに愕然とし、人生の中で関りを持った友人たちを頼る。
紹介を見た時は昔見た「海を飛ぶ夢」という映画を思い出しました。
ただ、「海を飛ぶ夢」は尊厳死が強いテーマ性としてありましたが、
本作はどちらかというと、「孤独死」がテーマだったと思います。
孤高に生きた女性の孤高な死に方、ではなく、
どんなに自由に生きてもやっぱり最期は人として社会との関りを実感したいという欲求からは逃れられなかった、と受け取りました。
独身おじさんの私にとってもものすごく身につまされる話でした。
自分の死に際して悼んでくれる人達がいるだろうか…病室でただただ衰弱し、医療従事者達の業務処理の一環くらいに淡々と自らの死が流されていくのだろうか…
若き日の自分を知る誰かに看取られて逝きたいという彼女の悩みと計画はものすごく突き刺さりました。
確かに看取ってくれる家族がいなかったら友人たちに囲まれて楽しい旅の中で思い出を振り返りながらぽっくり逝けたら理想だよなぁ…とは思います。
現実には絶対実行できませんが。
実際はマーサはもっとやりようはあったと思います。
娘との確執は解こうと思えば解けたはずで、とはいえ死ぬ前だけ母親面して看取ってくれとは言いづらい、という悩みもわからないではない。ただそれは本来マーサ自身がきちんと清算すべき人生のツケだったと思います。
結局巻き込まれたイングリッドは相当面倒事になってるし。
イングリッドがマーサが人生に残したツケの清算を押し付けられた形になっているのは否めない。こんな面倒事引き受けてくれたんだから相当お人好しだよイングリッド。変な悲観論者の元カレ引きずってないで前向きに生きてくれ。
そういう意味ではマーサは死の間際まで周囲を巻き込んで好き勝手に生き抜けたと言えるのかもしれません。
現代法治国家では到底容認されない計画ではありますが、こういう選択も理想のひとつとして確かにあるという一石を投じていると思います。
死生観という点では特に目新しいものはなかったですが、今際の際でもこういう足掻き方もあるんだなぁという気付きを得られたので良い映画だったと思います。
生者にも死者にも雪は降り積もる
映画を観ながら若くして病気になった友人を思い出した。亡くなった時に、「まだ若かったのにかわいそうだね。」と言う人もいた。本当にかわいそうなのだろうか?可哀想と言うこと自体が失礼な話なのではないのか?一人悶々と考えたが自分自身がなぜこれほどまでにその発言に怒りをおぼえたのか分からなかった。
マーサの癌で生き残ったものは勝者、死んだものは敗者という認識をされる。だから自分は癌より先に死を選ぶという発言を聞き、あの時の違和感は勝者、敗者というカテゴライズされているように感じたために自分は嫌悪感をおぼえたのかと妙に納得した。
自分がマーサの立場なら?イングリッドの立場なら?どうするだろうか。
自分の死は自分で選びたいと願っても痛みを和らげるのみで、安楽死を選ぶことは日本でもできない。以前、難病患者の嘱託死事件がニュースとなり日本でもかなり安楽死については論争が起きた。延命をさせる技術は発展しているのに、死を望む人にはその権利は与えられない。当事者でないともちろん想像できないがなんとも苦しい気持ちになった。
自分がイングリッドならあの提案を受け入れたやろうか?考えても考えても結論は出ない。映画を観終わってからもそのことが頭から離れない。イングリッドはほんまに愛情深く優しい人物で、マーサもまた聡明で思慮深く友人思い。マーサにとっていい最期であったと思いたい。
Close
ある程度の年齢を超えるとどうにも自分や他人の死について考える機会が多くなり、近年の高齢化も相まって安楽死を扱ったテーマの作品にはついつい足を運んでしまいますし、今作も例に漏れずでした。
ただこのテーマの作品を観るたびにやっぱ合わないなぁ、死生観が違うんだろうなとなるのがお決まりで、今作も首を傾げながらの鑑賞になってしまいました。
まず本題の安楽死をするから近くの部屋で見守っててというところに辿り着くまでがかなり長かったです。
病気の話ならともかく、ご婦人方のこれまでの人生とかを振り返る様子が延々続くのでなんの話だっけ?となる場面がかなり多く、会話劇としての盛り上がりも無いときたので困りっぱなしでした。
やっとこさ同居が始まるかと思いきや、安楽死するための薬が無い!とヒステリックになるので、これはギャグとして見るのが正解なのか?となってしまったのもあってテーマの重みと不釣り合いな気がして居心地があまり良くなかったです。
よくよく考えたらとんでもないワガママだよなぁとなってからはこの人死なないで欲しいなとはどうしてもならず、安楽死したいのならサッとすればいいのにと人の心無いんかくらいの発言をしてしまいそうでした。
安楽死を見守って欲しいという無茶な願いを受け入れる優しさは凄いなと思いつつも、友情というよりかは義務感での見守りなのかなと思ってしまったのもモヤモヤな点です。
そこからの展開はまだとんとん拍子で進んでいき、安楽死実行、そこからの家族との関わり合い、色々ありながらも警察が来てからガラッと動くのかなと思いきやスーッとエンドロールに突入していくので消化不良感は否めませんでした。
前半の謎会話を減らしてこの後の展開を増やしてくれたら良かったのに…と心から思いました。
全体的に色合いはとても綺麗ですし、背景の小物なんかもかなりこだわっているんだろうなというのは強く感じられました。
好みではなかっただけで、こういうテーマの作品は様々な視点で作られるのが良いと思いますし、自分の死生観と似たような作品と出会える事を願いながら映画を見続けていきたいものです。
鑑賞日 2/4
鑑賞時間 15:55〜17:55
座席 H-20
どちらも
気持ちはわかるけど、辛いですねえ。死ぬ側は一人では寂しい、しかも自宅は嫌だ。見送る側は、ある意味大きな責任を伴うが、亡くなる直前の友達の気持ちもわかる。辛い選択ですね。警察の調べが大きな事にならない事を願います。
赤、赤、赤!
まず感動したのが赤色の使い方。イングリットのコートの赤、ランプの赤、キッチンベンチの赤、鮮やかなブルーのソファのパイピングの赤、ドアの赤、二人の口紅の赤…と挙げればキリがないほどに赤。 日本では皆同系色にコーディネートする傾向があるが、赤とブルー、グリーンとのクッキリとした鮮やかな色のコントラストがとてもオシャレで記憶に残る。自分の家もあんな風にしたいとワクワクした。
私は映画を観る時、自分の経験に置き換えたり、自分ならどうするか考えながら観る傾向がある。この映画に関して言えば、四年前までオーストラリアで看護師をしていた時を思い出させた。救命救急で働いたせいもあり、抗がん剤治療の副作用や痛みで来る患者さんを多く見た。生に対する執着や死に対する恐れは人それぞれ違う。私が住んでいた州では当時、安楽死は認められていなかった。忘れられないあの50代の女性の癌患者さんは、痛み止め以外の全ての治療を受けない選択をしていた。痛みが治まり、物静かにベッドの上で読書をしていた。かっこよかった。とはいえ、知らないだけで、実は取り乱したり、泣き叫んだりしたのかもしれないが。今は合法になった安楽死があの時あったならば、最後の最後まで痛みに苦しみ大量の鎮痛剤を朦朧とするまで打たなくとも、マーサの様に癌に支配されるのではなく、自分で自分の人生をコントロール出来たのにと思うと少し悲しくなる。 私自身、同じ立場に立ったなければどうなるかわからないが、マーサやあの患者さんの様に最後は潔く、かっこよく逝けたらいいなと思う。
色、デザイン、女優さん達の揺らぎの表現力、素晴らしかった。 強いて言えば、マーサと最後に出てくる娘の二役がどうも好きになれなかった。顔も声もそのままなので、ちょっと一瞬ストーリーから集中力がそれて我に帰ってしまったので、ひようかは3.5。そっくりさんでやって欲しかった。
美と静寂の中で描かれる尊厳死。淡いピンク色の雪が降る街。
美と静寂の中で描かれる尊厳死。
主演の二人が素晴らしい。
特に、ティルダ・スウィントンの容姿がこのテーマにとてもよく合う。
そのメイクや衣装デザインもあってい美と静寂の中で描かれる尊厳死。い。
各シーンの室内のレイアウト、舞台となる郊外の一軒家、街の本屋に至るまで、すべてのカットが美しい。
窓から見える淡いピンク色の雪が降る街の情景。
尊厳死について、静かに描く、静寂に満ちた映画だった。
そして扉が閉ざされた
予告で聞いた「ドアを開けて寝るけど、閉まっていたら私はもうこの世にはいない」の台詞。
死んだらドアは閉められないのにどういうこと?と思ったら安楽死の話なのね。
内容は粗筋の通り、癌に侵されたマーサと親友だったイングリッドが数日一緒に過ごすだけ。
レイトショーだったこともあり、序盤めちゃくちゃ眠い。
娘やその父親を中心にマーサの過去に軽く触れられるが、いきなりそんな話を聞かされても…
マーサは理論的で、死への姿勢もブレることがない。
はじめから最終段階に入っているので、人間というより単なる一つの“主張”にしか見えなかった。
その上その考えによる我儘でイングリッドを振り回す。
最後まで彼女に魅力を感じたり、「死んでほしくない」と思ったりといった情動が生まることはなかった。
じゃあイングリッド側の“揺らぎ”が描かれているかというと、そうでもない。
時に感情的になることはあるが、基本的にはマーサの意見を尊重するスタンスは一貫している。
そもそもこの2人、長らく連絡すら取っていなかった“元”親友なのだ。
それでも余命幾ばくもないと言われれば、極論喧嘩別れしてたとしてもある程度は寄り添うでしょ。
劇中で「断らない人間」と語られてたことも手伝って、友情や絆にも見えないし…
最後に娘ミシェルがマーサに対する誤解に気付き、「死がふたりを近づけた」と語られるが…
これ、死なないと出来ないことですかね。
なんだかイマイチ刺さらなかった。
亡くなり方にほんの少し意外性があったことと、ラストシーンの被せ方は良かったです。
最後は物理でなく精神的に、イングリッドを“隣の部屋”に感じたからあの時を選べたのだろうか。
映画として完璧
どの台詞も聞き漏らしたくない、服やインテリア、背景まで含めたポストカードに切り取りたくなる画や、全ての色彩が美しい映画でした。
マーサとイングリッドの、善意だけで成り立つのではない、でも素直に正直に相対することができる関係が成り立つのはすごいと思った。
死が迫った友が明らかにまだ話し足りないのに「もう遅いから帰らなきゃ」といえる関係、できないこと、決心がつかないことになんで言えばいいかわからないと言い、YESと即答しないこと、
できる人には簡単なことなんだろうけど、空気読んで相手の望むことに沿おうとしてしまう自分にはとても羨ましく。
5年ぶりに会ったと言ってた気がしたが、あんなに距離を感じさせずに付き合えるのは、元々仲が良かった?昔同じ男と付き合った仲だから?
でも自分のあとにイングリッドと彼が付き合ったのはショックだったと言ってたし、何のわだかまりもなく仲良しこよしの関係、ではなかった気がした。
それなのに、最期に隣にいてほしい第一候補だったのに警察に話してしまう〈裏切り者〉よりも、この経験とマーサの残した言葉すら自らの内にとどめずに生業である“書くこと”に活かす気のイングリッドの方が、マーサの人生の一大事に寄り添っていて、不思議というか、観終えてから考えると、腑に落ちないような気もしないでもない。
でもそんな自分のなかに残った違和感は映画としての完成度というか、素晴らしさの前では軽いこと。
イングリッドの赤いバッグ、マーサの薄紫のニット、など、2人のファッションにも惹かれた。
中でも緑と赤の対比が美しく、2人の服だけでなく、2人で横たわったチェアなど、とても印象的で美しかった。
ダークレッドの口紅をたっぷり塗って、最期に纏うのはパキッとしたイエロー。
それまでのマーサにイエローの記憶はなく、それでも彼女の最期に相応しかった。
ひとりは嫌。
尊厳のある、静かな死。
なんでも話せる友がいなく、どこに行くにも一人の私は、死ぬとき一人にしないでほしいと頼める友がいること、それを叶えてくれる友がいることを、とても羨ましく思う。
THE DEADは実際にある映画なのだろうか。観たい。
雪の舞う、清冽な静けさの中で逝けたら。
母と娘と友人の濃密な物語
「死の棘」の島尾敏夫とミホをなぜか想いながら最後まで瞬きも惜しく見てしまった。
マーサは、娘ミッチェルとの関係に悩みながら、そして、友人のイングリッドにその悩みを打ち明けた上で、死を選ぶ。マーサは、ミッチェルが父の不在を恨み、マーサとの関係が壊れたとイングリッドに説明しつつ、実は、戦場ジャーナリストのマーサの強さが、ミッチェルには母ではなくむしろ父的な存在であり、従いミッチェルが求めていたのは、会うこともかなわぬままに死んだ父ではなく、実は母親としてのマーサその人であったことが、マーサの言葉から徐々にわかってくる。
イングリッドは、マーサの死に立ち会うことを恐れながらも、どこかでこの友人の安楽死をともに迎える稀有な体験を、作家魂で書ける機会と捉えている節がある。それは、マーサの戦場日記を図らずも垣間見たときに強く自覚したことを、マーサにイングリッドが「あなたのことを書いていいか」と問うた時、我々はそれに気づく。
マーサの死後、マーサの貸し別荘にやってきたミッチェルは、映画としては脇役だが、マーサに恐ろしく似ていることなど、母娘の長年の誤解と確執から和解の時に移行したことを感じさせる。ミッシェルとイングリッドが並んで横たわる長椅子に(ーマーサはその長椅子で安楽死の薬を飲み自死したー)、マーサの愛したジョイスの小説の一説である雪片が静かに、そして、深く降り注ぐ。映画を彩った芸術的な色彩も、この白い雪にはかなわない。白い雪の中に、ミッシェル=マーサとイングリッドは、引いていくキャメラの俯瞰の中に溶けていく。さながらマーサもイングリッドもそして若いミッシェルも、雪の中で息絶えていくかの様だ。美しい映画である。
冒頭に「死の棘」と言ったのは、「死の棘」のテーマはこの映画とは何の関係もないが、小説家(島尾敏夫とイングリッド)が、故意であれ偶然であれ日記(島尾敏夫自身が不倫の相手のことを書いた日記とマーサの戦場日記)を読ませた、あるいは、読んだことで、物語(小説と映画)が生まれるということが双方に通底するテーマと感じたというたわいもないことである。
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