ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
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心のドアは開いている
人の欲望や尊厳を刺激的かつ意欲的に描いた作品も印象的だが、やはりペドロ・アルモドヴァルと言うと、女性や家族を題材にその様々な愛のカタチを色彩豊かに謳い上げた作品が思い浮かぶ。『オール・アバウト・マイ・マザー』や『ボルベール 帰郷』などがお気に入り。
初の長編英語作品に挑戦してもそのスタイルは変わらず。
もし、あなただったら…?
長らく疎遠だった友人に死期が近い事を知る。
再会し、頼まれる。
“その時”、隣にいて、と…。
作家のイングリッドは知人から、旧知の戦場カメラマンのマーサが重い病で入院している事を知らされる。
久し振りに再会。マーサは末期のガンで余命僅かであった。
空白の時間と残された時間を埋めるかのように語り合う2人。
そんな中で、治療を拒み安楽死を望んでいる事、“その時”に隣にいて欲しいと頼まれる。
悩むイングリッドだったが、2人は森の中の小さな家で共同生活を始める。
マーサは言う。隣の部屋のドアは開けておいて。もし閉まっていたら、その時私は…。
もし自分が同じ事を頼まれたらどうするだろう…?
承諾する…?
いや、それより前にまず思う。何故、私…?
親しい仲ではあったが、もっと親しい人や身内もいる筈。マーサには娘がいる。
しかしマーサにしてみれば、イングリッドにしか頼めないのだ。
べったり寄り添い合う仲だと拒まれる。それに、私たち母娘の事情も知っている…。
戦場カメラマンとして名は馳せているが、決して満ち足りた人生ではなかった。殊に、家族に関して…。
戦地で出会った恋人。彼の子供を宿すも、PTSDになり、他人を助ける為に火に包まれた家へ…。
両親の愛にほとんど恵まれなかった娘ミシェル。
死期が迫って関係を修復したいなんて一方的…と痛烈に描いた某映画もあったが、やはり人が最期の時思うのは、自分の事より愛する者の事なのである。
語り合ったり、映画を観たり…。
空白を埋めるこの一時一時は青春のよう。
若かろうと中年だろうと、その顔の輝きに違いはない。
でも度々、不安に駆られる。今日起きた時、ドアが閉まっていたら…?
風などでドアが閉まっていたらたまったもんじゃない。
そして遂に、“その時”が…。ベランダのチェアに眠るように横たわるその姿に、覚悟はしていたかのように…。
何故、自分が頼まれたか…?
私に出来なかった事を、きってあなたならしてくれると、託されたのだろう。
イングリッドはミシェルに連絡。
やって来たミシェルと共に、2人で過ごした森の中の小さな家へ…。
ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアのケミストリー!
劇中さながら受け身に徹したジュリアンに対し、ティルダのさすがの土壇場。
本当に末期ガンに思える役作りは勿論、何と母娘一人二役…!
娘役時の若々しさやそれを演じてしまうのにも天晴れだが、母娘一人二役に強いこだわりと母娘の切っても切れぬ縁を感じた。
静かな森の中の、美しい家の中で…
母の思いに触れる娘、その傍らにいるであろう母、それを見守る友人…。
アルモドヴァル作品の中でも、最も眼差しや余韻が暖かい人間讃歌。
安楽死は、尊厳死
癌になりたくない! 特に日本では
今の保健医療体制では、抗癌剤はルーレット。
その薬が自分に合っているのか、効果が期待できるのかは問われないし
それを調べることさえ出来ない
たまたま効けば Lucky~! これが現実
薬は担当医によって、その病院と提携されているものだけが提供され
病院では、癌の餌となるブドウ糖を点滴される
その人の癌に合った食事も、調べてもらうことはないままに
吐き気、嘔吐、倦怠感、脱毛、痛み、朦朧とした日々が続く
激痛を抑えるために打たれる某薬によって、感覚はなくなり、家族にもちゃんと意思を伝えることも出来なくなり、延命治療の末、自分や国の大金を使って、
文字通り「眠るように亡くなっていく」そこに生き抜いてきた者の意思はない
これが、人間の最期の姿であって良いはずはない
1日も早く法律を変えなければ、明日は我が身である
自らの意思で選択した安楽死が、犯罪だという社会で大丈夫なのか
マーサのように、最期は自分で見つめ、考え、実行できる社会でありたい
いえ、そんな社会にしなくてはならない
この作品が、2021年に安楽死が合法化されたスペインの映画であることは、
世界への問題提起でもあるのかも知れない
家族や愛する人の尊厳死を受け入れる側の苦悩も、
イングリッドを見ていて、痛切に感じるし胸が締めつけられるが
「死」を忌み嫌うものとしての位置づけから、次の生への楽しい旅立ちだと
捉える考えも、今後は必要になってくる気がする
苦しむ人に寄り添い、共感し、全てを受け入れるなんて、強くないと出来ない
ただそばにいることが、当事者にとってどれ程安心できるのか
大病を経験した者には、きっと分かると思う
マーサの部屋のドアが閉まっていた(実行した)時のシーンは、必要悪?
まさに、この映画のハイライトだ
死ぬ間際にあんな大豪邸に思いつきで住めるのは、ごくごく一部の富裕層だけ
あまりにも趣味のいいアート、カラフルな服や部屋、そして調度品の数々が、
この映画からリアル感と共感を削ってる
親友の方も、1ヶ月間、仕事もしないで付き添えるなんて、庶民にはあり得ない
髪の毛も抜けていない美し過ぎる癌患者マーサ これも現実ではあり得ないけれど
それでも心に残る素敵な映画だった
見終わって振り返ると、「自由だ」とマーサが礼賛する同性愛者の2組の珍しい生き方が
核となって深海を流れていた
そして最後に、親友でもあり作家でもあるイングリッドが
詩を紡ぎつつ、エンディングへ
雪が降っている
一度も使わなかった寂しいプールの上に
森の木々の上に
散歩で疲れ果て あなたが横になった地面に
あなたの娘と私の上に
生者と死者の上に降り続く
西洋の宗教感では次の部屋は2つしかない。天国と地獄。だから、騒ぐ
マンハッタンのど真ん中で摩天楼をバッグにして雪が眺められる個室。
そんな手厚い治療を受けている人が、死は自分で選びたい。(?)
付け足して、ご都合主義の如く戦争でのトラウマを添加する。冷静に考えれば、その多くのトラウマの元は西洋による侵略の成れの果て。
夫がベトナム戦争へ行って、自決の如きに死をえらぶが、相変わらずのアメリカの戦争感。アメリカ軍による侵略行為がどれだけベトナムの一般市民に傷を残したか。相変わらずである。
エドワード・ホッパーとかアンドリュー・ワイエスの絵を意識しているのは分かるが。ちょっとばかり稚拙。
この映画の角度で安楽死が語られると、必ず優生保護法の話が復活する。
「苦しまずに死にたい」って気持ちは分かるが、だから「死を選ぶ権利を寄こせ」は少し横暴だろ。それを法制化するなんてもってのほか。
西洋の宗教では、自殺では地獄へ行くから、それに異議を唱える。そこから安楽死の是非は始まっている。
従って、そう言った宗教感の無い日本人は、自ら青木ヶ原へ行く以外無い。
生きている限り、それはリスクとして死ぬまで持なねばならぬもの。
平常心であれば、最初から死にたいと思う者はいないだろ。
「自分の死」を、自己がコントロールする権利
知的、合理的、情け容赦がない、孤高、
そんなイメージのティルダ・スウィントンが主役です。
湿っぽくもお涙頂戴になる筈がありません。
元NYタイムズの戦場従軍記者で、ボスニアやイラクを取材した
マーサが癌になり療養中。
その情報を、作家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、
自身の出版記念サイン会で、友達から知らされる。
早速見舞いに行き、旧交を温める。
子宮頸がんのステージ3で、抗癌剤治療の途中であると聞き、
励ますのだった。
しかし次に見舞いに行くとマーサは抗癌剤治療の成果がまったく
なかったことを怒り、治療を後悔していた。
「やはり、自分の勘の通りにすれば良かった・・・」
そして、暫くして、マーサはイングリッドに、ある頼みを話す。
ネットで劇薬を手に入れていて、頭がはっきりしているうちに、
薬を飲んで自殺する。
それをマーサに見届けて・・・と、
隣の部屋にいてほしいこと、
“ドアが閉まっていたら、それが決行した合図よ!!”
と、頼むのだった。
癌の治療を見聞きしていると、再発して骨や脳に転移して、
苦しんでしかも治療費や保険の利かない注射に大金を使い、
結局は苦しんだ挙句に闘いに敗れる。
「自分の死」なんだから、主導権は自分が握りたい、
そう思うのも自然なことだと思います。
マーサが言います。
もう楽しいことが何もない、
化学治療のせいか、頭がすっきりせず、
★本も読めない、
★文章も書けない、
★音楽を聴いても虚しい、
★映画も楽しめない、
(私も映画が面白くない・・・そうなったら生きていたくないかも)
マーサが癒されるのは、鳥のさえずりだけ・・・
自殺を決行するために借りた家は、超モダンな邸宅。
外観はなんとも歪で、窓枠が四方八方を向いている。
しかし広いガラス窓にウッドデッキが、とても美しい。
マーサはイングリッドに、剃りの合わない自分の娘ミシェルの事を
語る。
ミシェルは母が秘密にしている《自分の父親》を知りたがったこと。
殆ど産みっぱなしで、子育てを親任せにして、
自分は戦場を飛び回ったこと。
自殺した後の警察への対応や遺産のこと。
甘さや装飾のない削ぎ落とした個性のティルダ・スウィントン。
女性らしく瑞々しいジュリアン・ムーア。
原作はイングリッドの小説らしい。
ペドロ・アルモドバル監督も年齢を重ねて、成熟した印象です。
それまでのホモセクシャルの立場から性的マイノリティの
過剰なテーマから、人間の本質を見つめる作風に変化した印象です。
テーマは終末医療へのアンチテーゼだと思いました。
一人二役が映画全体の印象を白けさせてしまうのが残念
ダブル主演の一人のジュリアン・ムーアが色気があって良いです。
全編が死の予感で満ちている。
人は2人しか死なない(1人は回想での死)のだけれど、ずっと死について考えていく映画。
単純と言えば単純な物語。
もっと深いメッセージが含まれているのだろうと思うけれと、私には読み取れなかったな。
良い感じで終盤まで辿り着くのだけれど、もう一人の主役のティルダ・スウィントンが、死んだ後に娘役でもう一度出てくる。
それが、映画全体の印象を白けさせてしまうのが残念。
ジュリアン・ムーアが演じる親友の心象を反映していることを、この二役で表しているのだと思うけど、あれじゃコントです。
深い…
観ている間は、看取りを頼まれた主人公の心の動きに共感してたけど、冷静に考えると誰にとっても安楽死がベストなわけじゃないし、安楽死が選べる環境についてもまだまだ議論の余地はあるわけで…
難しい…
主人公が友達の日記を無断で鞄に放り込んだのには啞然とした。
でもそれが人間だし責められないよね…
最後、亡くなった友達の娘さんに会ってもすごく冷静で、主人公の表情に何を見るのかは人によって全然違うかもなぁと思いました。
女性らしいわがままがむしろ羨ましかった
女流小説家(ジュリアン・ムーア)は新刊本のサイン会で10年以上疎遠だった知人の女性戦場ジャーナリスト(ティルダ·スウィントン)が癌で入院中と聞き、病室を訪ねる。ステージⅢの子宮頸癌で治験プログラムの対象だったが。肝臓と骨に転移が見つかり、治験薬の効果はないと悟った彼女から安楽死の立会を頼まれる。
ジャーナリストには10代で産んだひとり娘がいたが。娘の父親は高校の同級生で、ベトナム戦争でのPTSDが原因で亡くなっていた。父親の存在をわざと伏せ、仕事に逃げたせいもあり、母娘関係は長い間疎遠なままだった。
スペインの巨匠アルモドバルの初の英語版映画。アルモドバル監督らしい、こころの機微を二人のベテラン女優がごく自然な演技で魅せてくれる。二人の共通の元恋人のデミアンが完全に黒子に徹するのが粋。初恋の男がベトナム戦争で壊れて帰って来たのに、戦場ジャーナリストになるっていうのはちょっと理解しがたかったが、どんな覚悟だったのだろうか。
マーサの娘、そっくりでした😎
真っ赤な口紅に黄色のスーツ。ベランダのソファ以外に高いんですよね。きっと。
あっぱれ! 貴女は生まれ代わる
アルモドバルが今回取組んだテーマが尊厳死で、末期(確かレベル3)という友人の死に付き添おうとする作家が主人公になる
ジュリアン・ムーアはさすがに存在自体で役にはまっているが、前回鑑賞したメイ・ディセンバーとは真逆のキャラクターで、死にゆく友人に自分を抑えて寄り添う
対してその末期の友人のティルダ・スウィントンは一人では死にたくない、人の息遣いがする空間で最後を迎えたいという考え ウーンと唸ったのはそれはわがままなのか?自分らしい死を迎えたい意思自体は分かるが、他者を巻きこんだこのドタバタぶりにアルモドバルの皮肉が込められていそうだと思った
自作で生い立ちや母への郷愁をあれほど繰り返した監督が、そのことを悲嘆場だけで済ます訳が無い その答えはラストのスウィントン二役の娘の登場で完結した
死にゆく女性は友人を利用し、娘とは疎遠とのたまったとしても、見事にその精神は引き継がれ、まさに生まれ変わって登場する 男にはまさに出来ない芸当 あっぱれとしか言えない まさに女性万歳がテーマだと気づいた時、アルモドバルらしいアメリカ映画なのだと納得した。大好きな所以なのだ
とてもよかった
これでもかと言うほどしっかり死と向き合っている。見ている間ずっと死について考えさせられ、しんどいが緊張感があって引き込まれる。
それにしてもいくら友達とは言え、あんまりなお願いをしすぎではないだろうか。結局警察に詰められるし、しかもあの賃貸物件は事故物件だ。アメリカではあまり気にしないのだろうか。
ジュリアン・ムーアには子どもがいないようだ。作家として充実した人生を送っている。二人とも富裕層でフルーツを食べきれないほど平気で買う。しかしどんなに大金持ちでもお墓にお金は持って行けない。だけど死ぬときにカツカツなのもつらい。
現れた娘が亡くなった友達と瓜二つで、ご本人の二役なのだけど、亡くなったばかりなのに再びご本人登場で喪失感が削がれる。娘だとしてもゲソゲソで末期がん患者みたいだし、お父さん似でぽっちゃりした子がよかったのではないだろうか。
タイトルなし(ネタバレ)
作家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、書店のサイン会でかつての友と再会し、かつて恋人を奪い合った仲の親友マーサが重い病で入院していることを知らされる。
病室で対面したマーサ(ティルダ・スウィントン)は治療に対して後ろ向きだった。
一人娘とも折り合いが悪い。
それは、マーサが子育てを一顧だにせず戦場カメラマンとして活動していたからだが、娘の出生とその後の娘の父親のいきさつも関係していた。
そんなかつての話をイングリッドに語ったマーサは再び治療に専念に、いっとき光が見えたかに思えたが、病状は急激に悪化。
遂には、自身の最期の姿を描くようになった。
それは、自ら選ぶ死。
ただし、誰かに看取られたい。
が、その誰かは娘ではない。
何人かの友人に相談したが断られた末、最後の最後、マーサが頼みにしたのはイングリッドだった。
ふたりは、郊外の森のなかにあるスタイリッシュな邸宅で、マーサ最期の日を迎えることなった。
ただし、その日がいつかは、まだわからない。
いつも開いているマーサの部屋のドアが閉まった日、それがその日なのだ・・・
といった物語。
鑑賞から2週間近く経ってのレビュー。
鑑賞直後は、本作、個人的にうまく咀嚼して飲み込めず・・・という感じでした。
(いまは飲み込めているけれど)
観ていて気になったのは、映画前半の語り口。
森でのふたり暮らしを始めるまでの導入部で、ここをしっかり描かないと後半につながらないので難しいところ。
だが、語り口として採用した演出は、やや安直で上手くない。
マーサから語られる過去のエピソードが、過去シーンの映像となって再現される。
彼女が直接体験したエピソードはそれでもいいのだけれど、娘の父親の最期のエピソードを再現する必要はなかったなぁ。
なにせ、マーサは現場におらず、あくまでも伝聞事項なので、観客にわかりやすくするだけの演出。
イングリッドに語るだけでは観客に伝わらないと思ったのかもしれないが、あくまでもマーサの出来事として描かないと視点に乱れが出る。
マーサの視点で描くなら、語りは語りのままで、娘の父親の最期の地を彼女が訪れ、そこに立つ画を写す、とかか。
森のなかの邸宅のエピソードの数々は、さすがに上手い。
いずれも、すぅっと心に入って来る。
が、映画最終盤で、マーサの娘が登場したあたりから困惑した。
まあ、マーサの娘を○○が演じていることもあるのだが、マーサとイングリッドの話から、アルモドバルお得意の母娘の話にまたしても帰着するのか、と。
なので、鑑賞直後は、あまりうまく飲み込めず。
が、3度登場する「雪降る」シーンから考えると、うまく飲み込めるようになった。
(3度のうち1度は、映画『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』の映像)
死者と生者に等しく雪は降る・・・
死者と生者を隔てるものは、ほとんどない。
ただ、死んでいるか、生きているか。
マーサの娘とイングリッドが並んでいるラストショット、イングリッドにはマーサが生きていることを実感したのだろう。
死の自己決定権、死に方を選べるということ
安楽死、尊厳死の問題は世界中で議論が活発で、もはや避けては通れない問題。誰もが当事者になりうるから本作は身につまされる思いで鑑賞した。
自分がマーサの立場だったら、イングリッドの立場だったら、どうするだろうか。自分と親友とに当てはめて考えた。主演のお二人は少し上の世代だけど、その年齢になって同じ状況に立たされたらどうするだろうか。
イングリッドの立場なら、もし隣の部屋にいてほしいと頼まれたらそうするかもしれない。劇中の彼女のようにマーサの心変わりを期待しつつ何か打開策が浮かぶかもしれないと淡い気持ちを抱きながら親友のそばに付き添ってあげれるし。ただ、毎朝の安否確認のために部屋のドアを確認しに行くのはさすがにメンタル的に応えるだろうな。
たまたま風でドアが閉じてしまってそれを見たイングリッドが悲しみに暮れてるところにマーサが平然とした顔で現れるくだり、あれはやると思ってたけど、イングリッドにしたらたまったもんじゃない。あそこで彼女はリタイアするかと思ったくらい。
自分が自殺ほう助の容疑をかけられるリスクを負いながら引き受けた彼女には感心するけど、ただ仲のいい友人だからというだけでなく彼女の小説家という職業が関係したのだろう。こんな体験はなかなかできないだろうし、実際に本を書きたいと言ってたしね。
ではマーサの立場ならどうだろう。こちらはイングリッドほど答えは簡単ではない。実際に彼女のような状況に置かれないとその心理を読み解くのは想像だけでは難しい。治る見込みのない病の治療を続ける苦痛、薬品投与で自分を失いそうになる恐怖。それはそのときになってみなければ実感できないだろう。マーサは化学療法を受けてる間は自分が自分である部分は10%と話していた。
自分を失ってまで、自分らしさを失ってまで寿命を少しだけ伸ばすよりも、最後まで自分らしく生きて最後は自分の意思で人生の終わりを決めたい。そう考えるのも理屈では理解できてもやはり他人事として考えてしまう。
そうなのだ、所詮は他人事なのだ、人の死というものは。自分の死は他人にとっては他人事なのだ。自分の人生も死も、それは至極当たり前のことだ。だから自分の人生をどうするか、どう終わらせるかはとても個人的なことであり他人にとやかく干渉されるものではないのだ。
自分の人生をどう生きるか自分で決められる権利があるのなら、自分の人生の終わらせ方も自分で決められる権利があるはずだ。死の自己決定権だ。
ただ、その個人的な権利と命を尊ぶ社会倫理とが対立する。この問題が容易に解決できないところがそこにある。
命は尊いものだ、神から与えられた命を粗末にしてはいけない、死んで花実が咲くものか、乗り越えられない試練を神は与えない、命尽きるまであきらめずに頑張れば必ず救われるなどなど宗教的教えからことわざまで。そんな社会の固定観念が自己決定権の邪魔をする。
そんなことは聞き飽きた、そんなことは十分承知の上での決断なのだ。何十年も人生を生きてきた自立した人間が出した答えに水を差さないでくれ。そんな当人の気持ちも理解できる。ただ、逆につらい状況下で通常の精神状態ではないのではないかと周りは勘繰りたくもなる。
マーサがイングリッドから同じ問いを投げかけられた時うんざりした表情をしたのは再三同じことを言われたからだろう。
自分が自分であるからこそ自分の意思で決断したのだ、人生の終わらせ方を。どうかその自分の意思を汲み取ってくれ、私の意思を尊重してくれ。そう言われたら周りの人間は何も言い返せないだろう。
人生はよく旅に例えられる。旅の行程、行き先を本人が自由に決められる。そして旅をいつ終わらせるかも。
私の人生の旅はまだしばらくは続きそうだが、もしマーサと同じ状況に立たされた時、旅を終わらせるかどうかはその時の自分の意思で決めたいと思う。
素晴らしかったのですが…
作品自体はとても素晴らしかったです。
死について色々、深く考えさせられました。
鑑賞しながら両者の立場に自分を置き換え、自分ならどうするか?と都度考えを巡らせていました。
監督がわざとこちらに考えさせる時間を与えたんではないか?と思えるほど、絶妙な間を織り込んでいたようにも感じました。決して展開が遅いというわけではありません。それぞれのシーンに深みがあり、こちらに静かに語りかけてくるメッセージが込められていたのです。
それはもちろん、両女優さんたちの素晴らしい演技によるところも大きかったでしょう。
特にティルダ・スウィントンは、本当に命の危機が迫っているのではないかと思えるほど、鬼気迫る迫真の演技を見せてくれました。静かでありながらも、内面に激しさを秘めた演技でした。
ただ、敢えて言わせてもらうなら、娘役は別の女優さんにやってもらいたかったな。
もし娘が出てくるとしたら、恐らく有名ではあるけど意外な大物女優が起用されているのでは?という期待が少しあったので、いざその人が現れると少し興ざめしてしまいました。
確かに意外ではあったのですが、それじゃないだろう、と。
もちろんその方の演技も良かったのですが、せっかく最後まで充実した大切な物語を重ねてきたのに、こちらの気持ちを切られたような気さえしました。その女優さんの使い方はむしろ、言葉はきついかもしれないですが、この映画のテーマ自体を「冒涜」しているような気さえしました。
あるいは、何かコメディのようなオチにすら感じてしまったのです。
もちろん高度なメーキャップ技術のおかけで、人の顔すら変えられるのは百も承知です。過去に「スキャンダル」と言う作品もありましたしね。
しかし、この作品のテーマを考えると、やはりマーサにはそのままフェードアウトしてほしかったな、というのが私自身の正直な感想です。おそらく誰にも共感されないでしょうが…
せっかく中身の濃い良い作品なのに、女優さんの使い方次第で作品に対する想い変えられてしまうのも、何かもったいない気さえしました。
死に際について思い寄せる映画
アルモドバル監督の映画の作風は大体人間のディープな精神世界をシニカルに描かかれており、画角が色彩豊かで細部まで拘ったカメラワークなので、どんどん映画に魅せられアルモドバル監督の世界感にどんどん惹き込まれる作品でした。二人の主人公の立場は逆でどちらにも感情移入でき、こんな終末を迎えられたら(こんな終末を支えられたら)、確かに幸せだろうなと、重いテーマの映画だけど、ハッピーエンドで終わるのがアルモドバル監督の死生観なのかなと、どこか気持ちがスッキリする映画でした。
美しい映像
アルモドバル監督作品はトーク・トゥ・ハーに続いて2作目。
奇しくも病院つながり。
だれも興味ないと思うけれど、トーク・トゥ・ハーでは、介護士のベニグノはレイプしていないと私は思っている。
その作品もこの作品も、生と死が連続する時間の中のイベントに過ぎない、しかし避けようのないものであることを描いているように思う。
当然、愛に満ちた人生の中で。
序盤に病院に見舞いに訪れたイングリッドと電動ベッドを起動して状態を起こしたマーサが会話するシーンは、カメラが水平ではない。
彼女たちの顔は画面の中で右と左にきれいに配置されているが、不思議な落ち着きの悪さを感じさせる。
その後、マーサが点滴のスタンドを左手に持ってイングリッドを見下ろす様に直立しているシーンは、ファンタジー映画の賢者のようである。
マーサがいよいよイングリッドに提案するあたりから、イングリッドの衣装がマーサ側に寄ってくる。
それまでは、イングリッドは柄物の衣装が多かった。
それが通俗世界から閉鎖世界へ転移する予兆にも思える。
二人とも社会で成功した人たちなので、経済的に豊かであり、都市部のアパートメント、VOLVOのワインレッドの車、最後の贅沢よ、と言って借りる林の中の邸宅、うらやましい限り。
出てくる食べ物も、動物性のものはなく、ベリーを中心とした果実。エデンの園か。
人参スティックも食べていたな。
闘病ものではないので、闘病で苦しむシーンはほとんどない。
経験したことのある人からしたら絵空事にしかみえないかも。
マーサの提案から死まではイングリッドにとってはホラー物語だろう。
舞台を山荘に移動したことで、さらに現実味が薄れる。
妄想と現実の間を漂う時間が、描きたかったことなのだろうか。
そういう点は、たしかにピナに通じるかもね。
会話劇を彩る色彩・詩的表現の美しさと、悲劇を生きること。
ペドロ・アルモドバルが監督をして、ジュリアン・ムーアとティルダ・スウィントンが主演。
どんな仕上がりだろうと、この座組の映画を見逃すのは有り得ない。
そう思う、中年女性による感想です。
舞台がアメリカ・ニューヨークで、英語作品。だけど?相変わらずの鮮やかな色彩。
とはいえ、わたしには今までのスペイン語作品より、寒い地域っぽい色使いに思えた。
トーンがちょっと抑え目で、シックな感じがするような。
太陽の眩しい光ではなく、鈍色の空から降る雪に映える色ってかんじ。
森の中の家で夜更かしして映画を見ているときにマーサが着ていた、
多色切り替えのチャンキーなセーターとか、マネして編もうと思えば編めるなーとか思った。
森の中の家の裏庭の赤と緑の椅子(プールサイドにあるようなやつ)とか、緑のソファーとか、イングリッドの家のガレージっぽさとか、ニューヨークのマーサの家のカラフルなキッチンとか、いろんな色使ってるのにまとまっていて落ち着く感じの部屋に住みたーいと思った。
子宮頸がんを患って、尊厳死を望むマーサは、その日を迎えるとき隣の部屋にいてほしいと、旧友イングリッドに頼む。死を恐れるイングリッドは戸惑いつつも、マーサに寄り添う。
ほぼ2名の会話劇。一人で抱えられなくて、部分的に共通の元カレであるダミアンに、イングリッドは相談する。
アメリカの法律なのか、尊厳死は自殺扱いで、その手助けは自殺教唆として裁かれるみたい。
マーサの娘への思いや、そこに至る経緯や、戦場での思い出、なぜ尊厳死を望むかなどを、
2人は語らう。
ダミアンの厭世的な現実の受け止め方、わかるってなった。
新自由主義となんとか(右翼的ななんかだったっけ?資本主義?全体主義?)があかんのやってところ。
息子夫婦が3人目の子を作るので、それを非難?したら息子に嫌われたとか、あたり前やでと思うが面白かった。すみません。ひとが生まれても木は産まれないってのもわかる。
で、この世は悲劇で、悲劇を生きる苦痛を和らげるのに、性交は効果的で、とかも面白かった。
イングリッドの、悲劇を生きる方法はあるでしょっていうのも、わかる。
どんなに嫌な世の中でも、今生きてるし、マーサは別としてまだ生きたいと思っているなら、どうにかして楽しみを見つけて生きるしかないもの。
で、マーサです。治らない病気、苦しいだけの治療。思考が鈍り、憂鬱になる。
そこから自由に、自発的に逃れたいと決めている。
薬の置き場所を忘れたりとか、その時のサインとしてドアを開けておく約束を忘れたりとか、病気による思考鈍化によって、行動が危うくなる感じ、すごくリアルだと思った。
ああやって重い病気が進行したら、いつかわたしもああなるって、おもった。
まだわたしは生きたいから、心情はイングリッドに重なるけれども、いつかマーサの気持ちを味わうのかもしれない。未来の予行演習をしているような気持ちになった。
ジェイムズ・ジョイス原作の映画『ダブリン市民/ザ・デッド』(見たことないけどね)の引用も印象的だった。雪は生きるものにも死ぬもの(死んだもの?)にも降り積もる、みたいなところ。
自分の死を、詩的に受け止められるというのは、美しいことのように思えた。
いい映画でした。
字幕翻訳:松浦美奈さま
究極の「おひとり様の最期」
元・戦争ジャーナリストで今は末期癌の患者となっているマーサ(ティルダ・スウィントン)と、その古い友人で小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)がともに過ごす数週間が描かれる。苦しむことなく美しいうちに死にたいと望むマーサは、自分の意思で最期を迎えることを決意し、イングリッドに最期まで寄り添ってほしい-隣の部屋(ルーム・ネクスト・ドア)にいてほしい-と依頼する。
マンハッタンの病院とそれぞれの住むアパート、その後に過ごす場所、マーサの衣装、と全篇うつくしい映像で埋め尽くされている。(とくに病院は、セントラルパークを見下す大きな個室で、余程の金持ちでないと入れそうにないが、とにかくゴージャスで美しい。)
しかし。親友とともに過ごす美しい最期の日々、といった話では、実はない。イングリッドは唯一無二の親友というわけではなく、マーサが他の何人かに断られたあげくに頼んだ相手。生涯を通じて疎遠だった娘には知らせることを拒み、会わずに死ぬ。イングリッド以外の、死が近いことを知っている友人や昔の恋人も、訪ねては来ない。
マーサは徹底的に一人で、たたかって生きてきた、現代先進国の「おひとり様」である。徹底して孤独な代わり、それなりの仕事をやり遂げ、多少の贅沢もできる。だから最期まで、自分ですべてをコントロールするのはむしろ当然のことだろう。戦争ジャーナリストとして悲惨な現場を見続けてきたにもかかわらず、あるいはだからこそ、世界一豪華な街ニューヨークで、きれいで贅沢なものに囲まれて、病気でボロボロになる前に、幕を下ろす。死んだあとの世話役も後始末も、みんな手配しておく。実にみごとな「おひとり様の最期」である。
マーサの最期は一つの理想、と考える人は決して少なくないのではないか。徹底して孤独だが、最期まで自分らしく、言い換えればめいっぱい我儘に、自分のやり方で生き抜いた。
しかし、それに対してイングリッドは葛藤を抱え続け、結局生前には会えなかったマーサの娘は死後に訪ねてきて複雑な感情を見せる。マーサの死を取り調べる警官は「自殺は犯罪だ」ときっぱり言う。マーサがイングリッドに「隣の部屋(ルームネクストドア)」にいてほしいと頼むのも、単に後始末のためだけではなく、文字通りの「孤独死」には耐えられないと思ったからだろう。
現代先進国の「おひとり様」(女性だろうと男性だろうと)にとって、死は、自分でコントロールできない唯一のものであり、しかも必ずやってくる。この人生さいごの難題への回答として、アルモドバル監督は、「おひとり様の最期」の一つの究極の形を美しく描きつつ、それを全面肯定してはいない。「おひとり様」にとっての人生さいごの課題、というテーマ設定の鮮やかさがすばらしい。
死を見つめる旅、成熟への道ーーアルモドバル監督の新たな到達点
ペドロ・アルモドバルが初めて長編英語作品に挑んだ『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』。これまでの彼の作品と比べると、情熱的な色彩や感情の爆発は抑えられ、より静かで内省的な作品に仕上がっている。監督自身が老境に入り、死と成熟に向き合い始めたことの表れのように感じられる。
そして本作もまた、監督のその精神性を反映した、、死に向き合うことで、精神を統合し、成熟していく女性二人を描いた作品だと感じた。
主人公は、小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)。彼女はかつての親友マーサ(ティルダ・スウィントン)から突然連絡を受ける。マーサは末期の病に侵され、意識のはっきりしているうちに自死を選ぼうとしていた。しかし1人でそれをすることは叶わず、かつての友人イングリッドに「私が死ぬとき、隣の部屋にいてほしい」と頼む。このリクエストに戸惑いながらも、イングリッドは彼女の最期の日々に寄り添うことを決める。
マーサは10代で妊娠し、母性を発揮することができず、子供を手放すかのように、仕事に邁進した。彼女は「人生をコントロールすること」に執着し、戦場記者として世界を駆け巡った。
極限の状況を生き抜くことで、自分の意志で自分自身と世界を支配できるような男性的英雄像を自分の中に持ち続けたのだろう。
しかし、病に侵され、死が迫ると、自制心が崩れ、思考が曖昧になることを何よりも恐れるようになる。だからこそ、彼女は「死さえも自分で決める」ことで、最後まで自己を支配しようとする。
だが、イングリッドとの再会、そして過去を振り返る対話を通じて、マーサは「コントロールする自己」を手放し、自分が避けてきた無意識の領域と向き合う準備を整えていく。
彼女たちはかつて、時間差で同じ男性と恋人関係にあった。環境学者となったレナード(ジョン・タトゥーロ)は、今や気候変動の研究をしているが、未来に対する恐怖に囚われている。本の発売イベントでは質問を受け付けず、「臆病者」と罵られたと語る。彼は右派の攻撃を恐れ、気候変動についても「もう地球は終わる」と怯えている。
マーサは死と向き合い、自分の過去とも向き合うことで、強さや成熟した精神性を身につけていくように見える。それに寄り添うイングリッドもまた「死が怖い作家」から「死と対峙する作家」へと成熟していくようだ。
そして、かつての恋人の男レナードだけが、成熟を果たせず取り残されてしまう。この精神的な成熟の差が浮き彫りになることで、いずれ別れるのだろうと予感させる。
マーサには、長年連絡を取っていなかった娘がいる。彼女は母に捨てられたという怒りと悲しみを抱えたまま、母のマーサとは和解できずにいた。
マーサは娘と再会せずに旅立つが、マーサが死に場所に選んだ家にマーサの娘を迎えて、母と娘の精神的な和解を見事に仲裁する。和解できなかったことで罪悪感に囚われそうになるマーサの娘に、そっと寄り添い、彼女を勇気づけるかのようだ。
この瞬間、イングリッドは「導く者」としての役割を果たし、彼女自身も精神的に成熟したことが示唆される。
「死を恐れるのではなく、それを受け入れることが、精神の成熟につながる」というメッセージが、静かに、しかし力強く響いてくる。
ペドロ・アルモドバルは、75歳にして、かつてのハイテンションな作風を脱し、静かに、深く、人生の終焉と向き合う境地にたどり着いた。「死と向き合うことは、生を統合すること」というアルモドバル監督の深い精神性と成熟した知性に触れられる名作であると思う。
尊厳のある死を望む
なんとなく海外映画が見たいなと思いちょうど始まっていたこちらを拝見。
自由奔放に生きてきた、だから死ぬのもただ座して待つのではなく自ら選ぶ。
そういう女性の話。
物語としては淡々と進んでいき、別にどんでん返しがあったり大盛り上がりのクライマックスがあったりはしません。あらすじや公開前の紹介内容が全てです。その紹介に興味が持てる人なら満足するだろうし、ピンとこない人は見に行ってもピンとこないと思います。
あらすじ通りの話が淡々と進むだけではあります。
どこまで書いたらネタバレなのかもよくわからないのでネタバレありにしときます。
死を選ぶとは言ってもやっぱり劇中の描写から見る限り強がりや周囲への説得的な面が強く、女性自身も全てに納得がいってるかというと、そうでもありません。
そもそも死ぬ時に近くに誰かがいてほしいというのがそれを端的に表しています。
自由に生きてきた結果、人生の中で色々なものを切り捨ててきた。
死の間際に立った時、自分の周囲に残されたものの少なさに愕然とし、人生の中で関りを持った友人たちを頼る。
紹介を見た時は昔見た「海を飛ぶ夢」という映画を思い出しました。
ただ、「海を飛ぶ夢」は尊厳死が強いテーマ性としてありましたが、
本作はどちらかというと、「孤独死」がテーマだったと思います。
孤高に生きた女性の孤高な死に方、ではなく、
どんなに自由に生きてもやっぱり最期は人として社会との関りを実感したいという欲求からは逃れられなかった、と受け取りました。
独身おじさんの私にとってもものすごく身につまされる話でした。
自分の死に際して悼んでくれる人達がいるだろうか…病室でただただ衰弱し、医療従事者達の業務処理の一環くらいに淡々と自らの死が流されていくのだろうか…
若き日の自分を知る誰かに看取られて逝きたいという彼女の悩みと計画はものすごく突き刺さりました。
確かに看取ってくれる家族がいなかったら友人たちに囲まれて楽しい旅の中で思い出を振り返りながらぽっくり逝けたら理想だよなぁ…とは思います。
現実には絶対実行できませんが。
実際はマーサはもっとやりようはあったと思います。
娘との確執は解こうと思えば解けたはずで、とはいえ死ぬ前だけ母親面して看取ってくれとは言いづらい、という悩みもわからないではない。ただそれは本来マーサ自身がきちんと清算すべき人生のツケだったと思います。
結局巻き込まれたイングリッドは相当面倒事になってるし。
イングリッドがマーサが人生に残したツケの清算を押し付けられた形になっているのは否めない。こんな面倒事引き受けてくれたんだから相当お人好しだよイングリッド。変な悲観論者の元カレ引きずってないで前向きに生きてくれ。
そういう意味ではマーサは死の間際まで周囲を巻き込んで好き勝手に生き抜けたと言えるのかもしれません。
現代法治国家では到底容認されない計画ではありますが、こういう選択も理想のひとつとして確かにあるという一石を投じていると思います。
死生観という点では特に目新しいものはなかったですが、今際の際でもこういう足掻き方もあるんだなぁという気付きを得られたので良い映画だったと思います。
生者にも死者にも雪は降り積もる
映画を観ながら若くして病気になった友人を思い出した。亡くなった時に、「まだ若かったのにかわいそうだね。」と言う人もいた。本当にかわいそうなのだろうか?可哀想と言うこと自体が失礼な話なのではないのか?一人悶々と考えたが自分自身がなぜこれほどまでにその発言に怒りをおぼえたのか分からなかった。
マーサの癌で生き残ったものは勝者、死んだものは敗者という認識をされる。だから自分は癌より先に死を選ぶという発言を聞き、あの時の違和感は勝者、敗者というカテゴライズされているように感じたために自分は嫌悪感をおぼえたのかと妙に納得した。
自分がマーサの立場なら?イングリッドの立場なら?どうするだろうか。
自分の死は自分で選びたいと願っても痛みを和らげるのみで、安楽死を選ぶことは日本でもできない。以前、難病患者の嘱託死事件がニュースとなり日本でもかなり安楽死については論争が起きた。延命をさせる技術は発展しているのに、死を望む人にはその権利は与えられない。当事者でないともちろん想像できないがなんとも苦しい気持ちになった。
自分がイングリッドならあの提案を受け入れたやろうか?考えても考えても結論は出ない。映画を観終わってからもそのことが頭から離れない。イングリッドはほんまに愛情深く優しい人物で、マーサもまた聡明で思慮深く友人思い。マーサにとっていい最期であったと思いたい。
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