ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
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冷蔵庫の中に、おーいお茶。
筋張った美人お姉さま夢の共演で末期癌の友人のお見送りのはなしです。
キリスト教圏は基本自死は認められてないんですが、尊厳死は州によって認められてる所もあったように思う(うろ覚えなんで各自確認して下さい)さらに自殺の幇助となると殺人に手を貸した的な法的解釈になってこの問題も一本映画出来ちゃう位の話になるんで本作では二人にとっての厄介な問題程度の扱いです。
達者な役者達だし、話も見応えあったんだけど前半からアップが多すぎて暑苦しかったかなと思った。
自分ならもっと引き絵中心にしてアップはここぞというとこだけにすると思う。
鮮やかなNY
アルモドバルが撮るとNYがこんなにも鮮やかになるのかと思った。赤、緑、黄色がとても映える。鳥の声、ひらひら舞う雪。
スペインに行ったことがなくてアルモドバルでしか知らないから、行ったらがっかりするかもしれない。
特別仲が良いわけでもない、何番目かの友達同士というのがいい。死に向かいながらも深めていく仲、新しく積み重なる思い出。そうして2人は永遠になる。
娘と生きて和解するのではなく、死んでから分かりあうのもしみじみとした。生きているときはうまく行かなくても、分かり合えるときは来るし思いは届く。
アルモドバルは確かお母さんを亡くしたと思うんだけど、それを経ての母娘関係の描き方のように思った。
子がいてもいなくても、死を迎えるときはひとり。この辺りはゲイなど子のない人々への優しさを感じた。
戦場でいつも死が身近にあった彼女にとっての生と死とは。ベトナム帰還兵の深い傷。戦場で恋人と生き抜くこと。
あんなすごい家どうやって見つけたのだろう。月100万くらいで借りられるのかなあ。病院の個室といい、住んでるアパートといい、ものすごくお金持ちだ。
警官役に見覚えがあって、アレッサンドラ・ニボラって名前が懐かしかった。
英語のアルモドバルはいつもより素直に見られる気がした。もっといろんな街を撮ってみてほしいなあ。若いころのエネルギッシュな感じから、円熟味を増してこれからの新作がますます楽しみだ。
美しい最期を描いた美しい映画
痛みと苦痛に耐えてまで効果が不確かな新治療を受けることを拒否し、人間らしい最期を望む女性と、彼女を理解し寄り添う親友の姿に心から共感する。
安楽死の是非を安っぽく云々することなく、そういう選択をした女性をただ淡々と描いている。
スクリーンはとにかく美しい!
窓から見る景色は全て完璧で翳りなく、雪の降る様子も、森の木々を通して見る空も、何もかもが永遠を思わせるように輝いている。
最期の数日を過ごす女性のカラフルな服装もとても似合っている。
最後の一日まできれいに装う女性の生き方が、イコール彼女の死に方であることが悲しい。
主演ティルダ•スウィントンの中性的な佇まいは、まだ生きているのかすでに死んでいるのかどちらでもない、あるいはどちらでもあるような揺れる魅力を放っていて、その魅力に釘づけになる。
▪️最期の地として選んで借りた家の冷蔵庫を開けた時に、おーいお茶が入っていて笑った!
ただただ美しい
アドモドバルの作品はたくさん見てきたが、僕にとってこの作品は間違いなく最高傑作である。
画面一つ一つがまるで絵画のよう。耽美主義者アドモドバルの面目躍如というところ。家具や家財道具の色遣いから配置、構図まで丹念に配慮した映像。美しい画面にくきづけの2時間。
生きることと死ぬことについて語り合う二人。ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーア、まさに名女優の二人芝居である。一つ一つの言葉をすべて聞き逃すことなく映画を観ることは難しい(もう一度観てみよう)。死生感は人それぞれ。しかし自らの尊厳を保ちつつ生き、そして死を迎えたいという考えに異論はない。尊厳とは何かという問いに対する自分なりの答えが見つかれば生き方、死に方に対する答えも自ずと決まるだろう。
エドワード・ホッパーの絵画から抜け出たような無機質の美しさを湛えたスウィントン、病におかされ痩せた彼女が綺麗に化粧をし自らの身体に命を吹き込み、そして静かに最期の時を迎える。その神々しさにはただただ息を呑むばかりだ。
勘違い
会話劇を彩る色彩・詩的表現の美しさと、悲劇を生きること。
ペドロ・アルモドバルが監督をして、ジュリアン・ムーアとティルダ・スウィントンが主演。
どんな仕上がりだろうと、この座組の映画を見逃すのは有り得ない。
そう思う、中年女性による感想です。
舞台がアメリカ・ニューヨークで、英語作品。だけど?相変わらずの鮮やかな色彩。
とはいえ、わたしには今までのスペイン語作品より、寒い地域っぽい色使いに思えた。
トーンがちょっと抑え目で、シックな感じがするような。
太陽の眩しい光ではなく、鈍色の空から降る雪に映える色ってかんじ。
森の中の家で夜更かしして映画を見ているときにマーサが着ていた、
多色切り替えのチャンキーなセーターとか、マネして編もうと思えば編めるなーとか思った。
森の中の家の裏庭の赤と緑の椅子(プールサイドにあるようなやつ)とか、緑のソファーとか、イングリッドの家のガレージっぽさとか、ニューヨークのマーサの家のカラフルなキッチンとか、いろんな色使ってるのにまとまっていて落ち着く感じの部屋に住みたーいと思った。
子宮頸がんを患って、尊厳死を望むマーサは、その日を迎えるとき隣の部屋にいてほしいと、旧友イングリッドに頼む。死を恐れるイングリッドは戸惑いつつも、マーサに寄り添う。
ほぼ2名の会話劇。一人で抱えられなくて、部分的に共通の元カレであるダミアンに、イングリッドは相談する。
アメリカの法律なのか、尊厳死は自殺扱いで、その手助けは自殺教唆として裁かれるみたい。
マーサの娘への思いや、そこに至る経緯や、戦場での思い出、なぜ尊厳死を望むかなどを、
2人は語らう。
ダミアンの厭世的な現実の受け止め方、わかるってなった。
新自由主義となんとか(右翼的ななんかだったっけ?資本主義?全体主義?)があかんのやってところ。
息子夫婦が3人目の子を作るので、それを非難?したら息子に嫌われたとか、あたり前やでと思うが面白かった。すみません。ひとが生まれても木は産まれないってのもわかる。
で、この世は悲劇で、悲劇を生きる苦痛を和らげるのに、性交は効果的で、とかも面白かった。
イングリッドの、悲劇を生きる方法はあるでしょっていうのも、わかる。
どんなに嫌な世の中でも、今生きてるし、マーサは別としてまだ生きたいと思っているなら、どうにかして楽しみを見つけて生きるしかないもの。
で、マーサです。治らない病気、苦しいだけの治療。思考が鈍り、憂鬱になる。
そこから自由に、自発的に逃れたいと決めている。
薬の置き場所を忘れたりとか、その時のサインとしてドアを開けておく約束を忘れたりとか、病気による思考鈍化によって、行動が危うくなる感じ、すごくリアルだと思った。
ああやって重い病気が進行したら、いつかわたしもああなるって、おもった。
まだわたしは生きたいから、心情はイングリッドに重なるけれども、いつかマーサの気持ちを味わうのかもしれない。未来の予行演習をしているような気持ちになった。
ジェイムズ・ジョイス原作の映画『ダブリン市民/ザ・デッド』(見たことないけどね)の引用も印象的だった。雪は生きるものにも死ぬもの(死んだもの?)にも降り積もる、みたいなところ。
自分の死を、詩的に受け止められるというのは、美しいことのように思えた。
いい映画でした。
字幕翻訳:松浦美奈さま
究極の「おひとり様の最期」
元・戦争ジャーナリストで今は末期癌の患者となっているマーサ(ティルダ・スウィントン)と、その古い友人で小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)がともに過ごす数週間が描かれる。苦しむことなく美しいうちに死にたいと望むマーサは、自分の意思で最期を迎えることを決意し、イングリッドに最期まで寄り添ってほしい-隣の部屋(ルーム・ネクスト・ドア)にいてほしい-と依頼する。
マンハッタンの病院とそれぞれの住むアパート、その後に過ごす場所、マーサの衣装、と全篇うつくしい映像で埋め尽くされている。(とくに病院は、セントラルパークを見下す大きな個室で、余程の金持ちでないと入れそうにないが、とにかくゴージャスで美しい。)
しかし。親友とともに過ごす美しい最期の日々、といった話では、実はない。イングリッドは唯一無二の親友というわけではなく、マーサが他の何人かに断られたあげくに頼んだ相手。生涯を通じて疎遠だった娘には知らせることを拒み、会わずに死ぬ。イングリッド以外の、死が近いことを知っている友人や昔の恋人も、訪ねては来ない。
マーサは徹底的に一人で、たたかって生きてきた、現代先進国の「おひとり様」である。徹底して孤独な代わり、それなりの仕事をやり遂げ、多少の贅沢もできる。だから最期まで、自分ですべてをコントロールするのはむしろ当然のことだろう。戦争ジャーナリストとして悲惨な現場を見続けてきたにもかかわらず、あるいはだからこそ、世界一豪華な街ニューヨークで、きれいで贅沢なものに囲まれて、病気でボロボロになる前に、幕を下ろす。死んだあとの世話役も後始末も、みんな手配しておく。実にみごとな「おひとり様の最期」である。
マーサの最期は一つの理想、と考える人は決して少なくないのではないか。徹底して孤独だが、最期まで自分らしく、言い換えればめいっぱい我儘に、自分のやり方で生き抜いた。
しかし、それに対してイングリッドは葛藤を抱え続け、結局生前には会えなかったマーサの娘は死後に訪ねてきて複雑な感情を見せる。マーサの死を取り調べる警官は「自殺は犯罪だ」ときっぱり言う。マーサがイングリッドに「隣の部屋(ルームネクストドア)」にいてほしいと頼むのも、単に後始末のためだけではなく、文字通りの「孤独死」には耐えられないと思ったからだろう。
現代先進国の「おひとり様」(女性だろうと男性だろうと)にとって、死は、自分でコントロールできない唯一のものであり、しかも必ずやってくる。この人生さいごの難題への回答として、アルモドバル監督は、「おひとり様の最期」の一つの究極の形を美しく描きつつ、それを全面肯定してはいない。「おひとり様」にとっての人生さいごの課題、というテーマ設定の鮮やかさがすばらしい。
難しいテーマの映画を美しく
死を見つめる旅、成熟への道ーーアルモドバル監督の新たな到達点
ペドロ・アルモドバルが初めて長編英語作品に挑んだ『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』。これまでの彼の作品と比べると、情熱的な色彩や感情の爆発は抑えられ、より静かで内省的な作品に仕上がっている。監督自身が老境に入り、死と成熟に向き合い始めたことの表れのように感じられる。
そして本作もまた、監督のその精神性を反映した、、死に向き合うことで、精神を統合し、成熟していく女性二人を描いた作品だと感じた。
主人公は、小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)。彼女はかつての親友マーサ(ティルダ・スウィントン)から突然連絡を受ける。マーサは末期の病に侵され、意識のはっきりしているうちに自死を選ぼうとしていた。しかし1人でそれをすることは叶わず、かつての友人イングリッドに「私が死ぬとき、隣の部屋にいてほしい」と頼む。このリクエストに戸惑いながらも、イングリッドは彼女の最期の日々に寄り添うことを決める。
マーサは10代で妊娠し、母性を発揮することができず、子供を手放すかのように、仕事に邁進した。彼女は「人生をコントロールすること」に執着し、戦場記者として世界を駆け巡った。
極限の状況を生き抜くことで、自分の意志で自分自身と世界を支配できるような男性的英雄像を自分の中に持ち続けたのだろう。
しかし、病に侵され、死が迫ると、自制心が崩れ、思考が曖昧になることを何よりも恐れるようになる。だからこそ、彼女は「死さえも自分で決める」ことで、最後まで自己を支配しようとする。
だが、イングリッドとの再会、そして過去を振り返る対話を通じて、マーサは「コントロールする自己」を手放し、自分が避けてきた無意識の領域と向き合う準備を整えていく。
彼女たちはかつて、時間差で同じ男性と恋人関係にあった。環境学者となったレナード(ジョン・タトゥーロ)は、今や気候変動の研究をしているが、未来に対する恐怖に囚われている。本の発売イベントでは質問を受け付けず、「臆病者」と罵られたと語る。彼は右派の攻撃を恐れ、気候変動についても「もう地球は終わる」と怯えている。
マーサは死と向き合い、自分の過去とも向き合うことで、強さや成熟した精神性を身につけていくように見える。それに寄り添うイングリッドもまた「死が怖い作家」から「死と対峙する作家」へと成熟していくようだ。
そして、かつての恋人の男レナードだけが、成熟を果たせず取り残されてしまう。この精神的な成熟の差が浮き彫りになることで、いずれ別れるのだろうと予感させる。
マーサには、長年連絡を取っていなかった娘がいる。彼女は母に捨てられたという怒りと悲しみを抱えたまま、母のマーサとは和解できずにいた。
マーサは娘と再会せずに旅立つが、マーサが死に場所に選んだ家にマーサの娘を迎えて、母と娘の精神的な和解を見事に仲裁する。和解できなかったことで罪悪感に囚われそうになるマーサの娘に、そっと寄り添い、彼女を勇気づけるかのようだ。
この瞬間、イングリッドは「導く者」としての役割を果たし、彼女自身も精神的に成熟したことが示唆される。
「死を恐れるのではなく、それを受け入れることが、精神の成熟につながる」というメッセージが、静かに、しかし力強く響いてくる。
ペドロ・アルモドバルは、75歳にして、かつてのハイテンションな作風を脱し、静かに、深く、人生の終焉と向き合う境地にたどり着いた。「死と向き合うことは、生を統合すること」というアルモドバル監督の深い精神性と成熟した知性に触れられる名作であると思う。
素晴らしい作品。
新作で傑作に巡り会える経験は、私には数年に一度あるかないかだ。よほど過去の名作を鑑賞していた方が感動する。今は主要な映画賞を受賞していても、過去の受賞作品と比べるとレベルが落ちていると私は感じている。
だが、この作品は冒頭から違った。出だしの音楽を聞いただけで秀作、ベネチア映画祭でグランプリを獲得しただけの事はあると思わせた。
人は人生の終点を迎えるに当たって、どうしたらいいか。また、身近な人間もどう対応したら良いのか、おそらく直面してみないと分からないだろう。そう、私は考える。人それぞれに違ったっていい。この映画のような結末を選ぶ人もいれば、最後まで病気と闘う人もいるだろう。正解は神のみぞ知るではないか。 ジョイスの「ダブリン市民」の短編「死者たち」が引用されているし、ブルーズムベリーグループの一員の名が出てくる。知的レベルの高い人でラドクリフ女子大で知り合った仲ではないかと推測する。ラドクリフ女子大はハーバード大学に吸収された。主人公2人は私より数歳しただと思う。私は今年70歳になる。小中学校の同級生は、10人は亡くなっている。映画「死者たち」はジョン・ヒューストン監督晩年の作品で、日本公開時評判になった。但し、私は見ていない。今度、DVDをレンタルビデオ店で探して見てみよう。
実話をもとにした作品なのか、それともオリジナルなのか。分からないが脚本も素晴らしい。鑑賞後、じんわりと感慨が湧いてくる作品だ。
The room next doorには、違和感が…!
重くて苦しいテーマだが答えはなく、繰り返し問いかけられる問題である。戦争ジャーナリストが自ら選んだ最期のときである。
ただ、洗練された最期であることがどうしても引っ掛かる。さまざまな現場を見つめ、人の死を目の当たりにして、国際情勢や国際関係を報道してきた人物の最後の選択がこうであって良いものかと感じてしまう。このような選択ができる国、国民は、現代世界においてもきわめて珍しいことであろう。日本人でもほぼ無理だと言わざるを得ない。
スペイン人の監督が、ニューヨークを舞台にしたこと、アメリカ人の選択を映画にしたことは、単に安楽死をテーマにしたことなのだろうか。
少なくとも私は違和感と怒りと強い悲しみを感じた。
尊厳死を受け入れる側の葛藤
当事者の尊厳死の選択については宗教観の違いや人生観でだいぶ異なるけど、家族や友達など受け入れる側の葛藤はDVやネグレクトなどの被害を被っていない場合はみんな同じなのかもしれない。
気丈に振る舞って、あなたが望むことなら、と受け入れたつもりでもその時の衝撃はカメハメ波みたいにどでかい。
今回はNYの部屋、森の貸別荘のインテリアと建物が良すぎる。ファッションもシンプルだけど色使いがパーッと彩度が高くて重たい内容を緩和するかのような色使い。
病室のチューリップも公開月に合わせたん?ってほど。
ティルダの黒シャツのような軽いジャケットにブラウンのベルトがめちゃくちゃかっこよかった。
ティルダの娘がそっくりすぎてすごい配役!と思ったけど、本人のCG加工のようで。すごい世の中になったもんだ。
尊厳のある死を望む
なんとなく海外映画が見たいなと思いちょうど始まっていたこちらを拝見。
自由奔放に生きてきた、だから死ぬのもただ座して待つのではなく自ら選ぶ。
そういう女性の話。
物語としては淡々と進んでいき、別にどんでん返しがあったり大盛り上がりのクライマックスがあったりはしません。あらすじや公開前の紹介内容が全てです。その紹介に興味が持てる人なら満足するだろうし、ピンとこない人は見に行ってもピンとこないと思います。
あらすじ通りの話が淡々と進むだけではあります。
どこまで書いたらネタバレなのかもよくわからないのでネタバレありにしときます。
死を選ぶとは言ってもやっぱり劇中の描写から見る限り強がりや周囲への説得的な面が強く、女性自身も全てに納得がいってるかというと、そうでもありません。
そもそも死ぬ時に近くに誰かがいてほしいというのがそれを端的に表しています。
自由に生きてきた結果、人生の中で色々なものを切り捨ててきた。
死の間際に立った時、自分の周囲に残されたものの少なさに愕然とし、人生の中で関りを持った友人たちを頼る。
紹介を見た時は昔見た「海を飛ぶ夢」という映画を思い出しました。
ただ、「海を飛ぶ夢」は尊厳死が強いテーマ性としてありましたが、
本作はどちらかというと、「孤独死」がテーマだったと思います。
孤高に生きた女性の孤高な死に方、ではなく、
どんなに自由に生きてもやっぱり最期は人として社会との関りを実感したいという欲求からは逃れられなかった、と受け取りました。
独身おじさんの私にとってもものすごく身につまされる話でした。
自分の死に際して悼んでくれる人達がいるだろうか…病室でただただ衰弱し、医療従事者達の業務処理の一環くらいに淡々と自らの死が流されていくのだろうか…
若き日の自分を知る誰かに看取られて逝きたいという彼女の悩みと計画はものすごく突き刺さりました。
確かに看取ってくれる家族がいなかったら友人たちに囲まれて楽しい旅の中で思い出を振り返りながらぽっくり逝けたら理想だよなぁ…とは思います。
現実には絶対実行できませんが。
実際はマーサはもっとやりようはあったと思います。
娘との確執は解こうと思えば解けたはずで、とはいえ死ぬ前だけ母親面して看取ってくれとは言いづらい、という悩みもわからないではない。ただそれは本来マーサ自身がきちんと清算すべき人生のツケだったと思います。
結局巻き込まれたイングリッドは相当面倒事になってるし。
イングリッドがマーサが人生に残したツケの清算を押し付けられた形になっているのは否めない。こんな面倒事引き受けてくれたんだから相当お人好しだよイングリッド。変な悲観論者の元カレ引きずってないで前向きに生きてくれ。
そういう意味ではマーサは死の間際まで周囲を巻き込んで好き勝手に生き抜けたと言えるのかもしれません。
現代法治国家では到底容認されない計画ではありますが、こういう選択も理想のひとつとして確かにあるという一石を投じていると思います。
死生観という点では特に目新しいものはなかったですが、今際の際でもこういう足掻き方もあるんだなぁという気付きを得られたので良い映画だったと思います。
美しく死ぬこと
医療にとって死は最悪の結果で、それを極力避けるべく様々な治療が施される。しかし、全ての人に死はいずれ訪れる。永遠に死なないのも異常であり病気ともいえる。したがって、死ぬことは生理的現象であり健常なことだ。であれば、より良く生きるための医療だけでなく、より良く死ぬための医療があってもいいのではないか。ほとんどの人が、殺風景な病院のベッドの上で様々な管やコードにつながれ、モニターの音やアラーム、病院特有のにおいに囲まれて死んでいく。全く美しくない。それに比べ、マーサの死は美しいものであった。わざと死期を早めることにはいろいろと議論があろう。しかし、マーサのように精一杯生きたあとで、穏やかで美しい死を迎えることには憧れを抱かされた。私も健康に生きて、健康に死んでいきたい。
強く生きた人の話だと思った
友人とは何か
2024年。ペドロ・アルモドバル監督。作家の女性は新作のサイン会で友人の女性が癌であることを知る。戦争特派員だった彼女とは数年間会ってなかったが、見舞いに行くと、それまで知らなかった彼女と娘との関係などを聞かされて急激に距離が縮まっていく。その後彼女の治療は行き詰まり、安楽死を考えるようになる、、、という話。
ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアという実生活でも同い年のベテラン俳優二人が、お互いを思いやる友人として語り合う。それだけで映画ができるというのがすごい。嘘をついたり腹を探り合ったりしない人間たち。監督ならではの絵画のように洗練された構図と美しい色彩(やりすぎの面もあるが、赤い車はとてもいい)も楽しめる。
己が人間関係と死に方を見つめたい人におすすめ
瀕死の左派(🟦)に寄り添う保守(🟥)
2004年公開のスペイン映画『海を飛ぶ夢』でも“安楽死”を肯定的に描かれていた。海の事故が原因で四肢麻痺に陥った男(ハビエル・バルデム)が自死を選ぶ感動ストーリーだ。本作のティルダ・スウィントン演じる元戦争記者マーサも、末期ガンにおかされ最期に自死を選ぶのだが、「一人で死ぬのはいや」とそのためにわざわざ別の家を借り、友人の作家イングリッド(ジュリアン・ムーア)を隣室に寝泊まりさせ、自分の死を看取らせようとする....
どこかの誰かさんがアルモドバルの作品は“政治的”ではないと語っていたが、けっしてそんなことはない。この人若い時からフランコ独裁政権に反抗していた強者で、政治的束縛を嫌った自由を描いてきた映画監督なのである。この映画にも、地球温暖化を危惧する大学教授でマーサとイングリッドの昔の恋人ダミアン(ジョン・タトゥーロ)が登場し、「新自由主義と政治の極右化が地球滅亡の最たる原因」という自説を披露する。おそらくアルモドバルは、世界一の金持ちイーロン・マスクとは真逆の考えの持ち主なのだ。
そのイーロンとタッカー・カールソンのインタビューの中で「リベラルは反出生主義思想に汚染されている」とイーロンが語っていた。ショーペンハウワーやシオラン、古くはゴータマ・シッダールタや日本の太宰治もおそらくは反出生主義者であろう。LGBTQ差別反対に子供の人身売買、女性の社会進出を助長するフェミニズムや中絶賛成、すべての生命の源といわれる炭素の排出規制....イーロンによると、これらリベラルの主張に共通する思想が反出生主義だというのだ。
生めや増やせやの大号令下、人口増加=経済発展だった一昔前とは違って、ここもとの人口爆発がむしろ足枷となって経済衰退を招くことがだんだんとわかってきたのである。コロナ禍などはまさにその最たるものといってもよいだろう。しかし人権擁護を旗印にしてきたリベラルにとって「推しの政策は実は人口削減のため」とは口が裂けてもいえないのである。ましてや、この映画で大変美しく描かれている“安楽死”の合法化など、やりたくてもやれないまさに禁じ手なのである。
そんな禁じられたテーマ“安楽死”をとりあげるとは、さすが反骨の映画監督アルモドバルなのである。ほぼほぼティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの二人芝居で、大したどんでん返しもなく、淡々と進んでいく展開に物足りなさを感じなくもない。イングリッドの自殺幇助を疑うキリスト教福音派の警官をごっつぅ敵視した演出や、マーサの死後登場する“ある人物”に多少驚きがあるかもしれないが、まあまあ想定内といった感じなのだ。
トランプ“二度”めの大統領当選によってすべての常識がひっくり返りそうな予感のする今日この頃、リベラル代表格Warnerがあわててしかけた反出生主義のプロパガンダ映画、とでも表現すればいいのだろうか。生者=トランピストの上にも、死者=グローバリストの上にも均等にふるつもる雪とはいったいなんのことなのだろう?決して核戦争による“死の灰”のメタファーとならないことを祈るばかりである。
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