ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
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そして扉が閉ざされた
予告で聞いた「ドアを開けて寝るけど、閉まっていたら私はもうこの世にはいない」の台詞。
死んだらドアは閉められないのにどういうこと?と思ったら安楽死の話なのね。
内容は粗筋の通り、癌に侵されたマーサと親友だったイングリッドが数日一緒に過ごすだけ。
レイトショーだったこともあり、序盤めちゃくちゃ眠い。
娘やその父親を中心にマーサの過去に軽く触れられるが、いきなりそんな話を聞かされても…
マーサは理論的で、死への姿勢もブレることがない。
はじめから最終段階に入っているので、人間というより単なる一つの“主張”にしか見えなかった。
その上その考えによる我儘でイングリッドを振り回す。
最後まで彼女に魅力を感じたり、「死んでほしくない」と思ったりといった情動が生まることはなかった。
じゃあイングリッド側の“揺らぎ”が描かれているかというと、そうでもない。
時に感情的になることはあるが、基本的にはマーサの意見を尊重するスタンスは一貫している。
そもそもこの2人、長らく連絡すら取っていなかった“元”親友なのだ。
それでも余命幾ばくもないと言われれば、極論喧嘩別れしてたとしてもある程度は寄り添うでしょ。
劇中で「断らない人間」と語られてたことも手伝って、友情や絆にも見えないし…
最後に娘ミシェルがマーサに対する誤解に気付き、「死がふたりを近づけた」と語られるが…
これ、死なないと出来ないことですかね。
なんだかイマイチ刺さらなかった。
亡くなり方にほんの少し意外性があったことと、ラストシーンの被せ方は良かったです。
最後は物理でなく精神的に、イングリッドを“隣の部屋”に感じたからあの時を選べたのだろうか。
映画として完璧
どの台詞も聞き漏らしたくない、服やインテリア、背景まで含めたポストカードに切り取りたくなる画や、全ての色彩が美しい映画でした。
マーサとイングリッドの、善意だけで成り立つのではない、でも素直に正直に相対することができる関係が成り立つのはすごいと思った。
死が迫った友が明らかにまだ話し足りないのに「もう遅いから帰らなきゃ」といえる関係、できないこと、決心がつかないことになんで言えばいいかわからないと言い、YESと即答しないこと、
できる人には簡単なことなんだろうけど、空気読んで相手の望むことに沿おうとしてしまう自分にはとても羨ましく。
5年ぶりに会ったと言ってた気がしたが、あんなに距離を感じさせずに付き合えるのは、元々仲が良かった?昔同じ男と付き合った仲だから?
でも自分のあとにイングリッドと彼が付き合ったのはショックだったと言ってたし、何のわだかまりもなく仲良しこよしの関係、ではなかった気がした。
それなのに、最期に隣にいてほしい第一候補だったのに警察に話してしまう〈裏切り者〉よりも、この経験とマーサの残した言葉すら自らの内にとどめずに生業である“書くこと”に活かす気のイングリッドの方が、マーサの人生の一大事に寄り添っていて、不思議というか、観終えてから考えると、腑に落ちないような気もしないでもない。
でもそんな自分のなかに残った違和感は映画としての完成度というか、素晴らしさの前では軽いこと。
イングリッドの赤いバッグ、マーサの薄紫のニット、など、2人のファッションにも惹かれた。
中でも緑と赤の対比が美しく、2人の服だけでなく、2人で横たわったチェアなど、とても印象的で美しかった。
ダークレッドの口紅をたっぷり塗って、最期に纏うのはパキッとしたイエロー。
それまでのマーサにイエローの記憶はなく、それでも彼女の最期に相応しかった。
ひとりは嫌。
尊厳のある、静かな死。
なんでも話せる友がいなく、どこに行くにも一人の私は、死ぬとき一人にしないでほしいと頼める友がいること、それを叶えてくれる友がいることを、とても羨ましく思う。
THE DEADは実際にある映画なのだろうか。観たい。
雪の舞う、清冽な静けさの中で逝けたら。
見守るということ、見守られるということ
末期癌を患うマーサ(ティルダ・スウィントン)が治療を諦め、安楽死を決意する物語でした。彼女は親友のイングリッド(ジュリアン・ムーア)とともに、森の中の別荘で最期の時を過ごします。アメリカでは安楽死が合法化されていると思っていましたが、マーサは非合法の毒薬をネットで入手することになります。この描写には驚かされ、鑑賞後に調べたところ、ひと口にアメリカと言っても週ごとに法律は異なるようで、また安楽死を選択するための条件があることが分かりました。例えば、6カ月以内に死亡する不治の病であることや、本人が意思表示できることなどが求められるようです。マーサの病状はこの条件を満たしていなかった可能性が高いと考えられます。
本作は、「どのように最期を迎えるか、そして見送るか」というテーマを扱っており、自身がマーサの立場になる可能性や、イングリッドの立場で誰かを見守る可能性について考えさせられました。特に、マーサが娘との確執を抱えたまま旅立たざるを得ないという点は、人間の性を象徴しており、優れたシナリオだと感心しました。
映画としては、マーサとイングリッドの二人芝居というシンプルな構成ながら、美しい別荘や周囲の大自然を背景に、ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの繊細かつ力強い演技が光りました。特にスウィントンは、序盤の希望に満ちた様子と、中盤以降の病状の進行を見事に表現し、その説得力に圧倒されました。
また、本作を通じて改めて安楽死と尊厳死の違いについて考えさせられました。日本尊厳死協会の定義によると、安楽死は「医師など第三者が薬物を投与し、患者の死期を積極的に早めること」とされ、マーサの選択はこれに該当すると思われます。一方、尊厳死は「延命措置を断ち、自然死を迎えること」とされ、日本ではこの二つを明確に区別しています。しかし、世界的には両者を同一視する傾向があり、この点は日本独自の特徴のようです。
最近の日本では、国民民主党の玉木代表が「社会保障の保険料を下げるために終末期医療の見直しを進め、尊厳死の法制化を含める」と発言し、物議を醸しました。この発言には賛否があり、一部では「姥捨山政策」や「優生思想」と批判されました。後に玉木氏自身も「尊厳死の法制化は医療費削減のためではなく、自己決定権の問題である」と釈明しました。
こうした議論を踏まえると、本作中でダミアン(ジョン・タトゥーロ)が口にした「アメリカを悪くしているのは新自由主義者と極右だ」というセリフが印象に残りました。マーサのように安楽死を自己決定することと、若者の社会保険料負担を減らすために尊厳死を推進することは別問題であり、金銭的な理由で議論するべきではないと感じました。しかし、玉木さんのような政治家が大衆に持て囃される現代の風潮を考えると、遠くない将来、『楢山節考』のような世界が復活するのではないかとも思わされました。
そんな訳で、本作はテーマ性の高い作品であり、考えさせられる内容でであり、評価は★3.8とします。
おーいお茶
おーいお茶。
ペドロ・アルモドバル監督の作品は、
常に観客を驚かせ、時には戸惑わせる。
その大胆な作風は、繊細なテーマを扱いながらも、
過剰とも感じられる演出で観客を挑発し、
強烈な印象を与える。
本作も、アルモドバルらしい色彩と感情の濃厚さが特徴の作品だ。
ティルダ・ウィンストンとジュリアン・ムーアという二人の名優が複雑で多面的な女性たちを演じている。
ウィンストンはどこか奔放で自由な精神を感じさせながら、
過去の重荷を背負っているようにも見える。
一方、ムーアはこれまでのキャリアにおいても、
繊細で内面的な役柄を得意としてきたが、
本作でもその技術は発揮されている。
彼女が演じるキャラクターは、
まるで心の中で戦っているかのような複雑さを持っている。
常に微細で、感情の揺れを一瞬の表情や仕草で見せるため、
観客は彼女の心の中に引き込まれていく。
ただし、あまりにも内向的で感情を抑制した演技が、
時に物語の進行に対して少し重く感じられることもあるかもしれない。
アルモドバル監督の作品は、
しばしば観客に対して安易な答えを与えることを避け、
観る者自身に深く考えさせる。
本作もまた、そんな監督らしい挑戦的な作品だ。
物語が展開する中で、観客は必ずしも一貫した感情を持つことができない。
複雑な人間関係と織り交ぜられたテーマは、
時に観る者を混乱させるが、
それこそがアルモドバル作品の魅力でもある。
それにしても、
冷蔵庫にあった、おーいお茶。
まさか、
これがラストドリンクにならないよな、
日本人には受け入れられない、、、
ハラハラしたのは私だけではないはず。
ザ・ドリンク・ネクストドア
【蛇足】
スペインで撮影をしていた時、
スタッフルームをアルモドバルチームとシェアしていた。
その時に日本のモノを見かけたのかもしれない。
カラフルなモノが好きなペドロさん、
綾鷹、生茶だったら物語は入ってこなかったかも・・・
母と娘と友人の濃密な物語
「死の棘」の島尾敏夫とミホをなぜか想いながら最後まで瞬きも惜しく見てしまった。
マーサは、娘ミッチェルとの関係に悩みながら、そして、友人のイングリッドにその悩みを打ち明けた上で、死を選ぶ。マーサは、ミッチェルが父の不在を恨み、マーサとの関係が壊れたとイングリッドに説明しつつ、実は、戦場ジャーナリストのマーサの強さが、ミッチェルには母ではなくむしろ父的な存在であり、従いミッチェルが求めていたのは、会うこともかなわぬままに死んだ父ではなく、実は母親としてのマーサその人であったことが、マーサの言葉から徐々にわかってくる。
イングリッドは、マーサの死に立ち会うことを恐れながらも、どこかでこの友人の安楽死をともに迎える稀有な体験を、作家魂で書ける機会と捉えている節がある。それは、マーサの戦場日記を図らずも垣間見たときに強く自覚したことを、マーサにイングリッドが「あなたのことを書いていいか」と問うた時、我々はそれに気づく。
マーサの死後、マーサの貸し別荘にやってきたミッチェルは、映画としては脇役だが、マーサに恐ろしく似ていることなど、母娘の長年の誤解と確執から和解の時に移行したことを感じさせる。ミッシェルとイングリッドが並んで横たわる長椅子に(ーマーサはその長椅子で安楽死の薬を飲み自死したー)、マーサの愛したジョイスの小説の一説である雪片が静かに、そして、深く降り注ぐ。映画を彩った芸術的な色彩も、この白い雪にはかなわない。白い雪の中に、ミッシェル=マーサとイングリッドは、引いていくキャメラの俯瞰の中に溶けていく。さながらマーサもイングリッドもそして若いミッシェルも、雪の中で息絶えていくかの様だ。美しい映画である。
冒頭に「死の棘」と言ったのは、「死の棘」のテーマはこの映画とは何の関係もないが、小説家(島尾敏夫とイングリッド)が、故意であれ偶然であれ日記(島尾敏夫自身が不倫の相手のことを書いた日記とマーサの戦場日記)を読ませた、あるいは、読んだことで、物語(小説と映画)が生まれるということが双方に通底するテーマと感じたというたわいもないことである。
好きなものに囲まれる最期には、その物語を語る存在が必要なのではないだろうか
2025.2.4 字幕 MOVIX京都
2024年のスペイン&アメリカ合作の映画(107分、G)
原作はシーグリッド・ヌーネスの小説『La habitación de al lado』
安楽死を望む旧友に寄り添う作家を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はペドロ・アルモドバル
原題は『La habitación de al lado』、英題は『The Room Next Door』で、ともに「隣の部屋」という意味
物語の舞台は、アメリカ・ニューヨークのマンハッタン
オートフィクションの作家として活躍しているイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、書店でサイン会を開くなど、積極的な活動をしていた
そんなサイン会に友人のステラ(サラ・でミスター)が訪れ、かつて同僚だった旧友・マーサ(ティルダ・スウィントン、若年期:エスター・マクグレゴール)が末期癌で闘病中であると告げる
早速マーサの元を訪れたイングリッドは、新しい治療法にチャレンジしていると聞き、少しばかり安堵の心持ちになった
だが、その治療法は効果がなく、マーサは徒に時間を浪費しただけだと荒ぶれた
それから数日後、イングリッドはある決意を胸にイングリッドと対峙することになった
それは、ダークウェブにて入手した薬で死ぬというもので、安息を求めて、郊外の貸別荘に移り住むというもので、イングリッドに隣の部屋に待機してもらって、死の瞬間まで連れ添ってもらう、というものだった
そして、彼女の寝室のドアが閉まっていたら実行している合図で、あとは「何も知らなかった」で通してほしい、という
数人の友人に断られた末にイングリッドに連絡が入ったのだが、熟考の末、彼女はマーサの願いに寄り添うと決めた
映画は、最期の時を過ごすマーサに寄り添うイングリッドが描かれていて、そこに辿り着くまでに多くの友人たちに依頼をしてきたと告げられる
その一人であるステラがマーサの今を伝えることになっていて、彼女の証言がマーサを不利に運ぶ材料になりかけていた
だが、自殺願望がある人と一緒に時を過ごしたというだけでは罪に問えるはずもなく、サラ曰く「宗教的盲信者」と断罪されても無理はないと思う
マーサが実行に移したのは、イングリッドが嘘をついてデイミアン(ジョー・タトゥーロ)と会った時なのだが、おそらくマーサはイングリッドがデイミアンと会っていることに気づいていると思う
彼女は、デイミアンが講演に来る街の別荘を借り、書店でわざわざ彼がここに来ていることを伝えているし、元カノ同士の赤裸々トークも彼女から話題を振っていた
おそらくは、計画通りに事が運んでも、マーサが問い詰められることは明白なので、その助け舟を用意していたようにも思えた
ちなみに、書店に寄った際には、イングリッドはマーサが気にした本『エロティックな流浪』『地上からの眺め』を購入していて、マーサ自身は『How To Look At A Bird』という本を購入していた
エリザベス・テイラーとリチャード・バートンの伝記である『エロティックな流浪』と、ヨーロッパの激動を記した『地上からの眺め』は、おそらくはマーサの恋愛観と人生観を示すもので、その2冊はとても分厚い本だった
これは、私が死んでもその本を読み終えるまでは死なないでという意味に思え、マーサ自身が購入したのは簡単に読める『How To Look At A Bird』で、初心者向けのバードウォッチングの絵本だったのも印象的である
この本を読み終えたらという意味もあると思うが、それよりも「イングリッドが夜中に起きて隣に寄り添った」という行為がマーサを決意させたのだと思う
この日、イングリッドはスポーツジムに通い、そこでトレーナーのジョナ(アルヴィーゼ・リゴ)と体の丈夫さの話をしていた
その際にジョナは、「ハグしてあげたいが」という趣旨の発言をし、そのアドバイスに対して「ハグしてもらった気分よ」という言葉を返していた
この言葉があったからこそ、夜中のイングリッドの行為があり、それにマーサは気づいて、満足そうに眠りについていた
思えば、この一連の日々は、マーサが寄り添う相手を選ぶ日々でもあり、イングリッドがそれに相応しいのかを試しているようにも思える
だが、実際にところ、イングリッドの死生観とか人生観というものにマーサは感化されていて、そこに自分の死の物語を残そうと考えていたように思う
多くの引用を用いて、映画や小説などの話をし、彼女が愛した書籍に囲まれて過ごす日々というのは、その後そこを訪れた娘ミシェル(ティルダ・スウィントン)への遺言のように思う
娘との誤解を解くためにはマーサ自身を理解してもらう必要があるし、話せなかった物語を語る時間も必要だった
それゆえに、あのタイミングになったのかな、と感じた
いずれにせよ、この物語は「疎遠の娘と母親を再会させるための死」を描いていて、マーサ自身が綺麗に死にたいというものとはかけ離れているようにも思える
実際には、化粧をして、お気に入りの服でお気に入りの場所で亡くなるのだが、それも踏まえた上で、娘に残したいメッセージだったのだろう
唯一の心残りだったものは自分では成し得ない和解であり、それを友人に託すことは残酷なことだと思うのだが、同じ時代を生きて、同じ人を好きになった間柄ならば、少しぐらいは伝わるかもしれない
どこまでがマーサの意図的な部分かはわからないが、隣の部屋にはそう言ったものが満ちてほしいと考えていて、その部屋にふさわしいのがイングリッドだったのかな、と感じた
いつまでもこの映画の世界にいたい
最期はスイスで安楽死するのが長いこと人生の夢だったので参考になるかと思って鑑賞しました。それから、予告編のアートと、この映画の落ち着いたシックな雰囲気が好きだったから。
観ましたがやっぱりアートワークは思った通り最高、、お部屋、インテリア、調度品、ファッション、メイクなど、原色と、アクセントカラー、配色、そして、ヴォッテガのバッグを含めて、格子模様の使い方が上手い!
主人公のバッグは病院訪問~看取りまで、全てヴォッテガでした。三色ぐらい見ました。
森の家のガーデニングセンスも最高に好きな感じでした。
ずっとこの映画の世界にいたいと思うほど美術が良かった。
ラストに近づくにつれて配色が地味になっていくのですが、マーサの部屋の真っ赤なドアと、そして死に際しての衣装は南国の鳥みたいな、まさかの黄色!靴も黄色。
安楽死というアートだ、とさえ感じた。人は自分の死を芸術に出来る。
最後は作品で何度か言及されたジョイスの小説の名シーン
「全ての生者と死者の上に降り続ける雪」で、どんどん、画面は単色に近づいていきますが、針葉樹が美しく、墨絵のようにも見えました。
素晴らしい~~~
映画館を出てから、日本の街並みがあまりにも汚いので絶望しました。
きたない灰色や、黄ばんだコンクリートや、踏み散らかされたみぞれ雪の濁った茶色ばかりです。そこはかとなく汚らしく、みすぼらしく、悲惨に感じられます。
やはり日本の不幸の一つは街がビジュアル的に汚いことでしょうね。
日本の美術は陰影礼賛と言われるように。「かげ」、光が遮られて出来るかたちを味わい深く活かすのが真骨頂だと個人的に思ってるのですが
コンクリートとか、セメントとか、昔はそんな素材、無かったよ?というものが、日本でどんどん建設に使用されてます。現代の人工的な建築素材と日本の伝統的な美があまり合わないので、汚いのでしょう。町を陰鬱に見せるだけです。
ケア施設はそれはそれで、使い古された校舎のような、疲れ切ったパステルカラーの組み合わせなので、高齢者や病人のための施設がそんなんでは、見ているだけで停滞と絶望を感じます。もうちょっと綺麗で、活力の湧いてくる配色にして欲しいです。
それから。。マーサにも共感できた。抗がん剤治療によるケモブレインで以前読んでいた本も楽しめず、人生から楽しいことが一つずつなくなっていく。癌患者支援団体の「癌はギフト」「精神的成長(スピリチュアルグロウス)の機会」という言葉なんてクソくらえだと思う気持ちも。命のバトンだの最後まで生き抜けだのきれいにサラリと言いすぎなんだよ、当事者の苦しみから目を背けてるのと同じでしょ?!と常々思っていたので
自分で幕を引きたい。最後ぐらい好きにさせて。と。
安楽死の薬って探せば手に入るのかな?
日本は、自殺は罪だとか、自殺ほう助するなとか、うるさくてたまらないが、この映画には善悪の価値判断判断が入ってなくて、マーサは「うんざりだ。だから自分で死ぬ。私がそうしたいと思ったらそうする。」という人だった。また、類を見ない鮮やかなアートワークも、この映画独自の世界を作り上げていて、そこにも、周囲が何と言おうと私はこういうスタンスでいたい。というマーサの気質と同じものを感じた。
「みんながダメだといってるし、祖国の法律はダメだといってるけど、自分は決してそうは思わないこと」って世の中にたくさんあると思う。日本での安楽死もそうだし。
LGBTが法的に犯罪とされてる国は今でもある。昔は、夫が先だって火葬されれば、いっしょに、未亡人の女性が燃え盛る火の中に飛び込まないと「犯罪だ」とされる文化もあった。米がないのに闇米を食べたら犯罪だといわれた時代があった。…とか、、「現代日本ではけっしてダメなことではないが、時代と文化の違いにより、ダメだとされていたときがあった」ことは挙げたらキリがないぐらいある。
今、叩かれている安楽死も反出生主義もその一つだと思う。日本の法制度が追いついてないだけだ。
決してダメな事ではない。
黙れよ、自殺はダメだとか言ってるスピリチュアル野郎。お前の為に生きてるんじゃない!
世界中の皆から批判されたって、「それでも自分はこうありたい」というのは、大事な精神の一つだと思う。
なにからなにまで、みんなに言われたからって、譲歩する必要はない。
ある日突然死なねばならないのは怖い。
この映画のように薬を手に入れて、自ら、安楽な「臨終の瞬間」を迎えたい。
最高の死に方だと思う。
たくさんの引用が出てきますが、文学的で美しい映画でした。
まさにアート作品
「安楽死」≠(ノットイコール)「尊厳死」
ベネチアで金獅子賞受賞の本作。前日の降雪予報もあり、積雪の心配がなくなった昨日の午後まで待ってオンライン購入したのですが、その時点ではまだガラガラ。しかし実際に劇場へ訪れた本日、10時40分からの回は平日の割になかなかの客入りです。
今回も予告やあらすじを見ず、前情報なしに鑑賞です。全般会話劇でありつつも全ては語らず、やや謎めいた雰囲気と心配事の多い設定に、ティルダ・スウィントン×ジュリアン・ムーアと言う実力派俳優の「抑えのきいた演技」でミステリーの要素も感じるヒューマンドラマ。
あることがきっかけでマーサ(ティルダ)と再会することとなったイングリッド(ジュリアン)。闘病中のマーサは戦争ジャーナリストであり、その経験も踏まえ自身の死生観に対して確固たる考えを持っています。がん告知を受けたものの元々は治療する意思がなかったことや、娘との関係、そして娘の父親に関する過去について語るマーサに熱心に付き合うイングリッド。久々に会う友人との語らいに生き続けることへ前向きになりかけた矢先、治療への期待を裏切る「転移」という結果に、マーサは以前から考えていたある計画をイングリッドへ打ち明けます。
闘病中の友人に対する同情という気持ちに収まらず、背負いこむ覚悟をするイングリッド。恐らくは、マーサの死生観に対して「深く理解したい」という(イングリッドの)物書きならではの心理と、同業者ならではにそのことをすかさずに見込んだマーサの「思惑の一致」が生んだ期間限定の共同生活。未経験の緊張感や恐怖心にお互い戸惑いながらも、偶然が生んだ「想定外」をきっかけに計画以上の満足感で、これぞ正に「尊厳死」という最期を迎えるマーサ。その後の些末なアレコレをバッサリとやっつけ、もっと重要なことを美しく魅せる物語の「終着」はとても美しく、107分とコンパクトにまとめられた作品は「THE完璧」。流石のペドロ・アルモドバル、あっぱれです。
彼女の選択や頼み事の理由がよく分からない
癌で余命幾ばくもない女性が、どうして「安楽死」を選んだのかがよく分からない。
平和で静謐で尊厳のある死を迎えたいという願いはよく理解できるのだが、緩和ケアを用いれば、ある程度「生活の質」を維持しながら、安らかな死を迎えることは可能なのではないだろうか?
現代の医学は「末期」や「不治」といった言葉を許容しないという台詞が出てくるが、決してそんなことはないのではと思う。
「自分の人生を自分でコントロールしたい」という気持ちも分からないではないが、自らの死期が近いことを知っているのならば、わざわざ自死を選ばなくても良いのではないかとも思ってしまう。
おそらく、彼女がこうした選択をしたのは、戦場で、多くの死を目の当たりにしてきたからなのだろう。
自分の意思とは関係なく、無惨に死んでいった兵士達の最期を見て、自分はそうはなりたくないと思ったのかもしれない。
しかしながら、彼女の娘の父親が、ベトナム戦争で心に傷を負った様子が描かれたり、彼女自身がイラク戦争で経験した、同僚記者のエピソードは出てくるものの、彼女の死生観や、それに影響を及ぼした出来事について、明確な説明はないのである。
同じように、彼女が、友人に、「自分の死を看取る」のではなく、「死ぬ時に、隣の部屋にいてほしい」と頼む理由もよく分からない。
淋しくないように人の気配を感じていたいと言うのであれば、死ぬ間際までそばに居てほしいと願うのが普通だろうし、結局、彼女が、友人の不在時に計画を実行したことにも釈然としないものが残る。
それとも、すべては、友人に「自殺幇助」の罪を着せないための配慮だったということなのだろうか?
いずれにしても、そうした彼女の選択や頼み事の理由がよく分からなかったために、最後まで感情移入することが難しかった。
彼女の死後の、警察の取り調べや娘の訪問にしても、中途半端な描き方で終わってしまったような気がしてならない。
本当の末期癌患者のようにガリガリに痩せ細ったティルダ・スウィントンも、死にゆく者に対する慈愛の心を見事に体現したジュリアン・ムーアも、共に名演と思えるだけに、「よく分からない」感じを最後まで払拭することができなかったのは、とても残念だった。
色彩に息をのむ
隣にいることを考える
ティルダはいつだって変幻自在。人間だけじゃない。吸血鬼、天使、魔女。いかなる性別であれ、いかなるアイデンティティであれ、何にも囚われず自由に意識を流動させるところが好き。
ジョイスが意識の流れを外に開放させようとしたように。
ジュリアンムーアはいつだって人間の量感たっぷり。相手との一筋の糸を取らまえながら存在そのもので語るところが好き。ヴァージニアウルフが自分に意識を集中させたように。
本作は死についての映画ではない。やがて訪れる死を前にして人はどう生きるかという映画。
そして、死にゆく人に目を背けることなく側にいること、何も言わずにただ耳を傾けること、すべてを目撃する繋がりの映画。
私たちは誰かの隣の部屋にいる。ガザやウクライナの人々の死と共鳴するのは恐ろしいことだけど、私たちは彼らの隣の部屋にいる。彼らと繋がることを拒否しない優しさ。そのことをグサリと思い出させられた。
読書が大好きだった人がもう本を読めなくなったり、ひとつずつ自分の機能を失い始める辛さを、ティルダも〝自分自身が減ってしまう〟と言っていた。だからこそ、最後に真紅のルージュを引きイエローの服で自分自身を停止させなかったところが詩的で美しかった。
一方で、メタファー的な死とは、固定観念や過去に支配され自ら判断・選択することを停止した者のこと。取り調べをした単純思考の警察官や、「新自由主義と右翼が台頭する世界で…」ってセリフにも、思考停止に対する不安と批判が凝縮されていた。
それでは、過去に囚われ、誰かを助けるために火の中に飛び込んだ青年のことは?
ラストのピンクの雪は、死者と生者 、批判する者と批判される者全てを一色に埋め尽くす。意識の階層の分断、その構造を全て均質化させた。
ヴァージニアウルフの遺書「また自分の頭がおかしくなっていくのがわかります。(中略)私にはもう何も残っていませんが、あなたの優しさだけは今も確信しています。」の言葉が思い出されて、本作の二人の物語に滲み出ているように思った。
あなたの選択よ‼️
末期ガンを宣告されたマーサは、親友イングリッドにあるお願いをする。それは自らの最期の時に傍にいて欲しいというものだった‼️人間にとって誰もが持つ不安 "どんな死を迎えるか"、そして大事な人がそんな状況に陥った時、自分は何をしてやれるのか⁉️尊厳死とその手助けという難しいテーマを扱い、非常にヘビーな内容ながらも、爽やかな印象の残る作品ですね‼️画面構成や鮮やかな美術などにアルモドバル監督らしさが出てると思うし、主人公の二人を演じるティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの演技が素晴らしいです‼️自らの人生をフラッシュバックしながら、最期の時まで一生懸命生きるマーサ‼️そんなマーサの力になりたいと思いながらも、自殺への加担という、いわば犯罪に躊躇するイングリッド‼️そんな二人の、過去に同じ男を愛したみたいなやりとりを含めた穏やかな日々に、死への恐怖や生きる歓びといったテーマが内包され、ヒジョーに見応えのある名作だと思います‼️そしてマーサの娘ミッシェル‼️ベトナムへ従軍したフレッドとの間にマーサが授かった一人娘のミッシェル‼️戦争での心の傷が原因でマーサと別れ、火災で亡くなったフレッドの娘ミシェル‼️仕事で多忙を極める母とすれ違い、父の愛を知らずに育ったミシェルは、マーサとイングリッドの会話の中で登場するだけなのに、その存在感がスゴい‼️そしてラスト、ティルダ・スウィントンの二役で登場するミシェル‼️あれだけ他人行儀だった母のベッドで眠り、母の長椅子で休息を取るミシェル‼️マーサが唯一の心残りだったミシェルとの確執‼️そんなマーサとミシェルとの雪解け、それを見守ったイングリッドへの祝福のように雪が舞う、セピアな画面のラストがホントに素晴らしいです‼️
誇り高き死を
身近に同じ病気の人がいたんですかね監督さんは…?
自分が大きめな病気になった時に、「自分の命が誰にも知られないまま終わるのは嫌だ」って気持ちなら体験したことがあります。
だから、誰かに尊厳死を見届けて欲しかった気持ちは、結構飲み込みやすく。
しかも、大親友ってわけでもないから全力で止めてこようとしないイングリッドって、多分ちょうどいい距離感なんですよね…
ところどころの会話から、マーサは治験を受けてるけど(つまり標準治療が効かなかった?)、それがうまくいかなかったと想像する。
死より、死ぬまでに味わう痛みや苦しみのほうが怖いとか、治療中の情緒不安定具合とか、わかるわかる!でした。
戦場記者って、死は身近だけど、「病気で苦しむ」って状況はきっと見慣れてない。
病気で痩せたからだを隠すように、ボリュームのある服を着るマーサが、最期はスタイルがよく伝わる服を着ていく。
対照的に見えたイングリットとマーサにも、やっと等しく雪が降る。
病気で亡くなったら自分のしたことが全部チャラになる…って表現じゃないのが結構グッときた。
あの状況で、「お母さんを許してあげて」とか言われたら絶対耐えられない。生きてきたことをありのまはま残す、って意味があったりするんでしょうか。
このテイストの作品でよく見かける、「死を見つめることによって、生の素晴らしさを感じる」
その捉え方も正解だと思うけど、
誇り高くあろうと自分で選択したマーサの最期が、素晴らしくないなんて私には言えない。
自由な死
自殺となると宗教的な理由で許されない国なんですね。尊厳死という選択。だけど独りで過ごすのは寂しい。
二人での、会話が楽しい。
最後に、スーツを着て口紅をぬった姿はとても美しかった。
美しいマーサ
美しく死にたい、気が狂いそうな程の痛みに侵され人間らしい思考が保てなくなる前に…
癌の痛みは壮絶と聞くけど、人格保てなくなるほどの痛みって
見てる方もつらい
普段は上品な女性が、痛みゆえにすごい言葉を吐く。私も自分の尊厳を保てないほどの痛みに見舞われ続けるのが分かってたら…終わらせたいと思うかも。
そう思ってても、「近いうちに自死を決行するけど、隣の部屋にいて(事後の処理をして欲しいの)」とかの友達の頼みを受け入れるのは、辛いんだよ。イングリッドはとても強く優しい心を持ってる。あの狂信的な警官もそこは見抜いた(あなたは友人に自死を見守ってくれと頼まれれば断れない人だと)。
ミシェルは同一人物かなってほどそっくり。
色彩豊かに、主演女優の演技力を武器に描かれる旅立ち
「尊厳死」を題材に、病に侵された女性が、安楽死を求めて親友と共に過ごす数日間を描いた意欲作。
監督は、色鮮やかな映像とユーモア溢れる作品群で数々の賞を受賞してきたペドロ・アルモドバル。本作も2024年度ベネチア国際映画祭にて金獅子賞を受賞。W主演には、ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの2大オスカー女優。
小説家のイングリッドは、自身のサイン会にて旧友から親友のマーサが闘病生活で入院している事を聞かされる。
見舞いに訪れたイングリッドは、再会したマーサと病室で語らいあう。かつて戦場ジャーナリストとして活躍していたマーサの人生は、若かりし日の恋人との苦い思い出や、彼との間に出来た娘との軋轢がありながらも、1人の女性が送ってきた人生として充実していた。
しかし、そんなマーサにも容赦なく病魔は歩み寄る。投薬治療も効果が無いと悟ったマーサは、「尊厳のある死を望む権利くらいはあるはず」と、ネットの闇サイトで安楽死の薬を入手。
「人の気配を感じながら最期を迎えたい」と、イングリッドに最期の日々を共に過ごしてほしいと懇願する。はじめは戸惑いつつも、イングリッドはマーサの要望を聞き入れ、彼女が借りた森の中の家で、彼女と最期の数日間を過ごす事になる。マーサは、自身がもうこの世にいない場合の証明として、自室のドアについてイングリッドに告げる。
「もしドアが閉まっていたら、私はもうこの世にいない」
私はアルモドバル作品初鑑賞。しかし、これ一作だけでも、監督の持つ独自の作家性を存分に味わう事が出来た。「尊厳死」を題材にしつつも、作品を彩る鮮やかな背景や美しい音楽が、最後の旅立ちへの物語を暗くさせずに演出している。それは、監督自身も意識していた部分であり、「死」というものを暗く陰鬱に描くのではなく、あくまで一つの旅立ちとして表現している。また、画角に収まる人物や小物の配置、ファッションに至るまであらゆる視覚的部分に拘っている事が伺える。
W主演のティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアは同い年。何処か両性具有的な雰囲気を放つ個性派のティルダと、女性的な優しく暖かな印象を与える王道派のジュリアンの共演は、ともすれば個性のぶつかり合いに成りかねないかもしれないのに、抜群の調和を持って画面に溶け込んでいる。
そんな本作を語る上で、ティルダ・スウィントンの放つ「病に侵され、尊厳死を望む」というリアリティある女性像は外せない。これまで私は、『コンスタンティン』(2005)の天使ガブリエルや『ナルニア国物語』シリーズの白い魔女、『ドクター・ストレンジ』(2016)のエンシェント・ワンといった超常的存在を数多く演じてきた彼女に、リアリティある女性感を抱いた事は無かった。しかし、本作では癌に蝕まれ、思考がネガティブになっていく、精神的孤独を恐れ、親友に最後の頼みを行う姿のどれもこれもが、抜群のリアルさを感じさせる。不吉な発言ばかりで、時にイングリッドとの間に気まずい雰囲気が流れる様も他人事とは思えなかった。
対するジュリアン・ムーアは、長い赤髪と緑の瞳が放つ抜群の包容感で、ティルダ演じるマーサの最期の日々に寄り添う。長い間交流の無かった親友が、最後に頼る存在としての説得力がある。小説家としてではなく、親友としてマーサへの素直な言葉を紡ぐ姿の暖かさ。劇中で恋人のデイミアンが言う「君は他人に罪悪感を抱かせず、苦しむ方法を知っている」という台詞が印象的。
また、チョイ役ではあるが、マーサが自殺した後、イングリッドを取り調べる事になる警察署の刑事を演じたアレッサンドロ・二ボラも印象に残る。狂信的なカトリックである彼は、マーサの尊厳を無視して自殺を絶対の悪として捉え、協力者であるイングリッドにも厳しい視線を向ける。彼の言葉は、決して間違ってはいない。しかし、世の中には「正論では救えない事」がある。だからこそ、僅かな出演時間と台詞ながら、それを否定する彼は本作唯一の悪役として強烈な存在感を放つのだろう。
本作を鑑賞した者ならば、自然と頭を過ぎるであろう「私がマーサの立場ならどうするか?」「私がイングリッドの立場ならどうするか?」という問い。私は、マーサには共感出来るのだが、イングリッドの持つ底知れない包容力は持ち合わせていないと思ってしまう。また、尊厳死として自殺を選択せざるを得ない現在の司法の是非についても、安易に答えは出せない。
しかし、先述した「正論では救えない事」があるのは間違いないし、あの刑事のようにマーサの死を責めたてられるだけの「自らの正義」はない。そう選択したのなら、それを理解は出来なくとも受け止めはすべきだと思うから。
マーサが雪降るマンハッタンの街を眺めて引用する『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(1987)の台詞と、それをアレンジして語るラストのイングリッドのシーンの美しさが圧巻。
【雪が降っている。寂しい教会の墓地や、すべての宇宙に、おぼろげに降り続く。かすかに降る雪。やがて来る最期のようにーすべての生者と死者の上に…】
【雪が降っている。一度も使わなかった寂しいプールの上に。森の木々の上に。散歩で疲れ果て、あなたが横になった地面に。あなたの娘と私の上に。生者と死者の上に降り続く】
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