ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
全138件中、61~80件目を表示
究極の「おひとり様の最期」
元・戦争ジャーナリストで今は末期癌の患者となっているマーサ(ティルダ・スウィントン)と、その古い友人で小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)がともに過ごす数週間が描かれる。苦しむことなく美しいうちに死にたいと望むマーサは、自分の意思で最期を迎えることを決意し、イングリッドに最期まで寄り添ってほしい-隣の部屋(ルーム・ネクスト・ドア)にいてほしい-と依頼する。
マンハッタンの病院とそれぞれの住むアパート、その後に過ごす場所、マーサの衣装、と全篇うつくしい映像で埋め尽くされている。(とくに病院は、セントラルパークを見下す大きな個室で、余程の金持ちでないと入れそうにないが、とにかくゴージャスで美しい。)
しかし。親友とともに過ごす美しい最期の日々、といった話では、実はない。イングリッドは唯一無二の親友というわけではなく、マーサが他の何人かに断られたあげくに頼んだ相手。生涯を通じて疎遠だった娘には知らせることを拒み、会わずに死ぬ。イングリッド以外の、死が近いことを知っている友人や昔の恋人も、訪ねては来ない。
マーサは徹底的に一人で、たたかって生きてきた、現代先進国の「おひとり様」である。徹底して孤独な代わり、それなりの仕事をやり遂げ、多少の贅沢もできる。だから最期まで、自分ですべてをコントロールするのはむしろ当然のことだろう。戦争ジャーナリストとして悲惨な現場を見続けてきたにもかかわらず、あるいはだからこそ、世界一豪華な街ニューヨークで、きれいで贅沢なものに囲まれて、病気でボロボロになる前に、幕を下ろす。死んだあとの世話役も後始末も、みんな手配しておく。実にみごとな「おひとり様の最期」である。
マーサの最期は一つの理想、と考える人は決して少なくないのではないか。徹底して孤独だが、最期まで自分らしく、言い換えればめいっぱい我儘に、自分のやり方で生き抜いた。
しかし、それに対してイングリッドは葛藤を抱え続け、結局生前には会えなかったマーサの娘は死後に訪ねてきて複雑な感情を見せる。マーサの死を取り調べる警官は「自殺は犯罪だ」ときっぱり言う。マーサがイングリッドに「隣の部屋(ルームネクストドア)」にいてほしいと頼むのも、単に後始末のためだけではなく、文字通りの「孤独死」には耐えられないと思ったからだろう。
現代先進国の「おひとり様」(女性だろうと男性だろうと)にとって、死は、自分でコントロールできない唯一のものであり、しかも必ずやってくる。この人生さいごの難題への回答として、アルモドバル監督は、「おひとり様の最期」の一つの究極の形を美しく描きつつ、それを全面肯定してはいない。「おひとり様」にとっての人生さいごの課題、というテーマ設定の鮮やかさがすばらしい。
難しいテーマの映画を美しく
死を見つめる旅、成熟への道ーーアルモドバル監督の新たな到達点
ペドロ・アルモドバルが初めて長編英語作品に挑んだ『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』。これまでの彼の作品と比べると、情熱的な色彩や感情の爆発は抑えられ、より静かで内省的な作品に仕上がっている。監督自身が老境に入り、死と成熟に向き合い始めたことの表れのように感じられる。
そして本作もまた、監督のその精神性を反映した、、死に向き合うことで、精神を統合し、成熟していく女性二人を描いた作品だと感じた。
主人公は、小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)。彼女はかつての親友マーサ(ティルダ・スウィントン)から突然連絡を受ける。マーサは末期の病に侵され、意識のはっきりしているうちに自死を選ぼうとしていた。しかし1人でそれをすることは叶わず、かつての友人イングリッドに「私が死ぬとき、隣の部屋にいてほしい」と頼む。このリクエストに戸惑いながらも、イングリッドは彼女の最期の日々に寄り添うことを決める。
マーサは10代で妊娠し、母性を発揮することができず、子供を手放すかのように、仕事に邁進した。彼女は「人生をコントロールすること」に執着し、戦場記者として世界を駆け巡った。
極限の状況を生き抜くことで、自分の意志で自分自身と世界を支配できるような男性的英雄像を自分の中に持ち続けたのだろう。
しかし、病に侵され、死が迫ると、自制心が崩れ、思考が曖昧になることを何よりも恐れるようになる。だからこそ、彼女は「死さえも自分で決める」ことで、最後まで自己を支配しようとする。
だが、イングリッドとの再会、そして過去を振り返る対話を通じて、マーサは「コントロールする自己」を手放し、自分が避けてきた無意識の領域と向き合う準備を整えていく。
彼女たちはかつて、時間差で同じ男性と恋人関係にあった。環境学者となったレナード(ジョン・タトゥーロ)は、今や気候変動の研究をしているが、未来に対する恐怖に囚われている。本の発売イベントでは質問を受け付けず、「臆病者」と罵られたと語る。彼は右派の攻撃を恐れ、気候変動についても「もう地球は終わる」と怯えている。
マーサは死と向き合い、自分の過去とも向き合うことで、強さや成熟した精神性を身につけていくように見える。それに寄り添うイングリッドもまた「死が怖い作家」から「死と対峙する作家」へと成熟していくようだ。
そして、かつての恋人の男レナードだけが、成熟を果たせず取り残されてしまう。この精神的な成熟の差が浮き彫りになることで、いずれ別れるのだろうと予感させる。
マーサには、長年連絡を取っていなかった娘がいる。彼女は母に捨てられたという怒りと悲しみを抱えたまま、母のマーサとは和解できずにいた。
マーサは娘と再会せずに旅立つが、マーサが死に場所に選んだ家にマーサの娘を迎えて、母と娘の精神的な和解を見事に仲裁する。和解できなかったことで罪悪感に囚われそうになるマーサの娘に、そっと寄り添い、彼女を勇気づけるかのようだ。
この瞬間、イングリッドは「導く者」としての役割を果たし、彼女自身も精神的に成熟したことが示唆される。
「死を恐れるのではなく、それを受け入れることが、精神の成熟につながる」というメッセージが、静かに、しかし力強く響いてくる。
ペドロ・アルモドバルは、75歳にして、かつてのハイテンションな作風を脱し、静かに、深く、人生の終焉と向き合う境地にたどり着いた。「死と向き合うことは、生を統合すること」というアルモドバル監督の深い精神性と成熟した知性に触れられる名作であると思う。
素晴らしい作品。
新作で傑作に巡り会える経験は、私には数年に一度あるかないかだ。よほど過去の名作を鑑賞していた方が感動する。今は主要な映画賞を受賞していても、過去の受賞作品と比べるとレベルが落ちていると私は感じている。
だが、この作品は冒頭から違った。出だしの音楽を聞いただけで秀作、ベネチア映画祭でグランプリを獲得しただけの事はあると思わせた。
人は人生の終点を迎えるに当たって、どうしたらいいか。また、身近な人間もどう対応したら良いのか、おそらく直面してみないと分からないだろう。そう、私は考える。人それぞれに違ったっていい。この映画のような結末を選ぶ人もいれば、最後まで病気と闘う人もいるだろう。正解は神のみぞ知るではないか。 ジョイスの「ダブリン市民」の短編「死者たち」が引用されているし、ブルーズムベリーグループの一員の名が出てくる。知的レベルの高い人でラドクリフ女子大で知り合った仲ではないかと推測する。ラドクリフ女子大はハーバード大学に吸収された。主人公2人は私より数歳しただと思う。私は今年70歳になる。小中学校の同級生は、10人は亡くなっている。映画「死者たち」はジョン・ヒューストン監督晩年の作品で、日本公開時評判になった。但し、私は見ていない。今度、DVDをレンタルビデオ店で探して見てみよう。
実話をもとにした作品なのか、それともオリジナルなのか。分からないが脚本も素晴らしい。鑑賞後、じんわりと感慨が湧いてくる作品だ。
The room next doorには、違和感が…!
重くて苦しいテーマだが答えはなく、繰り返し問いかけられる問題である。戦争ジャーナリストが自ら選んだ最期のときである。
ただ、洗練された最期であることがどうしても引っ掛かる。さまざまな現場を見つめ、人の死を目の当たりにして、国際情勢や国際関係を報道してきた人物の最後の選択がこうであって良いものかと感じてしまう。このような選択ができる国、国民は、現代世界においてもきわめて珍しいことであろう。日本人でもほぼ無理だと言わざるを得ない。
スペイン人の監督が、ニューヨークを舞台にしたこと、アメリカ人の選択を映画にしたことは、単に安楽死をテーマにしたことなのだろうか。
少なくとも私は違和感と怒りと強い悲しみを感じた。
尊厳死を受け入れる側の葛藤
当事者の尊厳死の選択については宗教観の違いや人生観でだいぶ異なるけど、家族や友達など受け入れる側の葛藤はDVやネグレクトなどの被害を被っていない場合はみんな同じなのかもしれない。
気丈に振る舞って、あなたが望むことなら、と受け入れたつもりでもその時の衝撃はカメハメ波みたいにどでかい。
今回はNYの部屋、森の貸別荘のインテリアと建物が良すぎる。ファッションもシンプルだけど色使いがパーッと彩度が高くて重たい内容を緩和するかのような色使い。
病室のチューリップも公開月に合わせたん?ってほど。
ティルダの黒シャツのような軽いジャケットにブラウンのベルトがめちゃくちゃかっこよかった。
ティルダの娘がそっくりすぎてすごい配役!と思ったけど、本人のCG加工のようで。すごい世の中になったもんだ。
尊厳のある死を望む
なんとなく海外映画が見たいなと思いちょうど始まっていたこちらを拝見。
自由奔放に生きてきた、だから死ぬのもただ座して待つのではなく自ら選ぶ。
そういう女性の話。
物語としては淡々と進んでいき、別にどんでん返しがあったり大盛り上がりのクライマックスがあったりはしません。あらすじや公開前の紹介内容が全てです。その紹介に興味が持てる人なら満足するだろうし、ピンとこない人は見に行ってもピンとこないと思います。
あらすじ通りの話が淡々と進むだけではあります。
どこまで書いたらネタバレなのかもよくわからないのでネタバレありにしときます。
死を選ぶとは言ってもやっぱり劇中の描写から見る限り強がりや周囲への説得的な面が強く、女性自身も全てに納得がいってるかというと、そうでもありません。
そもそも死ぬ時に近くに誰かがいてほしいというのがそれを端的に表しています。
自由に生きてきた結果、人生の中で色々なものを切り捨ててきた。
死の間際に立った時、自分の周囲に残されたものの少なさに愕然とし、人生の中で関りを持った友人たちを頼る。
紹介を見た時は昔見た「海を飛ぶ夢」という映画を思い出しました。
ただ、「海を飛ぶ夢」は尊厳死が強いテーマ性としてありましたが、
本作はどちらかというと、「孤独死」がテーマだったと思います。
孤高に生きた女性の孤高な死に方、ではなく、
どんなに自由に生きてもやっぱり最期は人として社会との関りを実感したいという欲求からは逃れられなかった、と受け取りました。
独身おじさんの私にとってもものすごく身につまされる話でした。
自分の死に際して悼んでくれる人達がいるだろうか…病室でただただ衰弱し、医療従事者達の業務処理の一環くらいに淡々と自らの死が流されていくのだろうか…
若き日の自分を知る誰かに看取られて逝きたいという彼女の悩みと計画はものすごく突き刺さりました。
確かに看取ってくれる家族がいなかったら友人たちに囲まれて楽しい旅の中で思い出を振り返りながらぽっくり逝けたら理想だよなぁ…とは思います。
現実には絶対実行できませんが。
実際はマーサはもっとやりようはあったと思います。
娘との確執は解こうと思えば解けたはずで、とはいえ死ぬ前だけ母親面して看取ってくれとは言いづらい、という悩みもわからないではない。ただそれは本来マーサ自身がきちんと清算すべき人生のツケだったと思います。
結局巻き込まれたイングリッドは相当面倒事になってるし。
イングリッドがマーサが人生に残したツケの清算を押し付けられた形になっているのは否めない。こんな面倒事引き受けてくれたんだから相当お人好しだよイングリッド。変な悲観論者の元カレ引きずってないで前向きに生きてくれ。
そういう意味ではマーサは死の間際まで周囲を巻き込んで好き勝手に生き抜けたと言えるのかもしれません。
現代法治国家では到底容認されない計画ではありますが、こういう選択も理想のひとつとして確かにあるという一石を投じていると思います。
死生観という点では特に目新しいものはなかったですが、今際の際でもこういう足掻き方もあるんだなぁという気付きを得られたので良い映画だったと思います。
美しく死ぬこと
医療にとって死は最悪の結果で、それを極力避けるべく様々な治療が施される。しかし、全ての人に死はいずれ訪れる。永遠に死なないのも異常であり病気ともいえる。したがって、死ぬことは生理的現象であり健常なことだ。であれば、より良く生きるための医療だけでなく、より良く死ぬための医療があってもいいのではないか。ほとんどの人が、殺風景な病院のベッドの上で様々な管やコードにつながれ、モニターの音やアラーム、病院特有のにおいに囲まれて死んでいく。全く美しくない。それに比べ、マーサの死は美しいものであった。わざと死期を早めることにはいろいろと議論があろう。しかし、マーサのように精一杯生きたあとで、穏やかで美しい死を迎えることには憧れを抱かされた。私も健康に生きて、健康に死んでいきたい。
強く生きた人の話だと思った
友人とは何か
2024年。ペドロ・アルモドバル監督。作家の女性は新作のサイン会で友人の女性が癌であることを知る。戦争特派員だった彼女とは数年間会ってなかったが、見舞いに行くと、それまで知らなかった彼女と娘との関係などを聞かされて急激に距離が縮まっていく。その後彼女の治療は行き詰まり、安楽死を考えるようになる、、、という話。
ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアという実生活でも同い年のベテラン俳優二人が、お互いを思いやる友人として語り合う。それだけで映画ができるというのがすごい。嘘をついたり腹を探り合ったりしない人間たち。監督ならではの絵画のように洗練された構図と美しい色彩(やりすぎの面もあるが、赤い車はとてもいい)も楽しめる。
己が人間関係と死に方を見つめたい人におすすめ
瀕死の左派(🟦)に寄り添う保守(🟥)
2004年公開のスペイン映画『海を飛ぶ夢』でも“安楽死”を肯定的に描かれていた。海の事故が原因で四肢麻痺に陥った男(ハビエル・バルデム)が自死を選ぶ感動ストーリーだ。本作のティルダ・スウィントン演じる元戦争記者マーサも、末期ガンにおかされ最期に自死を選ぶのだが、「一人で死ぬのはいや」とそのためにわざわざ別の家を借り、友人の作家イングリッド(ジュリアン・ムーア)を隣室に寝泊まりさせ、自分の死を看取らせようとする....
どこかの誰かさんがアルモドバルの作品は“政治的”ではないと語っていたが、けっしてそんなことはない。この人若い時からフランコ独裁政権に反抗していた強者で、政治的束縛を嫌った自由を描いてきた映画監督なのである。この映画にも、地球温暖化を危惧する大学教授でマーサとイングリッドの昔の恋人ダミアン(ジョン・タトゥーロ)が登場し、「新自由主義と政治の極右化が地球滅亡の最たる原因」という自説を披露する。おそらくアルモドバルは、世界一の金持ちイーロン・マスクとは真逆の考えの持ち主なのだ。
そのイーロンとタッカー・カールソンのインタビューの中で「リベラルは反出生主義思想に汚染されている」とイーロンが語っていた。ショーペンハウワーやシオラン、古くはゴータマ・シッダールタや日本の太宰治もおそらくは反出生主義者であろう。LGBTQ差別反対に子供の人身売買、女性の社会進出を助長するフェミニズムや中絶賛成、すべての生命の源といわれる炭素の排出規制....イーロンによると、これらリベラルの主張に共通する思想が反出生主義だというのだ。
生めや増やせやの大号令下、人口増加=経済発展だった一昔前とは違って、ここもとの人口爆発がむしろ足枷となって経済衰退を招くことがだんだんとわかってきたのである。コロナ禍などはまさにその最たるものといってもよいだろう。しかし人権擁護を旗印にしてきたリベラルにとって「推しの政策は実は人口削減のため」とは口が裂けてもいえないのである。ましてや、この映画で大変美しく描かれている“安楽死”の合法化など、やりたくてもやれないまさに禁じ手なのである。
そんな禁じられたテーマ“安楽死”をとりあげるとは、さすが反骨の映画監督アルモドバルなのである。ほぼほぼティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの二人芝居で、大したどんでん返しもなく、淡々と進んでいく展開に物足りなさを感じなくもない。イングリッドの自殺幇助を疑うキリスト教福音派の警官をごっつぅ敵視した演出や、マーサの死後登場する“ある人物”に多少驚きがあるかもしれないが、まあまあ想定内といった感じなのだ。
トランプ“二度”めの大統領当選によってすべての常識がひっくり返りそうな予感のする今日この頃、リベラル代表格Warnerがあわててしかけた反出生主義のプロパガンダ映画、とでも表現すればいいのだろうか。生者=トランピストの上にも、死者=グローバリストの上にも均等にふるつもる雪とはいったいなんのことなのだろう?決して核戦争による“死の灰”のメタファーとならないことを祈るばかりである。
女優2人が素晴らしかった
生者にも死者にも雪は降り積もる
映画を観ながら若くして病気になった友人を思い出した。亡くなった時に、「まだ若かったのにかわいそうだね。」と言う人もいた。本当にかわいそうなのだろうか?可哀想と言うこと自体が失礼な話なのではないのか?一人悶々と考えたが自分自身がなぜこれほどまでにその発言に怒りをおぼえたのか分からなかった。
マーサの癌で生き残ったものは勝者、死んだものは敗者という認識をされる。だから自分は癌より先に死を選ぶという発言を聞き、あの時の違和感は勝者、敗者というカテゴライズされているように感じたために自分は嫌悪感をおぼえたのかと妙に納得した。
自分がマーサの立場なら?イングリッドの立場なら?どうするだろうか。
自分の死は自分で選びたいと願っても痛みを和らげるのみで、安楽死を選ぶことは日本でもできない。以前、難病患者の嘱託死事件がニュースとなり日本でもかなり安楽死については論争が起きた。延命をさせる技術は発展しているのに、死を望む人にはその権利は与えられない。当事者でないともちろん想像できないがなんとも苦しい気持ちになった。
自分がイングリッドならあの提案を受け入れたやろうか?考えても考えても結論は出ない。映画を観終わってからもそのことが頭から離れない。イングリッドはほんまに愛情深く優しい人物で、マーサもまた聡明で思慮深く友人思い。マーサにとっていい最期であったと思いたい。
パイの様に何層にも重なった感情
ラストシーンを迎えた時に、感謝、希望、悲しみ、やるせなさ、安らぎといった感情が何層にも重なったパイの様に押し寄せてきて、この気持ちを例える言葉が見つかりません。
私は過去に日本人の安楽死に関するドキュメンタリー番組を3本観たことがあり、安楽死に非常に関心があります。理由は、死期が近いのに強い痛みが続くことに耐えられないと思っているからです。日本社会では安楽死はおろか死もタブーになっているので、なかなか本気で死を語られることもありません。だから、ドキュメンタリーで安楽死を選んだ方の気持ちを知りたかったのです。
本作はもちろんドキュメンタリーではありませんが、アルモドバルのクリエイティブが妙に身体にしっくりきて“死”を受け入れた先にあるのが、“決して恐ろしくない何か”ではないかと感じました。
そして、マーサとイングリットの友情の描き方がいつものアルモドバルらしさ満載で、これは男性の立ち入る隙はないですね。もし、イングリットが男性だったら絶対に逃げ出すと思います。アルモドバルの描く女性はいつも肝が据わっているし、それこそが女性の本来の姿なんですよね。
マーサのデスクの中にあった数えきれない小物やノート、レコードや本やアートが、マーサの想い出の象徴の様で、なんだか妙に心に残りました。
“死”は隣のドアを閉める様に自然なこと。でも隣のドアを開けた先には新しい始まりがある。のかもしれないと言われているようでした。
安らかに死を迎えることができるのか
久々にアルモドバル作品を観た。赤や緑の原色を強調した画面づくりは彼ならではの美しさだし、かつての過剰さやLGBTのモチーフは控えめにして、流麗な音楽とともに、風格のある作品に仕上がっている。
何よりティルダ・スウィントンの存在感が凄い。痩身の佇まいは、哲学者のよう。役柄もそうだが、丸顔のジュリアン・ムーアと好対照をなしていた。
人は安らかに死を迎えることができるのだろうか。最近観た「敵」で、死に迫られてジタバタする主人公の姿に共感したこともあり、今作で描く安楽死は、甘美な誘惑のように思えてしまう。
ジェームス・ジョイスの「雪は生者の上にも死者の上にも降り積もる」の一節をこのテーマに重ねるのも、あまりに綺麗すぎるのでは、とも感じた。
生き死にの問題は、生者にのみ課されている。
どう死んでいくかは、どう生きる(生きた)のかという哲学
女優二人の演技が神がかっているのと、森や建物まで設計されたような鮮やかな色、染みるような音楽に魅了され。
癌に侵された女性が思い返す人生のフラッシュバックが時に重く、時に軽妙で効果的な演出で、芸術性へ重きを置いた映画としての完成度は高い。
尊厳死の可否とかかっこつけるのではなく、どう生きる(生きた)のかという哲学を、死という題材で提示しているのだろうと思いました。
考えさせられる映画であり、面白いから観たいのに……
重いテーマと美しい絵の連続が拭いきれない眠気を誘い、瞼を閉じないようにする戦いがつらかった面もありました。
Close
ある程度の年齢を超えるとどうにも自分や他人の死について考える機会が多くなり、近年の高齢化も相まって安楽死を扱ったテーマの作品にはついつい足を運んでしまいますし、今作も例に漏れずでした。
ただこのテーマの作品を観るたびにやっぱ合わないなぁ、死生観が違うんだろうなとなるのがお決まりで、今作も首を傾げながらの鑑賞になってしまいました。
まず本題の安楽死をするから近くの部屋で見守っててというところに辿り着くまでがかなり長かったです。
病気の話ならともかく、ご婦人方のこれまでの人生とかを振り返る様子が延々続くのでなんの話だっけ?となる場面がかなり多く、会話劇としての盛り上がりも無いときたので困りっぱなしでした。
やっとこさ同居が始まるかと思いきや、安楽死するための薬が無い!とヒステリックになるので、これはギャグとして見るのが正解なのか?となってしまったのもあってテーマの重みと不釣り合いな気がして居心地があまり良くなかったです。
よくよく考えたらとんでもないワガママだよなぁとなってからはこの人死なないで欲しいなとはどうしてもならず、安楽死したいのならサッとすればいいのにと人の心無いんかくらいの発言をしてしまいそうでした。
安楽死を見守って欲しいという無茶な願いを受け入れる優しさは凄いなと思いつつも、友情というよりかは義務感での見守りなのかなと思ってしまったのもモヤモヤな点です。
そこからの展開はまだとんとん拍子で進んでいき、安楽死実行、そこからの家族との関わり合い、色々ありながらも警察が来てからガラッと動くのかなと思いきやスーッとエンドロールに突入していくので消化不良感は否めませんでした。
前半の謎会話を減らしてこの後の展開を増やしてくれたら良かったのに…と心から思いました。
全体的に色合いはとても綺麗ですし、背景の小物なんかもかなりこだわっているんだろうなというのは強く感じられました。
好みではなかっただけで、こういうテーマの作品は様々な視点で作られるのが良いと思いますし、自分の死生観と似たような作品と出会える事を願いながら映画を見続けていきたいものです。
鑑賞日 2/4
鑑賞時間 15:55〜17:55
座席 H-20
全138件中、61~80件目を表示