ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
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死の自己決定権、死に方を選べるということ
安楽死、尊厳死の問題は世界中で議論が活発で、もはや避けては通れない問題。誰もが当事者になりうるから本作は身につまされる思いで鑑賞した。
自分がマーサの立場だったら、イングリッドの立場だったら、どうするだろうか。自分と親友とに当てはめて考えた。主演のお二人は少し上の世代だけど、その年齢になって同じ状況に立たされたらどうするだろうか。
イングリッドの立場なら、もし隣の部屋にいてほしいと頼まれたらそうするかもしれない。劇中の彼女のようにマーサの心変わりを期待しつつ何か打開策が浮かぶかもしれないと淡い気持ちを抱きながら親友のそばに付き添ってあげれるし。ただ、毎朝の安否確認のために部屋のドアを確認しに行くのはさすがにメンタル的に応えるだろうな。
たまたま風でドアが閉じてしまってそれを見たイングリッドが悲しみに暮れてるところにマーサが平然とした顔で現れるくだり、あれはやると思ってたけど、イングリッドにしたらたまったもんじゃない。あそこで彼女はリタイアするかと思ったくらい。
自分が自殺ほう助の容疑をかけられるリスクを負いながら引き受けた彼女には感心するけど、ただ仲のいい友人だからというだけでなく彼女の小説家という職業が関係したのだろう。こんな体験はなかなかできないだろうし、実際に本を書きたいと言ってたしね。
ではマーサの立場ならどうだろう。こちらはイングリッドほど答えは簡単ではない。実際に彼女のような状況に置かれないとその心理を読み解くのは想像だけでは難しい。治る見込みのない病の治療を続ける苦痛、薬品投与で自分を失いそうになる恐怖。それはそのときになってみなければ実感できないだろう。マーサは化学療法を受けてる間は自分が自分である部分は10%と話していた。
自分を失ってまで、自分らしさを失ってまで寿命を少しだけ伸ばすよりも、最後まで自分らしく生きて最後は自分の意思で人生の終わりを決めたい。そう考えるのも理屈では理解できてもやはり他人事として考えてしまう。
そうなのだ、所詮は他人事なのだ、人の死というものは。自分の死は他人にとっては他人事なのだ。自分の人生も死も、それは至極当たり前のことだ。だから自分の人生をどうするか、どう終わらせるかはとても個人的なことであり他人にとやかく干渉されるものではないのだ。
自分の人生をどう生きるか自分で決められる権利があるのなら、自分の人生の終わらせ方も自分で決められる権利があるはずだ。死の自己決定権だ。
ただ、その個人的な権利と命を尊ぶ社会倫理とが対立する。この問題が容易に解決できないところがそこにある。
命は尊いものだ、神から与えられた命を粗末にしてはいけない、死んで花実が咲くものか、乗り越えられない試練を神は与えない、命尽きるまであきらめずに頑張れば必ず救われるなどなど宗教的教えからことわざまで。そんな社会の固定観念が自己決定権の邪魔をする。
そんなことは聞き飽きた、そんなことは十分承知の上での決断なのだ。何十年も人生を生きてきた自立した人間が出した答えに水を差さないでくれ。そんな当人の気持ちも理解できる。ただ、逆につらい状況下で通常の精神状態ではないのではないかと周りは勘繰りたくもなる。
マーサがイングリッドから同じ問いを投げかけられた時うんざりした表情をしたのは再三同じことを言われたからだろう。
自分が自分であるからこそ自分の意思で決断したのだ、人生の終わらせ方を。どうかその自分の意思を汲み取ってくれ、私の意思を尊重してくれ。そう言われたら周りの人間は何も言い返せないだろう。
人生はよく旅に例えられる。旅の行程、行き先を本人が自由に決められる。そして旅をいつ終わらせるかも。
私の人生の旅はまだしばらくは続きそうだが、もしマーサと同じ状況に立たされた時、旅を終わらせるかどうかはその時の自分の意思で決めたいと思う。
覚悟と感謝
アルモドバルの最近(と言っても10年くらい?)の作品、たんたんと、...
アルモドバルの最近(と言っても10年くらい?)の作品、たんたんと、アルモドバルの今思う気持ち、考えていることが、映し出されているように感じて、静かに共感できる。
相変わらず、インテリアもファッションも素敵過ぎなので、それだけでも満足度高いのだが、ちょうど最近日本で展覧会していたアーティストの作品が、主人公の部屋に飾られていたり、意外と日本ではまだよく知られてないようで驚く子宮頸がんが取りあげられていたのも感心した。
アルモドバルの作品は、昔っから、本人の関心、悩みごと、思ってることを美しく、印象深く伝えてくる。
映画と監督が一緒に歳とっていく感じがますますいい。
ジュリアン・ムーアに注目したことなかったが、それにしてもこの人この感じのまま長い(ある一定のところから老けない?)、演技もほんと自然でさすが。
あー、そうだろうな、って思うところは期待通りで、アルモドバル映画としては見やすい作品だと思った。
主人公が忘れ物、探し物する場面はどういうアクセントとしておかれたのか。
もう一回見て、気づくことがありそう。
見送るパターンとして、警察沙汰になるのも厭わない
友人を持てたラッキーなはなしの設定。
死という重めのテーマを和らげる、着ている服の色や家具の色が視覚的に美しい。
家で最期まで暮らし看取って家の座敷で通夜を行い、葬式も家で行っていた昭和の終わりまでは、わざわざ映画にするまでもなく日本人的には、死と隣り合わせに生活しどうやって生きるかは皆が学ぶことが出来た。生き残った人は、両親や親戚の死にいくさまを何度も見て、自分の生きる残りの毎日のことを考えて生きていく。そういう日本でした。
娘さん役が一人二役っていうのより、やはり、べつの人物が演じるほうが良かったのでは?そして、融通の効かない警察官が宗教的に許さないと強く言ったり、助けてくれるボーイフレンドが地球温暖化を作っているのは極右のせいだと、どことなくトランプの悪口をいれているところが、映画を作った時期と監督や脚本家の意見だろうか?
安楽死って、キリスト教的に許されない科学的なこと、超現実主義の頭の良い系の人がするという自負があるんだーと、再確認した。そういえば、祈りの言葉は一切なかった。
尊厳はダメなのか…
死の選択の自由は···
素晴らしかったのですが…
作品自体はとても素晴らしかったです。
死について色々、深く考えさせられました。
鑑賞しながら両者の立場に自分を置き換え、自分ならどうするか?と都度考えを巡らせていました。
監督がわざとこちらに考えさせる時間を与えたんではないか?と思えるほど、絶妙な間を織り込んでいたようにも感じました。決して展開が遅いというわけではありません。それぞれのシーンに深みがあり、こちらに静かに語りかけてくるメッセージが込められていたのです。
それはもちろん、両女優さんたちの素晴らしい演技によるところも大きかったでしょう。
特にティルダ・スウィントンは、本当に命の危機が迫っているのではないかと思えるほど、鬼気迫る迫真の演技を見せてくれました。静かでありながらも、内面に激しさを秘めた演技でした。
ただ、敢えて言わせてもらうなら、娘役は別の女優さんにやってもらいたかったな。
もし娘が出てくるとしたら、恐らく有名ではあるけど意外な大物女優が起用されているのでは?という期待が少しあったので、いざその人が現れると少し興ざめしてしまいました。
確かに意外ではあったのですが、それじゃないだろう、と。
もちろんその方の演技も良かったのですが、せっかく最後まで充実した大切な物語を重ねてきたのに、こちらの気持ちを切られたような気さえしました。その女優さんの使い方はむしろ、言葉はきついかもしれないですが、この映画のテーマ自体を「冒涜」しているような気さえしました。
あるいは、何かコメディのようなオチにすら感じてしまったのです。
もちろん高度なメーキャップ技術のおかけで、人の顔すら変えられるのは百も承知です。過去に「スキャンダル」と言う作品もありましたしね。
しかし、この作品のテーマを考えると、やはりマーサにはそのままフェードアウトしてほしかったな、というのが私自身の正直な感想です。おそらく誰にも共感されないでしょうが…
せっかく中身の濃い良い作品なのに、女優さんの使い方次第で作品に対する想い変えられてしまうのも、何かもったいない気さえしました。
死に際について思い寄せる映画
アルモドバル監督の映画の作風は大体人間のディープな精神世界をシニカルに描かかれており、画角が色彩豊かで細部まで拘ったカメラワークなので、どんどん映画に魅せられアルモドバル監督の世界感にどんどん惹き込まれる作品でした。二人の主人公の立場は逆でどちらにも感情移入でき、こんな終末を迎えられたら(こんな終末を支えられたら)、確かに幸せだろうなと、重いテーマの映画だけど、ハッピーエンドで終わるのがアルモドバル監督の死生観なのかなと、どこか気持ちがスッキリする映画でした。
いつもと違ってとっつきやすいアルモドバル最新作
このアルモドバル監督最新作は、いつもの強烈な原色の色使いだとか、母子関係/LGBTQといったテーマ性がやや後方へ退いた分、とっつきやすい作品に仕上がっている。そこにはエレガントな軽妙さ、あるいはクラシカルな安らぎすら漂っている。ぱっと見には『インテリア』『ハンナとその姉妹』『それでも恋するバルセロナ』など往年のウディ・アレン監督作品を連想させるほどだ。
本作のストーリーはいたってシンプルかつミニマルだ。劇中にエドワード・ホッパーの油彩画「太陽の下の人々」が出てきて、ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの二人はその絵を模して寝そべってみたりするのだが、この絵画が湛えている「引き算の美学」というか「抽象化された静謐な世界」は、映画をも貫いているように感じられる。
前半でティルダ・スウィントンによる「回想シーン」が何度か出てくる。そのビジュアルにも、どこか抽象的で夢の中のようなムードが漂い、トム・フォード監督作『ノクターナル・アニマルズ』の劇中劇として描かれた「小説のシーン」を思い起こさせる。が、それは物語から浮いて見え、『ノクターナル…』ほど巧く機能していないようにも感じた。
またラストでちょっとしたサプライズがあるのだが、こちらもあまり上手くいっていないように思えた。というのも、前述の「回想シーン」で若い頃の主人公を全く似てない女優が演じていたからだ(※扮するのはユアン・マクレガーの次女エスター・マクレガー)。詳細な言及は避けるが。
そんな本作の見どころは3つ。第一に、『キートンのセブン・チャンス』『忘れじの面影』などの名作映画が次々と引用・言及されること。これは映画ファンとして素直にうれしい。なかでも、ジョン・ヒューストン監督の『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』およびジェイムズ・ジョイスの原作からの引用は三度繰り返され、まさに舞い落ちる雪の結晶のように心にしみ渡る(昨夏、同作をリバイバル上映してくれたミニシアターStrangerさんに感謝。本作鑑賞前に見ておけたのはよかった…)。
第二の見どころは、主要キャスト4人のよくコントロールされた演技だ。主役2人の抑制の利いた演技が本作のカラーを決定づけていることは言うまでもないが、ジョン・タトゥーロ、アレッサンドロ・ニヴォラの両人もちょい役ながら強く印象に残る。タトゥーロの方はいかにもウディ・アレン作品に出てきそうなリベラル知識人の匂いプンプン。一方、ニヴォラは『ブルータリスト』といい本作といい、「心の狭いひと」を演らせたらピカイチだな(笑)とヘンに納得。
そして第三の見どころは、過去作と比べて抑え気味とはいえ、そこここに目につく“アルモドバルらしさ”だ。スタイリッシュな別荘建築。目にも鮮やかなファッションや室内インテリアの数々。さらにヘアカラーや口紅などのメイクから森の深緑、ピンク色の(!)雪に至るまで、細やかに計算された色彩設計、画面構成の妙といったら。
最後にもうひとつ。本作を観ながら思い出していたのが、映画監督ジャン=リュック・ゴダールのこと。いうまでもなく同監督は2022年、自己決定権を行使して91歳で安楽死した。その驚きは未だ記憶に新しい。
かたや2024年3~5月にかけて撮影された本作では、不治の病に侵されたティルダ・スウィントンが自らの尊厳を守るために自死を選択し、ジュリアン・ムーアが彼女に寄り添う。製作に至った経緯が何であれ、そんな映画のどこかにゴダール逝去の影を求めながら観てしまった。うがち過ぎかもしれないが…。
最後まで、無意識にみぞおちに力が入る緊迫感のある作品でした。
シアター内結構混みあっていて、ビックリ。
年代的には、ほとんどが40代以上のようでした。
マーサは、シングルマザーで、海外特派員もこなした剛腕で、カメラを見つめる眼の強さ、ショートヘア、細身なのも相まって、途中から男性のように見えました。
イングリットは、人気の作家で、しなやかで、相手に応じて変化球が使える器用なタイプ、万人に好かれる感じがしました。
この2人の間に友情が成立するのは、共に書くことを生業にしているからなのでしょうか。
マーサの部屋のインテリア、小物、衣装、会話がおしゃれ。
そんなマーサが恐れたことは、少しずつ自認していた自分が少しずつ失われていくこと。
それに耐えがたく、非合法な薬を手に入れ、イングリットに看取りを依頼する。
それを受けるイングリットも、この体験が小説のネタになるという心づもりがある。
友情だけでない、複雑な感情を2人の間に感じました。
マーサの最期は、まるで侍のようでした。
こんな見事な死を自ら選ぶことができる人は、世界でどれくらいいるのだろう。
そして、マーサの死後、イングリットのもとを訪れたマーサのひとり娘のたたずまいが、マーサそっくり。
唐突なラストまで、ずっと緊張感と余韻が続く作品でした。
私が理想の死に方だと思ったのは、麻雀漫画の「アカギ」の主人公アカギの死だった。
そこに至るまでの奇想天外のあらすじは省くが、稀代の雀士アカギが、老化によって麻雀が打てなくなり、無痛の死を迎える準備をして、10人の友と最期の個別面談をし、自決するというもの。
私が現実・空想の中で接したあらゆる死の中で、一番憧れています。
この映画を観て、アカギとマーサの違いを考えました。
麻雀が打てなくなったアカギは、その時点で自身の寿命は尽きたと断じて、知己に看取られて自殺する。
ガンの宣告を受け、抗ガン剤などの治療に心が折れたマーサは、ブリジットに看取られ自殺する。
私が2人の立場なら、どうするだろうか。
なんだか、重たい宿題を出された気分でした。
その前に、ガンにならないように日々しっかり健康管理しようと思いましたが…。
選択肢
生き方にしろ、死に方にしろ、人それぞれの選択肢があって良い、おぼろにそんな理解をしています。
ただ、最期の過ごし方にもいろいろあって良いにしても、旧知の仲だとしても、誰かに側にいてほしいと要望するのは少し身勝手ではないかと感じました。
しかしイングリットは受け入れました。そしてマーサも被害が最低限となるように選択したかのように「そのとき」を迎えます。
思えば、最期に側にしてもらう相手として選ばれることは嬉しいことであったりするのでしょうか、
ベトナム戦争の傷跡、各地で続く争い、シングルマザー、医療制度の危うさ、地球温暖化の危機等、さまざまなネタに気が散る感もありましたが、それも現実を反映したものだったかと振り返ります。
ただし、親子を一人二役で見せるのはちょっと雑なんじゃないかという印象を受けました。
そして、自分だったら最期に観る映画に何を選ぶかなー等と想像してみました。
美しい映像
アルモドバル監督作品はトーク・トゥ・ハーに続いて2作目。
奇しくも病院つながり。
だれも興味ないと思うけれど、トーク・トゥ・ハーでは、介護士のベニグノはレイプしていないと私は思っている。
その作品もこの作品も、生と死が連続する時間の中のイベントに過ぎない、しかし避けようのないものであることを描いているように思う。
当然、愛に満ちた人生の中で。
序盤に病院に見舞いに訪れたイングリッドと電動ベッドを起動して状態を起こしたマーサが会話するシーンは、カメラが水平ではない。
彼女たちの顔は画面の中で右と左にきれいに配置されているが、不思議な落ち着きの悪さを感じさせる。
その後、マーサが点滴のスタンドを左手に持ってイングリッドを見下ろす様に直立しているシーンは、ファンタジー映画の賢者のようである。
マーサがいよいよイングリッドに提案するあたりから、イングリッドの衣装がマーサ側に寄ってくる。
それまでは、イングリッドは柄物の衣装が多かった。
それが通俗世界から閉鎖世界へ転移する予兆にも思える。
二人とも社会で成功した人たちなので、経済的に豊かであり、都市部のアパートメント、VOLVOのワインレッドの車、最後の贅沢よ、と言って借りる林の中の邸宅、うらやましい限り。
出てくる食べ物も、動物性のものはなく、ベリーを中心とした果実。エデンの園か。
人参スティックも食べていたな。
闘病ものではないので、闘病で苦しむシーンはほとんどない。
経験したことのある人からしたら絵空事にしかみえないかも。
マーサの提案から死まではイングリッドにとってはホラー物語だろう。
舞台を山荘に移動したことで、さらに現実味が薄れる。
妄想と現実の間を漂う時間が、描きたかったことなのだろうか。
そういう点は、たしかにピナに通じるかもね。
女優さん2人の演技がキラリと光る✨
エシカル・イシューをアーティスティックなビジュアルで非常に丁寧に紡いだ作品。
やだ、嫌いなカタカナ語を羅列してる人☝️になってるww
でもこの作品に関して言えば『倫理的な問題を芸術的な映像描写で丁寧に紡いだ』という表現よりはカタカナ語の方がしっくりくる(←ただの自己満です)
心情的には複雑怪奇な倫理的問題も、事実としては超シンプル。(疲労困憊で冒頭の単調なシーンではけっこう寝てしまっていたけど、それでもストーリーラインはちゃんと追えた。)
でもやっぱり『コレが正解!』なんて答えにはたどり着けようもなく。
「死」を扱うことで重たくなりがち、かつ正解がない問題に切り込みながらも着地点の不安定さを本編に散りばめられたアートで上手くかき消してくれてる感じがした。特にマーサの吹っ切れてからの服装の色使いやデザイン。素敵すぎ🥰
冷蔵庫の中に、おーいお茶。
鮮やかなNY
アルモドバルが撮るとNYがこんなにも鮮やかになるのかと思った。赤、緑、黄色がとても映える。鳥の声、ひらひら舞う雪。
スペインに行ったことがなくてアルモドバルでしか知らないから、行ったらがっかりするかもしれない。
特別仲が良いわけでもない、何番目かの友達同士というのがいい。死に向かいながらも深めていく仲、新しく積み重なる思い出。そうして2人は永遠になる。
娘と生きて和解するのではなく、死んでから分かりあうのもしみじみとした。生きているときはうまく行かなくても、分かり合えるときは来るし思いは届く。
アルモドバルは確かお母さんを亡くしたと思うんだけど、それを経ての母娘関係の描き方のように思った。
子がいてもいなくても、死を迎えるときはひとり。この辺りはゲイなど子のない人々への優しさを感じた。
戦場でいつも死が身近にあった彼女にとっての生と死とは。ベトナム帰還兵の深い傷。戦場で恋人と生き抜くこと。
あんなすごい家どうやって見つけたのだろう。月100万くらいで借りられるのかなあ。病院の個室といい、住んでるアパートといい、ものすごくお金持ちだ。
警官役に見覚えがあって、アレッサンドラ・ニボラって名前が懐かしかった。
英語のアルモドバルはいつもより素直に見られる気がした。もっといろんな街を撮ってみてほしいなあ。若いころのエネルギッシュな感じから、円熟味を増してこれからの新作がますます楽しみだ。
美しい最期を描いた美しい映画
痛みと苦痛に耐えてまで効果が不確かな新治療を受けることを拒否し、人間らしい最期を望む女性と、彼女を理解し寄り添う親友の姿に心から共感する。
安楽死の是非を安っぽく云々することなく、そういう選択をした女性をただ淡々と描いている。
スクリーンはとにかく美しい!
窓から見る景色は全て完璧で翳りなく、雪の降る様子も、森の木々を通して見る空も、何もかもが永遠を思わせるように輝いている。
最期の数日を過ごす女性のカラフルな服装もとても似合っている。
最後の一日まできれいに装う女性の生き方が、イコール彼女の死に方であることが悲しい。
主演ティルダ•スウィントンの中性的な佇まいは、まだ生きているのかすでに死んでいるのかどちらでもない、あるいはどちらでもあるような揺れる魅力を放っていて、その魅力に釘づけになる。
▪️最期の地として選んで借りた家の冷蔵庫を開けた時に、おーいお茶が入っていて笑った!
ただただ美しい
アドモドバルの作品はたくさん見てきたが、僕にとってこの作品は間違いなく最高傑作である。
画面一つ一つがまるで絵画のよう。耽美主義者アドモドバルの面目躍如というところ。家具や家財道具の色遣いから配置、構図まで丹念に配慮した映像。美しい画面にくきづけの2時間。
生きることと死ぬことについて語り合う二人。ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーア、まさに名女優の二人芝居である。一つ一つの言葉をすべて聞き逃すことなく映画を観ることは難しい(もう一度観てみよう)。死生感は人それぞれ。しかし自らの尊厳を保ちつつ生き、そして死を迎えたいという考えに異論はない。尊厳とは何かという問いに対する自分なりの答えが見つかれば生き方、死に方に対する答えも自ずと決まるだろう。
エドワード・ホッパーの絵画から抜け出たような無機質の美しさを湛えたスウィントン、病におかされ痩せた彼女が綺麗に化粧をし自らの身体に命を吹き込み、そして静かに最期の時を迎える。その神々しさにはただただ息を呑むばかりだ。
勘違い
会話劇を彩る色彩・詩的表現の美しさと、悲劇を生きること。
ペドロ・アルモドバルが監督をして、ジュリアン・ムーアとティルダ・スウィントンが主演。
どんな仕上がりだろうと、この座組の映画を見逃すのは有り得ない。
そう思う、中年女性による感想です。
舞台がアメリカ・ニューヨークで、英語作品。だけど?相変わらずの鮮やかな色彩。
とはいえ、わたしには今までのスペイン語作品より、寒い地域っぽい色使いに思えた。
トーンがちょっと抑え目で、シックな感じがするような。
太陽の眩しい光ではなく、鈍色の空から降る雪に映える色ってかんじ。
森の中の家で夜更かしして映画を見ているときにマーサが着ていた、
多色切り替えのチャンキーなセーターとか、マネして編もうと思えば編めるなーとか思った。
森の中の家の裏庭の赤と緑の椅子(プールサイドにあるようなやつ)とか、緑のソファーとか、イングリッドの家のガレージっぽさとか、ニューヨークのマーサの家のカラフルなキッチンとか、いろんな色使ってるのにまとまっていて落ち着く感じの部屋に住みたーいと思った。
子宮頸がんを患って、尊厳死を望むマーサは、その日を迎えるとき隣の部屋にいてほしいと、旧友イングリッドに頼む。死を恐れるイングリッドは戸惑いつつも、マーサに寄り添う。
ほぼ2名の会話劇。一人で抱えられなくて、部分的に共通の元カレであるダミアンに、イングリッドは相談する。
アメリカの法律なのか、尊厳死は自殺扱いで、その手助けは自殺教唆として裁かれるみたい。
マーサの娘への思いや、そこに至る経緯や、戦場での思い出、なぜ尊厳死を望むかなどを、
2人は語らう。
ダミアンの厭世的な現実の受け止め方、わかるってなった。
新自由主義となんとか(右翼的ななんかだったっけ?資本主義?全体主義?)があかんのやってところ。
息子夫婦が3人目の子を作るので、それを非難?したら息子に嫌われたとか、あたり前やでと思うが面白かった。すみません。ひとが生まれても木は産まれないってのもわかる。
で、この世は悲劇で、悲劇を生きる苦痛を和らげるのに、性交は効果的で、とかも面白かった。
イングリッドの、悲劇を生きる方法はあるでしょっていうのも、わかる。
どんなに嫌な世の中でも、今生きてるし、マーサは別としてまだ生きたいと思っているなら、どうにかして楽しみを見つけて生きるしかないもの。
で、マーサです。治らない病気、苦しいだけの治療。思考が鈍り、憂鬱になる。
そこから自由に、自発的に逃れたいと決めている。
薬の置き場所を忘れたりとか、その時のサインとしてドアを開けておく約束を忘れたりとか、病気による思考鈍化によって、行動が危うくなる感じ、すごくリアルだと思った。
ああやって重い病気が進行したら、いつかわたしもああなるって、おもった。
まだわたしは生きたいから、心情はイングリッドに重なるけれども、いつかマーサの気持ちを味わうのかもしれない。未来の予行演習をしているような気持ちになった。
ジェイムズ・ジョイス原作の映画『ダブリン市民/ザ・デッド』(見たことないけどね)の引用も印象的だった。雪は生きるものにも死ぬもの(死んだもの?)にも降り積もる、みたいなところ。
自分の死を、詩的に受け止められるというのは、美しいことのように思えた。
いい映画でした。
字幕翻訳:松浦美奈さま
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