「究極の「おひとり様の最期」」ザ・ルーム・ネクスト・ドア Tama walkerさんの映画レビュー(感想・評価)
究極の「おひとり様の最期」
元・戦争ジャーナリストで今は末期癌の患者となっているマーサ(ティルダ・スウィントン)と、その古い友人で小説家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)がともに過ごす数週間が描かれる。苦しむことなく美しいうちに死にたいと望むマーサは、自分の意思で最期を迎えることを決意し、イングリッドに最期まで寄り添ってほしい-隣の部屋(ルーム・ネクスト・ドア)にいてほしい-と依頼する。
マンハッタンの病院とそれぞれの住むアパート、その後に過ごす場所、マーサの衣装、と全篇うつくしい映像で埋め尽くされている。(とくに病院は、セントラルパークを見下す大きな個室で、余程の金持ちでないと入れそうにないが、とにかくゴージャスで美しい。)
しかし。親友とともに過ごす美しい最期の日々、といった話では、実はない。イングリッドは唯一無二の親友というわけではなく、マーサが他の何人かに断られたあげくに頼んだ相手。生涯を通じて疎遠だった娘には知らせることを拒み、会わずに死ぬ。イングリッド以外の、死が近いことを知っている友人や昔の恋人も、訪ねては来ない。
マーサは徹底的に一人で、たたかって生きてきた、現代先進国の「おひとり様」である。徹底して孤独な代わり、それなりの仕事をやり遂げ、多少の贅沢もできる。だから最期まで、自分ですべてをコントロールするのはむしろ当然のことだろう。戦争ジャーナリストとして悲惨な現場を見続けてきたにもかかわらず、あるいはだからこそ、世界一豪華な街ニューヨークで、きれいで贅沢なものに囲まれて、病気でボロボロになる前に、幕を下ろす。死んだあとの世話役も後始末も、みんな手配しておく。実にみごとな「おひとり様の最期」である。
マーサの最期は一つの理想、と考える人は決して少なくないのではないか。徹底して孤独だが、最期まで自分らしく、言い換えればめいっぱい我儘に、自分のやり方で生き抜いた。
しかし、それに対してイングリッドは葛藤を抱え続け、結局生前には会えなかったマーサの娘は死後に訪ねてきて複雑な感情を見せる。マーサの死を取り調べる警官は「自殺は犯罪だ」ときっぱり言う。マーサがイングリッドに「隣の部屋(ルームネクストドア)」にいてほしいと頼むのも、単に後始末のためだけではなく、文字通りの「孤独死」には耐えられないと思ったからだろう。
現代先進国の「おひとり様」(女性だろうと男性だろうと)にとって、死は、自分でコントロールできない唯一のものであり、しかも必ずやってくる。この人生さいごの難題への回答として、アルモドバル監督は、「おひとり様の最期」の一つの究極の形を美しく描きつつ、それを全面肯定してはいない。「おひとり様」にとっての人生さいごの課題、というテーマ設定の鮮やかさがすばらしい。