「『オオカミの家』コンビの長編第二弾は実写映画! でも個人的には歯が立ちませんでした。」ハイパーボリア人 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
『オオカミの家』コンビの長編第二弾は実写映画! でも個人的には歯が立ちませんでした。
いやあ、もう何がなんだか(笑)。
最初に言っておくと、僕は『オオカミの家』に★4.5、『骨』に★4.0を付けたうえで、ここのレビュー欄でも詳細な感想を記して絶賛しまくった「シンパ」である。
だけど、今回の長編はさすがにトゥーマッチというか、
僕の知力ではとうてい太刀打ちできないというか……
あんたら、マジで客にわからせる気ないだろ(笑)。
いや、難解な映画というのはあっていいと思うし、たとえ難解でもベルイマンやタルコフスキーなんか僕は大好きだし、そういう映画に対して思い入れ半分知ったか半分の批評語を投下する行為自体にも、映画鑑賞のひとつの愉しみがあると信じてはいるんだけど。
だが、ここまでひたすらやりたい放題やりまくって、風呂敷を広げるだけ広げて、回収する気すらなく、ただとっちらかった状態のまま映画を終わらせてよいのか、というと、さすがに監督コンビは観客の理解力を過信しすぎているように思う。
わからないように撮るのは、別にいいのだ。
でも、ある程度は観客にも寄り添ってほしい。
考えるきっかけとか、読み解くための枠組みが欲しい。
少なくとも『オオカミの家』や『骨』にはそれがあった。
でも『ハイパーボリア人』には、それがない。
だから、僕としては、今回の映画は、
オナニズムの産物だとしかいいようがないし、
独りよがりで、頭でっかちで、排他的な映画にしか思えない。
少なくとも、僕の手には負えない。
せめて、もう一回くらいは観ないと……。
でも、そこで問題なのは、
もう一回観たいというほどに、
面白いとも到底思えなかったことだ。
本作が徒に難解だという感想は、必ずしも僕だけのものではないようだ。
パンフを観ると、きわめて好意的にこの難解な映画を読み解いておられる新谷和輝さんですら、「そうした物語を見ていると素直に物語に没入しようと思っても、すぐにその場から引き剝がされてしまう。そうして没入と乖離が連続的に訪れることによって、観客は唖然としながらやがて映画に置き去りにされていく」とお書きになっている。
そう、置き去りにされるのだ。
ジャンクとアートのごたまぜのカオスのなか、
何を信じてよいのか、何が語りたい中核なのかも
よくわからないまま、無案内に放り出され、
物語の前提は覆されつづけ、思いつきのように
変転しつづける。
当の監督自身、この映画を撮りはじめる段階で「脚本を見直してみたんですが、あまりにも内容が混み入っていて複雑すぎるんです。それで、こんなものはとても撮れないと、その脚本を二つに分けました」とか言ってるし、「撮影に入る直前になって作る決断ができず、脚本を突貫で書き直した」とも述べている。
僕には、この映画の「難解さ」が、徹底的な「推敲」を経たうえで獲得された前向きな「難解さ」であるようには、どうしても思えない。
この映画は『オオカミの家』とは、似て非なるものだ。
『オオカミの家』は難解だが、決して「わかりにくい」映画ではない。
たしかに、あの映画でも、すべてのモチーフは流転し、安定した状態を保てず、不定形のまま常に様相を変遷させていた。
キャラクターは、その外見すら固定されず、弟たちは豚になったり人になったりした。
でも、『オオカミの家』にはまだ「童話としての祖型」が堅固としてあった。
ファウンドフッテージとしての偽りの外形があった。
それを「フック」にして考えていくための、よすががあった。
だが、『ハイパーボリア人』には、核となる指標がない。
展開にも必然性が感じられない。
あえて、ごった煮としてつくられている。
関節外しが横行し、こうだと思ったらそうでもない。
新谷さんは「チリの集合的無意識」と語っていたが、
まさにそういった感じの「澱み」に置き去りにされる。
女優で臨床心理学者って設定自体がまず、よくわからない。
幻聴を聴く患者メタルヘッドとセラーノの関係性もよくわからない。
その話を映画監督コンビにもちこむ必然性もよくわからない。
そこからなぜ映画を撮る話になるのかもわからないし、その映画がなぜかすでに「喪われていて」、その内容をアントがスタジオで「再現」してみせるのかもよくわからない。ちなみに、「フィルムで撮った映画のネガが盗まれた」というのは、今回の作品の製作上で「実際に起きたトラブル」だったらしい。この盗難事件を振り返る3人のオンライン演劇こそが、この映画『ハイパーボリア人』の原型なのだそうだ。虚実ないまぜというか、虚と思ったら実、というパターンである。
今回の映画の場合、実写と人形の切り替え、素面と仮面の切り替えのタイミングや根拠も、おおいにわかりにくい。なんとなく「背後の理屈」が考えやすかった『オオカミの家』と異なり、「万物流転」の法則が本当にランダムに発生しているようなつくりで、しかも物語の枠組み自体が二転三転してゆく。
おまけにわれわれは、本作で重要な役割を示すミケル・セラーノについてよく知らない。
レオン&コシーニャが拘泥しつづける、政治家ハイメ・グスマンのこともよく知らない。
しかも、映画のなかで、両名のチリにおける立ち位置が詳らかにされるわけでもない。
なかなかに徒手空拳の映画鑑賞ではないか。
セラーノとナチス、セラーノと陰謀論、
チリとセラーノ、セラーノとグスマンといった
小難しい内容に立ち入る前の大前提として、
物語構造やキャラの設定自体からして、
まるで頭のなかに入ってこないので、
ちょっともう、僕には歯が立たないとしかいいようがない。
睡魔との闘いのなかで、断片的に、
メタルヘッドの顔と髪型は麻原正晃に似てるなあとか、
サングレといえば「サンタ・サングレ」だよなあとか、
アラセリのアバターがNHK教育の番組っぽいなあとか、
そういや、打ち切られた金スマにも鹿がいたなあとか、
ずっとどうでもいいことばかりぐるぐる考えていた(笑)。
アニメ監督の山村浩二さんは、この映画のことを「ドリフ」にたとえておられたが、内輪受けと見立てと成り行きと即興性で荒唐無稽な世界観が肯定されているという意味では、むしろ「ひょうきん族」の「タケちゃんマン」に近いノリかもしれない。そして僕は子供のころ、「タケちゃんマン」の適当なノリと笑いが、大の苦手だった。
あと、むかしシュヴァンクマイエルの『悦楽共犯者』とかでもちょっと思ったけど、意外に実写とストップモーションの並置って相性が悪いんだよね。絵的な食い合わせが良くないというか。
そこに、『ドッグヴィル』みたいな演劇的要素と、美術館における共同作業を含むハプニング的要素も加わって、まあまあ、真の意味でしっちゃかめっちゃかになっている。
そのわやくちゃな状態にあって、それでいいやと「居直って」立ち止まってしまっているところに、この映画の最大の問題があるような気がする。
めちゃくちゃであることを「意図的だ」「これでいい」と肯定してしまった時点で、映画としての精錬度もそこで止まっちゃうわけで。
最後のほうの、古めかしいSF映画めいた、空洞地球とハイパーボリア人の話(地底人と巨人伝説はオールドSFの花である)は多少面白くもあったが、総じて、個人的には終始、楽しみ方のわからない映画だった。
どちらかというと、レオン&コシーニャコンビについては、準備中とされる次回作『ヘンゼルとグレーテル』にこそ、大いに期待したい。
(『名前のノート』は別途項目が立っていることに気づいたので、簡単ですがそちらに)