ハイパーボリア人のレビュー・感想・評価
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観客を選ぶ作品ではあるが、イマジネーションの渦に圧倒された
『オオカミの家』を体験済みの人ならば免疫があろうが、そうでない人に対し本作をどんなものと形容する術を僕は知らない。だから得てして、メリエル、シュヴァンクマイエル、パイソン時代のギリアム、あるいはゴンドリーなどを彷彿とさせるなどと口にしそうになるが、頭をよぎった瞬間、いやそのどれとも違うなと躊躇ってしまう。手狭な倉庫内における、手作り感に満ちたセットや小道具の中で展開する”ほぼ一人芝居”。でありつつ、ファンタジーであり、SFでもあり、さらに核心にはチリという国の歴史がある。これはこの国が逃れることのできない過去の記憶や傷を、突飛なジャンルや創造力を借りて現代人が「追想する」という極めて画期的で斬新な手法ではないだろうか。そうやって「私ではない何者か」を演じるうちに、役柄には「私自身」がにわかに滲み出していくかのよう。何がなんだかわからないが、その洪水の中でずっと絶え間なく興奮が渦巻き続けた。
実験的アート映画の手法で、チリの過去と今を見つめ直す試み
2023年に日本公開されたチリ発のストップモーションアニメ映画「オオカミの家」を興味深く鑑賞できた方なら、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督コンビの長編第2作「ハイパーボリア人」の独特な世界観や作風を楽しめる可能性は大いにある。もし前作を未見であったり、自分に合わない感じを受けた方なら、予告編などの事前情報をチェックしてから鑑賞するかどうかを判断したほうがいいだろう。
虚実入り混じったストーリーだが、序盤で語られる「ハイパーボリア人」の元の映像素材が盗まれて行方不明になった、というのは実話のようだ。それで諦めないどころか、新たな創作スタイルで作り直すのが監督コンビの見上げたところ。主人公で語り手の女優アントーニア・ギーセンに等身大の操り人形を相手に芝居をさせたり、飛び出す絵本や動く紙芝居を大きくしたような質感と動作のセットとストップモーションアニメを組み合わせるなどして、映画とインスタレーションとパフォーミングアートを融合させた実験的作品に仕上がっている。
ストーリーの理解に役立つ予備知識を仕入れたい向きには、チリの元外交官でヒトラーを崇拝したミゲル・セラーノについてネット検索などで調べておくのがおすすめ。Wikipediaでは、日本語版の項目「超教義的ナチズム」の中で短く紹介されているほか、英語版の「Miguel Serrano」の項でその生涯や思想が詳しく説明されている。
一義的にはチリの過去と今を見つめ直す試みだろうが、ユニークな抽象化の手法によって他国の観客の興味や想像をかき立てる普遍性を獲得しているように思う。
アイディアは面白いと思うが観るには精神力が必要
映像は楽しめるが物語は取っ散らかった印象
目くるめく迷宮世界を、主人公アントーニアの目線で追体験していくシュールでファンタジックな怪作。
物語はアントーニアが自分が主演した映画を再現するという体で始まるが、そこで描かれる劇中劇はかなり混沌としていて、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが幻想なのか判然としない作りになっている。ゆえに、観る人によってはサッパリわけが分からないという感想になろう。
加えて、実在した人物の名前や独裁政権下のチリの社会状況も関係してくるので、そのあたりを知らないと楽しめないように思う。特に、後半に行くにつれて、このあたりは深くテーマに関わってくる。ある程度予備知識を持ったうえで鑑賞したほうがいいだろう。
監督、脚本は前作「オオカミの家」で世界的に注目されたのクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャ。
チリの過去の悲劇を炙り出すというテーマは前作から受け継がれているが、作品スタイルはガラリと変化している。前作は全編ストップモーションアニメで表現されたダークな作品だったが、今回は実写映像を主としたユーモラスなスタイルになっている。尚、今回も前作同様、美術館でのインスタレーション作品として制作プロセスを展示しながら撮り上げた作品ということである。
まず何と言っても様々な技法を駆使した映像表現に見応えを感じた。
映画の原初を思わせるトリック撮影や、素朴な味わいがする影絵、手作り感溢れる美術や小道具等、全てにおいて”アナログ”を意識した作りが面白い。CG全盛の時代に敢えて逆行した作りは挑戦的と言うのを通り越して、もはやアヴァンギャルドですらある。
思い出されるのが、ミシェル・ゴンドリー監督の「恋愛睡眠のすすめ」である。段ボールで作られた主人公の妄想の世界が大変ユニークだったが、それに通じるものを感じた。
また、モノクロ時代のB級映画を思わせる後半部は特に面白く観れた。このパートだけ画質が粗くなり、ご丁寧にフィルムの傷まで付けるという凝りよう。明らかにチープなセットも完全に狙ってやっているのだろう。
一方、物語はと言うと、先述したように虚実が混沌としてて、よほど注意しながら観て行かないと途中から置いてけぼりを食らいかねない。一応、アントーニアが行方不明になった映画を再現するという形で進行するのだが、これが中々一筋縄ではいかない。途中で本作の監督であるレオン&コシーニャが人形の姿で登場したり、時空を無視した非現実的な空間、果てはコンピューターゲームやオカルト、都市伝説めいたホラ話まで登場して、物語の方向性がまったく定まらない。
キーパーソンであるメタルヘッドが時々人形の姿になったり、アントーニアが急に仮面を付けたりするが、これも理由があるのかもしれないが、自分には理解できなかった。
確かに唯一無二のアーティスティックな映像は楽しめたが、物語としてみた場合、取っ散らかった印象は拭えない。
個性大爆発の実験映画…かと思いきや非常に丁寧な作品
正直、予告映像を見た段階では「かなり独りよがりな実験的映画かもしれない」と予想していたが、蓋を開けてみると思いのほか丁寧な設計で観客への配慮がなされた映画だった。
ストーリーは決して支離滅裂ではなく、しっかりとしたレールの上を走っていく。ただその走り方が特殊というだけだ。なので、難解ではあっても安心してその難解さに身を委ねることができる。
話がとっ散らかなかった理由はやはり政治的要素が骨格になっているからだろう。
パーソナルで観念的なメッセージ、あるいは哲学的なメッセージは必ずしも相手に伝わる必要はないが、政治的メッセージは相手に伝わらなければ基本的には意味がない。
もちろんこの映画は政治的メッセージを全面に押し出した映画というわけではないのだが、チリを取り巻く政治や歴史という史実的部分が骨組みを形成していたので、現実と想像、史実と虚構を行き来する幻覚的なお話であっても支離滅裂になることなく各要素が繋ぎ止められてバランスが保たれていた。
そういう意味では、今回同時上映された「名前のノート」が、「ハイパーボリア人」本編に向けたちょうど良い補助線になっていたようにも思う。
映像面はもちろん素晴らしかったが、音楽やSEも非常に良かった。
とても大満足の映画でした。
ムイビエン♪ムイビエン♪
コラージュとかノイズとか
インスタレーション的なフィルム大好きだから
全く抵抗ないというかよく出来てると思った
プランやデザインに加え緻密なこだわり趣味嗜好に
グッと来た
前作の「オオカミの家」にも美的センス感じてて
スクリーンで芸術を体験した(座ってて観れて楽)
「○○さん(あたしのこと)の好きそうなやつだったからぜひ観てきてー」と
最近チリのドキュメントにハマっている映画好きの若い同僚が紹介してくれたので話のタネに行くことにした
せっかくなのできちんと予習して
前作の「オオカミの家」も配信で見てから行ったので
何を表現したいのかは想像する事ができて楽しめた
だいたいタイトル聞いた時にギャグ映画ですか?
と思ったし
よその国の過去の歴史をあたしが真剣に考えてもなんだし
現在の世界がもう大国のボス達がトチ狂っているので
このところ過去も未来も何も考えたくない老人になった
いい歳のおばさんはテイストを楽しむだけで充分だった
ぱっと見古いフィルムを見ているようで
アナログ手法の斬新さがとても楽しかった
紹介してくれた同僚に感謝♡
理解できないことのリアリティ
好きか嫌いか、お勧めするかしないか、そうした基準の一切を跳ね除ける作品。
見たあとしばらくの間、理解もできなければ、言葉にもならず。
ただこの作品を見た、という体験だけが内側に残った。
体感的には、「川辺を散歩していてなんとなく川の水を触った」とか「真上を飛行機が飛んで空を見上げた」とかと似た体感。
感情を大きく揺さぶられるというよりは、目の前に流れた出来事に、意味や理解を求めると困惑する、という感じ。
映画を見て2日経ち、身体の内側にいたハイパーボリア人の記憶と少し話ができるようになってきた感覚があり、記述してみている。
今日は予想外な出来事に遭遇して、怒ったり悲しんだりグラグラと気分も混乱していた。
一息つくと、ふとハイパーボリア人の映像の断片が思い浮かんでくる。
私が混乱している状況の中、意外なことに親しみを感じたのがこの映画だった。
その要素
わけが分からぬままにポンと混沌とした状況に投げ込まれる
自分の身の回りの大半は、自分の考えや予想に反して展開している
自分自身すら辻褄の合わない要素をあわせ持つ
愛する人が何を考え・信じているのかも到底理解できない
ある時180°人や物事の見え方が変貌する
ありがちな非現実的な感動ポルノに心揺さぶられる
作り込みリアリティを求めるほどにリアリティが遠ざかる
取り組んでいるうちに段々と理解を超える次元に到達し、ただ続けている
これらの断片について思うことは、映画なのに、とても自分の現実に近しいもののような感覚だった。
混沌としていて、そこには一貫した筋道は見えず、ただあちこちに巻き込まれていく。
自分で意味を見つけて、理解しようとすることで自分が保たれる。
自分が保たれる一方で、流したこと、忘れたこと、整理されていないこと、辻褄の合っていないことを抱えていることも確か。
チリの監督ということもあって、ホドロフスキーも思い浮かぶ。
映画監督でもあり、演者でもあり、サイコマジックで人をケアする者でもある…複雑な肩書きのあるホドロフスキーも、時折り主演の人物と重なって見えた。
この作品を通して、映画自体が期待されていることや映画が果たす機能を、解体・拡張しようと実験しているかのような。
オオカミの家でも感じた、身体の内側に残る感覚が、より理解とは遠い場所で生じる作品をみた。
なるほど、わからん
映像、テーマとしては、併映された「名前のノート」の方がわかりやすく、印象的だた。
パンフレットを読んである程度の時代背景は補完できるが、本編観賞だけですっきりせずに「あれはそういうことか・・・?」などと考察するのが好きじゃない人にはあまりお奨めできない。逆に好きな人には奨められるが。
南米にヒトラーが亡命した説については「お隣さんはヒトラー?」で知っていたが、 ナチスとの関係など、南米の歴史に詳しくないとさっぱりなところはあった(チリでは常識の範囲なのかもしれないが)。
チリも長い間独裁政権が続いていて民主化に時間がかかったことなどは、ピノチェト独裁政権にいかに選挙でNOを突きつけるかという映画「NO」でも描かれていたので、このあたりは深堀したら面白そうだ。
パンフレットの「チリには激動の歴史があり、今もその渦中ですから、チリで生まれる芸術や音楽が政治を扱うのは当たり前のことで、そうでないものを探す方が大変だと思います。日本は違うのかもしれないけれど…」と言う監督の言葉がなんとも突き刺さる。芸能人やアーティストが政治的発言をすると「お前は作品だけ作っていればいいんだ」とばかりにこぞって叩く様はなんとも情けない。そもそも政治がまともじゃなければ映画も小説も音楽もあらゆる芸術は危機に瀕するのは歴史を見ても明らかなのだが…日本人はもっと政治に目を向けるべきだろう。
本作の日本版予告においても、オオカミの家の監督の新作ということは大事なキャッチコピーだとしても、アニメや人形などを織り交ぜた独特の手法ばかり取り上げて「映画の闇鍋」と称するのは、日本人の政治に対する関心の低さや理解力の低さがあらわになったようでなんとも情けないような…。
アオリ文の、「この人たち、どうかしてる――」の「この人たち」は作中の登場人物なのか監督たちなのか、それとも見ている観客なのか…
ちょっと美大の卒制ぽい。
初めて彼らの作品を見る人にどう説明していいかわからない。チープなSFをアートで表現(誤魔化して)して楽しむ、、、というと分かりやすいかも知れない。
映画として見るというより映像を楽しむ、、、かな。
前作の「オオカミ..」はチリの黒歴史を赤ずきんちゃんテイストと手間のかかったコマ撮りで描いた大作だったが、今回は前作の時間かけ過ぎてしまった反省からラブクラフトネタのショボい創作SFをコマ撮りパート減らして一気に作りたい!みたいな熱意を感じた。
何だか美大の展示的なやっつけ感が案外新鮮だったりするのだが、新しい表現アイデアがないとこの先辛いかも知れない。
あ、私は映像は楽しんだけど話は途中からどうでもよくなってしまった。でもそんな見方でいいような気がする。
かなりの知識を要求される点で、ある意味「問題作」か…
今年65本目(合計1,607本目/今月(2025年2月度)28本目)。
「名前のノート」と一緒に放映される扱いですが、こちらにも若干触れていきます。
まず「名前のノート」は前提知識がないと、延々と人名が読み上げられる「だけ」の10分ほどの映画なのですが、読み上げられる名前に男性名に極端に偏りがあることがわかります(女性名はほぼ出ない)。このことから、何らかの戦争に巻き込まれたか…などの推理が働きますが、チリでは「ピノチェト軍事政権」の独裁政権があり、その独裁政権の中で行われた数々の事件の犠牲者を扱う趣旨の映画であることをまず見抜かないとこの10分ほどの短編映画は「???」になりますし、その後の本作もかなりの理解差が生じます。
そしてこちらの本編になりますが、「ピノチェト軍事政権」という語は出ないものの「1980年憲法」や「ナチスドイツがうんぬん」といった語から、(第二次世界大戦前~後のドイツ系移民による)チリにあったコロニアのいわゆる性虐待を扱った映画であることがわからないと(この点は前作の「オオカミの家」でも理解しるう内容だった)、突然1980年憲法がどうこうといったこと、ましてチリ映画(スペイン映画)なのにドイツ語や、はてはナチス(や、ヒトラー)が出てくる意味が分からず、そこが厳しいのかな…といったところです。
一方、「ハイパーポリア人」という言葉「それ自体」については何度か出てくるものの具体的に何を指しているか映画内では言及がありません。この点、この語そのものは、いわゆる「クトゥルフ神話」等にも登場はする語ではありますが、この映画の趣旨的にSFチックなこの小説から取ってきたとは思えず、仮にそこから引っ張ってきているとしても真の意味は別にあるはずですが(「クトゥルフ神話から取ってきた」というのは形式的な意味で正解にはなるが、本質的な正解にはならない)、この点はわからずじまいです(パンフには答えが載っているのかな?)。
総じて、チリの現代史(1980~)や、ドイツ系意味の話を理解できないと詰んでしまう(ただ、2024年だったか「お隣さんはヒトラー?」は、実は趣旨的に一部がかぶる)のがこの映画の特徴かなといったところです。
採点としては以下まで考慮しています。
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(減点0.8/見るにあたってかなりの知識が必要)
上記に書いてあること程度はある程度常識とする向きもありましょうが、日本ではアメリカ史、フランス史などは大手の書店では世界史の棚にあると思いますが、チリ史まで扱っている書店は少なく(大阪市でさえ見つからなかったので、東京でもない?)、大学でチリ史を専攻しました、レベルの方でないときついのかな、と思います。
一方それらがわからなくてもコメディ、恋愛ものとして楽しめるならそちらのベクトルで見ることもできますが、本映画はそのような「向き(ベクトル)」がなく、上記の最低限の知識がないと「放映フィルムがぶっ壊れてるのか」くらいにわかりづらいのが、ここが人を選ぶかな、といったところです。
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(減点なし/参考/「私は~かどうか知らない」を意味するスペイン語のモニター表示)
もっとものこのパソコン、1960~70年代の黎明期のパソコンを想定できる一方、いきなりキャラクタのアバターが出てきて指示を個々出す(今でいえば、teamsやスカイプといえばよいか)といった「時代が謎なパソコン」ですが、この「~かどうかを知らない」の部分が、 No se ... になっています。
本来、スペイン語では se となる部分は、eにアクセント記号がある se' (実際は、eの上に ' の強勢記号がつく)となるのが正しいのですが(動詞 saber の一人称単数の活用。再帰代名詞 se と区別するため、こうなる)、1960~70年代の初期のパソコンでは、おそらく英語基準で最低限の文字しか文字コードしか扱えなかったので、上記のような表記になっているのだろうと思います( se (再帰代名詞のそれ)か、se' (saberの活用形)かは、文脈でわかるため)。
茨城県那珂市、あまや座にて
レオン&コシーニャ監督の「ハイパーボリア人」を鑑賞。チリの黒歴史、空想、陰謀論の世界を奇妙な映像と音で旅する。
アラセリというキャラクターのTシャツが可愛くて今年それで生きていこうと思ったのですが、サイズが切れていて諦めました。
「オオカミの家」もそうでしたが、彼らの作品に興味を持って調べると、おのずとチリの近代史に触れることになります。
一見、グロテスクに見えたキャラクターのそれぞれも、時間が経つと可愛らしく見えてくる感覚がありますが、そんな感覚は日野日出志先生の漫画を思い出させます。この作品は音も素晴らしいので、アンビエントやノイズミュージックが好きな人には結構ツボだと思いますので、お近くでやってましたら劇場へ急いでくださいね。
ちんぷんかんぷん???
なんじゃこりゃ?
チリを描いているけど
Ctrl+Alt+Del
鑑賞数日前まで“ボリビア人”と勘違いして、国や民族を調べようかとか考えてた。笑
『オオカミの家』は事前知識なくてもある程度楽しめたが…
正直、理解できたのは2人の監督と会うところまで。
その後は、寝落ちしたと錯覚するほどに唐突な場面転換が続き、ストーリーを追うことも出来ず。
そのせいで台詞も全部脳内を滑ってより理解不能に。
クトゥルフ神話とかチリの歴史とか、ヒトラーやミゲルのような実在の人物を知ってたら楽しめたのか?
映像表現としては相変わらず面白い部分はある。
また、様々な仕掛けや人形の操作はニュアンスに直結するため、難しさもあったと想像する。
しかし、個々に新しさは感じられない。
銃を撃った後に星型の厚紙(?)が出現する表現とか、平成初期の卒業制作かと。(知らんけど)
表現の新しさと古さ、造形の凝ったものと簡素なものなどのごった煮感は狙ったものだとは思う。
だがそれが作品に合ってるかというと、脚本の取っ付きづらさを助長しただけに感じた。
実写をベースにしたことで、悪夢感よりも非現実感が強く出て、前作より迫る怖さもなかった。
独特の感性は気になるが、クセが強いぶんそれ自体には早くも飽きの兆しが…
脚本の改善か方向性の転換がなければ、観ても次作までかなぁ。
解釈次第で無限大
今作、事前知識は、当日朝に、YouTubeで解説動画を観たくらいです。オオカミの家は事前知識全く無しで立ち向かって寝ました。
「オオカミの家より難解」という、劇場のポップを見て震えてました。
が、
こっわかった…!
作り手の意図している解釈はできてる気がしません。ホラー耐性はかなり高いつもりです。
とりあえず、「目で見たものをそのまま信じたらだめだ」という目標だけ掲げて立ち向かったところ、何も信用できなくなり、自分がどの世界線に立って物事を見ているのか分からなくなり、得体のしれない不安がすごかった。
この映画の予告、「闇鍋」ってキーワードがありましたけど、闇鍋のほうがまだマシ。鍋してるなら自分は机の前にいますもん。これは自分がどこにいるかも分からなくなる没入感。
時折画面越しっぽくなるシーンが特に、1本目の世界線だと思ってみていた場所すら画面越しなのかと感じ、あれが映るたび気持ち悪くすらなりました。
顔以外紙人形とか、あり得ないビジュアルは、現実感の全くない悪夢の中みたいで、
逆に悪夢って、何でも起きちゃうじゃないですか。だから何が起きるか分からない底しれぬ恐怖。
映画のフィルムを探し求めてなんやらかんやら…の、「なんやらかんやら」の部分は、もう説明できないくらい何を見てたかイマイチなんですか、
もしかして、映画監督は全知全能の神的な価値観でいらっしゃるこの監督…?独裁者の気配があるのかな…?
みたいなラストだなと思いました。
事前知識をつけようと見た、YouTubeの内容が活かされた気はほぼしないです。
空洞地球?地球の中身空洞みたいな思想くらい。
私みたいなもんでもなんとかなります。
映画という映像作品
本作品は、チリの歴史をベースとした作品だ。
[物語として]
まず初めに、私はこの作品を見るまでにチリの歴史に明るくなかったことを反省したい。
このレビューをお読みの方は、
ミゲル・セラーノについてお調べになってからの鑑賞を強くお勧めしたい。
物語は“元精神科医の女優が、失われた映像作品のフィルムを探す”ことが目的として始まる。
予告編にある通り、まさに闇鍋な物語を体感できるが、その実は歴史との向かい方を映画という手法を用いて行なっているように感じた。
[芸術作品として]
本作品は、ストップモーションやアニメ、大小様々な道具が、舞台装置のように所狭しと使用される。
映画を通して見えているモノや人が、生ている人間かアバターなのか、それとも...
映像表現の方法は、シーンを切り取ってしまうと一見安っぽさを感じるが、それが一本の映画となるとまさに創作者の執念を垣間見る。
鑑賞中の没入感が強く、
映像作品体験として楽しむことができた。
このような作品が映画として出てくる事が、
混沌とした時代をより表現できていると感じる。
画質や撮影手法変えたシュール
Samilla
「オオカミの家」コンビがお送りするこれまたインパクトの強い絵面が上映時間いっぱいに繰り広げられるので71分と短い上映時間のはずなのに長い時間置いてけぼりにされました。
ストーリーはあらすじを読んだ感じ、ある程度チリの歴史を知らんとなという事で簡単にチリの近代史あたりを調べたんですが、中学高校の授業じゃこんなの触れた覚えがないぞレベルで知らない情報まみれでした。
大学で世界史専攻していたらこういうのも知れたのかな〜と思うと大学で学び直したい事って結構多いなとしみじみする時間がありました。
でもこれをどうやって映画に落とし込むんだろうとこれまた悩みが増えてしまいました。
いざ今作を観て、そして観終わった後にこの作品の半分も理解しきれなかったんじゃとボヤボヤしながら劇場を後にしました。
カオスな映像に気を取られていたら、ゆったりと隠密にストーリーが進んでいくもんですからとてつもなく厄介でした。
チリの政治家などを登場させつつ、彼らの所業悪行を余す事なく映画に詰め込み、そこにメタ的視点からの心理だったり、監督たちも劇中に登場したりと考える場面は多いんですが、情報量の多さにパンクしてしまった感が「オオカミの家」と同じくらいあって集中力のゲージがぶっ壊れて知ったのが惜しかったです。
映像はアナログの連発なんですがとにかく凝り具合が凄すぎました。
手作り感満載の小道具が起動していない時間帯が無かったんじゃってレベルで小道具で溢れており、シーンの切り替えもちょっとだけごちゃついているのも良い味出していますし、糸で引っ張って動かしてみたり、ゲーム的演出をしてみたかと思いきや一気にダークな面も見せてくれたりと、映像はカオスが極まっており字幕を観ながら映像を見ても何がどうなってるのやらとこんがらがるのが面白かったです。
キャラクター造形も中々に奇妙なデザインが多く、それによって観る側を強烈に不安にさせてきますし、突然ドン!と見覚えがありそうなのに見覚えのないビジュアルが襲ってくるもんですからじんわり心臓に悪いやつまみれでした。
相性はやっぱし良くないなとは思いつつも、圧倒的映像表現は素晴らしかったですし、今後の作品も映像のクオリティに重きを置いて観に行くんだろうなと思いました。
次はある程度その国の歴史を知るべきだなと反省もしつつですが。
鑑賞日 2/12
鑑賞時間 16:25〜17:50
座席 K-11
※「名前のノート」併映
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