ハイパーボリア人のレビュー・感想・評価
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観客を選ぶ作品ではあるが、イマジネーションの渦に圧倒された
『オオカミの家』を体験済みの人ならば免疫があろうが、そうでない人に対し本作をどんなものと形容する術を僕は知らない。だから得てして、メリエル、シュヴァンクマイエル、パイソン時代のギリアム、あるいはゴンドリーなどを彷彿とさせるなどと口にしそうになるが、頭をよぎった瞬間、いやそのどれとも違うなと躊躇ってしまう。手狭な倉庫内における、手作り感に満ちたセットや小道具の中で展開する”ほぼ一人芝居”。でありつつ、ファンタジーであり、SFでもあり、さらに核心にはチリという国の歴史がある。これはこの国が逃れることのできない過去の記憶や傷を、突飛なジャンルや創造力を借りて現代人が「追想する」という極めて画期的で斬新な手法ではないだろうか。そうやって「私ではない何者か」を演じるうちに、役柄には「私自身」がにわかに滲み出していくかのよう。何がなんだかわからないが、その洪水の中でずっと絶え間なく興奮が渦巻き続けた。
実験的アート映画の手法で、チリの過去と今を見つめ直す試み
2023年に日本公開されたチリ発のストップモーションアニメ映画「オオカミの家」を興味深く鑑賞できた方なら、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督コンビの長編第2作「ハイパーボリア人」の独特な世界観や作風を楽しめる可能性は大いにある。もし前作を未見であったり、自分に合わない感じを受けた方なら、予告編などの事前情報をチェックしてから鑑賞するかどうかを判断したほうがいいだろう。
虚実入り混じったストーリーだが、序盤で語られる「ハイパーボリア人」の元の映像素材が盗まれて行方不明になった、というのは実話のようだ。それで諦めないどころか、新たな創作スタイルで作り直すのが監督コンビの見上げたところ。主人公で語り手の女優アントーニア・ギーセンに等身大の操り人形を相手に芝居をさせたり、飛び出す絵本や動く紙芝居を大きくしたような質感と動作のセットとストップモーションアニメを組み合わせるなどして、映画とインスタレーションとパフォーミングアートを融合させた実験的作品に仕上がっている。
ストーリーの理解に役立つ予備知識を仕入れたい向きには、チリの元外交官でヒトラーを崇拝したミゲル・セラーノについてネット検索などで調べておくのがおすすめ。Wikipediaでは、日本語版の項目「超教義的ナチズム」の中で短く紹介されているほか、英語版の「Miguel Serrano」の項でその生涯や思想が詳しく説明されている。
一義的にはチリの過去と今を見つめ直す試みだろうが、ユニークな抽象化の手法によって他国の観客の興味や想像をかき立てる普遍性を獲得しているように思う。
なるほど、わからん
映像、テーマとしては、併映された「名前のノート」の方がわかりやすく、印象的だた。
パンフレットを読んである程度の時代背景は補完できるが、本編観賞だけですっきりせずに「あれはそういうことか・・・?」などと考察するのが好きじゃない人にはあまりお奨めできない。逆に好きな人には奨められるが。
南米にヒトラーが亡命した説については「お隣さんはヒトラー?」で知っていたが、 ナチスとの関係など、南米の歴史に詳しくないとさっぱりなところはあった(チリでは常識の範囲なのかもしれないが)。
チリも長い間独裁政権が続いていて民主化に時間がかかったことなどは、ピノチェト独裁政権にいかに選挙でNOを突きつけるかという映画「NO」でも描かれていたので、このあたりは深堀したら面白そうだ。
「チリには激動の歴史があり、今もその渦中ですから、チリで生まれる芸術や音楽が政治を扱うのは当たり前のことで、層でないものを探す方が大変だと思います。日本は違うのかもしれないけれど…」と言う監督の言葉がなんとも突き刺さる。芸能人やアーティストが政治的発言をすると「お前は作品だけ作っていろ」とばかりにこぞって叩く様はなんとも情けない。そもそも政治がまともじゃなければ映画も小説も音楽もあらゆる芸術は危機に瀕するのは歴史を見ても明らかなのだが…日本人はもっと政治に目を向けるべきだろう。
本作の日本版予告においても、オオカミの家の監督の新作ということは大事なキャッチコピーだとしても、アニメや人形などを織り交ぜた独特の手法ばかり取り上げて「映画の闇鍋」と称するのは、日本人の政治に対する関心の低さや理解力の低さがあらわになったようでなんとも情けないような…。
アオリ文の、「この人たち、どうかしてる――」の「この人たち」は作中の登場人物なのか監督たちなのか、それとも見ている観客なのか…
ちょっと美大の卒制ぽい。
初めて彼らの作品を見る人にどう説明していいかわからない。チープなSFをアートで表現(誤魔化して)して楽しむ、、、というと分かりやすいかも知れない。
映画として見るというより映像を楽しむ、、、かな。
前作の「オオカミ..」はチリの黒歴史を赤ずきんちゃんテイストと手間のかかったコマ撮りで描いた大作だったが、今回は前作の時間かけ過ぎてしまった反省からラブクラフトネタのショボい創作SFをコマ撮りパート減らして一気に作りたい!みたいな熱意を感じた。
何だか美大の展示的なやっつけ感が案外新鮮だったりするのだが、新しい表現アイデアがないとこの先辛いかも知れない。
あ、私は映像は楽しんだけど話は途中からどうでもよくなってしまった。でもそんな見方でいいような気がする。
かなりの知識を要求される点で、ある意味「問題作」か…
今年65本目(合計1,607本目/今月(2025年2月度)28本目)。
「名前のノート」と一緒に放映される扱いですが、こちらにも若干触れていきます。
まず「名前のノート」は前提知識がないと、延々と人名が読み上げられる「だけ」の10分ほどの映画なのですが、読み上げられる名前に男性名に極端に偏りがあることがわかります(女性名はほぼ出ない)。このことから、何らかの戦争に巻き込まれたか…などの推理が働きますが、チリでは「ピノチェト軍事政権」の独裁政権があり、その独裁政権の中で行われた数々の事件の犠牲者を扱う趣旨の映画であることをまず見抜かないとこの10分ほどの短編映画は「???」になりますし、その後の本作もかなりの理解差が生じます。
そしてこちらの本編になりますが、「ピノチェト軍事政権」という語は出ないものの「1980年憲法」や「ナチスドイツがうんぬん」といった語から、(第二次世界大戦前~後のドイツ系移民による)チリにあったコロニアのいわゆる性虐待を扱った映画であることがわからないと(この点は前作の「オオカミの家」でも理解しるう内容だった)、突然1980年憲法がどうこうといったこと、ましてチリ映画(スペイン映画)なのにドイツ語や、はてはナチス(や、ヒトラー)が出てくる意味が分からず、そこが厳しいのかな…といったところです。
一方、「ハイパーポリア人」という言葉「それ自体」については何度か出てくるものの具体的に何を指しているか映画内では言及がありません。この点、この語そのものは、いわゆる「クトゥルフ神話」等にも登場はする語ではありますが、この映画の趣旨的にSFチックなこの小説から取ってきたとは思えず、仮にそこから引っ張ってきているとしても真の意味は別にあるはずですが(「クトゥルフ神話から取ってきた」というのは形式的な意味で正解にはなるが、本質的な正解にはならない)、この点はわからずじまいです(パンフには答えが載っているのかな?)。
総じて、チリの現代史(1980~)や、ドイツ系意味の話を理解できないと詰んでしまう(ただ、2024年だったか「お隣さんはヒトラー?」は、実は趣旨的に一部がかぶる)のがこの映画の特徴かなといったところです。
採点としては以下まで考慮しています。
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(減点0.8/見るにあたってかなりの知識が必要)
上記に書いてあること程度はある程度常識とする向きもありましょうが、日本ではアメリカ史、フランス史などは大手の書店では世界史の棚にあると思いますが、チリ史まで扱っている書店は少なく(大阪市でさえ見つからなかったので、東京でもない?)、大学でチリ史を専攻しました、レベルの方でないときついのかな、と思います。
一方それらがわからなくてもコメディ、恋愛ものとして楽しめるならそちらのベクトルで見ることもできますが、本映画はそのような「向き(ベクトル)」がなく、上記の最低限の知識がないと「放映フィルムがぶっ壊れてるのか」くらいにわかりづらいのが、ここが人を選ぶかな、といったところです。
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(減点なし/参考/「私は~かどうか知らない」を意味するスペイン語のモニター表示)
もっとものこのパソコン、1960~70年代の黎明期のパソコンを想定できる一方、いきなりキャラクタのアバターが出てきて指示を個々出す(今でいえば、teamsやスカイプといえばよいか)といった「時代が謎なパソコン」ですが、この「~かどうかを知らない」の部分が、 No se ... になっています。
本来、スペイン語では se となる部分は、eにアクセント記号がある se' (実際は、eの上に ' の強勢記号がつく)となるのが正しいのですが(動詞 saber の一人称単数の活用。再帰代名詞 se と区別するため、こうなる)、1960~70年代の初期のパソコンでは、おそらく英語基準で最低限の文字しか文字コードしか扱えなかったので、上記のような表記になっているのだろうと思います( se (再帰代名詞のそれ)か、se' (saberの活用形)かは、文脈でわかるため)。
茨城県那珂市、あまや座にて
レオン&コシーニャ監督の「ハイパーボリア人」を鑑賞。チリの黒歴史、空想、陰謀論の世界を奇妙な映像と音で旅する。
アラセリというキャラクターのTシャツが可愛くて今年それで生きていこうと思ったのですが、サイズが切れていて諦めました。
「オオカミの家」もそうでしたが、彼らの作品に興味を持って調べると、おのずとチリの近代史に触れることになります。
一見、グロテスクに見えたキャラクターのそれぞれも、時間が経つと可愛らしく見えてくる感覚がありますが、そんな感覚は日野日出志先生の漫画を思い出させます。この作品は音も素晴らしいので、アンビエントやノイズミュージックが好きな人には結構ツボだと思いますので、お近くでやってましたら劇場へ急いでくださいね。
ちんぷんかんぷん???
なんじゃこりゃ?
チリを描いているけど
Ctrl+Alt+Del
鑑賞数日前まで“ボリビア人”と勘違いして、国や民族を調べようかとか考えてた。笑
『オオカミの家』は事前知識なくてもある程度楽しめたが…
正直、理解できたのは2人の監督と会うところまで。
その後は、寝落ちしたと錯覚するほどに唐突な場面転換が続き、ストーリーを追うことも出来ず。
そのせいで台詞も全部脳内を滑ってより理解不能に。
クトゥルフ神話とかチリの歴史とか、ヒトラーやミゲルのような実在の人物を知ってたら楽しめたのか?
映像表現としては相変わらず面白い部分はある。
また、様々な仕掛けや人形の操作はニュアンスに直結するため、難しさもあったと想像する。
しかし、個々に新しさは感じられない。
銃を撃った後に星型の厚紙(?)が出現する表現とか、平成初期の卒業制作かと。(知らんけど)
表現の新しさと古さ、造形の凝ったものと簡素なものなどのごった煮感は狙ったものだとは思う。
だがそれが作品に合ってるかというと、脚本の取っ付きづらさを助長しただけに感じた。
実写をベースにしたことで、悪夢感よりも非現実感が強く出て、前作より迫る怖さもなかった。
独特の感性は気になるが、クセが強いぶんそれ自体には早くも飽きの兆しが…
脚本の改善か方向性の転換がなければ、観ても次作までかなぁ。
解釈次第で無限大
今作、事前知識は、当日朝に、YouTubeで解説動画を観たくらいです。オオカミの家は事前知識全く無しで立ち向かって寝ました。
「オオカミの家より難解」という、劇場のポップを見て震えてました。
が、
こっわかった…!
作り手の意図している解釈はできてる気がしません。ホラー耐性はかなり高いつもりです。
とりあえず、「目で見たものをそのまま信じたらだめだ」という目標だけ掲げて立ち向かったところ、何も信用できなくなり、自分がどの世界線に立って物事を見ているのか分からなくなり、得体のしれない不安がすごかった。
この映画の予告、「闇鍋」ってキーワードがありましたけど、闇鍋のほうがまだマシ。鍋してるなら自分は机の前にいますもん。これは自分がどこにいるかも分からなくなる没入感。
時折画面越しっぽくなるシーンが特に、1本目の世界線だと思ってみていた場所すら画面越しなのかと感じ、あれが映るたび気持ち悪くすらなりました。
顔以外紙人形とか、あり得ないビジュアルは、現実感の全くない悪夢の中みたいで、
逆に悪夢って、何でも起きちゃうじゃないですか。だから何が起きるか分からない底しれぬ恐怖。
映画のフィルムを探し求めてなんやらかんやら…の、「なんやらかんやら」の部分は、もう説明できないくらい何を見てたかイマイチなんですか、
もしかして、映画監督は全知全能の神的な価値観でいらっしゃるこの監督…?独裁者の気配があるのかな…?
みたいなラストだなと思いました。
事前知識をつけようと見た、YouTubeの内容が活かされた気はほぼしないです。
空洞地球?地球の中身空洞みたいな思想くらい。
私みたいなもんでもなんとかなります。
映画という映像作品
本作品は、チリの歴史をベースとした作品だ。
[物語として]
まず初めに、私はこの作品を見るまでにチリの歴史に明るくなかったことを反省したい。
このレビューをお読みの方は、
ミゲル・セラーノについてお調べになってからの鑑賞を強くお勧めしたい。
物語は“元精神科医の女優が、失われた映像作品のフィルムを探す”ことが目的として始まる。
予告編にある通り、まさに闇鍋な物語を体感できるが、その実は歴史との向かい方を映画という手法を用いて行なっているように感じた。
[芸術作品として]
本作品は、ストップモーションやアニメ、大小様々な道具が、舞台装置のように所狭しと使用される。
映画を通して見えているモノや人が、生ている人間かアバターなのか、それとも...
映像表現の方法は、シーンを切り取ってしまうと一見安っぽさを感じるが、それが一本の映画となるとまさに創作者の執念を垣間見る。
鑑賞中の没入感が強く、
映像作品体験として楽しむことができた。
このような作品が映画として出てくる事が、
混沌とした時代をより表現できていると感じる。
画質や撮影手法変えたシュール
Samilla
「オオカミの家」コンビがお送りするこれまたインパクトの強い絵面が上映時間いっぱいに繰り広げられるので71分と短い上映時間のはずなのに長い時間置いてけぼりにされました。
ストーリーはあらすじを読んだ感じ、ある程度チリの歴史を知らんとなという事で簡単にチリの近代史あたりを調べたんですが、中学高校の授業じゃこんなの触れた覚えがないぞレベルで知らない情報まみれでした。
大学で世界史専攻していたらこういうのも知れたのかな〜と思うと大学で学び直したい事って結構多いなとしみじみする時間がありました。
でもこれをどうやって映画に落とし込むんだろうとこれまた悩みが増えてしまいました。
いざ今作を観て、そして観終わった後にこの作品の半分も理解しきれなかったんじゃとボヤボヤしながら劇場を後にしました。
カオスな映像に気を取られていたら、ゆったりと隠密にストーリーが進んでいくもんですからとてつもなく厄介でした。
チリの政治家などを登場させつつ、彼らの所業悪行を余す事なく映画に詰め込み、そこにメタ的視点からの心理だったり、監督たちも劇中に登場したりと考える場面は多いんですが、情報量の多さにパンクしてしまった感が「オオカミの家」と同じくらいあって集中力のゲージがぶっ壊れて知ったのが惜しかったです。
映像はアナログの連発なんですがとにかく凝り具合が凄すぎました。
手作り感満載の小道具が起動していない時間帯が無かったんじゃってレベルで小道具で溢れており、シーンの切り替えもちょっとだけごちゃついているのも良い味出していますし、糸で引っ張って動かしてみたり、ゲーム的演出をしてみたかと思いきや一気にダークな面も見せてくれたりと、映像はカオスが極まっており字幕を観ながら映像を見ても何がどうなってるのやらとこんがらがるのが面白かったです。
キャラクター造形も中々に奇妙なデザインが多く、それによって観る側を強烈に不安にさせてきますし、突然ドン!と見覚えがありそうなのに見覚えのないビジュアルが襲ってくるもんですからじんわり心臓に悪いやつまみれでした。
相性はやっぱし良くないなとは思いつつも、圧倒的映像表現は素晴らしかったですし、今後の作品も映像のクオリティに重きを置いて観に行くんだろうなと思いました。
次はある程度その国の歴史を知るべきだなと反省もしつつですが。
鑑賞日 2/12
鑑賞時間 16:25〜17:50
座席 K-11
※「名前のノート」併映
予想以上に意味わからん(笑)
モンティ・パイソンを思い出した
『オオカミの家』コンビの長編第二弾は実写映画! でも個人的には歯が立ちませんでした。
いやあ、もう何がなんだか(笑)。
最初に言っておくと、僕は『オオカミの家』に★4.5、『骨』に★4.0を付けたうえで、ここのレビュー欄でも詳細な感想を記して絶賛しまくった「シンパ」である。
だけど、今回の長編はさすがにトゥーマッチというか、
僕の知力ではとうてい太刀打ちできないというか……
あんたら、マジで客にわからせる気ないだろ(笑)。
いや、難解な映画というのはあっていいと思うし、たとえ難解でもベルイマンやタルコフスキーなんか僕は大好きだし、そういう映画に対して思い入れ半分知ったか半分の批評語を投下する行為自体にも、映画鑑賞のひとつの愉しみがあると信じてはいるんだけど。
だが、ここまでひたすらやりたい放題やりまくって、風呂敷を広げるだけ広げて、回収する気すらなく、ただとっちらかった状態のまま映画を終わらせてよいのか、というと、さすがに監督コンビは観客の理解力を過信しすぎているように思う。
わからないように撮るのは、別にいいのだ。
でも、ある程度は観客にも寄り添ってほしい。
考えるきっかけとか、読み解くための枠組みが欲しい。
少なくとも『オオカミの家』や『骨』にはそれがあった。
でも『ハイパーボリア人』には、それがない。
だから、僕としては、今回の映画は、
オナニズムの産物だとしかいいようがないし、
独りよがりで、頭でっかちで、排他的な映画にしか思えない。
少なくとも、僕の手には負えない。
せめて、もう一回くらいは観ないと……。
でも、そこで問題なのは、
もう一回観たいというほどに、
面白いとも到底思えなかったことだ。
本作が徒に難解だという感想は、必ずしも僕だけのものではないようだ。
パンフを観ると、きわめて好意的にこの難解な映画を読み解いておられる新谷和輝さんですら、「そうした物語を見ていると素直に物語に没入しようと思っても、すぐにその場から引き剝がされてしまう。そうして没入と乖離が連続的に訪れることによって、観客は唖然としながらやがて映画に置き去りにされていく」とお書きになっている。
そう、置き去りにされるのだ。
ジャンクとアートのごたまぜのカオスのなか、
何を信じてよいのか、何が語りたい中核なのかも
よくわからないまま、無案内に放り出され、
物語の前提は覆されつづけ、思いつきのように
変転しつづける。
当の監督自身、この映画を撮りはじめる段階で「脚本を見直してみたんですが、あまりにも内容が混み入っていて複雑すぎるんです。それで、こんなものはとても撮れないと、その脚本を二つに分けました」とか言ってるし、「撮影に入る直前になって作る決断ができず、脚本を突貫で書き直した」とも述べている。
僕には、この映画の「難解さ」が、徹底的な「推敲」を経たうえで獲得された前向きな「難解さ」であるようには、どうしても思えない。
この映画は『オオカミの家』とは、似て非なるものだ。
『オオカミの家』は難解だが、決して「わかりにくい」映画ではない。
たしかに、あの映画でも、すべてのモチーフは流転し、安定した状態を保てず、不定形のまま常に様相を変遷させていた。
キャラクターは、その外見すら固定されず、弟たちは豚になったり人になったりした。
でも、『オオカミの家』にはまだ「童話としての祖型」が堅固としてあった。
ファウンドフッテージとしての偽りの外形があった。
それを「フック」にして考えていくための、よすががあった。
だが、『ハイパーボリア人』には、核となる指標がない。
展開にも必然性が感じられない。
あえて、ごった煮としてつくられている。
関節外しが横行し、こうだと思ったらそうでもない。
新谷さんは「チリの集合的無意識」と語っていたが、
まさにそういった感じの「澱み」に置き去りにされる。
女優で臨床心理学者って設定自体がまず、よくわからない。
幻聴を聴く患者メタルヘッドとセラーノの関係性もよくわからない。
その話を映画監督コンビにもちこむ必然性もよくわからない。
そこからなぜ映画を撮る話になるのかもわからないし、その映画がなぜかすでに「喪われていて」、その内容をアントがスタジオで「再現」してみせるのかもよくわからない。ちなみに、「フィルムで撮った映画のネガが盗まれた」というのは、今回の作品の製作上で「実際に起きたトラブル」だったらしい。この盗難事件を振り返る3人のオンライン演劇こそが、この映画『ハイパーボリア人』の原型なのだそうだ。虚実ないまぜというか、虚と思ったら実、というパターンである。
今回の映画の場合、実写と人形の切り替え、素面と仮面の切り替えのタイミングや根拠も、おおいにわかりにくい。なんとなく「背後の理屈」が考えやすかった『オオカミの家』と異なり、「万物流転」の法則が本当にランダムに発生しているようなつくりで、しかも物語の枠組み自体が二転三転してゆく。
おまけにわれわれは、本作で重要な役割を示すミケル・セラーノについてよく知らない。
レオン&コシーニャが拘泥しつづける、政治家ハイメ・グスマンのこともよく知らない。
しかも、映画のなかで、両名のチリにおける立ち位置が詳らかにされるわけでもない。
なかなかに徒手空拳の映画鑑賞ではないか。
セラーノとナチス、セラーノと陰謀論、
チリとセラーノ、セラーノとグスマンといった
小難しい内容に立ち入る前の大前提として、
物語構造やキャラの設定自体からして、
まるで頭のなかに入ってこないので、
ちょっともう、僕には歯が立たないとしかいいようがない。
睡魔との闘いのなかで、断片的に、
メタルヘッドの顔と髪型は麻原正晃に似てるなあとか、
サングレといえば「サンタ・サングレ」だよなあとか、
アラセリのアバターがNHK教育の番組っぽいなあとか、
そういや、打ち切られた金スマにも鹿がいたなあとか、
ずっとどうでもいいことばかりぐるぐる考えていた(笑)。
アニメ監督の山村浩二さんは、この映画のことを「ドリフ」にたとえておられたが、内輪受けと見立てと成り行きと即興性で荒唐無稽な世界観が肯定されているという意味では、むしろ「ひょうきん族」の「タケちゃんマン」に近いノリかもしれない。そして僕は子供のころ、「タケちゃんマン」の適当なノリと笑いが、大の苦手だった。
あと、むかしシュヴァンクマイエルの『悦楽共犯者』とかでもちょっと思ったけど、意外に実写とストップモーションの並置って相性が悪いんだよね。絵的な食い合わせが良くないというか。
そこに、『ドッグヴィル』みたいな演劇的要素と、美術館における共同作業を含むハプニング的要素も加わって、まあまあ、真の意味でしっちゃかめっちゃかになっている。
そのわやくちゃな状態にあって、それでいいやと「居直って」立ち止まってしまっているところに、この映画の最大の問題があるような気がする。
めちゃくちゃであることを「意図的だ」「これでいい」と肯定してしまった時点で、映画としての精錬度もそこで止まっちゃうわけで。
最後のほうの、古めかしいSF映画めいた、空洞地球とハイパーボリア人の話(地底人と巨人伝説はオールドSFの花である)は多少面白くもあったが、総じて、個人的には終始、楽しみ方のわからない映画だった。
どちらかというと、レオン&コシーニャコンビについては、準備中とされる次回作『ヘンゼルとグレーテル』にこそ、大いに期待したい。
(『名前のノート』は別途項目が立っていることに気づいたので、簡単ですがそちらに)
謎かけじゃなくてなぞなぞね。
幻聴に悩まされる患者から、俳優で心理学者の女性が聞いたことを映画化しようとする話。
個人的な問題だけど、あらすじ紹介の「オオカミの家」というタイトルをみて、内容を勝手に「ウルフウォーカー」と勘違いした状態で観賞しはじめ、「名前のノート」が始まって、あ゛っ!オオカミの家って…щ(゚д゚щ)
実写の人と安くてシンプルなセットの中で展開していく物語だけど、人が突然パペットになったり戻ったり、そして空洞地球がーとか、メタルヘッドがーとか、パワーホールがーとか言い始めて、冒険活劇ですか?もしかして病んでます?
パワーホールといえば長州力ですよ?って、えっ!?
良くわからないCMもどきみたいなものが差し込まれたりしながら進行していき、ストーリーはわかるようなわからないような・・・。
一応ブラックジョークも入り混じったシュールでカオスなコメディなんだろうけれど、空気感は弛いし判りにくいしで、面白さより考える面倒臭さばかりが気になった。
期待して見たんだけど、前作の方が良いし同時上映の短編の方が良作。表...
期待して見たんだけど、前作の方が良いし同時上映の短編の方が良作。表現が凄くて超超挑戦的なんだけど、それよりも現在映画の病の症状がはっきり見て取れる。昨年見た「ナミビアの砂漠」や「ぼくのお日さま」「スーパーハッピーフォーエバー」などなどなどと同じ。つまり、結論を言い切れない、映画を終わらせられない。これを映画自体の死期と捉えるか、キャンセルカルチャーを踏まえた映画の生きる為の営みと捉えるか。きちんと作品を終わらせられた作品で思い浮かぶ監督って、今だと三宅唱しか思い浮かばない。まあ言える事は、自分が見たい映画は死につつあるんだなって事。ドキュメンタリーの方が今冴えてるのかな。去年の「マザー」とか素晴らしかったから。
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