「面白さはあったのですが、作品が求める違う構成もあったのではと」うちの弟どもがすみません komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
面白さはあったのですが、作品が求める違う構成もあったのではと
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論としては、今作は面白さはあったのですが、作品が求める違う構成もあったのではとは思われました。
この映画『うちの弟どもがすみません』は、父が今はいない主人公・成田糸(畑芽育さん)の母・さほ(笛木優子さん)と、母が今はいない長男・源(作間龍斗さん)ら4人の男兄弟の父・勲(川島明さん)とが、再婚することで、血のつながらない男子女子が1つ屋根の下で暮らし始める物語です。
今作は、両親の再婚後すぐに、父・勲の転勤に母・さほが同行することになり、両親のいない中、男女では血のつながりのない美男美女の学生が暮らし始めるという、ベタですがドキドキ感ある構成になっています。
例えば長男・源ら男兄弟が、部屋の中や終盤の騎馬戦で、上半身裸になったりするのも、姉弟家族関係と、男女の恋愛関係との、曖昧な関係を行き来するドキドキに沿った効果的な演出だったと思われます。
観客としての求めが、血のつながらない男女のドキドキに留まっているのであれば、この映画は成功だったと言えます。
しかし、1観客の私としては、この映画の深層で示している内容からすれば、別の構成の方が良かったとも感じ、食い足らなさはありました。
その食い足らなさは、映画を観始めてすぐに、主人公・糸が、料理や洗濯など家事にフル回転している理由は何なのだろう?‥の疑問として私的には現れたと思われます。
また、三男・柊(織山尚大さん)は過去のいじめから今は引きこもりになっています。
しかし、主人公・糸が、三男・柊にオンラインゲームなどを通して積極的に関わろうとする理由も、伝わる主人公・糸の性格の良さ以上には映画の中盤までは分からないままでした。
ところが映画の中盤で、幼馴染の本間央太(前田旺志郎さん)によって、主人公・糸は、母子家庭の母を支える為にこれまで頑張って来た、ことが明らかにされます。
そうなると、なぜ主人公・成田糸が、新しい家族になっても、料理や洗濯など家事をフル回転で頑張り、引きこもりの三男・柊を家族の場に何とか出て来れるように尽くしていたのかも、理解が出来るのです。
なぜなら、主人公・糸が、実の父を失って家族が壊れそうになった関係を、これまでなんとか母を支えて守り続けて来た人物なのであれば、長男・源や三男・柊ら4人の弟を含めた新しい家族との関係でも、(ようやく訪れた母の、新しい父との幸せな時間を守る意味でも)懸命になるのは、必然で自然な行動だったと、思われるからです。
そして、いじめから三男・柊を守り、家族を守ろうとしていると伝わった長男・源のことを、同じように母を支え家族を守ろうとし続けて来ていた主人公・糸が好きになるのも、全く自然な流れだったと言えます。
さらに、これまで家族を守ることが優先順位だった主人公・糸が、長男・源への好きの感情を優先させれば、今度は(母をも悩ませる)家族の関係を壊すことになり、これまでとは違った次元に足を踏み出すことになります。
この、家族と恋愛の、これまでの主人公・糸にとって人生のかかった深さある究極の選択の葛藤は、映画のドラマ性としてこの作品が求める重要な柱になっていたと思われます。
ところがしかしながら、この映画は、母を支え家族を守ろうとし続けて来ていた主人公・糸が、血のつながらない家族内恋愛においての葛藤を描く、物語構成には、残念ながらなっていないのです。
それが、1観客としては今作の食い足らなさの要因だと思われました。
ちなみに、長男・源も、三男・柊に対して<欲しいことを口に出来て羨ましい‥>との趣旨の発言が映画の最終盤で、なされます。
しかしながら、長男・源の(おそらく母を失ったところから来る)素直に自分の想いを人に伝えられない葛藤も、この映画では中心として描かれてはいませんでした。
もちろん、血のつながらない男子女子が1つ屋根の下で暮らし始めるドキドキを描くという意味では、例えば事故的に唇が触れ合い、本能的に恋愛に火が点くなどの描写など、今作は成功していたのかもしれません。
人は思考の前に身体的動物的な本能があることも、また1つの真実だとも言えるからです。
ただ一方で、本能以上の人間の深さを本来描く映画としての構成の問題と食い足らなさは、残念ながら作品が求める中心からもあったと、1観客としては思われました。
ドキドキ感の良さは感じながら、今作も作品自体が求めていると感じた、人間の深さを描くという意味では、映画『先生の白い嘘』に引き続き、三木康一郎 監督には次作以降に向けての宿題が残っているのではと、僭越ながら、1観客としては思われました。