「エルファバは重力に逆らうかのような勝ち目のない戦いに駆り出された」ウィキッド ふたりの魔女 furuさんの映画レビュー(感想・評価)
エルファバは重力に逆らうかのような勝ち目のない戦いに駆り出された
すでに吹き替え1回字幕2回鑑賞済みです。
歌や音楽、視覚効果の素晴らしさは言うまでもありませんが、現実世界に対する強い皮肉も効いており、味わえば味わうほど深みが増す作品でもあります。
冒頭から、いくら「悪い魔女」だとしても他人の死を狂喜するグロテスクなシーンから始まります。
1945年8月の「水兵と看護婦がキスする写真」に代表される1945年の日本の敗戦を喜んだり、2011年5月にウサマ・ビンラディンが暗殺されて「USA! USA!」と狂喜乱舞したりする光景が思い起こされました。
その後でここに至るまでの詳細な経緯、本作品では前半が描写されます。
「悪い魔女」エルファバは緑の体故に嫌われて差別されながら生きますが、弱者に寄り添い、不正や差別を許せない性格を持ち、生来持ち合わせている魔法の才能を磨き続けています。
魔法学校に校長推薦で入学し、特訓も受け、憧れの魔法使いの皇帝に謁見できるチャンスも掴むが・・・
皇帝は魔法が使えず科学技術のハッタリを駆使し、「共通の敵」を作り出して統治をする。
校長も魔法はさほど使えず、皇帝の腰巾着になって威厳を保っている。
という真実に直面します。
これは今まで誤解や差別の下で嫌われて生きてきたエルファバにとっては許すことができず、憧れてきたものに徹底的に裏切られたことと言えます。しかも、校長などからは手のひらを返すかのように悪人扱いされ、権威と共にこれを国中に流布されてしまった。
こうなっては勝ち目があろうが無かろうが全面対決するしか無くなってしまいます。まさに「Defying Gravity:重力に逆らう」かのように。自分がこの音楽から(そこに至るまでの経緯は同じとは言えないものの)「真珠湾攻撃」を連想したことは無関係とは言えないと考えています。
ただ、このようにな今までの価値観が無になるレベルで裏切られた時、どうすべきか?
差別への反抗からガリンダから名前を変えた、グリンダのように、ポピュラー故に家族や友人や仲間を見捨てられなかったがために、面従腹背でも権力におもねるべきだったのか、その他諸々のように目立たず無関心でいるべきだったのか、何が正しいのかはわかりません。
ただ、本作品は現実とその歴史上の様々な問題や不条理を暗喩的に取り上げ、私達に突きつけ続ける限り、名作であり続けることは確かだとも言えます。