「全編に慰安が吹き荒れる作品」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 alfredさんの映画レビュー(感想・評価)
全編に慰安が吹き荒れる作品
「日々を慰安が吹き荒れて」
これは詩人吉野弘さんの詩の一部だが、これを作詞家の岡本おさみさんが引用して作詞し、吉田拓郎さんが曲をつけたのが名曲「祭りのあと」だ。桑田佳祐さんにも同名の曲があるが、二つの関連は知らない。桑田さんには「吉田拓郎の唄」(名アルバム「kamakura」収録)という曲があり、年齢的にも拓郎世代なので、それなりに意識しているはず。
ところでラスボス鬼舞辻無惨には、この慰安というものがない。自分で鬼とした者への慈愛が感じられない。彼らは自分が陽の下でも生きられる手段を得るための単なる道具に過ぎないのだ。
無惨は恐怖と恫喝で鬼を支配している。
これに対し、お館様の包み込む優しさとは全く違う。お館様は剣士らを子供たちと呼び、慈愛の対象としている。
「干天の慈雨」(辞書的には日照り続きの後の恵みの雨という意味)という型が水の呼吸にあるのは偶然ではない。
「鬼滅の刃」に通底しているのは、優しさとか慈愛といったものだ。
今回は副題にあるように、前作「無限列車編」で「逃げるな、卑怯者‼」と炭治郎に言われた猗窩座が主たる鬼だ。
猗窩座も大格闘の末に炭治郎らに敗れ、人として成仏する。成仏の過程で、彼の人としての生き方が描かれ、それが作品の基底である優しさになっている。
そうして慰安が全編に吹き荒れて、多くの人は感涙している。
上弦の参である猗窩座をたおすのにあそこまで苦労したのに、さらにこの上の上弦とラスボス鬼舞辻無惨とはどう戦うのかと暗澹たる思いになる(アニメのみフォローしているので、コミックでの最終結末は知らない)
もう一度、吉野弘さんの詩から。
「ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう」
猗窩座がそうであったように、まさに鬼が生まれる過程がここに書かれてある。
内田樹さんは「「鬼滅の刃」の構造分析」(ネットで読めます、ファン必読)で、「鬼滅の刃」の混沌について言及しているが、その混沌さが物語の重層化を生み感動を深くさせている。
前日に「スーパーマン」を観た後、館内のトイレで用足しをしていると、1人の少年(小学1年位だろうか)が走り込んで来た。「間に合った‼」と大きく声を出したので、思わず少年を見たら、彼と眼が合った。用足しを終わって手を洗っていると先程の少年(夏らしい黒い肌をしている)が近寄ってきて、「今日は何を見ましたか。僕は鬼滅の刃を見ました」と丁寧だが屈託なく尋ねてきた。私はなんだか嬉しい心持ちになり「君は炭治郎を観たんだね。おじさんはスーパーマンを観たよ。」と答えた。それを聞くや少年はその場から弾むように消えた。
少年には、炭治郎の持つ強い優しさを持ち続けて欲しいと思った。憎悪は伝播するが、優しさもきっと伝播し憎悪を凌駕し駆逐するはずだ。少年がこれから生きる時代が美しいものであれと願う。
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