劇場公開日 2025年2月21日

「ラッセル・クロウが挑む掟破りの「エクソシスト被り」! でも、肝心の出来はもう一つか。」ザ・エクソシズム じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

2.5ラッセル・クロウが挑む掟破りの「エクソシスト被り」! でも、肝心の出来はもう一つか。

2025年3月2日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

この映画を観ることにしたのには明確な理由があって、
「ラッセル・クロウってマジで『ヴァチカンのエクソシスト』に出た直後に、こんなパチモンみたいな役のオファー受けたの? バカなの??(笑)」というものだった。

で、家に帰ってから調べたら、驚愕の事実が判明!
実は、キャスト発表も撮影開始も『ザ・エクソシズム』のほうが何年も「先」だったのだが、「コロナの影響で撮影が延期され」、そのあいだに『ヴァチカンのエクソシスト』が「後追い」でスタートして「先」に完成してしまったのだ。

2019年11月 『ザ・エクソシズム』にラッセル・クロウ起用、撮影開始
2019年12月 コロナ禍、『ザ・エクソシズム』追加撮影延期
2022年6月 『ヴァチカンのエクソシスト』にラッセル・クロウ起用
2022年8月 『ヴァチカンのエクソシスト』撮影開始(~10月)
2023年4月 『ヴァチカンのエクソシスト』全米封切り
2023年   『ザ・エクソシズム』追加撮影再開
2024年6月 『ザ・エクソシズム』全米封切

要するに、ラッセル・クロウは『ヴァチカンのエクソシスト』で神父を演じた直後に、その完全なパロディのような役を続けざまに受けたわけではなかった。
『エクソシスト』のパロディのような「映画でエクソシストの神父を演じる俳優」役を受けて、メインパートを撮影を終えた3年後に、「ちゃんとしたエクソシストの神父」の役を満を持して引き受けた、ということだったのだ。

ちなみに2023年4月の『ヴァチカンのエクソシスト』封切直後に、続編制作とラッセル・クロウの続投が発表されているので、ラッセル・クロウは引き続き別作でガブリエーレ・アモルト神父を再演することをわかったうえで、本作の追加撮影に臨んでいたことになる(笑)。
本人も「俺どうしちゃったんだろう? なんでエクソシストばっかりやらされてんのかな?」って感じだったのかも。
このあたりについて、一言もパンフで触れてないのって、あんまり関連付けて話されたくないってことかね。むしろ盛大にネタにすればいいのに。

ラッセル・クロウの役回りには、エクソシスト被りという驚くべき事態に加えて、若干「自虐的」なネタ感もあって、ほんとこういうの良く受けるよなあと思わざるをえない。
「飲酒やドラッグで家族を泣かせている」
「女性関係にゆるくてゴシップを振りまきまくっている」
「アンガーコントロールが出来ずに暴力沙汰ばかり引き起こしている」
ラッセル・クロウはこの手の悪しき自身のパブリック・イメージを、若干やけ気味に受け入れている気配があって(笑)、このあいだ公開されていた『アオラレ』(20)でもカスみたいな悪役を楽しそうに演じていたし、今回もアル中、ヤク中で悪魔に憑かれるダメ男役を「まるで我がことのように」演じている。
けっこうみっともなく肥ってて、演技も含めてなんか「鈍重」でなまくらな感じがするのが、また「いまのラッセル・クロウ」感があって、生々しいんだよね。

― ― ― ―

映画としては……うーん、どうなんだろう?
なんか、わざと小難しく作ってるのがなあ。
シーン内で何が起こってるか伝わりづらいし、
シーン毎のつながりもイマイチよくわからない。
(窓からパパが落ちたあと、なんであのシーンに??)
どこの部屋で何が起きているのか自体あやふやだし
(なんでみんなセット内うろうろしてるの??)
撮影がどういう感じで進んでいるのかも把握できない。

唐突に瞬間移動する身体の描写も不自然だし、
(フィルムをカットしたみたいな飛び方)
何かありそうに見せて、結局何も起こらないまま、
尻つぼみでフェイドするシーンがやたら多い。
こざかしいわりに、効果的でないというか、
モンタージュの基本自体がわかっていないような……。
映像のつなぎ方に、どうにもプロのセンスが感じられない。

どうせジャンル映画なんだから、もう少し説明的に展開するか、相応にナラティヴを整理して、観客にもすっとわかるように撮ればいいのに、わざわざ小手先でわかりにくくしてるから、正直いらっとくるんだよね。

話の展開もよくわからない。
親子の距離感に問題を抱えているような出だしだったのに、後半になったらわやくちゃになってしまっているし、娘のレズ堕ちもあまりに唐突かつ描写がダサすぎる。
この現場が呪われているロジック自体が伝わらないし、前任者の自死からラッセル・クロウにどうポゼッションが引き継がれたのかも、なんの説明もされないのでモヤっとする。

そもそも各シーンのつながりが悪くて、場所や時系列がわかりにくいのに加えて、思わせぶりな演出のわりに、各キャラクターの苦悩や内面に洞察が深まっていかないから、徒にとっつきにくいだけでお話への感情移入がとてもしづらい。

あと、あれだけいちびり倒してたムカつくパワハラ監督が途中でなぜかフェイドアウトして事なきを得る一方で、唐突なしょぼい悪魔顕現展開を受けて、いきなり『スポンティニアス・コンバッション』的犠牲を強いられる某人物が、あまりに可哀そうすぎる(笑)。

だいたい、窓から後ろ向きに落ちて行っても、悪魔憑きのあいだは無傷でノーダメージってのも、なんか納得がいかない。乗っ取られていたとはいえ、あれだけやりたい放題しでかしておいて、罰も受けずにお涙頂戴ってのも、さすがに受け入れがたいよなあ。

せっかくカッコいい三階建てのセットを組んでるのに、そこの吹き抜け構造を用いた撮影シーンとか、移動を見せる面白いシーケンスとか、落下絡みのアイディアといった、それを「うまく活用しよう」とする心意気がぜんぜん感じられないのも、もったいない。
「映画内映画」というギミック自体、ぜんぜんうまく生かされていない気がする。上手にやれば、『女優霊』(96)みたいなネタも取り込めただろうに。

パンフの監督コメントを見ると、一行目からいきなり「(自分と脚本家は)クィアカップルとして、キリスト教信仰の特定の層がLGBTの人々や女性を追い詰めるのを見るのは、驚くことではないにせよ、私たちにとって特に不愉快なことだった」と述べている。
「本作で、私たちは憑依映画の定石(「英雄的な男性が、自分で戦うには弱く単純すぎる女性を救う!」)を、ある集団が他の集団よりも善意や良識、能力を有しているという妄想のない世界にアップデートしたかった」とも。
御高説はありがたく承りたいが、LGBTやジェンダーやマンスプレイニングや教会の性被害のことばかり目を血走らせて考える前に、まずは「面白くてわくわくする」話を作ることを、ふつうに考えてほしかったところ。
実際、今回と同様の黒人ヒロイン&レズ要素のあるエクソシスト映画なら、『エクソシスト 信じる者』(23)のほうが、よほど楽しめる映画に仕上がっていた気がする。

あと、監督はパンフで「トランプ大統領(前回の)が誕生する中、もしかしたら男性が憑依されることは未開拓の井戸なのではないかと思い始めたのです」と述べているが、それ、とっくに『シャイニング』(80)でキューブリックとジャック・ニコルソンがやってるから(笑)。

せっかく、監督のお父さん、ジェイソン・ミラーの遺産でもある『エクソシスト』を語り直す得難い機会を得ているのに、「どのように現代風に面白くアレンジするか」ではなく、「どのようにポリコレに合った内容にブラッシュアップするか」みたいな、くっだらないことばかり考えて撮っているから、こういう映画が出来上がってしまうのだと思う。

じゃい