劇場公開日 2024年9月27日

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「新作の評価とティムバートン作品の変容について」ビートルジュース ビートルジュース moviebuffさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5新作の評価とティムバートン作品の変容について

2024年10月7日
PCから投稿

ファン同窓会映画としては合格点なのではないだろうか。
ゴーストバスターズのリブートと違って、ギャグもすべってないし、そんなに無理に(若干あっていらっとしたが、)ハートウォーミングな話とかにせず、昔ながらの意地悪なバートン印だったし。もちろん、新しい展開はそれほど作れてないので、前作と同じ場所をうろうろしている感は否めないのだが、マイケルキートンや役者陣の頑張りで十分楽しめた。あと、80年代の映画の作りと変わってしまっているから、照明の色使いやカメラのムーブが完全に今の映画の「ルック」なのよね。そこでなんだかnetflixのテレビシリーズ見てるような気になったな。あ、それと!あのリディアのアマゾンで死んじゃった旦那さん役がもし、ジョニーデップのカメオだったら、配役として完璧だったのでは?誰か知らない人がキャストされるよりも、俺らも知ってるバートンワールドのあの人がお父さんだったのかっていう方が納得感があるのではと思った。娘がお父さんに久しぶりに会える感動とシザーハンズの二人が並んでる「久しぶりに会えたね」って感動がシンクロして、往年のティムバートンファンなら楽しめただろう。(ジョニーデップとウィノナは昔付き合ってたから居心地は悪いだろうけども)

さて、今作の予告で気になったのが「あのチャーリーとチョコレート工場のティム・バートン最新作!」ってキャッチ。時代の流れとともにしょうがないことだが、ティムバートンと言えば今の若い人にはチャーリーとチョコレート工場のような「少し変わったファンタジー映画の人」ということになるんだろうか。

初期のバートンは、タランティーノのように、スピルバーグ的な80年代映画とは違う90年代のビジュアル感覚、センスをもたらした最初の映画監督の一人だったと思う。ポップアートと商業映画の中間地点のような場所で作品を作り続け、個人的でシュールな内容なのに、ちゃんとヒットし続けるという希有な作家であった。そういう事を成し遂げた作家というと他にデビッドリンチぐらいしか思いつかないが、バートンの場合はヒットの規模も桁外れだった。

ピーウィーの大冒険、ビートルジュース、バットマン、シザーハンズ、エドウッドにマーズアタック。実は初期の作品を並べてみてみると、彼は決してファンタジー一辺倒の人、ではないのだ。その頃のバートンが自分は好きだったわけなんだけど、ではその要素とはなんだったのか?

それは「ゴス」と「キッチュ」のバランスのセンスだったと思う。その混ぜ方がおしゃれであり、新しかった(今の人にバートンを「おしゃれ」や「新しい」と言っても「?」だと思う。それだけ彼のポジションは変わってしまったから。)過去のバートンについて、特に「ゴス」の要素で語られる事が多いが、実はそこにキッチュな要素が足されることが私は重要であったと思う。

キッチュとは「俗悪なもの」「いんちきなもの」「安っぽいもの」ということになるそうだが、私はバートンがマイノリティとして疎外感を感じて暮らしていた「アメリカの郊外」の描き方がスピルバーグ等の他の映画の中に出てくる郊外とは違い、このキッチュ感を強調している人工甘味料の入ったおかしのような色使い、プラスチックで人工的なデザインセンスが好きだった。(特にシザーハンズでは町全体がまるでバービードールの家のような質感と色使いだった。)つまり、そこにあるアメリカは、バートンの映画世界にしかない作り物のアメリカであり、それ故に魅力的な想像上のアメリカだったのだ。

想像上のアメリカ、人工的な郊外という意味では、先ほど名前を挙げたデビッドリンチの世界ともつながっていたと言えるだろう。今、そんな文脈でバートンを語ることが出来るだろうか?とにかく当時のバートンの映画の特異さはこの安物っぽさ、セット感にあったと思う。当時バートンが東宝特撮に対する愛情を語っていたのも、なぜエドウッドやマーズアタックを撮ったのかもそう考えると納得である。

だが、本人はあまりこの事に自覚的ではなかったようで、彼の作品がCG制作に移行してしまうと、その「チープさ」「作り物感」はかつての物とは変容していってしまった。手作り故の楽しさ、味が失われてしまったのだ。

さて、今回の映画では原点回帰的に、かなりプラクティカルなビジュアルエフェクトが使われてはいるのだが、では、そのかつてのキッチュさは再現されていたか?冥界のシーンではもちろんセットであるが故に、あのビートルジュースを見ているという感覚が確かにそこにはあった。

その一方、セットから外に世界が展開された時はどうだったか?本作ではリディアの娘の目を通して、アメリカの郊外の風景が映し出されるのだが、その郊外はストレンジャーシングス等に出てくる「スピルバーグ的」な郊外であり、ありふれたTVドラマで見る郊外である。あのバートンの郊外では最早無い。そこに私は物足りなさを感じてしまうのである。

音楽の使い方に関しても前作ではバナナ・ボートが50年代のヒット曲の音質であること、そしてなぜかあの場所で異国情緒たっぷりのエキゾチックな音楽だということが、そのキッチュさに見事にはまっていたわけだが(ある意味タランティーノ的なサンプリングにも近い使い方)、今回の聖歌隊アレンジではただの前作オマージュでしかなく、そのようなキッチュさには何も貢献していないのである。同様に場面を説明するように普通にロックやディスコを使っても、そこにキッチュさは生まれるわけではない。前作のバナナ・ボートという選曲がいかに絶妙だったか逆によくわかる。ここにもバートンは無自覚なのだなと思った。

バートンについては、その他にもストーリーテリングにおいて大きく変わった点があるのだが、長すぎるので、それについてはまた次回機会があれば書きたいと思う。

moviebuff