「時代を超える人間の生き方講座」十一人の賊軍 M.Nさんの映画レビュー(感想・評価)
時代を超える人間の生き方講座
ここに出て来る人たちは、基本的に罪人です。その配置が、個人的にはある種の裏テーマにも繋がっているのかな、とも思っています。
キャラクターは、とても個性的でともすればキャラ的な表層感が出そうだと思いましたが、それぞれが持つ「罪状」がある種の人間的厚みとなって、彼らがどういう人生を生きてきたのか、何となくでも最初から感じさせてくれたと思いました。また、山田孝之さん演じる主人公が一番狡くて生きることに貪欲なのも人間らしくて表面的ではない好印象を持ちました。恐らく、主人公は何があっても必ず妻のところに帰りたいという、単純だけど純粋な欲求を果たしたいだけなのだと思いますが、ならば何故罪を犯すようなことをしてしまったのか…そこにこの主人公の矛盾と葛藤が垣間見えた気がしました。
一方で、仲野太賀さんが演じるもう一人の主人公は、一途な武士という感じで、まったくブレることがありません。最後まで自分が信じるものを信じ切れるだけの強さがあります。そのためには討ち死にも怖くないという感じなのですが、いつもは清く正しく冷静な紳士然とした生き方をしているところも、朝の道場シーンで垣間見え、青い炎という印象です。だからこそ、主人公はダブルであるべきで、この対照的な二人だからこそ、思っていることが違っていても、起こる事象は同じになっていく楽しさがあるのだなと思いました。
影の主役とも言えるのは、阿部サダヲさんが演じる新発田藩を真に取り仕切る家老で、この人は単に自分の目に映る家族や新発田で生きる人々を生かすためにのみ奔走しているように感じました。長岡藩にも新政府にも詰められ、身内であるはずの殿様はお子ちゃまで我が儘言い放題。現代社会ならブラックオブブラックな環境ですが、懸命にすべてを綺麗に収めようとする姿勢には、美しさすら感じました。そんなこの人は、目的遂行のためには、味方にも嘘を吐くし、農民の首を自分の手を汚してまで斬っていくという惨さを見せつける一方、策略がバレるとびっくりするほど潔く切腹の命令にも応じようとします。加えて、当たり前のように自分の娘を愛し、その意も受け取ろうとするなど、随所にただの悪者ではないことが強調されていたように感じました。
その他にも、元長州藩剣術指南なのに強盗殺人しちゃったお爺ちゃんとか(滅茶苦茶に強い)、エロ坊主とか、一家心中の生き残りとか(普通に不憫すぎる)、詐欺師とか、不義密通とか密航とか辻斬りとか、罪状からでも想像力が掻き立てられますが、その人たちが短い時間の中でも見せてくれる考え方や行動理念が、この厳しすぎる時代を生きるからこそ強さの源流のようにも感じられ、力強くも見えるのでした。
何より良いのは、山田孝之さんのキャラだけでなく、全員が何かしらずる賢くて、愚かな面を持ち合わせているのがとても複層的というか、人間的にリアルで面白く思いました。
物語自体は、「最初は我欲のためだけに砦を守っていたが、やがて共通の敵(新政府軍)を倒すという目的のもとで情が芽生えて結束し、そのために死力を尽くす」という単純な構造だと思うのですが、キャラクターが生き生きと動くだけで、これだけ物語そのものや当時の世情にも厚みが増して、考えが深まるというのが、本当に面白い物語だと個人的には感じた次第です。上述した「死力を尽くす」を山田孝之演じる主人公が最後に自爆攻撃という壮絶な死にざまで見せてくれること、また、その直前に一ノ瀬颯さん演じる「ノロ」(この人だけ仇名とキャラが合致し過ぎて覚えていました)に生きるようにお願いすることで、より一層重みが積み上がったようにも思いました。
この映画に限らず、すべての物語のテーマは、その構成側も含めて各々だと思いますし、そもそも物語とは、それぞれの想いを受け止めるだけの器があればあるだけ良い作品だと思うのですが、個人的にこの作品のテーマは2つかあります。
一つ目は「白黒ハッキリつけることとはどういうことか」、二つ目は「受け容れるとはどういうことか」ということです。
一つ目に関しては、仲野太賀さんの主人公が大変白黒ハッキリしている方で、上記のとおり曲がったことが大嫌いな本物の武士然としたキャラクターでした。しかし、結果はこれも壮絶に刺されまくって(その分だけ殺しまくりますが)死にます。しかも、味方だったはずの阿部サダヲさん演じる家老が放った、拳銃によって(これもこのキャラクターらしいグレーな処世術が垣間見えて好きです)。これに代表するように、この作品は「白黒ハッキリさせようとした者=死」であり、「グレーな半端者=生」という暗黙のルールが存在しています。その証拠に、腹を刺されたものの一度は生き残った武士も、騙していたことを打ち明け一度主人公側に言った途端に状態が悪化、最後は言い名付けに見守られて死にます。それに、その言い名付けである家老の娘本人も、そもそも賊軍側に秘密裡に侵入して共闘しようとするほどの覚悟を付けていたのですが、父親が「賊軍を生かす」という自分との約束を反故にして行った殺戮を知った結果、自決しました。
一方、阿部サダヲさん演じる家老は言うまでもなく、新政府軍とてそもそもは江戸幕府お抱えの藩だった訳ですが、それが徳川慶喜という「ザ・徳川」を神輿に担いで「旧徳川軍」と戦争をしていること自体、新政府軍が如何にグレーな存在かを感じさせます。また、生き残ったノロや鞘師さん演じる紅一点なども、一緒に死んだり復讐することを選ばず、謂わばグレーでいることを選びました。結果、最後まで生き残ったのです。何より、山田孝之さん演じる主人公の妻が、女郎になっても生きており、理不尽に犯されても夫が罪人になっても、必死に生きようとした結果、ある種のグレーを選んでいるからだと感じました。その後に呆気なく死んでいたという結末にしようと良かったはずだと思うので。
ここまでで感じることは、現代に通用する「白黒ハッキリさせることの困難さと、グレーを選ぶことの代償」ということだと感じます。簡単にいうと、「白黒つけるのはカッコいいし悩まずに済みそうだが、結果的に容易に排除される」ということであり、「グレーは生き永らえることはできるけど、その分だけ背負うものも大きくなり、場合によっては大きな代償を支払うことになる」ということです。事実、家老は娘という大きな代償を支払って新発田の平穏を保ちましたし、ノロたち生き残りや女郎となった妻も、一生涯、死んでいった者たちのなにがしかを背負っていかねばなりません。現代にも同じことがいえると、私は思いました。細かいことを言いだすと、コンプライアンスに抵触して、それ以外の言葉も消されてしまうように思うので言いませんが、色々なことを踏まえて、本当にそう思いました。
次に、二つ目の「受け容れること」についてですが、これは割と簡単で、この作品に出て来るすべてキャラクターには、結局のところ本当の悪意は感じられません。敢えて上げるとすれば、玉木宏さん演じる山縣狂介(有朋)のようにも思いますが、それも山縣の生き方を考えると、グレーになりつつも愚直に日本が生き残ることに命を懸けていたようにも思えます。罪人も含め、みんなが精いっぱい生きている。だからこそ、仲野太賀さん演じる藩士であった主人公は、それぞれが悪事を働いていても一人の人間であることを認めて受け容れ、結果として藩を見限り自分を「十一人目の賊軍」と称して死ぬことを選んだと思う訳です。これは作品をメタ的に見ても思うことで、阿部サダヲさん案じる家老が、賊軍を裏切った後で、町民に親しまれ、誇らしげに日が照る新発田の街を眺めるというシーンがあります。つまり、実際のところ、この家老のおかげで生きられた人々がいるし街があることが示されたと感じるのですが、これは観客である私たちに、人間の複雑性を感じさせるための演出であるように感じました(結局、この後でどん底に叩き落とされる訳ですが)。
他にも書きたいことはたくさんありますが、取り敢えず、簡単に言葉にしてみました。一つ難点を言うのなら、確かに他作品と相対的に見て時間が長い(個人的にはまったく思わなかったですが)ことくらいです。
長文失礼しました。ご配慮いただきありがとうございます。