ザ・バイクライダーズのレビュー・感想・評価
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これはこれで良いと思う。
色々足りないと思う所もある。
でも一周回って「これはこれで良い」と思う。
オースティン・バトラーとトム・ハーディ、信じられないほどカッコ良いではないか。バイク乗り達が生きた古き良き60年代の世界観も素晴らしい。余計な台詞もなく、シンプルでストレート。実に潔いじゃないか。実は僕もバイク乗りだが、革ジャンとデニムジャケットの重ね着をこれほどカッコ良いと思った瞬間はない。バイクを見ても時代を感じる。
またストーリーテラーを妻のキャシー(ジョディ・カマー)がしたのも良かった。当事者じゃなく妻の第三者目線で語られた事で物語が「バイカーの寓話」として味のあるものに仕上がったように感じた。物語が全体的にほど良く「リアルじゃない」のが逆に効果的なのだ。ジョニーがトラブってると気づいたらベニーは何の躊躇なく相手に殴りかかる。今の時代では考えられないが、こういう「見る前に跳ぶ男」が魅力的なのも確かだ。それが良いか悪いかは別にして、迷いなく行く姿を見て仲間は絶対的に信頼するのだ。良いか悪いかは別にして(笑)
ラストは好みが分かれる所かも。僕は基本的に「破滅型」が好きなので散ってもらっても良かったのだが(笑)、こういう終わり方も悪くないと思う。激動の60年代が終わり、70年代の新しい生き方に変わって行ったという意味があるのかどうかは分からないが。
とは言え「バイク乗りの精神」なんて「生き方がロック」と同じくらい抽象的な話でもあるわけで、そんな映画が今のこの時代でも意外に評価されている事を少し嬉しく思う。
サラッとカッコ良い映画でした。
【”拳とナイフが時代と共に銃に変わった時、アウトローバイク集団はギャングに堕ちた。”今作は1960年代の時代の流れと共に変遷するバイク集団の姿を描いた切なき風合の作品である。】
ー 豪華キャスト、勢揃い作品である。アウトローバイク集団”ヴァンダルズ”のリーダー、ジョニーをトム・ハーディが演じ、孤高のバイク野郎ベニーをオースティン・バトラーが演じ、彼に魅了されたのちに妻になるキャシーをジョディ・カマーが演じ、更にはマイケル・シャノンも出演しているのである。吃驚!-
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・孤高のバイク野郎ベニーが、格好良すぎる。キッパリ!あの髪型と絡まれても絶対にチーム名”ヴァンダルズ”が綴られたスタジャンを脱がない姿。イヤー、オースティン・バトラー君、格好良かったぞ!
・時代の変遷により巨大化する”ヴァンダルズ”の状況に、苦悩しつつもあくまでも、喧嘩は”拳とナイフ”に拘るジョニーを、オジサンになったトム・ハーディがいぶし銀の如き演技で魅せる。
仲間が、バイク事故で亡くなった時は、キッチリ花を贈り、両親から花を受け取られなくとも、葬儀にはビシッと棺の両側に整列し、両親から憎しみの目で見られ、唾を掛けられても姿勢を変えない姿は、アウトローとしての漢気を感じるのである。
・仲間とは、頻繁にバーベキューを開き、”ハッパは良いが、ヘロインは駄目だ。”(どっちも駄目だ!)などと真面目な顔で語っている。
だが、1960年代からベトナム戦争の影響もあり、ヘロイン、LSD、スピードと言った合成麻薬が流行したのは、ご存じの通りである。
・ベニーが、”ヴァンダルズ”のシマ以外の店で呑んでいて絡まれて、足の健を切られるも松葉づえでジョニーが誘う場に来たり、何だかんだ言いながら、アウトローバイク集団”ヴァンダルズ”の結束は固いのである。
だが、ベニーは変わりつつある”ヴァンダルズ”の姿を見て、何処かに消えるのである。妻、キャシーの家からも。
この一連の物語をキャシーを演じたジョディ・カマーがモノローグ風に語る手法も良い。
■だが、時の流れによりアウトローバイク集団”ヴァンダルズ”に且つて入りたがっていた若造が、ジョニーに戦いを申し入れ、若造は卑怯にもジョニーに対し拳銃をぶっ放すのである。このシーンは一時代の終焉を表し、アウトローバイク集団が只のギャング集団になった事を示しているのである。
<その事を知ったベニーが、急遽キャシーの家に戻り、足の健を切られた時には涙一つ見せなかったのに、キャシーの隣で涙を流すシーンは沁みたなあ。
そして、彼は”ヴァンダルズ”を抜け、キャシーが兼ねてから望んでいた車修理工場をキャシーの従弟と新天地で始めるのである。その時のベニーの表情には柔和な笑顔が浮かんでいるのである。
今作は1960年代の時代の流れと共に変遷するバイク集団の姿を描いた切なき作品なのである。>
単車版グッドフェローズ
モーターサイクル・エンプティネス
面白かったよ
写真集にインスパイアされて作ったというだけあって、 本当に日常を切...
写真集にインスパイアされて作ったというだけあって、
本当に日常を切り取ったような映画だった
この頃のバイク乗りの日常、
その他大勢の人たちにとってはあんまり普通じゃないかもしれないけど
大きなことも小さなことも淡々と進んでいくのが良かった
プラピにも迫る色気
人のつくる組織の強さと弱さ
ダニー・ライオン(「Lyon」なのでこの発音が正しい。本サイトの概説は過ち)の写真集にインスパイアされた作品。エンドロールで表示される実際の写真を見ると、本作では、当時のファッション、風物が再現されるとともに、写真集に現れる人物の多くがモデルとして意識されているようだ。写真家自身も映画に登場して撮影し、またインタビューする姿が描かれている。他の人からもインタビューしているシーンはあるが、ジョディ・カマー演ずるキャシーのインタビュー部分が多く、数回に渡る彼女からのインタビュー=彼女の視点がそのままクラブの歴史を物語る構造となっている。
1953年の映画、マーロン・ブランドの「乱暴者」(あばれもの)を観たジョニーたちが地元のバイク乗りたちを集めてつくった「クラブ」が映画での「ヴァンダルズ」のもとであって、少なくとも60年代の終わりくらいまでは疑似家族的な集団だった。リーダーのジョニーが父親であり、キャシーをはじめとするメンバーの妻や恋人たちが母親的な役割を果たす。ベニーのようなメンバーたちはいわば「キッズ」の位置づけで、父親に盲従し、母親には巧みに手なづけられ、家族=組織としての規律は保たれる。
しかしながら、組織が大きくなるにつれ、父親や母親の管理は行き届かなくなり、より功利的な方向に組織論理が進み始める。元々が社会からはみでかけている者たちの集まりだから、犯罪に手を染めるようになるのは必然であった。こうして実際の歴史でも各地のモーターサイクルクラブがギャング化するようになったようである。
このあたり組織の変化や人の心の動きが私にはとても面白かった。
ジョディ・カマーのみならず、トム・ハーディ、オースティン・バトラーもそれぞれの存在を巧みに演じており見事である。
バイクに関心がない人でもいろいろな観方ができて面白いと思う。おすすめ。
イケオジ祭はココで開催中‼️
バイク乗りの男たち……タイトルはそう。
だけど一括りには出来ない。
バイク乗りにもそれぞれ考えがあったり熱量の違いがあったり家族があったり実際には様々。
そこに時代の流れとか他との兼ね合いとか外部要因も重なってくるとヒッチャカメッチャカ。
でもそれって普通のこと。誰もが経験してるはず。
それをバイク乗りそのものではなく、間近で(巻き込まれながらも)ずっと見守ってきたキャシーの目線で語られる本作。その語り口のセレクトがめっちゃ良き✨
そして、とにかく渋いっ!トムハぁぁぁぁぁ!トムハぁぁぁぁぁ!トムハぁぁぁぁぁ!!声の高さが少し高めに調整されたみんなのアニキ。良き良き💜
そして、オースティン❤ というかジミー❤ ❤
いや、どっちも素敵過ぎた❤ ❤ ❤
ジミーの風貌は学生のときに付き合ってた彼氏を思い出させた。
でも変だな。当時はテリー伊藤みたいだと思ってたはずなのに……
往々にして想い出ってのは美化されがち、ってことね😂
👇️👇️👇️
最後の最後でキャシーとジミーがニヤっとしたように思えたけど違う……あたしの見間違いよね??
日本のヤンキー漫画に通じる面白さ
60年代〜70年代に実在したバイクチームを題材にした物語。日本でバイクチームと聞くと暴走族の話を連想してしまい、巷によくあるヤンキー漫画と似た感じになるのかと思っていた。
統率力のあるリーダー、ケンカっ早い若きカリスマ、冷静な参謀、おふざけ担当なんかがいるチーム。法を犯したりもするが、そのカッコよさに憧れる者が増え組織が大きくなっていく。他のチームと衝突しケンカするが仲良くなったりもして。やはり日本のヤンキー漫画と似たような同じ流れだった。違うのは年齢が少し上だということ、少し上だからこそ彼女や妻も一緒に出かけて遊ぶ関係だというところか。
ふと考えると、「莫逆家族」といういくつかのヤンキー家族が出てくる漫画を思い出した。昔ヤンキーだった奴らが築いたファミリー(チーム)を描いた漫画だった。そこには大人になったヤンキーたちが描かれている。本作が「莫逆家族」と共通しているのは、彼らは他に居場所がなくて、だからこそ仲間との絆を第一に考えるところだろう。
身近な仲間だけだったのが、チームが大きくなるとよく知らない人間が所属することになる。組織というものは大きくなると統率が難しくなる。これはどんな組織・団体でも同じ。世界共通と言っていい。本作で若くて狂った奴らが暴走していく様は、予想がつくとは言え見ていてつらくなった。
この映画って何を楽しむ映画なのかという疑問が浮かんでしまう。ヤンキー漫画でも同じだが、この手の物語ってカッコいいと思えるキャラがいるだけで成立してしまう。本作で言えばベニーかジョニー。特にベニーを演じたオースティン・バトラーが異次元のカッコよさだった。ジョニーがベニーのカリスマ性に期待して次のリーダーを任せようとした気持ちもわかる。
本作は、インタビューを受けたキャシーの目線で語られる形で物語が進む。だからベニーの本当の気持ちはわからない。ベニーは本当にリーダーになる気がなかったのか。ベニーが話した言葉と彼の行動でしか判断できない。彼がリーダーになっていたら少しは違っていたのだろうかと想像してしまう。でも、あの流れでは難しいだろうな。
だから最後のベニーの笑顔が何を意味していたのかが気になってしまう。答えはない。後悔のない笑顔にも見えるし、バイクに対する未練があるけど今の生活を彼なりに守ろうとしている笑顔にも見えた。チープな言い方になるが、人には居場所って大事だということを改めて考えてしまう映画だった。とても心に残る映画だったことは確かだ。
ザ・バイクライダーズ(映画の記憶2024/12/4)
監督さんバイク乗ったこともなさそうで、何の魅力も描けない
バイカー達の集団を描き、「イージー★ライダー」1969年に繋がるはずだった、でなければ何の意味もないただの馬鹿集団でしかないわけで、にも関わらず見事に本作は犯罪集団に陥る必然の表面をなぞっただけの愚作でした。なによりオースティン・バトラー扮する主人公ベニーの意思が全く描かれない、何をしたいのか? ただ流れに沿っているだけで、ベニーが能動的に動かない。これじぁ、映画も動きようがないじゃないですか。
当時こんな集団を取材した者の記録に基づくと冒頭に示されるが。まさかインタビュアーまで画面に入るなんてあり得ない。彼を主役に描くなら、集団への懐疑とか不安定をテーマに絞り込めば、まだしも価値が見いだせたのに。モノローグも含めてジョディ・コマ―扮するキャシーの立場を貫けば、異質な集団に魅了され振り回された後悔を描き得て、それなりに見応えある作品になったのに。要は誰の視点で描くのかが、まるでいい加減なのが致命的。
なによりバイクの爽快感が全く画面に伝わらない。意識が高がろうが低かろうが、バイカーの第一義は風切る爽快にあるはずで、それを画面に定着し得ない監督さんはお払い箱ですよ。その共通認識で集団が形成されるわけで、ベニーの感ずる風は全く観客と共有出来ていない。ひたすらオースティンをカッコよく見せようとそればかりに集中し、本質を見落としてしまった。彼をジェームス・ディーンに仕立てようなんて到底無理なハナシでしょ。
で、作品の要としての集団のボスに名優トム・ハーディが扮しているが、その渋さと男臭さは流石の迫力ですが、ジョニーとしての役柄に首尾一貫せず、中途半端は否めない。終盤の呆気ない死に方はそれこそトム・ハーディに失礼でしょ。悪い事に彼の中から真っ黒なヴェノムがいつ現れるかって意識が離れないのが困ったもので。さらに何故かマイケル・シャノンまでどうでもいい役で登場しますが、まるで主題に絡んでこない。本作で魅力なのは、集団に見切りをつけハーレーに乗って賃金も貰えるポリスに転じたコックローチがただ一人でした。若きチンピラに扮したトビー・ウォレスはお初ですが、今後が期待出来そうな面構えでした。
もろもろダメダメを書き連ねましたが、不自然な程に当時の楽曲が全然観客に響かないのが最大の欠点ですね。オールディーズからロックンロールへの過渡期が背景で、バイクの爆音に重ねガンガンに当時のヒット曲を網羅すれば、金髪を風になびかせるオースティンにシビレル事が出来たのにね。
こみあげる胸熱
映画鑑賞が生き甲斐の男には理解不能な世界
タイトルの出方が最高。
敵を叩きのめして満面の笑みの主人公・ベニー。
その背後ではベニーに命の危険が迫っていて、観客としては「志村!後ろ後ろ!」状態。
で、ベニーに一撃が加わるまさにその時、画面がピタッと静止し、タイトルがどどーんと出現。
思わず笑ってしまった。
映画中盤にこのシーンのその後が描かれるが、タイトルが出た時からは思いもよらない凄惨な事態になっていて、ドン引き。
調子に乗るもんじゃないと肝に銘じた。
キャシーが友達との待ち合わせ場所になっている酒場に行ったら暴走族の溜まり場になっていて、警戒心全開で店内を移動するキャシー。
自分も同じ状況なら、同じような感じになっていたと思う。
ところが、暴走族の一人・ベニーを見た瞬間、恋に落ちるキャシーさん。
オースティン・バトラーが演じているとはいえ、他の暴走族と変わらないように見えていたので、突然の事態に「ええっ!」となってしまった。
まあでもヤンキー好きの女性っているよなあと思いながら鑑賞。
その後結婚するも、キャシーにとっては苦労が絶えない生活。
まあそりゃそうなるでしょうねえ。
暴走族から脱退させようと、キャシーはベニーのことを変えようとするが、それはキャシーのエゴだと思った。
第一印象の良さだけで男と付き合っちゃう女性には、こういうことが起こりがちなのではと勝手に妄想。
日本の暴走族って大人になったらヤクザに転身するイメージ。
一方、本作に出てくる1960年代・シカゴの暴走族は、いい大人になっても暴走族みたいなことを続けている感じだが、組織のシステムはヤクザっぽいと思った。
個人的には理解不能だが、カッコ良い気はする。
ても、こうはなりたくない。
終盤は、死亡フラグの見本市。
『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を観た時も思ったが、信者的若者は怒らせると何するかわからなくて怖い。
哲学が
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