映画検閲

劇場公開日:2024年9月6日

映画検閲

解説・あらすじ

1980年代のイギリスを舞台に、当時「ビデオ・ナスティ」と呼ばれた、低俗・暴力的との烙印を押された作品に対する検閲を題材に描いた心理ホラー。検閲のために過激な映像を見続けていた主人公が、次第に現実と妄想の境を見失っていくさまを描き、サンダンス映画祭やシッチェス・カタロニア国際映画祭など各国の映画祭で上映されて注目を集めた。

ビデオ・ナスティに対する論争が巻き起こっていた1980年代のイギリス。映画検閲官のイーニッドは、それが正しいことだと信じ、暴力的な映画の過激なシーンを容赦なくカットする毎日を送っている。その揺るぎない姿勢で周囲から「リトル・ミス・パーフェクト」と呼ばれている彼女だったが、ある時、とあるベテラン監督の旧作ホラー映画に登場するヒロインが、幼いころに行方不明になり、法的には死亡が認められた妹ニーナに似ていることに気が付き……。

主人公イーニッド役は「聖なる証」「キャッシュトラック」などにも出演しているニアフ・アルガー。これまでに短編映画を多く手がけ、長編映画はこれが初監督となるプラノ・ベイリー=ボンドが監督・脚本を務めた。「カリコレ2024/カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2024」では「映画検閲官(仮題)」のタイトルで上映された。

2021年製作/84分/R15+/イギリス
原題または英題:Censor
配給:OSOREZONE
劇場公開日:2024年9月6日

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(C)Censor Productions Ltd/ The British Film Institute/ Channel Four Television Corporation/ Ffilm Cymru Wales 2020, All Rights Reserved.

映画レビュー

2.5 女性監督からの挑戦

2026年5月3日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

観たくて劇場封切時に気になり逃し、レンタルで観ればいいやと思えどレンタル無く、
忘れていた時に会える作品がある。
「映画検閲」も、そう。
期待で観始めたが、
ああ、これは忘れていた方がいい映画だった、と落胆した。

雰囲気はいい。
ポール・シュレーダーの(娘を探していたらポルノ映画で見つけたっていう)『ハードコアの夜』だっけ?
とか色々?使い古されたモチーフに、それでも観る映画バカは自分なのだと自覚した。
(こんな作品にも期待するバカなのだ。)

ガンは自己中の姉だった。
サイコフル(和製英語)な内容でポカ〜んとしました。

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なかじwithみゆ

3.5 ヒトは誰しも記憶を「自己検閲、自己編集」してる

2026年4月29日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

期待以上に面白かった。
ただ「一つのネタ」で映画1本作るのは限界があるのか、90分以内で終わらせたのは正解だろう。
監督の次回作に期待。

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みっく

4.5 現実と記憶

2026年4月19日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

人は、どこまで現実を信じて生きているのだろうか。

Censorは、1980年代イギリスのビデオ検閲という社会背景を土台にしながら、その問いを静かに、しかし執拗に突きつけてくる作品だ。表現規制と社会秩序という表層的なテーマの奥にあるのは、「記憶」と「自己防衛」という極めて個人的な問題である。

主人公イーニッドは、過激な映像作品を審査する検閲官として働いている。彼女は秩序を守る側に立ち、暴力や猟奇を「切る」ことで社会に責任を果たしていると信じている。しかしその立場は、実のところ外部のためではなく、内面の均衡を保つための装置でもあった。

彼女は壊れていくのではない。すでに壊れている。そしてその状態を維持するために、検閲という役割を必要としている。

その起点にあるのが、幼少期の妹ニーナの失踪だ。何が起きたのかは明確に語られない。事故なのか、事件なのか、あるいは彼女自身が関与していたのか。その曖昧さこそが重要であり、イーニッドは「思い出せない」のではなく、「思い出さないようにしている」。記憶は封じられ、編集され、都合よく再構築されている。

やがて彼女は、自身の過去と酷似した映画「血塗られた教会」に出会う。この瞬間、避け続けてきたものが浮上する。人が生きる中で避けられないように、トラウマと対峙する機会は訪れる。しかし重要なのは、その後に何を選ぶかだ。

イーニッドは対峙した。だが、受け入れなかった。

彼女は現実を直視する代わりに、物語を選ぶ。出演女優を妹ニーナに仕立て上げ、自らを物語の登場人物として再配置し、過去を書き換えていく。それは単なる逃避ではない。現実に対抗するための、能動的な「創作」である。

ここで映画はひとつの転換を見せる。検閲官であった彼女は、「切る側」から「作る側」へと移行する。だがそれは創造ではなく、現実の破壊と引き換えに成立する虚構の完成だった。

ラストに描かれる幸福な映像。それは救いではない。むしろ最も完成度の高い自己正当化である。妹は救われ、怪物は倒され、自分は正しかった——その物語が成立した瞬間、現実は不要になる。

この作品の恐ろしさは、ここにある。

イーニッドは特別な存在ではない。私たちもまた、日々記憶を再構築している。不都合な出来事を和らげ、意味を付与し、自己を保つ。その営み自体は、人間にとって必要な機能ですらある。

だがその再構築が、現実との接続を失ったとき、何が起きるのか。

本作はそれを極端な形で提示する。人は壊れるから狂うのではない。壊れたままでも、整合性さえ取れてしまえば生きていける。そしてその整合性こそが、外から見れば狂気に映る。

つまりこれは、「特別な誰かの物語」ではない。
人間という存在の仕組みそのものを描いた作品なのだ。

私たちは、どこまで現実を編集しているのか。
そして、その編集はいつ「物語」から「虚構の現実」に変わるのか。

その境界は、おそらく思っているよりもずっと曖昧で、近い。

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R41

2.0 ビデオ・ナスティとくれば

2026年4月17日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:VOD
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dragme2hell