「私たちには沖縄とオキナワとOkinawaが足りない」宝島 alfredさんの映画レビュー(感想・評価)
私たちには沖縄とオキナワとOkinawaが足りない
(ちょっと長文)
先日、書店の新書コーナーに立ち寄ったところ、八月の終戦80周年フェアが続いていた。その中に大江健三郎の「沖縄ノート」が平積みされており、今まで読み損ねていたという後悔と本作「宝島」への予習になるかもしれないという期待で購入した。
「沖縄ノート」が刊行されたのは70年で、内容は60年代の見聞が中心となる。大江が「個人的な体験」(64年)や「万延元年のフットボール」(67年)等の大傑作を書き上げていた時期であり、作家として充実していた頃になる。
大江独特の文体は読み易いとは言い難いが、沖縄返還(72年)前の空気とそこに関わろうとする大江の心情は伝わる。
私が子供の頃、沖縄で右側通行(アメリカ式)から左側通行(日本式)に切り替わったニュースが大きく報道された。テレビは朝からずっと同じニュースをやっていた記憶がある。交通ルールということもあり、沖縄全土で一斉に切り替えたという(78年7月30日午前6時)。
国際条約にある「一国一交通制度」を理由にして、日本政府が沖縄に求めたものだという。
社会の仕組みが軋むような音を立てて変更されたのだ。
沖縄は日本において文化的、歴史的にも特殊な位置にある。日本であって日本では無いという特殊事情は、ウチナンチュとヤマトンチュ(本土人)の間にいびつで深い溝を創り出している。
昔、大島渚さんや大橋巨泉さんがよく「沖縄は独立すべきだった」と発言されていたが、現実には、経済面や地政学等の理由でそれは叶わなかった。
本作を観る者がどういう立ち位置にいるかで、映画への評価は大きく変わって来るだろう。
沖縄に生まれ育った者ならようやく沖縄の歴史がスクリーンに投影されたという感慨があるだろうが、本土人だと物語の構造に目が奪われ、エンタメ性の成否に注目するだろう。
大江健三郎が沖縄にコミットしたのは、かつて日本が沖縄を見捨てたという贖罪的な一面もあったはずだ(「沖縄ノート」のあちらこちらにその一面を見ることが出来る)。太平洋戦争末期に戦場となり、多くの島民が日本人(兵)から見殺しにされた沖縄が、今度はベトナム戦争の前進基地になっているという皮肉と屈辱さ。それは心が引き裂かれる以上のものであったと思う。
そういった沖縄の事情(歴史)を深く汲んだ劇映画は殆どなかったと言って良い。ひめゆり学徒隊の映画はあったが、戦争末期のスポットライト的な扱いだ。
監督へのインタビューを読むと、大江健三郎がかつて抱いていたような贖罪の気持ちが監督自身にもあり、それが本作に反映されているように感じた。
宝島の宝とは「命」ということだろう。
戦時下では日本軍から、占領後はアメリカ軍から命が軽んじられた沖縄にとって、真の宝は「命」であったはずだ。故に、オンちゃんが基地から奪ったものは守り抜いた「命」になるのだ。
本作は3時間を超える上映時間となる。「アラビアのロレンス」等が典型だが、3時間を超える大作の場合インターミッション(休憩)を入れるのが映画界の常識だ。しかしシネコンが一般化した現在では客の入れ替えの問題から途中休憩は難しいという判断になろう。
ならば二部作での上映が良かったのではないかと思う。
25億という予算と3時間を超える上映時間の確保は、相当の困難であったと想像する。
そのような大作を観終わった私の心に湧き上がったのは、私たちには沖縄とオキナワとOkinawaが足りないということだった。
大江健三郎が断罪した、軍令に拠る集団自決。
それは現在、軍令は無かったとして否定されています。膨大な証言と徹底検証の内容は、生き残った証言者達が皆、国の戦後補償の対象者となるため、やむを得ず、軍令があったと言ってしまったというものでした。

