「戦果アギヤーはONE PIECEである」宝島 LukeRacewalkerさんの映画レビュー(感想・評価)
戦果アギヤーはONE PIECEである
9月19日(金)、公開初日@TOHOシネマズ渋谷。
原作は直木賞受賞作品。実はもう7年も前に、原作の単行本の初版が出た直後、買って積ん読したまま読まず、ブックオフに出してしまっていた。映画を観て改めて読んでみようと思いAmazonでポチ。
沖縄での戦闘を舞台にした映画というと、何故かどうしても、少々身構えてしまう。
『ひめゆりの塔』に同時代性を感じてしまうほどの年齢ではないし、誤解を恐れずに言うならば、戦争体験の映像表現にちょっとイデオロギーのステロタイプな匂いを感じてしまっていたからだろうか。
もちろん、決して沖縄戦の悲惨さや不条理や帝国陸軍の悪辣さを否定するつもりではない。
ただ、そういう歴史的事実を映画として描く時に、エンタテインメントとしてのクリエイティビティが感じられるものが少なかった、ということだ。
余談だが、その意味で『木の上の軍隊』は画期的だったと言える。これは井上ひさしのアイデアが秀逸だったこともあるが、優れた脚本がそれを膨らまし、芸達者な役者が見事に演じたからこそだ。
そして『宝島』である。
ここで描かれる米軍統治下の社会的不正義や民族的差別への怒りといった諸々の歴史的背景については、他の優れたレビュワーさんたちが言及しているのでここで繰り返すつもりはない。
小生が伊佐千尋のノンフィクション『逆転』で返還前の沖縄社会の不条理を垣間見たのは、すでに40年ほども前のことだ。『宝島』を観て(読んで)初めて驚く声が多いのも、恐らく世代的なことだろう。
ただし、その泣き寝入りが常態化した日常への抵抗と爆発を、戦後日本でここまで映像として描いた映画は、確かに今までになかったように思う。
正直に言って、コザ暴動のシーンはワクワクして仕方がなかった。
恐らく権力者や保守右派の人びとは眉をひそめるだろうし、左派の人びとはかつて夢見た日本革命の映像化に快哉を叫ぶだろう。しかもチラチラ写っているヘルメット姿の活動家にノスタルジックな思いも重ねるかもしれない。
しかし小生にとっては、そんな55年体制的な、昭和な保革の思い出話はどうでも良い。
単純に「やりきれない話」の積み重ねと、踏まれても踏まれても飼い犬にならない根性が痛快なのである。
最初は「やめてー!」と叫んでいたスナックのママ、チバナ(演:瀧内公美)が突然ひっくり返されたクルマの上に飛び乗って「やっちまえ!」的な雄叫びを上げた瞬間などは声をあげて笑ってしまった。
そりゃその感情の爆発は誰だって当たり前だろうと納得し、心のなかで「もっとやったれ」と北叟笑んでいた。
しかし、それでも歴史的事実として、米軍関係の黄色ナンバー以外の自動車、つまり沖縄人のクルマは1台も襲わなかったし、そこらの商店のガラスを割って略奪もしなかった。
これが欧米や他国の暴動と違うところで、ウチナンチュの同朋意識や慎ましさやモラルを感じるのだ。
政治的なフィルターを廃して観ると、この物語の「背骨」は、戦果アギヤーの"英雄"とその仲間の後日譚であり、一種の『スタンド・バイ・ミー』的な郷愁と『ONE PIECE』的な海賊冒険物語の要素がおもしろいのだ。
もちろん物語の途中からラストに到る”予定にない戦果”のエピソードは荒唐無稽である。しかしここでも「あったとは言えないが、なかったとも言えないお話」を如何に上手く語ることができるかが物語の勝負であり、返還前の沖縄を舞台としたある種の異世界物語として成立している。
街や村、学校、基地、ガマや密林、離島は、膨大な数のエキストラとともに、視覚的な厚みを持たせてくれる。
また、細かな点で考証が行き届いている。
例えば、レンによる殺人が行われたスナックのママ、チバナが語るバーカウンターの背景に「本土復帰反対」のビラが貼ってある。
そうか。復帰に反対するという勢力もあったのだ。
また、復帰を願う側が「祖国復帰」と言っているのも、当時のままの表現だろう。しかし今の感覚からすると極めて違和感がある。
ウチナンチュはヤマトを「祖国」と思っていたのか? グスクが「本土の奴らに何がわかる」と吠えたではないか。
このあたりの矛盾や交錯は実際に存在していたのだろう。
画作りで欲を言えば、海と海岸以外にも、当時の街や村の空中からのショットをCGでもいいから見せてほしかった。それがないと、どうしても空間的な狭さを脱することが出来ない。
