「ワイドショー映画」Back to Black エイミーのすべて TRINITY:The Righthanded Devilさんの映画レビュー(感想・評価)
ワイドショー映画
夭折のジャズ歌手エイミー・ワインハウスの半生をイギリス人女性監督が映画化した作品。
自身の「スタイル・アイコン」として憧れる元ジャズ歌手でチャーリー・パーカー押しの祖母シンシアの影響で10代の頃からジャズに親しみ育ったエイミー。
当時人気絶頂だったスパイス・ガールズを「fuckin'(クソ)」呼ばわりした上で「一緒にしないで」と言い放ち、「私のパワーガールズは(三大女性ジャズ歌手の一人)サラ・ヴォーンよ」と宣言する。
その一方、彼女のパワフルな歌唱法はどちらかといえばソウルに近く、自作する歌詞もバラードやラブソングと異なり、ストレートに心情をカミングアウトした内容。
それ故、本来ジャズに興味ない若者も彼女の感性に共感し、クラブに殺到する。その光景はまるでディスコかロック・コンサート。
時おり挿入されるビリー・ホリデイらの古いスタンダードとのミスマッチがエイミーの孤立やその後の破滅を予感させる。
戦後すぐのジャズのパフォーマーたちも、少なからず酒やドラッグの洗礼でキャリアの停滞を経験するが、パーカーやホリデイ、B・パウエルやC・ベイカーら一部例外を除き、多くが克服に成功している。
エイミーのようなずっとあとの世代が同じ轍を踏んだ挙げ句、復活出来なかった事実はジャズファンとしてはやり切れないほど残念だし、その原因も追及したくなる。
なぜ彼女が安物のガラス細工のように簡単に周囲を傷付け自身も壊れやすい人間になったのか深掘りして欲しかったが、本作の内容はワイドショーなど日本のメディアで見聞き出来るようなエピソードばかりで表層的。
おまけにデビュー後のエイミーに悪影響を与えたとされる父のミッチやパートナーのブレイクはどこか好意的に描かれているし、彼女を終生煩わせ続けたパパラッチにすら同調しているように見えたのは、監督のテイラー=ジョンソン自身もエイミーを好奇の眼差しで追っていたから?!―そう感じたのは自分だけだろうか。
シンシアのセリフやキャラクター設定から監督らが『バード』(1988)を参考にしていることは容易に想像できるが、エイミーや祖母のシンシアがユダヤ系なのにジャズに傾倒する理由が本作ではまったく語られていない。
熱烈なジャズファンで有名なイーストウッド監督は、『バード』のなかでジャズとユダヤ系との関係を敬意を込めて描いているにもかかわらず。
また、エイミーが信仰の異なるブレイクとの結婚を事後報告した際のミッチの怒りは「俺が顔も知らない奴と?!」という程度。
本作の製作サイドにとって『ベニイ・グッドマン物語』(1955)なんて参考どころか、興味の埒外だったのだろう。
「ビートルズを生んだ国」でジャズを歌うユダヤ人はマイノリティにほかならない。
日本で報道されなかっただけで偏見に満ちた誹謗中傷をエイミーが国内で浴びせられただろうことは想像に難くないが、作品で言及されることはない。つまり、エイミーがユダヤ人だという出自に触れておきながら、人種問題や差別についてはスルーしているということ。
女性特有の同性に共感する描写も見当たらなかったことから、テイラー=ジョンソン監督にとってもエイミーは「スキャンダルまみれのストレンジャー」にしか見えていなかったのかも知れない。
シンシアがC・パーカーファンという設定なのに、ビ・バップなんてほとんど出てこない。それが監督のジャズに対するイメージなのだろう。
作中で「ジャズが苦手な人なんている?!」とエイミーに言わせた彼女に、「自分はどうなんだい」と訊いてみたくなる。
印象の「悲しい」は、不遇の天才が死んでからも不当な扱い方をされていることに対して。
自分にとって本作は、E・ホークがチェット・ベイカーをテキトーに演じた『ブルーに生まれついて』(2015)と同じぐらいfuckin'な映画。
「ここ数週間で変わったことは?」
「あなたの酒量が増えた」
「何故か分かるか?」
「多分、クスリをやめるため」
「はずれ。もう15年もやってる。
俺がやめられたら、君にもできる」
「ご忠告をありがとう」
「40歳まで生きたいかい?」
「バード、自分はどうなんだい?」
「……無理さ」
人は何故、かくも愚かな歴史ばかり繰り返すのだろう。
Fuckin’!!