「「空気」の支配とドキュメンタリーの臨界点」マミー マユキさんの映画レビュー(感想・評価)
「空気」の支配とドキュメンタリーの臨界点
ポン・ジュノ監督『殺人の追憶』は、犯人と思われた男のDNA鑑定が「不一致」で、逮捕にいたらないという結末だった。しかし、80年代のDNA鑑定は「DNA型鑑定」とも呼ぶべきもので、正確性に問題があった。本作では、当時の亜ヒ酸の分析が「パターン分析」であり、分析者の「主観」による断定だったとの検証がなされる。再分析では、林眞須美家にあったヒ素と、カレー鍋に混入されたヒ素は同一ではない、との結果だったそうだ。
和歌山毒物カレー事件は、マスメディアの取材が過熱していた。取材陣にホースで水をかける眞須美の姿は、見る者に特定の印象を植えつけた。
また、ある共同体で起こった惨事について、誰かに帰責して平穏を取り戻したい、との力学が働き、眞須美をスケープゴートとして差し出した、という背景があったかもしれない。
雑駁な印象だが、林眞須美という人は「自分にメリットのないリスクはとらない」というポリシーを徹底しているように見える。つまり、夏祭り参加者を無差別に狙うような事件を起こす動機が想像し難い。怨恨なら、怨みを抱く対象を確実に殺害できる方法を選ぶように思われる。奇妙な言い方だが、林死刑囚の人格を考えると、カレー鍋に毒物を入れる、などという行為は、不合理きわまりない。この事件の最大の謎は、動機だ。
原一男監督『ゆきゆきて、神軍』で、かつての上官を殴る奥崎謙三を淡々と撮っているカメラに向かって、上官の妻が助けを求めて声を荒げる場面がある。本作で、二村監督は、事件関係者車両にGPS装置をしかけ、不法侵入で送検、示談となっている。
この時代にドキュメンタリーを撮ることの意味と意義を考えさせられる。監督は「何か成果があるまで退けないと思った」と語っていた。「大義」ある行いに、法的制裁はなされるが、社会的には擁護される、という状況は、益々成立し難くなっている。ドキュメンタリストの今後も問われる映画だ。