「台風ハンターと映画作家」ツイスターズ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
台風ハンターと映画作家
ヤン・デ・ボン『ツイスター』の続編との触れ込みだが、個人的には本作のほうが前作の何倍も楽しめた。どこまでが実写でどこからがCGなのか、境界線を見定めている暇さえなく次から次へと物語が展開していくスピード感が心地良い。
台風が近いときは荒れ狂う暴風を、遠いときは車両の疾駆をそれぞれ映し続けることで画面を常に賑やかそうとする過剰なサービス精神も、ディザスタームービーというフォーマットにおいてはおおむねプラスに作用していた。
ただ、劇伴がうるさすぎるのはもう少しどうにかならなかったのか。人間一人ではどうにもならない天災の荘厳さを、人工的な劇伴ではなく、ただ無秩序な風と雨の音によって表現するようなシーンがあっても、よかったと思う。
内容に関して言えば、本作はディザスタームービーの皮を被った映画制作映画であるといえる。劇中で台風を追いかける台風ハンターたちは、台風それ自体に強い関心があるという不謹慎な本音に対するエクスキューズとして「災害防止」「人命救助」といった建前を掲げている。
それはさながら、映画をただ撮りたいという無根拠な衝動を、「誰かを楽しませたい・救いたい」という自己暗示によって隠匿している映画作家たちの似像だ。言うまでもなく、映画など誰のためにもならない。
台風ハンターと映画作家の類似性に関して、本作は明らかに自覚的である。そうでなければ終盤に「映画館」などというそれ自体が文脈性を有している特殊施設に避難する意味がない。
しかし注意しなければいけないのは、本作が台風ハンターたちの愚かさを通じて映画なるものの欺瞞を単に暴き立てることを目的とした作品ではないということだ。
本作が最も強く眼差しを向けるのは、本音・建前として自己設定していたテーゼがふとした拍子に入れ替わってしまう瞬間だ。台風ハンターたちは台風を追いかけることが何よりも楽しいはずなのに、台風によって命を奪われようとしている人々を目の当たりにして、ふと足を止める。台風ではなく街に向かって駆け出す。危機的状況を通じて、台風ハンターたちの精神は欲望の次元から祈りの次元へ移行したといえる。
映画制作にもそのような部分がある。作家的自意識に他者の存在が勝る瞬間が。というか、他者のいない映画など往々にしてつまらない。この画が、この脚本が撮りたいという欲望から、役者やカメラや照明や天気といった非我的要因が映画を自分の頭の中ではないどこかに連れ出してはくれないだろうか、という祈りへ。
誰もが楽しめるディザスタームービーの体裁をとりながらも映画制作が抱える後ろめたさを寓意によって指し示し、同時に乗り越えていくという見事な大作だった。