ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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全ての登場人物を愛おしく思ってしまった。
面倒見が良過ぎて鬱陶しく、出て行った彼女を追いかけて拒否され道端で泣き崩れる不動産屋の彼氏さん。何だこりゃどうしようも無いなと思いつつ、少し微笑んでしまった。その醜態に呆れながらも直ぐに立ち去れないカナにも感情移入。
クリエイターの彼氏さん、カナの感情爆発による挑発に単純にムカついて「殺すぞ!」って言葉が出てしまい、ヤバっ!同じレベルで取り乱してしまったなんて感じでとりあえず場を治める為だけに謝る。別に後悔があるわけでも無さそうなのに元彼女に堕胎させてしまった子供のエコー写真を捨てられずにいる、何処にでも居るどうしようも無い普通の男。
煙草吸えないなら辞めっかな~と仕事を教えてくれているカナに言ってしまう職場の後輩さん。
喧嘩で賑やかなカナ達の隣室に住む、とても頭の良い妖精の様に現実感の無い女性。
カウンセラーの女性の対話者に乱されない独特な会話のペース何だか好きでした。
そして何より自分勝手で想像力皆無で脱力感著明なのに生の躍動感に溢れ魅力的な主人公のカナ。ルッキズムの権化の様な存在しなくても生きて行くのに大して困らない(エンターテイメント産業並みに?)脱毛サロンでモチベ皆無で働いてます。(脱毛って…何だか不思議で興味深い。)
映画を観てて何故か全ての人達に好意の様な物を感じていました、自分でも不思議ですが。人間ってこんな感じだし、自分にもこんな内面があるなって思ったのかな?
恒例の取っ組み合いの後、ハーハーと息を切らしながら、お腹空いたねって得体のしれない食い物を食べている二人の滑稽さは身に覚えありすぎて懐かしく恥ずかしく苦笑してしまった。
中国の母からの電話直後のラストシーン素敵でした。他者に興味を持つってとても大事な事だなって思わされました、他者を想像するって事は。
ナミビアの砂漠
不思議な魅力がある主人公から目が離せません何でそんなに、愛されるのと嫉妬すら感じます
唯一無二だけど共感もできたり…とにかく面白い映画です。もう一回見たいと思います。視点の違いで楽しめる作品で色んな感想を持てます
東京で暮らすカナ(河合優実)は21歳。 脱毛エステで働き、不動産会...
東京で暮らすカナ(河合優実)は21歳。
脱毛エステで働き、不動産会社に勤めるホンダ(寛一郎)と同棲中。
ホンダは家賃も払い、料理もして優しい。
今日は高校時代の同級生の女友だちに呼び出されたが、彼女が語るクラスメイトの自殺話には、カナには興味がない。
後ろから聞こえてくる「ノーパンしゃぶしゃぶ」という単語の方がよっぽど刺激的で関心を惹く。
女友だちとともにホストクラブに行ったが満たされず、結局は二股交際相手の自信家ハヤシ(金子大地)を呼び出して肉体関係で渇きを癒す・・・
といったところからはじます物語で、前半は「いまのわたしの体も心もこの映画を欲していないなぁ」と思っていました。
ホンダと別れて、鼻にピアスをしてハヤシと暮らすようになるまで(ここでタイトルが出るのだけれど、50分ほど掛かっている)までのカナの行動は「それって、オッサンとか、オレってイケてると思っている勘違い男のソレと変わりないやん!」と思ったわけで。は、本当に「この映画、自分には合わないなぁ」と感じていました。
そんなカナが「少子化と貧困で日本は終わり。目標は生きていくこと」と真実に気づいていて、そんななか、自由とか平等とか女性の社会進出とかいわれているのかで生きていくのはシンドイ。
さらに、旧来の「女性はこうあるべき(かわいいとか、従順とか)とか、家族はこうあるべき(お互い助け合ってとか、絆とか)」といった思考にがんじがらめ。
「そりゃ生きづらいはずだね、なるほど!」と納得できるようになってくる。
物語において「少子化」は、カナの中絶経験、ハヤシの元カノの中絶経験が結びつき、女性の弱い立場を強調する。
同じく「貧困」は、持つ側のハヤシの家族や友人全般と、持たざる側のカナの関係を強調する。
生きづらくて仕方がない彼女の唯一のオアシスは、砂漠の水飲み場にやって来る動物を捉えた定点観測カメラの動画。
砂漠の水飲み場で水を飲むだけで生き残っていきたい・・・
で、結果、壊れていってしまう。
後半はカサヴェテス『こわれゆく女』を思い出すが、より以上に想起したのは篠崎誠『おかえり』。
ハヤシとの恋愛関係はベネックス『ベティ・ブルー』を思い出したが、あちらは男女対等だけれど、本作では対等でない。
カナの心の底に「女性は庇護されてしかるべき」みたいなものがあるからだろうなぁ。
本作、自縄自縛の社会構造の下での自縄自縛の女性を等身大で描いた映画といえ、まさしく「いま」の映画。
「傑作」というには届かないが、力作、注目作であることは確か。
つまり、「つまらない」も「退屈・理解不能」もあるけれど、「関心」も「感心」も同居した作品。
2度観たい映画か? と問われると、「観たい気もする。でも、タイトル前は辟易、お断り」なんだよなぁ。
監督・脚本は、山中瑶子。
若い人も大変。うまくコミュニケーションできないんだな。
私の友人のタンゴダンサーのナツコさんの兄弟:前信介さん(広島出身)が、制作スタッフの一人としてクレジットされているというので見てきた。
山中瑶子監督と主役の河合優実のタッグがとても話題になっているという。ドラマ「不適切にもほどがある」を見ていたので河合優実は知っていた。
「カンヌ国際映画祭でも「若き才能が爆発した傑作」と絶賛され、女性監督として史上最年少となる国際映画批評家連盟賞を受賞する快挙を成し遂げた。」とある。
21歳の主人公(河合優実)は、男性と同棲している。彼は料理も掃除もし控えめですぐに「ゴメン」と謝る。でも、それに物足りず、いきなり別のクリエイター男性との生活を始める。
彼女は、生きがいらしきものもなく、言葉数も少なく、すぐに切れる、暴力を振るう。料理、掃除などは普段しない。
高齢のおじいさんからすると、若い人も大変だな、うまくコミュニケーションできないんだな。そこのところ察しろよなで暴力を振るうか。など、ネガティブな印象を持った。
終わり方も特にこれといったことはなく。ただ、主人公のこれからの生き方が変わりそうな気配はあった。
★ナミビアの砂漠をネットで調べてみた。
ナミブ砂漠の「ナミブ」は、先住民族の言葉で「広大な」や「何もない」という意味。
アフリカ南西部のナミビアにある砂漠で、約8,000万年前に形成された世界最古の砂漠といわれている。
砂浜の絶景や動植物、夜の満天の星空など魅力が豊富で、2013年に世界遺産に登録された。
河合優実は熱演だが…
「あんのこと」の河合優実が、今度はどんな演技をするのか?と思い鑑賞しました。優美さんは、情緒不安定な役を熱演していた。だか、映画としては、?かな。前半(優実さんが階段から落ちるまで と定義します。)は、シーンの連続性が無く、「なんで今のシーンの次にこのシーンが出てくるの?関連性は?」といったことが多々あり、一連の時間軸でみた場合、意味不明。(後半は少しはマシだったが…)脚本がダメなのか?「鑑賞した皆さん、考えて下さい」ということなのか?そのあたりをもう少し練って作品をつくって欲しかった。私にとっては、退屈な130分だった。
河合優実が好きなので観る価値あった
見終わるころに無性に食べたくなるのはハンバーグ
あと水も飲まなきゃ
人間って何で生きてんだろね
意味なんて無いのに
英語が話せたら、もっといい人生だっただろうなー
この前電話で話した子が死んだなんて話しを聞いても、実感が無さすぎる
生と死の境い目が希薄なのかも
でも、中絶には敏感
これはリアルな感情が湧いた?
男は中絶"させた"側で
嫌な記憶は忘れちゃう(忘れた事にする)生き物
何が本当で誰の事を言っているのか
ときどき分からないこともあったけど、まあいいか
彼のお母さんも言っていたが
河合優実のスタイルはとても良かった
そりゃ、突然いなくなったら男は泣き崩れるって
変な人、、、あんたも大概だぞ
感想というか、雑感メモ
なんか目が離せない
推しの河合優実ちゃん
推しの金子大地君
2人はサマーフィルムにのって以来の共演か?
なんでこんな女がモテるのか
というのが第一印象
若いから?美人だから?
寛一郎君の尽くす彼氏が不憫に思えた
主人公の事を理解していると言っていたが
あんた全く彼女のこと分かってないよ笑
金子君との喧嘩シーンは凄い
この後の2人はどうなっていくのか、、、
パンフレットはこれから読む
なぜ、ナミビアの砂漠
最後まで、ナミビアの砂漠との関連性がわからなかった。
砂漠はスマホの画面とエンディング。
心が乾いているようには見えないし、むしろどんより曇って湿っていく感じ。
ナミビアの砂漠より、初夏の釧路湿原みたいなものか。
さすがに演技は自然で、本人そのものだろうが、河合優実の裸は必要だったのかは疑問。
「ふてほど」の前でまだブレイクする前のギャラが安い時期に光る女優を主演にできて、公開時にはブレイクしてヒットしたラッキーな映画だが、内容はありふれた女性が精神疾患に落ちていく映画としか言いようがない。
良かったが面白いとは言えない映画だった。
大変面白く観ました!
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作を大変面白く観ました!
この映画『ナミビアの砂漠』は、21歳の主人公・カナ(河合優実さん)の東京でのひりついた男女にまつわる物語です。
特に私が感心好感したのが、(女性監督で女性が主人公なので、女性の描かれ方が的確なのはそうだろうと思われる中)男性の登場人物の理解の深さと描写の解像度の高さが優れていた点です。
主人公・カナは、映画の初め、ホンダ(寛一郎さん)とハヤシ(金子大地さん)と同時並行的に男女の関係になって付き合っています。
主人公・カナと同棲している不動産会社勤務のホンダは、カナに対して優しさがありいつもカナをいたわっている感じが伝わって来ます。
しかしある時、ホンダが北海道に出張に行って、出張前にカナに誓っていた話に反して、上司に連れられて風俗に行った話をして、カナに謝罪する場面があります。
ホンダは、しかし風俗に行ったその時に勃たなかった話もします。
この場面はもちろんホンダは風俗に行った話をわざわざ言う必要はなかったと、一般的にはなると思われます。
もちろんホンダは、カナに対する誠実さで全て隠さずカナに話していたのだと思われますが、一方で、隠し事を無くすことで自分の罪悪感を軽くしたいという、無意識での自分本位的な考えがあったとも言えます。
この、一見思いやりや誠実さを見せているようで、本質は無意識に自分の精神的負担を軽くしたいと相手に重しをゆだねてしまう自分本位さは、ある一定の男性にはありがちで、そこを見事に的確に描いていたと思われます。
ホンダはその後、部屋を出て行ったカナと路上で再会し、カナに声を張り上げたり、(私はその真偽は分かりませんでしたが)ホンダが出張している間にカナが中絶したとの話に対して、ホンダがカナの心情を思いやって嘆く場面があります。
このカナとの路上と車内での再会場面でも、一見ホンダはカナのことを思いやっているように見えて、実は自身の思い込み中心で感情的になっています。
この場面の描写は、いやはや本当によく男性の本質を捉えているなと、個人的には感心しました。
カナは、そんな(男性の私から見れば全く優しくていいい奴なのですが)一見優しくみえる背後にある自分本位さの二重基準のホンダから距離を取り、どこか一貫性ある動物的なハヤシ(金子大地さん)と寄りを戻すことにします。
動物的なハヤシを象徴するシーンとして、映画の初めの辺りで、ハヤシが広場で立ちションする場面と、カナがホテルのトイレで用を足しているとハヤシがそこに割り込んで一緒に用を足そうとする場面があります。
私達人間は、例えば大小便やゲロ吐きなどの排せつや、男女の性的な行為、あるいは生誕や死といった生死に関わることは、プライベートの話として極力その露骨な描写は公では避けています。
しかし今作の映画『ナミビアの砂漠』では、その題名が現わしているように、排せつや男女の性行為や生老病死といった、(一般ではあまり公では露骨に語られない)動物的な振る舞いの方が大切なのではないか、と表現されているように感じました。
とはいえ、どこか一貫性ある動物的な雰囲気あるハヤシも、こと(男女の性的な行為の先にある)生命の誕生に対する態度に関しては、男女の性差としてカナとズレが生じます。
なぜなら、オスとしての男性は精子を女性に対して注入する無責任さの度合いで中絶(生命の誕生の断念)を提案出来るのに対して、女性の側は自分の子宮に出来た生命を殺してしまうという罪悪感で中絶に挑む必要があるからです。
カナがホンダと路上で再会した時に車中で「中絶をした」との告白は、カナの中絶の描写がなかったので、私には車中の告白の真偽については分かりませんでした。
もしかしたらカナは本当にその時中絶をしたのかもしれませんし、過去に中絶の経験があったのかもしれません。
しかし、ホンダに対して車中で語った中絶の話は方便の嘘であってかつカナに中絶の経験が無かったとしても、中絶に対する女性側の精神的な傷に対し、男性側の傷の程度の軽さについて、動物的本能的にカナも嗅ぎ分けていたと思われます。
だからこその、ハヤシが過去に相手の女性に対して(互いに同意があっても)強いた中絶に対してのハナの怒りであり、この動物的な生誕と(中絶による)死に関する描写は、映画として深さある表現になっていると思われました。
しかしこの映画がさらに優れていると思われたのは、ハヤシが単純に(中絶を行ったことも含めて)”悪”に描かれていない所にあると思われました。
ハヤシは、(車椅子のカナと共に都庁前で出会った)同窓生の官僚の友人よりかは遥かに動物的です。
しかし、男女の性差で言えば、ハヤシはカナよりかは動物的な価値観では遊離しています。
ハヤシが音楽PV?の編集をしている時に、カナは錯綜した感情のまま食事を一緒に取ろうとしないハヤシに物を投げたりして怒りを次第に爆発させます。
男性は、(生理の有無も含めて)女性より錯綜的になり難く、感情も直線的で合理性とも親和性があります。
いわば、合理的直線的な男性と、錯綜的な女性との差異と対立が、この場面で根底の動物的な場所から表現されていたと思われます。
この男女の経験上の差異のあるあるを的確に表現して見せているのも、今作のさすがだと思わされる描写の1つだと思われました。
ハヤシはこの時に(ホンダが車中で声を一瞬荒げたように)カナに対して一瞬声を荒げます。
この声の荒げ方は、(カナによる女性的な錯綜した怒りの感情の発露とは違って)暴力的で直線的でいわば男性的な感情の発露だと思われます。
しかし(ホンダの車中でもそうでしたが)ハヤシの暴力的直線的な感情の発露は一瞬で抑制され、一方でカナの錯綜する感情をそれにまとわりつき並走する形で抑えようとします。
なぜなら、男性的な暴力的直線的な感情の発露は、女性に対して支配か破壊にしかつながらないことを、経験的にも本能的にもハヤシは(あるいは車中でのホンダも)男性として理解しているからです。
このハヤシの描写も(一方的に”悪”に描かず)男性の本質を見事に捉えて描写されていて、女性監督なのになぜ山中瑶子 監督は男性に対してこんなにも的確な表現が出来るのだろうかと、僭越、感心しながらこの映画を観ていました。
今作は、以上のように男性の描写だけでも素晴らしく本質を射抜いていて的確ですが、他の美容エステでの会話などの描写も含めて、見事な本質的な深さある映画になっていると思われました。
1点だけもう少しダイナミックな展開があればと今回の点数になりましたが、作風的にそれが良いわけではなく、今回の表現で十分優れた映画になっていると、僭越思われました。
映画の終盤で、カナは精神科医・東高明(中島歩さん)やカウンセラー・葉山依(渋谷采郁さん)に診てもらって、自分はおかしいのではないか?と考えてる節を見せます。
また、隣人の遠山ひかり(唐田えりかさん)との出会いで精神的な出口を模索して映画は終わりを迎えます。
ただ1観客の私から見れば、それは排せつや男女の性行為や生老病死といった動物的な錯綜した場面を現在の社会が見ないようにしていたり、男女の性差の本質が理解されないまま放置されているのが理由であって、カナ自身は全く正常だよと、映画を観ていて私には静かに強く思われました。
この映画『ナミビアの砂漠』は、冒頭の喫茶店のシーンで、主人公・カナの紙ストローへの違和感から始まります。
そして、カナの友人のイチカ(新谷ゆづみさん)が、イチカの友人が亡くなったとの話をするのですが、席近くの男性客の「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話題の声で、その死に関する話はかき消されて行きます。
この場面で表現されているのは、(環境問題への効果の薄さも言われている)紙ストローへの主人公・カナの違和感と、それを強いている(時代は違いますが)裏で「ノーパンしゃぶしゃぶ」の歪んだ動物的な行為をしていた官僚と、それによって本来(紙ストローなどよりも)もっと深く考えなければならない「死」(など)についての動物的な人間の根底本質の話が、かき消され無視されている、という映画冒頭から優れて象徴的な描写場面であったと思われました。
この映画『ナミビアの砂漠』は、そんな社会構造に、例えば美容エステと医療エステの違いすら自分で調べて考えられないまま疑問も思わず従ってしまっている私達への、動物的な観点からの違和感を表現した、映画として冒頭から最後まで貫かれて表現されている、優れていると言わざるを得ない作品だと、鑑賞後にも強く思われました。
(p.s. 映画の中心の話ではないのですが、カウンセラー・葉山依を演じた渋谷采郁さんは、(『悪は存在しない』の芸能事務所の女性社員役(黛 役)でも感じたのですが)その内面の(ともすれば俳優としてはマイナスにもなりかねない)空虚感というか感情の揺れ動かなさは、ちょっと他に思い当たらない特異さで、相手の感情を飲み込む得体のしれない存在感があると、僭越思われました。
今後、他作品でも存在感が光る役者になるのではと、僭越ながら思われました。)
攻めている
攻めの姿勢が強い。主人公の女の子は、とんでもなく自分本位で他者のためにほぼ何もしない。バイトは普通に勤務する。二人の彼氏が、二人とも彼女にへりくだっていて、ますます増長している。特に最初の彼はかっこいいのにまるで相手にされていなくて浮気される。ホストクラブにも気軽に通う。今の子はそうなのだろうか。
あんな短気で怒ることに一切のためらいのないタイプの女性は、実は自分も前に交際したことがあり、本当に地獄だ。それ以来、恋愛に期待する気持ちがない。怒りっぽくない人が一番だ。しかし実際に付き合っている最中はそんなふうに冷静に思えずなんとか関係を壊さないように取り繕って、なだめたりして、共依存のようだった。そのうち怒ることに慣れてきて、またかとしか思わなくなる。
常に何か事件が起こりそうな雰囲気を感じてハラハラしていたのだけど、特に何も起こらない。バイト中に当てるレーザーで、絶対にひどい火傷をさせるはずだと思っていたら、何もなかった。主人公があまりに性格が悪くて最後にはひどい報いを受けるだろうと思ったら何もない。中国人の血筋であることが明らかになったくらいだ。
二人目の彼は、あんな環境でよく作業ができるものだ。自分ならすごく嫌だ。
河合優美劇場。もしくはエリカ様再来か?!
まず昼間に観に行く映画ではないので、観に行く時間はぜひ考えて欲しい。午前中に見たらその日一日、落ちます。
なんかフランス映画的な冗長さを演出してるシーンが多くって、「もういいもういい」と何度も思ったことか。
最初彼も次の彼も存分に沼らせるけど、私が男ならこんな暴力女は嫌だ。2番目の彼は「もう無理」と言いながら、根気よく一緒に居続けるのが謎だった。その後、濃厚なエロでもあれば、エロ→バイオレンス→エロ、、、になって沼る理由もわかるんだが。
ご飯も作らないわ、仕事もしないわ、特技は見た目とアレですと言わんばかりのゆみちゃん。しかして、中国人ハーフ設定いりますか?意味ありましたか?
監督の「察して」要素が気持ち悪い映画でした。
何をじゃ。
しかしこの映画を雑誌やWebで紹介するライターの下手くそなことよ。「無気力な若者の〜」とかそんなんじゃないっしょ。ゆみさまの裸にうっとりして、若いっていいなーと思うだけでした。
このみでない
全体的に好みでない。スタンダードサイズでズームなど使用する序盤の昭和感や説明の少ない演出と展開は観客・モンタージュを信頼する老練さも感じたが語られる中身に共感が得られないまま時間だけが過ぎる。河合優実ウォッチャーのマタゾウにおいてもカナが魅力的に見えない。あのカナのどこに二人は惹かれたのか。寛一郎が昼間から「わかれうた」を実演するほどいい女か?ススキノ話を描写しておいてわかれうたが来ると寛一郎のバカさ加減が目立つだけでカナ側がどういうやつなのか伝わらない。そこそこの家庭でそれなりの教育を受けた金子大地がどこでどうしてカナと出会ったのか、なぜ我慢しても続けようとするかなど理解できない。一体この話は新しいのだろうか。男女の関係性が変わっただけで話は藤田敏八?階段落ちもスタントダブルが丸わかり。
良かったところは中島歩と唐田えりかの出方、カウンセラーの女の滑舌の悪さ。あとカナの着替え(ポッ)。
勝手な推測だが監督がまだ若すぎる気がする。誰か脚本段階で大人入れたらどうなのか。
昨年の陽子の〇〇Kmといいこれといい、海外の映画祭で評価される邦画がまたしても合わない。もうやめようかな。仕事の範囲を無限に拡張していく河合優実のウォッチャーは継続するケロ。
リアルな人生を見た気分
リアルな人生を見た気分にはなって、面白かったのだけど、他人に勧められるかというと少し微妙
河合優実さんはじめとする俳優陣は、ほんとにいい演技で、リアリティも感じられたのだけど、そのリアリティを見たかったというと(あくまで個人的には)あまり見たいものではなかったかなぁという感想
映画を観る意味
山中監督が、河合優実と出会うことで生まれた作品。脚本も監督オリジナル。そんな中、とあるシーンで、「映画なんか観ても意味ないし」というカナのセリフが出てくる。
それが衝撃的で、監督はどんな思いでこのセリフを語らせたのか聞きたいと思っていたら、本日の上映後の舞台挨拶で、監督自ら「(カナのセリフとして)自然と出てきた」と語られていた。また「カナにそう言わせたからには、映画を観る意味について考えなくては…」として、「人生で実際に出会える人は、おそらく数百人くらいだと思うけれど、映画は、多様な作品を観ることで、人生において出会うことのない人たちと出会えるということに意味があるのではと思うようになった」とも述べられていた。
本作のカナや、元彼のホンダ、今彼のハヤシは、まさに出会うことのない人たちにも見えるし、そこかしこにいるあの人や、もっというと自分自身にすら見える。
そして、そう思える自分は、その出会いを必要としているし、もっというと楽しみや喜びも感じているのだが、今のカナにはそのキャパシティがないのだろう。「少子化と貧困の中、目標は生存」という時代のせいもあるだろうが、そもそもまだ21歳。自分の好き嫌いすら模索中の時期だ。
側から見れば、元彼のホンダの分別ある態度やカナを思う気持ちの深さや責任感に対し、今彼のハヤシの薄ら寒いセリフや、持てる者の幼稚な全能感をもとにした自己中行動に「おいおい、そっちで大丈夫?」と言いたくなるが、カナだってなんでホンダよりハヤシなのか、うまく言えないのだろう。
ただ、自覚的ではないにせよ、鼻ピとイルカのタトゥで互いを束縛しあう関係になったことに関しては、カナもハヤシも互いに誠実(と言っていいかは不明だが)で、どんなに取っ組み合いのケンカをしても、罵り合っても、家を飛び出しても、ちゃんと戻ってくるし、何なら、ぶつかり合いながら、少しずつ新たな関係を築きあげていく様子が描かれる。
とりわけ、ラストでは、元彼が作ったハンバーグを2人で食べながら、「わからない」ことを認められる(マイナスをさらけ出して笑いあえる)関係になったことが象徴的に描かれて、ほんのり明るい気持ちになれた。
とまぁ、自分は年も重ねてきたので、ちょっと主人公たちに対して、上から目線な見方をしてはいるが、主人公自身が持っている自己中な感覚や、他者との関係の中で届いてこない言葉や態度に急に冷めてしまって感じる孤独感とか、打算的な思考回路とか、正直言って全然今もある。
そうしたことを映画を観ながら考えられたのは、スタンダードサイズ画面が持つホームビデオ感が、主観と客観の行きつ戻りつにピッタリだったからだと思う。カウンセラーとのやりとりの後、自分を一歩引いて認知できるようになったカナのイメージシーンの挿入などの演出もよかった。
それにしても、カウンセラーの問い返し(「なぜロリコンを例に出したのか」と「なぜ怖いと感じるのか」)は、自分にも刺さった。自分を知る糸口って、こういう問いの立て方にあるんだなぁと感心した。
また、隣人役としての唐田えりかの登場と、彼女が語るセリフの重みが、彼女主演の「朝がくるとむなしくなる」に重なって沁みた。映画として、とてもいいアクセントになっていたと思う。
ちなみに、タイトルの「ナミビアの砂漠」についてだが、最古の砂漠と言われていて、情報や物質が有り余る現代の東京と対極のようでありながら、実は人口の水飲み場を作ってそこに定点カメラを置いて、YouTubeで収益化をはかっているという。(山中監督談)
対極にあるように見えて、見方を変えると思わぬ共通点が見えてきたり、実は境界なんてあやふやだったりというのは、自分自身の主観と客観を行き来させられたこの作品のタイトルとして、お見事だと思った。
絵に魅力が無いことが味の映画と言う以外にない。 特に後半の部屋の中...
絵に魅力が無いことが味の映画と言う以外にない。
特に後半の部屋の中での回転シーンのカメラはどうにかならなかったのかな?
撮影スタッフの力量なんでしょうか?
シナリオ的には、メンヘラであることを肯定され(ハッキリ描かれ)ちゃうと、もうその後は何があってもそういう人ということになってしまう。
また男性キャラの掘り下げや描き方が浅いように感じられた。
主人公目線で主人公の考え方を読み取る映画なんだとは思うけど、だったら若い女性が共感するのかが男としてはわからなかったことが残念。
無下には出来ない映画
分かる様で分からない。
カナの素直でありながらも、奔放で、病んでいる感覚。そして、いまを生きる感覚。そこへの鋭さは分かる。
納得のいかない事には反発するしかない、その素直な表現は羨ましくもある。
けど、あまりの社会性の欠如に共感出来ない僕は、もうおじさんなんだろうな。
彼女に振り回される男達が可笑しかった。
不登校児に学校へ行かなくてもいいとしか言わないような映画
主人公は無気力に刹那的に生きている、渋谷や新宿の繁華街に行けば24時間365日いつでも見つけられるような女だ。(劇中ではバカ〇〇〇と言われていた)。
彼女は、喫茶店で待ち合わせした友達に元クラスメートが自殺したと言われても誰かピンと来ないし、その友達の話も5分と経たずに興味がなくなる。
元気のない友達を気遣ったのかと思えばホストクラブに連れていき、それすらも浮気相手と会うまでの時間つぶし。深夜に浮気相手と別れると、同棲する彼氏の元にタクシーで帰る。
同棲する彼氏は酔いつぶれている主人公を健気に介抱したり、自炊して総菜を作り置きするなど、とても真面目なようだ。しかし、主人公は彼氏の手料理ではなく冷凍庫のアイスを食べる。人のやさしさを理解できない。
そんな彼氏を何も言わずに捨てて浮気相手と即同棲。案の定うまくいかず毎日取っ組み合いの喧嘩するうえ、新しい彼氏の夢も馬鹿にする。
何かのきっかけで受診した心療内科では、自分のことが知りたいと言って医師に病名をつけてもらおうとする。自分自身のことさえも誰かに決めてもらった病名で理解しようとする。
その後、紹介してもらった女性カウンセラーをアポなしで訪問し、プライベートな付き合いを求めて事務的に拒否され、傷つく。依存体質。
主人公は終盤で、「その気持ちわかるよって言われるの実は好きでしょ?」的なことを隣人の唐田えりに言われる。この映画が目指しているのはこの映画における唐田えり、つまり自分を無責任に肯定してくれる遠い存在なのかな、と思った。
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公式サイトを見た時は、何も考えてない女子大生がガンジス川に行くような映画と予想していた。そして、いい意味でそれを裏切って欲しいとも考えていた。
予想は裏切られた。約2時間強もの間、糞メンヘラの生態を見せられる。延々と精神の幼い共依存カップルの日常が流れ、主人公は成長どころか悪化していく。
自己愛が強いのに自分のやりたいことはない、そのくせそれを”他人から”認めて欲しい。くたばれ糞メンヘラと思いながら見た。
もし隣人が男だったなら、この主人公はクリエイター彼氏を捨て喜んで股を開くだろう。そして男漁りができなくなるまで同じことを繰り返し、最後は自殺もしくは理解ある彼君と子供を地獄への道連れにするだろう。
人生においてこんな時期があるのはわかる。しかし積極的に肯定するのは違う。自己責任という意味ではなく、自分の人生を幸せにできるのは自分だけだ。
テーマが迷走している
説明は野暮だとも思うタイプなのだが前半の三分の二ぐらいがどういうことか分からない。何かを食べていても何か汚い気がして、気持ち悪くなってしまった。
残りの三分の一でなぜか作風まで変わって、やっと半分ぐらいは理解できてくるが、躁鬱とか双極性障害とどう付き合うかの作品に変わってしまった気がした。
・ホンダが酔っ払って帰ってきたカナにピルを飲ませていたが、浮気を認めていたということ?
・風俗に行った事を謝られて出てったってこと?カナはもっと遊び歩いていたでしょ?冷蔵庫をなんで持ってったの?同居してたのをハヤシも気付くのでは?
・引っ越した部屋が引っ越し先なのかしばらく分からない
・ベッドの中で「一度別れてまた会って」からの同居は意味が分からない。ホンダとのことを言ってたのか?
・遊び人だったと思われるハヤシが理不尽な暴力を振るわれても離れないのはなぜ
・カナも子供をおろしたの?嘘なのかまったく分からないし、見つけた写真と混同して困惑する
・急な鼻輪のリングに動揺を隠せない
・隣人?は隣の部屋にいたの?洗濯物を干そうとしてしゃがんで隠れたので正面に住んでいるのかと思ったけど‥
・あのバーベキューは何?元カノばかりいてハヤシの両親もいたってこと?
・濡れ場?はキス程度で脱がしたのが関係の無い着替えのシーンのみで、その意味はいったいなんだったのか。個人的には無くてよかったが、脱ぐならば複数箇所必要だったのでは、と。
などなど疑問ばかり残った。
他の方のレビューではずばりと内容説明をされてる方も多いですが、本編のみで理解できるところは少なかったのでは。「根深い男社会への不服を全身で表すカナ」ともあったのだが、そうは思わずむしろかなり男を利用していたように見えた。
男尊女卑をテーマにしてるとしたらテーマとして20年遅いかもだし、それは感じなかった。そもそも脱毛店は女性しかできないだろうし。
あと、タイトルと関連してそうなところは箱庭しか分からなかった。
私には向いてないことが分かった
河合優実が見たくて鑑賞。ただ、繰り返されるカナとハヤシの乱闘に、またかよ~と思う。これは良くない方の河合優実の映画。こんなヤバい人と、よく一緒にいられるね。
本作を観て分かったことは、私にはこの手の映画は向いていないと言うこと。河合の映画でも、「愛なのに」や「あんのこと」みたいな分かりやすい映画を選ぶようにします。
なんだコレ?って思ったんだけど…
終わった瞬間、隣の女性が「え、これで終わり?」って、つぶやいて。そーだよねーって共感しながら席を立ったけど、後からジワジワ思い出す。あのセリフ、なんだったんだろう。あれ、どういうことだったんだろうって。
浮いてるセリフがあって、その浮き加減が、時代の、現実の違和感を象徴している感じ。「お互い高めあう関係」「わかってるって言われたい」しよっ中聞くようなセリフなのに、こんなに変なセリフだったっけ?って。
物わかりの良さそうな彼氏の親が、あなたみたいな人に私たちは拒否感ないからね、っていう姿勢のイタさも、たぶん自分もやってるよなーって、そこついてこないでよって(笑)
カナみたいな女、絶対嫌だと思いながら、愛おしくもなる。最後までハヤシと別れなかったのは意外で、そこに人間の希望があるのかなあって思いました。
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