ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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現代を砂漠にするのはまだ早い
カナの頭の中は分かった気がする。
頭の中ではランニングマシーンが稼働して、常に世界で動くことが求められる。部屋の中でも、横になっても休めない。精神の疲労を身体の疲労に同期することが求められる。ゆえに暴言を吐き、身体を暴れさせる。
カナと現況が似ている人や、それを現代の若者像と素描したい人には必要であり、求められる物語であるのは一定理解はできる。
しかし私は朝子のように「だから、謝らへん」。
本作を批判的に取り上げるには、3つの障壁がある。それは①河合優実のトップレスをみてしまったこと②男性クリエイター批判があること③精神疾患に物語が回収されていること、である。
この障壁はなかなかに手強い。河合優実の身体のあり様が凄かった。男性クリエイターの性加害やハラスメント問題は全く解決されていないから、それをトピックとして取り上げたのは素晴らしい。カナのような女性像は今まで捨象されてきたから、映画として現前させたことは一つの肯定の仕方でよい。そう言うことはできる。もちろんそれらに反論するつもりはない。しかしそれで全てを済ませていいのか?とも思ってしまう。
まず、カメラが酷いと思うのは私だけだろうか。
手ブレが酷い。冒頭のカフェのシーンのように、なぜ室内のシーンで固定カメラではなく、手持ちが採用されているのかがよく分からない。さらにカメラが移動する際、人物を追えていない。撮り逃しが生じている。その手ブレをカナの精神の不調、カメラワークの酷さをドキュメンタリーらしさということはできる(動物のドキュメンタリーを想起してほしい。カメラが追おうとしたり、ズームをしても何も起きなかったり、逃げてしまうことがある。そういった描写が本作にはある)。
けれどカメラのブレがカナの精神の不調を表現しようとも、それは「カメラが偽装しているカナの精神の不調らしさ」であって、当のカナの精神の不調と全く同期していない。それどころか不和が生じている。さらにカメラワークは例えば、肝心なカナと唐田えりか演じる隣人の女性の想像世界か現実なのか分からないあの幻想的な火の飛び越えを全く綺麗に撮れていないから、単に下手であるという感想しか持ち得ない。
このように本作は全体を通して、カメラが不調をきたしている。だからその不調さに私も気持ちが悪くなって、カナが精神疾患かもしれないと明かされるまで、苦痛な時間を強いられた。
物語それ自体に立ち入れば、本作が道徳とジェンダーロールの転倒をひとつのトピックにしていると解釈はできた。
冒頭のカフェのシーンで、カナの頭の中では知人の自殺と他人の話すノーパンしゃぶしゃぶが同等の話題でしかないことが音声イメージの巧みな表現で明らかになっている。さらにこの道徳の転倒が、カナには安定した彼氏がいるのに別の男がいる性の奔放さや、虚言癖であることのヤバさに結実していくのである。
しかしカナをヤバいと思うのは女性だからであって、上述のことを映画に登場する男たちに置換すれば、紋切り型の話でしかないことがわかってくる。だって、妻子を持った男が、魅惑的な女の虜になって、円満な家庭生活が崩壊していく物語なんて腐るほどあるじゃないですか。
だから男の領分とされた映画において、本作ではジェンダーロールを転倒させ、カナにかつての男を、ヒステリックさを元カレに演じさせる。そして無根拠な暴力に晒されたり、原罪を負わせることを今カレに配置し直す。その試みは面白いとは思う。
だが問題は社会が存在しないことである。彼らが生きている現状は理解した。カナをヤバいと思ってもいいが、それは男一般に言えることだとは分かった。しかしカナたちはどう生きるの?
社会が存在しない世界観はとても現代的だ。新自由主義思想に経済も政治も侵される現代は、市場原理によって全てが統治されて、社会保障は徹底的に削減される。国家も社会も守ってくれない。だから個人の能力と責任で自力に「生き延びるしかない」。
そんな現代に生きていたら、生活と世界が社会を飛び越えてダイレクトに接続される。その様は、カナがソファにくつろぎ、スマホでナミビアの砂漠のライブ映像をみている姿であろう。ダイレクトに繋がると私たちは引き裂かれる。生活と世界の問題は別個であるはずなのに、直接つながる。しかしそれぞれの次元はそれぞれの次元に何ら解決を与えない。それなら問題は解決はされないから生活の何もかもが詰んで、都会であっても砂漠同然となり、精神疾患になってしまうのも当たり前だ。
しかし現実にはやはり社会は存在するのである。だからあたかも社会が存在しないかに偽装する本作はカナらの問題を何ら解決させない/できないし、私たちに慰めを与えるしかできない。
カナと今カレの家賃はどうしているのだろう。東京の郊外であっても、十分な広さがあるファミリー向けの部屋は相当高いのではないだろうか。21歳の脱毛サロンの彼女と脚本を書いているクリエイターもどきの彼にそんな経済力があるのだろうか。彼の実家が裕福な描写はあるから、親の所有する不動産なのかもしれない。ただ仮に彼らが家賃を払っているのであれば、カナの経済状況から容易に辞める選択はできないだろうし、親が所有または家賃を払っているのなら、今カレがカナと別れない理由が分からない。このように彼らの置かれている社会背景が不明瞭であるならば、カナが精神疾患にならざるを得ない現状の訴えに説得力が欠けてしまう気がする。「で、カナは何に悩んでいるの?」で一蹴されてしまう。
「ティンプトン」でいいのだろうか。分からない、分からないと何度も繰り返し、病的で破綻した生活を送れば。でも私はそんなの嫌である。
上述の生活空間の描写のように、本作に登場する彼らー特にカナーはリキッドした学校の中を生きているように思えてしまう。全てが大人に所与されている。部屋も職場も食事も何もかも。まずは自分でご飯を作ってみなよ。バーベキューの準備をしてみなよ。後輩も働きやすい職場をつくってみなよ。全然一からじゃなくていい。上手くなくてもいい。けれどそんな社会への働きが、カナの体調を改善させるのではないか。というか精神疾患で、全ての問題を片付けるな。原因は個人ではなく、社会にもあるのだ。そしてもちろん不調を医学的に診断し、名前をつけ、治療することもまた当然に必要であるが。
そう思うのも、カナの現状を擁護するだけで終わりたくはないからだ。というかそれなら、あまりにも他人事過ぎませんか?カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したのも、「現代の日本で生きる若者は大変やな。まぁ、私たちの社会には関係ないからあんま知らんけど」とか、本作を評価する親世代以上の人たちも「子どもたちは本当に大変やな。まぁ、自分の子どもはインターに通わせるからあんま知らんけど」であるなら最悪じゃないですか。もちろんこれは私の妄想ではある。しかしやはりカナが生きれる社会をどうつくれるか私は考えたい。
長くなってしまった。カナが脱毛サロンの店員から、「脱毛」を取り巻く社会の強迫観念がもっと主題にあがってくると思っていたしー介護脱毛ではない、広告や若年化、ルッキズムー、カナが仕事を辞めてからはどう脱毛するのか期待していたが、全く後景に退いて悲しかった。けれど「原罪」というのはひとつの主題のような気がした。生えてくるのが罪かのようなムダ毛。そしてムダ毛的な事態は、生きていることが罪かのように、消費活動に駆り出される現代に横滑りする。さらにそんな観念を内面化して、私たちは生まれなければよかったと思ってしまう。反出生主義だ。だが私はもう反・反出生主義者なので、未来を向きたい。
そして現代を砂漠にするにはまだ早い。
戦いに疲れ、傷つき、怒るヒロインは大都会のヌーなのか?
友達からカフェに呼び出され、共通の友人が亡くなったことを聞かされてもどこか虚なヒロイン、カナは、同棲中の恋人に管理されているような生活を続けながら、別の男とラブホデートがやめられない。カナはいったい物事のどこに共感し、どこに自分の幸せを見出そうとしているのか?
途中で見えてくるものがある。友人も恋人たちもみんな自分勝手かつ本音と建前が乖離しまくりで、会話の途中で突然キレることが多いカナのストレスの原因は、どうやらそこにありそうだということが。だが、それさえ世間は躁鬱病という枠内に押し込もうとする。カナの頭の中の?は膨らむばかりだ。
他にも、カナの血族に関するあれこれとか、脚本も兼任する山中遥子監督はヒントになるカードをあちこちにばら撒いて、終始観客の集中力を途絶えさせない。こんな握力がある映画は珍しいと思う。
握力の一端は、カナを演じる河合優実の常に目と唇から力みを取り去った放心状態のような演技にもある。
題名は『ナミビアの砂漠』。劇中で、カナは携帯動画が映し出す砂漠のオアシスに群れるヌーに何を見ているのか?砂漠=現代社会、ヌー=自分と解釈するのは単純すぎる気がする。平日の新宿、劇場は若い女性観客で席の約9割は埋まっていた。
ボーダーの女性の話
他のコメントでも「自分が許されたような気持ちになった」という感想がありますが、自分も同様です。
映画そのものがセラピーのようでした。
主人公は家族を捨てた父親を恨みながら、無理矢理許していた。
父も人間だから仕方ない。親を憎みたくない。
抑圧した怒りの矛先は、恨んでもいい他の男たち。
男性に依存的な態度を見せる一方で激しい攻撃性を持っていました。
女性には攻撃性を見せないあたり、母親との関係は悪くないのだろう。
ちょい役の隣人女性もいい空気感を出しています。
自分が恋人と喧嘩する声を聞いているはずなのに何も知らないように微笑んで挨拶してくれる自然体な態度が、主人公にとっては母親的な包容力を感じたのだと思います。
「お腹すいた」
これは子供のように甘えているのだと気づきました。
「お父さん、お腹すいた」
父親には言えない。叶えてもらえない欲求。
安心感や甘えが生んだ食欲。
一人で食べることを嫌がるのは、恋人が不在の父親の代わりだからでしょう。
ここ、痛いほど共感できます。
共依存の元カレとは違い、「お互いに高めあえる対等な関係」を求めた新しい彼氏は、許しだけでなく厳しい叱咤もする。主人公にとっては理想的な関わり方だと思います。
境界性人格障害、双極性障害というワードが出てきたのには驚いた。
多分、主人公は境界性人格障害だと思います。
女性に対してはアンバランスにならないあたり。
同じ病気を抱えている人や、主人公と似た性質を持ったかたには気づきがある作品だと思います。
ま!!!!!
美人ならではの展開ですけどねっ!!!!!!
この才能はいったい何者!?
小栗康平さんの「死の棘」を見てから島尾敏夫氏の原作「死の棘」を読み終え、今「島尾敏雄日記(死の棘までの日々)」を読んでいます。島尾敏雄の「死の棘」の事は以前から知っていましたが夫の不倫がきっかけとなって妻が精神を病み夫を責め続けるというおどろおどろしい内容のため映画を見たり本を読んだりするのを避けていましたが、実際に見たり読んだりするうちに相手を責め続け、いたぶり、時には暴力をふるい、自死を図ろうとする姿がある意味究極の愛の姿のようにも思えてきました。
「ナミビアの砂漠」のなかでも酷似する場面が描かれますがきっと「死の棘」の影響を受けたものと思いパンフレットを買って読んでみましたが「死の棘」関する言及が一言もされていないことに驚きを感じました。「死の棘」は日本文学を代表する私小説であり、実際に島尾敏雄の妻である島尾ミホさんが精神を病んで医者にかかったり果ては住んでいた東京を離れ、最終的にミホさんの故郷である奄美大島に引っ越すという大きな代償のもとに書かれた作品なのですが同じような到達点に脚本・監督である山中瑶子氏が己の感性のみを信じることでたどり着いていることは特筆すべきことだと思います。
観客を楽しませるような展開やら、女優の可愛さをアピールするような映画でなくて監督の中のリアルを追求しているので一見女優にここまでの演技を求めるのか?と思うような場面もありますが「かっこ悪いのがかっこいい」「みっともないのが美しい」と感じる映画でした。見る人を選ぶというか万人受けするような作品ではないと思いますが...
マジで意味がわからなかった。
「不適切にもほどがある」や「あんのこと」の河合優実さん主演だったので予告で見てこれは面白いんじゃないかと思って早速見てみましたがマジで意味がわからなかったです。
何を伝えたいのか、何がテーマなのかよくわかりませんでした。
ただ、どっかでなんかこれまでのことが伏線回収か何かあるのかずっと気になって見てましたが最後まで特に大きな展開もなく終了。
先日見たcloudのように中身がなくてもそれも含めて最高!って感じの作品もありますが、これはちょっとただただ意味不明で終わり方も良くなかったな。本当に今年1番の駄作を見たかもです。
自分的今年ワースト1だった変な家より酷かったかも。
でも河合さんはじめ出演者の方々の演技は素晴らしかったです。
とりあえずわざわざ劇場では見る価値がありません。配信で見るくらいで十分かと。
優しすぎる男と超ワガママ女
優しすぎる男と超ワガママ女の話で、正直、無理〜、という内容でした。
まあ、女は精神を病んでいるんだけど、それでも、やっぱり、無理〜でした。
オアシスを追い求めて
恋人のホンダと同棲しているカナには別に好きな男ハヤシがいる。ホンダはカナに優しくて食事やら家事やら至れり尽くせりで特に別れる理由もないため、ズルズルと二股の関係が続いていた。カナもホンダには甘え放題、でも彼女はなにか物足りない。頻繫にハヤシと会い逢瀬を重ねる。
クソまじめなホンダは誘われるがまま風俗に行ったことをカナに告白、これを機会とばかりにカナはハヤシに乗り換える。冷蔵庫と一緒に。
ハヤシもホンダほどでないにしろ、女性に優しい今どき男子だ。でもカナはやはり物足りない。仕事で構ってくれない彼に不満がたまりブチ切れてしまう。
激しい喧嘩をした勢いで部屋を飛び出したカナは大けがを負う。ハヤシの献身的な介護によりやがて回復するも、それからというもの日常的に激しい取っ組み合いの喧嘩が絶えなくなる。
常に自分を愛してくれる男性がそばにいる彼女は一見恵まれてるようにも見える。でも彼女の心は満たされない。いつも心は飢えている。
ハヤシに男性としてだけでなく、理想の父親像をも求めている。過去に彼が女性に堕胎させたことを責め続けるのはそんな理想像とかけ離れた行為をしたことが許せなかったからだと思われる。
理想の父親像まで自分に求められるのはハヤシには荷が重すぎる。そんな彼に満たされないカナの感情は常に高ぶり、愛情表現ともとれる取っ組合いの喧嘩が絶えることはない。
彼女の思いは求めても求め得ぬものなのだろうか。広大な砂漠の中で小さな針の先のようなオアシスを探し求めるかのように。彼女の心はいつまでも満たされることはないのだろうか。
いくら砂漠に水を撒こうとも、その水はすぐに干上がってしまう。水をいくら注ぎ続けてもけして潤うことはない砂漠のようなカナの心。生半可な気持ちではそんな彼女の心を満たすことなどできないのだ。それともカナにとってけして水が尽きることのない砂漠のオアシスのような人間が存在するのだろうか。あるいは彼女自身が変わるしかないのだろうか。
カナとハヤシがいつものように激しい喧嘩をしている動画をスマホで見ているカナのシーンがある。これは精神療法を受けている彼女がいわゆるメタ認知(自分が思考していることをもう一人の自分がより高次から客観的に捉えて把握し活動に反映させること)のトレーニングをしているシーンと思われる。
しかし動画を見ていた彼女がルームランナーから降りてスタジオらしきところから立ち去る際には砲撃のような爆音が複数回にわたり鳴り響いている。これは高次の客観的な彼女の意識でさえ戦場にいるかのような荒立たしい状況に陥っていることを描いたシーンなのだろうか。だとしたら彼女の状態はかなり深刻ということになるが。
果たして本作で描かれていることは彼女個人の問題なのだろうか。
本作は一見するとただ一人の愛に飢えた女性の激しい愛情表現の日々を描いた作品というように感じられる。その激しさにばかり目を奪われるが、何のことはないカナはごく普通のどこにでもいる女性のようにも思えてくる。彼女はそんな特別な存在ではないと。
心理学者のマズローは人間は生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求の順番で五段階の欲求を人間の基本的欲求とした。
戦前とは違い今の日本では普通に食料も手に入り、命の危険にさらされることもないから生理的欲求、安全欲求は満たされている。それらが満たされると次に人間は三番目の所属と愛の欲求を求める。家族や友人というグループの中で愛されたい、異性から愛されたいという欲求は今の平和な日本では当たり前に誰もが持つものだろう。
カナは親との関係に問題を抱えていたという。家族の中で愛されず、この欲求が満たされていなかった可能性がある。だから彼女は恋人に多くを求めてしまう。男性としてだけでなく父親としての自分への愛情を。恋人としてそして父親として常に自分に構ってほしい。自分のことをすべて理解してほしいと。これは程度の差こそあれ、誰もが持つ欲求ではないだろうか。
彼女はホンダにはそれを求めなかった。彼女にとってはホンダでは力不足だと見抜いていたのかもしれない。確かにカナに帰ってきてほしいがために地面に突っ伏して泣いてるようではカナの父親像としてはふさわしくないだろう。
今の社会では4番目の欲求である承認欲求を求める人間も顕著だ。特に今のSNSの時代、皆がこの承認欲求を満たしたいがためにネット上での自己表現に夢中だ。自己顕示欲を満たしたいがために過激な動画で事件まで起こす人間もいたりすることを考えると、やはりカナは現代社会では普通にどこにでもいる女性に思えてくる。
本作の作り手はカナという一人の女性を通して現代社会に生きる愛情に飢えた若者たちの姿を描きたかったのではないだろうか。私なりに本作をそのように解釈した。
この難しいカナという役どころを体当たりで演じた河合優実には脱帽である。話題作ではたいてい彼女の名前を見かけていたが、ここまで見事に主演をつとめるまでに一気に成長した。彼女が今や引っ張りだこなのも納得である。
【“ティンプトン(ワカラナイ)!”男には基本かまってちゃんだが、時にめんどくさくって、平気で嘘もつくけれども、自分の気持ちに正直に大都会で生きるヒロインの姿が、”何だか自由な人だなあ”と思った作品。】
ー 劇中、カナ(河合優実)が、中国人がルーツであることと、父と確執があった事が台詞で伝えられる。
そして、彼女が美容脱毛サロンで働く21歳の女性であることや、自殺した同級生の話を聞いても興味を持たずに、やり場のない感情を抱えて生きて居る姿が描かれる。
「あみこ」もそうだったが、山中揺子監督は、少し変わってはいるが自分の核を持つ人を描くのが、とても巧い方だと思う。-
◆感想<Caution!内容にやや触れています。>
・カナみたいな女性とは、正直一緒に暮らしたくないなあ、と思う。けれども、遠くの方から見ているのは、良いかなあと思う。(勝手でスイマセン。)
観ていて、面白いからである。(で、映画で観るのが宜しい。)
・カナは男にはかまってほしいが、優しすぎる男(寛一郎)には飽きちゃうし、次のクリエイターの男ハヤシ(金子大地)にもかまってちゃんだが、かまって貰えないと臍を曲げてしまう。
で、喧嘩する。クスクス。
・けれども、カナは彼女なりの生き方がしっかりと有って、遣りたいことはやる!と言う自覚無き心があると思う。
それを、一番象徴しているのが、あの鼻ピアスだと思う。フツーは、あそこまでのピアスは付けない気がするのだが、彼女はそれを平気でして、しかも似合っているのである。ウーム。
・二番目の男に、前の彼女との間に出来たと思われる胎児の写真を見つけたカナが、激烈に怒る姿が良い。”クリエーターとか、言ってる前にお前がチャンとしろよ!”
カナは、自分の気持ちに正直で、正義感もある事が分かる。
序でに言うと、美容脱毛サロンでお客さんに正直に”こんなところに来ないで、医療系の所でキチンとやって貰った方が良いですよ”などと言ってしまい、首になる所とかね。
・けれども、そんな自分を”ちょっと、オカシイのかな”と心配になって、心療内科に相談するところなども、可愛いし、面白い。
<そんなある意味、自由人であり、破天荒なカナを河合優実さんが、実に大らかに演じている。注目されている女優さんと言う事が良く分かる演技力である。
近作「あんのこと」の演技と比較しても、その演技の幅広さや、豊かさが良く分かる。
今作を観た人の中には、今作のラストで彼女にTV電話で掛かって来る中国の親類にカナが言った“ティンプトン(ワカラナイ)!”と思う人も居るかもしれないが、私は”了解了‼”だった作品である。>
<2024年10月6日 刈谷日劇にて鑑賞>
山中遥子×河合優実による新風!
冒頭、河合優実演じるカナのキャラクターの解像度を上げていく演出がなされていき、
共感できる人ではないなと感じます。
友達と話していてもどこか上の空でヒトゴト。そこに共感する人もいるかもしれませんね。
カナと同棲している寛一郎演じるホンダは、カナに優しく接しながらカナのことは何でもわかっているつもりだけれど、
全然わかっていない悲しいヤツだったりして、そこから逃げ出すように金子大地演じるハヤシと付き合うようになるものの
カナとの生い立ちや育った環境が全く異なるハヤシとの生活は徐々にすれ違っていき、
カナは双極性障害になる程、精神的に追い込まれていきます。
自身がおかしくなっていることに気づき医者に診てもらう判断をするカナは
自身を客観視できるほどの冷静さを持っており、しかも、状態を良くしようと善処していくことに
人間的な強さを感じるものの、ハヤシへの暴力はやまなかったりして、なかなかに大変な状況になっていくのですが、
そういう演技をできる河合優実は本当にすごいと思います。
今作で体当たりの演技を見せてくれていますが、今後ますます活躍することでしょう。
最後半のキャンプやエアロバイクを漕ぐシーンなど、現実なのかカナの妄想なのかわからなくなりますが、
それでも生きていくカナに勇気をもらいました。
それにしても山中遥子×河合優実のケミストリーがハンパなく素晴らしい。
今後にも期待しています。
人って単純じゃないよね
人って単純じゃないよね,人一人でも複雑なのに二人,三人…,と関わる人が増えていったらそれはそれは大変なことになりますよ.Complicatedですよ.っていうことを河合優実演じるカナを通して客観的に見ることができました.
人っていろんな顔を持っていると思うんですけど,カナって特にいろんな顔を持っていて,しかもそれがオセロみたいに正反対だったりします.ホンダの前ではワガママで自由奔放,ハヤシの前ではかわいいくて理解ある彼女,職場では無愛想・淡白,映画後半ではバイオレンスで躁鬱な一面も見られました.文章で書くと,この性質全部備わっているカナってやばくない?って思うかもしれませんが,全然そんなことなかったです.人によるとは思うのですが,私はカナのこの性質が好きです.普段は真面目に過ごしているけど,知らない場所で自由奔放に歩き回ったり,バイトでは無愛想だけど,就活では愛想良く振る舞うとか,いろんな顔をひょこひょこ取り出しては仕舞って,自分を生きやすくしたり生きづらくしていることに心当たりがあるな〜って人もそこそこいる気がします.私も心の中にカナがいます.
登場人物の性格と関係性も面白いなって思いました.性格は,カナは体たらく,その場しのぎ,調子良い,頑固,ホンダは面倒見良い,家事する,几帳面,弱気,ハヤシはボンボン,チャラい,高学歴,亭主関白という感じがしました.そしてカナとハヤシはそこそこ対等で,カナとホンダはカナの方が上みたいな力関係に見えました.だからカナと付き合えるのか〜と,カナに惹かれる男性二人の気持ちもなんとなく理解できるのもまた面白いですね.
”今”を感じる映画
タイトルは、おそらくカナがスマホで見ている風景のことで、その風景(ナミビアの砂漠)に癒しというか、逃避というか、そんなものを抱きながら現実社会を生きているっていうことなのかなって思った。
カンヌでなんかの賞を取っていて、若い監督で、役者も新進の若い役者で、”今”を感じたくて観たという感じ。
2024年にわたしは43歳になる。大学卒業して、社会人になってちょうど20年。
カナが生まれたのが2002年とか?映画内現代が何年かはわからなかったけど、たぶん2023とか2024で、その現代の21歳だからたぶん21世紀生まれ。
寛一郎演じるフラれる同棲彼氏の感じは、20年前にはいなかったタイプだなーとか、
エステ脱毛はまた生えてくるらしいよねとか、
今の若い子もたばこ吸うんやなとか(若いから吸う気もする、それは私もそうだった)
イルカの入れ墨の彼氏は、裕福なおうちの子で、絵コンテとか持ってたから映画作りたい人なのかなとか、
思った。
カナは如才なく軽い仕事をして軽い人付き合いをして、恋愛は適当で衝動的で、
という感じなんだけど、入れ墨彼氏の持ってた胎児のエコー写真あたりから様子が読めなくなる。
同棲彼氏が縋ってきた(公道でうずくまって泣くところすげー)とき、あたし中絶したんだよねって、ゆってたのは同棲彼氏との子じゃないよね。本当に中絶したかもわからない。
でも、そのあとの入れ墨彼氏とのケンカを見ている限り、もっとほかのだれかに望まない妊娠をさせられている可能性がある気がした。
それは、ひとりである家の前まで行って、家には訪ねず引き返したあたりから、そこが実家な気がして、で家族が頼れないっぽいし、お母さんは中国系で中国の親戚んちにいる?みたいだった。
で、カウンセラーにロリコンのたとえを出していたので、父親に妊娠させられた?という嫌な想像をした。
その真偽は不明だし、そこを描く話ではないので分からないままでいいんだけど、そうなのだとしたら、
カナの不安定な感じはわかるかもって思った。
感じたいと思った、”今”は感じられたし、監督と役者の個性も味わえて楽しかった。
とはいえ、21歳なんてもう全然戻りたくないねって思う。
ちゃんと大人というか中年、老いた人になれてよかったって思った。
なんかしてるのに何にもしてない、なにをしているのかわからないまま何かに駆られるみたいな感じ、
(自分と彼氏がけんかしてるところをピンクの部屋のジョギングする機械でスマホ画面からカナが見てる感じがまさにそれっぽい)
あの制御不能さは、遠くなったけど遠くていいやって思った。
観客は、その映画館ではほとんど見ない、若い人達が多かった。
とりわけアート方面のとんがった風貌の若者が目につき、新鮮だった。
漂う21歳の都市生活者
21歳のカナは、優しく世話を焼いてくれるサラリーマンのホンダと同棲中ながら、脚本家志望のロマンチストのハヤシと浮気中。どちらにものらくらと良い顔をしながら、浮遊するように生活する。初対面の男達との飲み会に友達を置き去りにし、エステ脱毛なんて意味がないと思いながらバイトしている。
ハヤシに乗り換えてまた同棲するが、喧嘩が絶えず大騒ぎ、きっと隣人の女性にバレている。
怪我したのを利用して、ハヤシをホンダのように自分に従属させるように仕向ける。
カナに未練を残し泣く前彼に困惑してヘンナヒトと呟き、どれだけ弱さを見せられても自分は決して本音を言わない。大声を出される事に恐怖を感じるカナは、育った家庭に問題があった事が示唆される。精神科にかかり、自分が病気である事で許されようする。
若い女にありがちな不安定さと残酷さと愚かさをうまく描いている。だが、そこに強い思いが無い。
これだけの時間を使って丁寧に物語るのに、カナの劇的な変化も、本音も見せないままで終わる。
これだけ悪辣な事をしても、可愛いから許されてしまう。本当に孤独になる事は無い。
なぜかカナは映画の中で守られる。そのせいか、力作ではあるが、感動しなかった。
これはもはやファンタジー
思ってもいない展開。観る人を選ぶ作品になった。自分的には今年の日本映画のベストワン候補だ。
河合優実さん演じる主人公のカナ。
わがままで奔放なイメージでスタート。
Mな自分は気持ち良くもあり。
とことん尽くすタイプのホンダ(寛一郎くん)からクールな印象のハヤシ(金子大地くん)に同棲相手をスイッチ。ハヤシに対するあざとさにカナの別の一面を見る。恋のマジックというべきか。
堅いものほど折れやすい。
カナの尖った部分が社会と抵触した。
カナの心の振れを逃げずにグッと受け止めたハヤシにびっくりした。もっとチャラい奴だと思ってた。
後半は「ぐるりのこと。」や「生きてるだけで、愛。」を思わずにはいられない展開。カナの心が静まれとひたすら祈った。
ちなみに中島歩さんが演じたメンタルクリニックのクソのような医師がリアル過ぎた。実際こんなクソばっかなので治るもんも治らん。
と激怒していたら天使のような医師と遭遇。「悪は存在しない」に続き渋谷采郁さんの神がかった言葉に癒された。手を合わせて拝みたくなった。カナがお茶☕️に誘ってしまうのもやむを得ず。
もう一人の天使は唐田えりかさんが演じたお隣さん。とてつもない優しさでカナを包み込んだ。二人で焚き火🔥を跨ぐシーンはビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」。この世のものではない天使だったのかも。
思えばカナには決して見捨てないハヤシと二人の天使がいた。これはもはやファンタジー。甘過ぎるかも知れんけど甘過ぎていい。
听不懂
河合優実さんファンとして新作は観に行かねばと思いつつ人が少なくなったタイミングを見計らっての鑑賞。
ポスターや予告の感じからあまり得意なタイプの映画ではないんだろうなと思いつつも、若手監督がどんなものを作り上げているのかの興味もあって期待半分不安半分で観に行きましたがガッツリ不安の方が的中しました。
初っ端から友達の話は真面目に聞かない、酒に酔っての暴言、タクシーからの嘔吐、2人の男をたぶらかしていたりと人間性にかなり難ありな人だなとは思いつつも人間の正直な部分を集結させた様な人だなと思ったら案外飲み込めました。
ハヤシとは浮気をしていて、後々彼氏になってという結滞な流れからのダラダラとした関係性、対面座位で一緒にトイレをするところとか日常生活を過ごしていてこんなシーン思う事今まで一回も無かったなと新体験でした。
ホンダは彼氏だけど優しさが先行しすぎて人間味が無く、それにカナもどこか飽きてるのかな、依存させたいのかななんて思うくらいのっぺりとした人でした。
優しいだけじゃダメっていう意見が飛び交うんですが、それってあまりにも求めすぎでは?とバラエティなんかを見て思っていたんですが、ホンダはそれを体現した様な存在だったのでこの描写だけは良かったと思います。
導入自体はまだ良かったんですが物語に起伏もなく淡々と進んでいくもんですからダラダラしていますし、喜怒哀楽の怒の部分ばかり描かれるもんですから観ていて気持ちのいいものではないですし、それによって考えさせられる事も見応えがある部分もとても少なく辛いところが多かったです。
中盤から後半にかけてはもうハチャメチャ滅茶苦茶で、ただただカナとハヤシが取っ組み合う様子を見せられてもうほとほと呆れながら観ていました。
なんで2人は同じ空間に住んでいるんだろう、なんで離れないんだろう、取っ組み合ったあとなんで普通に会話できるんだろうと未経験なものが目の前で繰り広げられているのを加味してもこの2人の心情が全く読めず気持ちが悪かったです。
ハヤシの仕事を物を投げて邪魔したり、中絶した人の事について無関係のカナが攻めたり、衝動的になってすっ転んで怪我したりと、ハヤシにも問題があるにしろ、当事者ではないカナがなんでそんなに頭突っ込んでいくのかがさっぱり分からず、それが後々精神的な病気だと分かってもやはり理解するには遠く及ばずでした。
ホンダも情緒不安定になって怒鳴ったり、ストーカー紛いの事をしたりするので、優しい人の面の皮を被っていただけというのが分かってからのホンダがもうグチャグチャに倒れ込んだりするのを笑って見てるカナの底意地の悪さよ…と引きながら観ていました。
2人が取っ組み合ってるシーンをランニングマシンで走っている脳内のカナが映されるシーンもこれまた唐突で、脳内で淡々としたテンポで自分を見つめているという比喩表現なのは分かるんですが、それをわざわざ物語を中断してまで挟み込む必要性があるのか?とそのシーンが映った時は本気で思ってしまいましたし、これを撮ってる時の河合優実さんは一体どんな心情だったんだろうと思うところがたくさんありました。
邪推な見方をしてしまうんですが、制作チームは河合優実さんのキャリアと体を汚したかったんじゃと思ってしまうくらい彼女だからできた演技だけど彼女を起用してまでやる事ではないと思うところが多かったです。
自分と近しい世代の人物はこういう風に見られているのかと思うとショックですし、真っ当にしっかり生きてる人間も多いはずなのにZ世代だなんて囲まれているのには少し怒りを感じてしまいした。
今年はワースト近辺は例年に比べればまだ平和だなと思っていたところに今作が来てしまいました。
何度も劇場を出ようかと迷いましたし、自分の周りに劇中の人物の様な人がいないというのもありますし、確実に相性はあると思うんですが、自分には全く合わなかったです。いやーキツかった。
鑑賞日 9/25
鑑賞時間 18:05〜20:30
座席 E-12
それはないよ…。
レビューはそれほど高くないし、映画専門誌でも評価が割れていた本作。恐る恐るでしたが、河合優実なので鑑賞しました。
脱毛サロンで働く21才のカナの日常のお話です。
カナは同棲する男が居ながら平気で浮気をするという、トンデモふた股女なのですが(彼女なら三股もやりかねない!)、今の若い世代の男性って皆、あんなに女性に従順なんですかね?わがままで暴力的なカナにやけに優しいのです。二人の男が何回「ごめん」と言ったでしょうか?何も悪くないのになんでそんなにカナに謝るの?同棲男は浮気を容認しているかのように夜中に帰ってきたカナにピルを飲ませる始末。(避妊薬って先に飲むの?後に飲むの?)
とまあ、今どきの若者の恋愛事情がドキュメンタリータッチで進行します。度々カナがブチ切れるので観ていて眠くなることはありません。
何かヤバい切れかただなあ、と思っていたら、カナに双極症の疑いがあり、またカナの母親が外国人で親子間のコミュニケーションに問題があるとわかり、そこで一旦は腑に落ちたのですが…。
そこからラストにかけて突然抽象的な描写に変調します。理解しようとしているうちにオチがないまま突然の終了?!
それはないよ…。
ん~~オチてたのかも知れませんが、私にはわかりませんでした。抽象的な表現で観客に解釈を委ねる映画が私はどうも苦手です。
ナミビアの砂漠、それは世界最古の砂漠で人工的に造られた水飲み場には命の拠り所としてさまざまな動物が現れるのだそう。その水飲み場の様子はYouTubeで常時世界中にライブ配信されでいるとのこと。
題名もそうですが、カナが劇中でその様子を携帯で眺めてましたし、その様子はエンドロールでも流れていました。ナミビアの砂漠の水飲み場がこの映画のキーワードなんでしょうけど…。
結局のところ、砂漠のように乾いた心の今どき女子が心の拠り所を求めて男を彷徨い渡り歩くお話ということなのカナ?
河合優実でなければ、★一つのところでした。彼女でなければ出来ない役だと思いました。なので河合優実の演技力で★★★としました。
『究極のかまってちゃん』でもなかった⁉️
*ホンダは衣食住、ピルの管理までめんどうみてた。何の不自由もない生活からカナは突然逃げだした!
*ハヤシとはなぜか馬が合う!何か突拍子もない事をしたり、掃除もしないし食べ物も適当。気に入らない事があると、二人のバトルが始まる!それが日常的になり、むしろリクレーションのようだ!それがカナにとっては居心地が良いみたいだ!
*でも新しい命に関するカナの思考が、ホンダに対してとハヤシに対しては、正反対なのは彼女の身勝手さなのか?それとも彼女なりの『命の尊厳』とはなんだ!?と考えているのか?
*結局カナは『自分中心』にたくましく生きてる!『究極のかまってちゃん』かと思ったけど、自分の生き方はハッキリしている!!
*ただ生きぬく事!!それだ!!
*森の中のキャンプだホイッ!(心をいやす)*ランニングマシーンでのダッシュ!(妄想の中で体力つけるぞ!)*ナミブ砂漠のオアシスで動物が水を飲んでる(これは生命の源)
*ただし彼女の中の底知れないパワーと妄想をコントロールするために、カウンセリングに通ってる!これを続けていれば何とかなるぞ!!
*カナは生き続ける!!
*作品全体は抽象画を観てるよう。じっと見つめて想像力を思いっきり働かせて自分なりの解釈をしてみた!
*ただしBGMの不協和音が彼女の未来を暗示してるようにも見える・・
全ての登場人物を愛おしく思ってしまった。
面倒見が良過ぎて鬱陶しく、出て行った彼女を追いかけて拒否され道端で泣き崩れる不動産屋の彼氏さん。何だこりゃどうしようも無いなと思いつつ、少し微笑んでしまった。その醜態に呆れながらも直ぐに立ち去れないカナにも感情移入。
クリエイターの彼氏さん、カナの感情爆発による挑発に単純にムカついて「殺すぞ!」って言葉が出てしまい、ヤバっ!同じレベルで取り乱してしまったなんて感じでとりあえず場を治める為だけに謝る。別に後悔があるわけでも無さそうなのに元彼女に堕胎させてしまった子供のエコー写真を捨てられずにいる、何処にでも居るどうしようも無い普通の男。
煙草吸えないなら辞めっかな~と仕事を教えてくれているカナに言ってしまう職場の後輩さん。
喧嘩で賑やかなカナ達の隣室に住む、とても頭の良い妖精の様に現実感の無い女性。
カウンセラーの女性の対話者に乱されない独特な会話のペース何だか好きでした。
そして何より自分勝手で想像力皆無で脱力感著明なのに生の躍動感に溢れ魅力的な主人公のカナ。ルッキズムの権化の様な存在しなくても生きて行くのに大して困らない(エンターテイメント産業並みに?)脱毛サロンでモチベ皆無で働いてます。(脱毛って…何だか不思議で興味深い。)
映画を観てて何故か全ての人達に好意の様な物を感じていました、自分でも不思議ですが。人間ってこんな感じだし、自分にもこんな内面があるなって思ったのかな?
恒例の取っ組み合いの後、ハーハーと息を切らしながら、お腹空いたねって得体のしれない食い物を食べている二人の滑稽さは身に覚えありすぎて懐かしく恥ずかしく苦笑してしまった。
中国の母からの電話直後のラストシーン素敵でした。他者に興味を持つってとても大事な事だなって思わされました、他者を想像するって事は。
ナミビアの砂漠
不思議な魅力がある主人公から目が離せません何でそんなに、愛されるのと嫉妬すら感じます
唯一無二だけど共感もできたり…とにかく面白い映画です。もう一回見たいと思います。視点の違いで楽しめる作品で色んな感想を持てます
東京で暮らすカナ(河合優実)は21歳。 脱毛エステで働き、不動産会...
東京で暮らすカナ(河合優実)は21歳。
脱毛エステで働き、不動産会社に勤めるホンダ(寛一郎)と同棲中。
ホンダは家賃も払い、料理もして優しい。
今日は高校時代の同級生の女友だちに呼び出されたが、彼女が語るクラスメイトの自殺話には、カナには興味がない。
後ろから聞こえてくる「ノーパンしゃぶしゃぶ」という単語の方がよっぽど刺激的で関心を惹く。
女友だちとともにホストクラブに行ったが満たされず、結局は二股交際相手の自信家ハヤシ(金子大地)を呼び出して肉体関係で渇きを癒す・・・
といったところからはじます物語で、前半は「いまのわたしの体も心もこの映画を欲していないなぁ」と思っていました。
ホンダと別れて、鼻にピアスをしてハヤシと暮らすようになるまで(ここでタイトルが出るのだけれど、50分ほど掛かっている)までのカナの行動は「それって、オッサンとか、オレってイケてると思っている勘違い男のソレと変わりないやん!」と思ったわけで。は、本当に「この映画、自分には合わないなぁ」と感じていました。
そんなカナが「少子化と貧困で日本は終わり。目標は生きていくこと」と真実に気づいていて、そんななか、自由とか平等とか女性の社会進出とかいわれているのかで生きていくのはシンドイ。
さらに、旧来の「女性はこうあるべき(かわいいとか、従順とか)とか、家族はこうあるべき(お互い助け合ってとか、絆とか)」といった思考にがんじがらめ。
「そりゃ生きづらいはずだね、なるほど!」と納得できるようになってくる。
物語において「少子化」は、カナの中絶経験、ハヤシの元カノの中絶経験が結びつき、女性の弱い立場を強調する。
同じく「貧困」は、持つ側のハヤシの家族や友人全般と、持たざる側のカナの関係を強調する。
生きづらくて仕方がない彼女の唯一のオアシスは、砂漠の水飲み場にやって来る動物を捉えた定点観測カメラの動画。
砂漠の水飲み場で水を飲むだけで生き残っていきたい・・・
で、結果、壊れていってしまう。
後半はカサヴェテス『こわれゆく女』を思い出すが、より以上に想起したのは篠崎誠『おかえり』。
ハヤシとの恋愛関係はベネックス『ベティ・ブルー』を思い出したが、あちらは男女対等だけれど、本作では対等でない。
カナの心の底に「女性は庇護されてしかるべき」みたいなものがあるからだろうなぁ。
本作、自縄自縛の社会構造の下での自縄自縛の女性を等身大で描いた映画といえ、まさしく「いま」の映画。
「傑作」というには届かないが、力作、注目作であることは確か。
つまり、「つまらない」も「退屈・理解不能」もあるけれど、「関心」も「感心」も同居した作品。
2度観たい映画か? と問われると、「観たい気もする。でも、タイトル前は辟易、お断り」なんだよなぁ。
監督・脚本は、山中瑶子。
若い人も大変。うまくコミュニケーションできないんだな。
私の友人のタンゴダンサーのナツコさんの兄弟:前信介さん(広島出身)が、制作スタッフの一人としてクレジットされているというので見てきた。
山中瑶子監督と主役の河合優実のタッグがとても話題になっているという。ドラマ「不適切にもほどがある」を見ていたので河合優実は知っていた。
「カンヌ国際映画祭でも「若き才能が爆発した傑作」と絶賛され、女性監督として史上最年少となる国際映画批評家連盟賞を受賞する快挙を成し遂げた。」とある。
21歳の主人公(河合優実)は、男性と同棲している。彼は料理も掃除もし控えめですぐに「ゴメン」と謝る。でも、それに物足りず、いきなり別のクリエイター男性との生活を始める。
彼女は、生きがいらしきものもなく、言葉数も少なく、すぐに切れる、暴力を振るう。料理、掃除などは普段しない。
高齢のおじいさんからすると、若い人も大変だな、うまくコミュニケーションできないんだな。そこのところ察しろよなで暴力を振るうか。など、ネガティブな印象を持った。
終わり方も特にこれといったことはなく。ただ、主人公のこれからの生き方が変わりそうな気配はあった。
★ナミビアの砂漠をネットで調べてみた。
ナミブ砂漠の「ナミブ」は、先住民族の言葉で「広大な」や「何もない」という意味。
アフリカ南西部のナミビアにある砂漠で、約8,000万年前に形成された世界最古の砂漠といわれている。
砂浜の絶景や動植物、夜の満天の星空など魅力が豊富で、2013年に世界遺産に登録された。
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