ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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現代を砂漠にするのはまだ早い
カナの頭の中は分かった気がする。
頭の中ではランニングマシーンが稼働して、常に世界で動くことが求められる。部屋の中でも、横になっても休めない。精神の疲労を身体の疲労に同期することが求められる。ゆえに暴言を吐き、身体を暴れさせる。
カナと現況が似ている人や、それを現代の若者像と素描したい人には必要であり、求められる物語であるのは一定理解はできる。
しかし私は朝子のように「だから、謝らへん」。
本作を批判的に取り上げるには、3つの障壁がある。それは①河合優実のトップレスをみてしまったこと②男性クリエイター批判があること③精神疾患に物語が回収されていること、である。
この障壁はなかなかに手強い。河合優実の身体のあり様が凄かった。男性クリエイターの性加害やハラスメント問題は全く解決されていないから、それをトピックとして取り上げたのは素晴らしい。カナのような女性像は今まで捨象されてきたから、映画として現前させたことは一つの肯定の仕方でよい。そう言うことはできる。もちろんそれらに反論するつもりはない。しかしそれで全てを済ませていいのか?とも思ってしまう。
まず、カメラが酷いと思うのは私だけだろうか。
手ブレが酷い。冒頭のカフェのシーンのように、なぜ室内のシーンで固定カメラではなく、手持ちが採用されているのかがよく分からない。さらにカメラが移動する際、人物を追えていない。撮り逃しが生じている。その手ブレをカナの精神の不調、カメラワークの酷さをドキュメンタリーらしさということはできる(動物のドキュメンタリーを想起してほしい。カメラが追おうとしたり、ズームをしても何も起きなかったり、逃げてしまうことがある。そういった描写が本作にはある)。
けれどカメラのブレがカナの精神の不調を表現しようとも、それは「カメラが偽装しているカナの精神の不調らしさ」であって、当のカナの精神の不調と全く同期していない。それどころか不和が生じている。さらにカメラワークは例えば、肝心なカナと唐田えりか演じる隣人の女性の想像世界か現実なのか分からないあの幻想的な火の飛び越えを全く綺麗に撮れていないから、単に下手であるという感想しか持ち得ない。
このように本作は全体を通して、カメラが不調をきたしている。だからその不調さに私も気持ちが悪くなって、カナが精神疾患かもしれないと明かされるまで、苦痛な時間を強いられた。
物語それ自体に立ち入れば、本作が道徳とジェンダーロールの転倒をひとつのトピックにしていると解釈はできた。
冒頭のカフェのシーンで、カナの頭の中では知人の自殺と他人の話すノーパンしゃぶしゃぶが同等の話題でしかないことが音声イメージの巧みな表現で明らかになっている。さらにこの道徳の転倒が、カナには安定した彼氏がいるのに別の男がいる性の奔放さや、虚言癖であることのヤバさに結実していくのである。
しかしカナをヤバいと思うのは女性だからであって、上述のことを映画に登場する男たちに置換すれば、紋切り型の話でしかないことがわかってくる。だって、妻子を持った男が、魅惑的な女の虜になって、円満な家庭生活が崩壊していく物語なんて腐るほどあるじゃないですか。
だから男の領分とされた映画において、本作ではジェンダーロールを転倒させ、カナにかつての男を、ヒステリックさを元カレに演じさせる。そして無根拠な暴力に晒されたり、原罪を負わせることを今カレに配置し直す。その試みは面白いとは思う。
だが問題は社会が存在しないことである。彼らが生きている現状は理解した。カナをヤバいと思ってもいいが、それは男一般に言えることだとは分かった。しかしカナたちはどう生きるの?
社会が存在しない世界観はとても現代的だ。新自由主義思想に経済も政治も侵される現代は、市場原理によって全てが統治されて、社会保障は徹底的に削減される。国家も社会も守ってくれない。だから個人の能力と責任で自力に「生き延びるしかない」。
そんな現代に生きていたら、生活と世界が社会を飛び越えてダイレクトに接続される。その様は、カナがソファにくつろぎ、スマホでナミビアの砂漠のライブ映像をみている姿であろう。ダイレクトに繋がると私たちは引き裂かれる。生活と世界の問題は別個であるはずなのに、直接つながる。しかしそれぞれの次元はそれぞれの次元に何ら解決を与えない。それなら問題は解決はされないから生活の何もかもが詰んで、都会であっても砂漠同然となり、精神疾患になってしまうのも当たり前だ。
しかし現実にはやはり社会は存在するのである。だからあたかも社会が存在しないかに偽装する本作はカナらの問題を何ら解決させない/できないし、私たちに慰めを与えるしかできない。
カナと今カレの家賃はどうしているのだろう。東京の郊外であっても、十分な広さがあるファミリー向けの部屋は相当高いのではないだろうか。21歳の脱毛サロンの彼女と脚本を書いているクリエイターもどきの彼にそんな経済力があるのだろうか。彼の実家が裕福な描写はあるから、親の所有する不動産なのかもしれない。ただ仮に彼らが家賃を払っているのであれば、カナの経済状況から容易に辞める選択はできないだろうし、親が所有または家賃を払っているのなら、今カレがカナと別れない理由が分からない。このように彼らの置かれている社会背景が不明瞭であるならば、カナが精神疾患にならざるを得ない現状の訴えに説得力が欠けてしまう気がする。「で、カナは何に悩んでいるの?」で一蹴されてしまう。
「ティンプトン」でいいのだろうか。分からない、分からないと何度も繰り返し、病的で破綻した生活を送れば。でも私はそんなの嫌である。
上述の生活空間の描写のように、本作に登場する彼らー特にカナーはリキッドした学校の中を生きているように思えてしまう。全てが大人に所与されている。部屋も職場も食事も何もかも。まずは自分でご飯を作ってみなよ。バーベキューの準備をしてみなよ。後輩も働きやすい職場をつくってみなよ。全然一からじゃなくていい。上手くなくてもいい。けれどそんな社会への働きが、カナの体調を改善させるのではないか。というか精神疾患で、全ての問題を片付けるな。原因は個人ではなく、社会にもあるのだ。そしてもちろん不調を医学的に診断し、名前をつけ、治療することもまた当然に必要であるが。
そう思うのも、カナの現状を擁護するだけで終わりたくはないからだ。というかそれなら、あまりにも他人事過ぎませんか?カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞したのも、「現代の日本で生きる若者は大変やな。まぁ、私たちの社会には関係ないからあんま知らんけど」とか、本作を評価する親世代以上の人たちも「子どもたちは本当に大変やな。まぁ、自分の子どもはインターに通わせるからあんま知らんけど」であるなら最悪じゃないですか。もちろんこれは私の妄想ではある。しかしやはりカナが生きれる社会をどうつくれるか私は考えたい。
長くなってしまった。カナが脱毛サロンの店員から、「脱毛」を取り巻く社会の強迫観念がもっと主題にあがってくると思っていたしー介護脱毛ではない、広告や若年化、ルッキズムー、カナが仕事を辞めてからはどう脱毛するのか期待していたが、全く後景に退いて悲しかった。けれど「原罪」というのはひとつの主題のような気がした。生えてくるのが罪かのようなムダ毛。そしてムダ毛的な事態は、生きていることが罪かのように、消費活動に駆り出される現代に横滑りする。さらにそんな観念を内面化して、私たちは生まれなければよかったと思ってしまう。反出生主義だ。だが私はもう反・反出生主義者なので、未来を向きたい。
そして現代を砂漠にするにはまだ早い。
戦いに疲れ、傷つき、怒るヒロインは大都会のヌーなのか?
友達からカフェに呼び出され、共通の友人が亡くなったことを聞かされてもどこか虚なヒロイン、カナは、同棲中の恋人に管理されているような生活を続けながら、別の男とラブホデートがやめられない。カナはいったい物事のどこに共感し、どこに自分の幸せを見出そうとしているのか?
途中で見えてくるものがある。友人も恋人たちもみんな自分勝手かつ本音と建前が乖離しまくりで、会話の途中で突然キレることが多いカナのストレスの原因は、どうやらそこにありそうだということが。だが、それさえ世間は躁鬱病という枠内に押し込もうとする。カナの頭の中の?は膨らむばかりだ。
他にも、カナの血族に関するあれこれとか、脚本も兼任する山中遥子監督はヒントになるカードをあちこちにばら撒いて、終始観客の集中力を途絶えさせない。こんな握力がある映画は珍しいと思う。
握力の一端は、カナを演じる河合優実の常に目と唇から力みを取り去った放心状態のような演技にもある。
題名は『ナミビアの砂漠』。劇中で、カナは携帯動画が映し出す砂漠のオアシスに群れるヌーに何を見ているのか?砂漠=現代社会、ヌー=自分と解釈するのは単純すぎる気がする。平日の新宿、劇場は若い女性観客で席の約9割は埋まっていた。
生きづらい…
後半から一気にカナの苦しいまでの生き辛さが爆発。精神疾患をきたしてしまったのか。かえって元彼と林を行き来してる方が安定していた。仕事してて、あれだけ邪魔されたらたまったもんじゃない。林も酷い男だが、カナの行為はガキそのもの。病気という描写に逃げてる感じもして、全体通してドキュメンタリータッチで、起伏がほしかったがそういう映画じゃないんだなと、何を伝えたいのか分からなかった。
入り込めたわけではないけど時々ハッとする
世代が違いすぎるのか、全体としては入り込める感じではなかった。そもそもなぜそこまで不機嫌なのか、なぜ暴力なのか。正直に言うと,主人公の河合優美の鼻ピアスが受け付けられないのかも。せっかく可愛いのに(笑)
後半になって,少しずつ理解が進んだ。裕福な男の家族に会うシーンの彼女の表情は良かった。そして精神科医の前で箱にはの砂をりかき混ぜ,真ん中に木を1本おくシーンはドキッとした。
社会への、周囲への、自分への思いなど言葉にできないアレコレを抱えて生きていく。河合優美の演技は良かった。
一本の木
「わからない」の一言に
いいようのない虚しさが湧く
それが彼女を表す言葉なんだとかんじた
母との会話がわからない
父のことがわからない
家族というものがわからない
友達が、仲間が、
相手の気持ちが
わからない
夢も愛もわからない
そんな自分が何よりもわからない
持て余した渇き、飢え、諦め、やり場のなさが
暴力や汚い言葉になって彼女から噴出する
自由奔放を貫く姿をみて
通り過ぎながら
痛快、クール、羨ましいと?
彼女は自分の映り方が「わからない」
差し出された木陰や水を乱暴に払いのける自分も
どうしていいか「わからない」
そしてそのもどかしさは
まわりにはなかなか〝わからない〟まま
病の枠の中へ
だけど彼女の本心はひっそりと
砂漠の真ん中に一本の木を置き代弁する
いかされない無邪気な彼女の心や
似たような誰かが
その木を求めているという事実に
小さな希望を繋いで
いつか実感できるしあわせとして
救われてほしい
修正済み
河合さんの自然な演技が魅力的でした
孤独と繋がりをめぐる現代の寓話
物語は、21歳のカナ(河合優実)が、優しいが退屈な恋人ホンダ(寛一郎)との関係に飽き足らず、自信家で刺激的なクリエイター・ハヤシ(金子大地)との新たな関係に踏み出す姿を描いています。しかし、新しい生活を始めたカナは、次第に自分自身や社会との摩擦に直面し、内面的な葛藤を深めていく。
カナのキャラクターは、一見すると無軌道で自己中心的に映るが、その行動の背後には現代社会に対する深い疎外感や孤独感が潜んでいる。彼女がスマートフォンでナミビアの砂漠のライブ映像を眺めるシーンは、現実世界からの逃避や、自分の存在意義を模索する姿を象徴しているように感じられた。
また、カナが関係を持つ二人の男性、ホンダとハヤシは、それぞれ異なる価値観や生き方を象徴している。ホンダは安定と優しさを提供するが、カナにとっては退屈であり、ハヤシは刺激と創造性をもたらすものの、自己中心的でカナの本質を理解出来ない。この対比は、カナが求めるものが単なる安定や刺激ではなく、自己の存在意義や真の理解を求めていることを示唆しいる。
さらに、映画の終盤で明らかになる、「双極性障害」カナの精神的な崩壊やカウンセリングのシーンは、現代社会における若者のメンタルヘルスの問題や、自己認識の難しさを浮き彫りにしている。カナの行動や激しい感情の揺れ動きは、観客にとって理解し難い部分もあるが、それこそが現代の若者が抱える複雑な心情をリアルに表現していると言える。
河合優実の演技は、カナの複雑な内面を見事に体現しており、その存在感は圧巻。彼女の表情や仕草、視線の一つ一つがカナの心の動きを繊細に伝え、観客を物語の深部へと引き込む。また、山中瑶子監督の独特の映像美や演出も、作品全体の雰囲気を高め、観る者に強烈な印象を残す。
現代社会に生きる若者の孤独や葛藤、自己探求の旅を描いた秀逸な作品。観る者に多くの問いを投げかけ、深い余韻を残すこの映画を27歳の山中瑶子、23歳の河合優実という若き才能が描いたことに驚かせられる。
今後も大いに期待を抱かせられた。
蛇足だがカナのイマジナリーフレンド役として、唐子えりかが端役で好演している。過去に色々あってブランクを余儀なくされたが才能ある女優なので今後の活躍を期待したい。
鼻ピアスはペケ
21のエスティシャンの女性がロングヘアの不動産会社に
勤める男性と同棲している。
男性が、細々と家の中のことや食事作りをこまめにして
くれている。
しかし、このカナという女性、他の男とも付き合う
二股女だった。この男と会う時は、天真爛漫にはしゃぎながら笑顔で過ごす。
男が住んでいる男性と別れて自分と暮らそうと言う。
同棲の男性の旅先での風俗通いの告白を聞いて直ぐ後、
出て来たらしい。
男と新しいアパートに住み新生活を始める。
女性は、仕事とオフの時と表情がガラリと変わる。
男についてタトゥーの店に行ったり、
男の知り合いたちが集まるキャンプに参加したり。
カナは鼻ピアスを施した。
私見ながら、鼻周りのピアス下品にしか見えない。
カナのは、牛のと同じ。家畜か?
男と家にいると男は、パソコンに向かってばかりで、
カナにかまってくれない。
二人の生活を楽しみにしていたカナは当てが外れたか、
暴れて男に挑みかかる。
男は、抗おうとするな、とか何とか言うが、
そんな言葉、普通出ないだろ。
家を飛び出したカナが石段で転がり落ち、
首や足にケガ。優しくしてくれる男。
可愛いオレンジ色のワンピでオシャレしてデート❤️
なぜかの都庁前を歩いていると男に声かけて来る
三重野というエリートが。
ケガが治り仕事復帰したカナだが、
正しいことだけどここで言っちゃいけない言葉を吐く。
見事クビとなる。
前の男性が待ち伏せして追い縋って来るが相手にしない。
しかし、男に以前のようにまたくってかかる。
自発的なのか誰かに言われたかわからないが、
精神科受診するが、あいかわらず。
男と部屋で取っ組み合いする物音で察しているのか、
隣室の遠山という女性、意味深な顔つき。
夢も見る。
カナに中国の親戚からの電話あり。
こんにちは、と、わからない、だけ繰り返すカナ。
ラスト、いよいよサッパリ諦めたような表情の男、
と言われるなぁ〜と待ち受けるカナの表情。
エンドロールの後に、タイトルの
ナミビアの砂漠だろうか?
ロバに似た数頭の動物がオアシスに水を求めてやって来る
カナが、自分の居場所オアシスを求めてやって来るロバみたいな動物なのだろうか。
精神が病気になってしまったのだろうか。
wowowでえらい薦めていたけど、
わがまま身勝手な女性にしか映らなかった。
理解を深めたい
河合優実さんは最近話題の女優さんですね
いろんな作品に出演なさってます
前置きしておきますが、河合優実さんは好きです
私は若い方の考え方とかいまいち分かりませんので、今作品はいろいろと謎が残った感じです
カナという20代の若い女性が仕事や恋愛においてテキトーに流しながら生きてて、独特な雰囲気を醸し出してるという演技なのでしょうか
その女性が前の彼氏を捨てて新しい彼氏と暮らすも、だんだん気性が激しくなり訳が分からないことを言ったり、暴れたり
それが躁鬱ということなのでしょうか
今の若い方たちにそういう方が増えてるのか、若い方たちなら共感ポイントがあるのでしょうか
河合優実さんは 完全に脱ぎ損ではないでしょうか
女優さんが脱いで「体当たりな演技」と称賛される場合、脱いだことでその意味をなす場合だと思います
ただの着替えで脱いだだけでは「はて?」「いりますか?今の」脱いだことで河合優実さんが体張ってましたとは到底語れませんし、
河合さん、称賛されるために脱ぐタイミングは、そこではなかったと思います
なんで評判良いのかわからない…。
やたらイケメンでやたら性格の良い二人の好青年を手玉に取り二股かける今どき女子。
4:3の狭苦しい画面で淡々と起伏のないドラマを見せられて、たまに唐田えりかが脈略もなく現れたり、ランニングマシーンで走りながら自らの暴力を傍観する謎シークエンスが入る。
はっきり言って意味不明で退屈な映画。
と、なんども欠伸をして失神寸前になっていたら主人公の性格の破綻は精神疾患のせいだとヒューマニズムに訴えかけられる。
これはヤバい映画を見てしまった。
なんでこれが評判良いのか、わからない。
監督が新藤兼人賞候補に上がるのも不明。
河合優実は頑張ってた。
それだけが唯一の救い。
ストレス溜まる映画。
懐かしのATG映画
そういえば 若い頃ってこんなだったな…と。
主人公の女の子が映画中盤まで真面目に
勤務先であるエステに通っていたこと。
やたらお腹空いたと言ってたこと。
ちょっと年上の 面倒見の良いカレシがいたこと。
ハンバーグを美味しく作れる男なら
風俗行こうが全然構わない
昔は真珠のピアスだったけど、
産婦人科がくれた腹の子の画像。
映画見終わって、お腹空いて
豚カツ屋へ駆け込んだ。
単なるのドロドロ恋愛映画ではなく
8割苦しかったけど、見ていたかった。
カナが隣の部屋のお姉さんと出会えて、こちらが救われた。
最初の方のカフェのシーン、近くの席の人の声が耳に入ってきて、目の前の相手の話に集中できなくなるの、分かる。
散歩のシーン、道が二つに分かれているところで立ち止まってどっちに進むか考えて、進んだ先が行き止まりで引き返す。
決断はよく考えて下した方が後から他責にならず納得できるし、間違えてもやり直したら良い、それだけ。
一人目の彼氏が突然現れて、地面に四つん這いになって泣くシーン、笑ってしまった。君じゃないとだめなんだ!って感じで、熱いね〜笑
突然いなくなった、って言ってたから、冷蔵庫とか運び出してたのは彼氏の仕事中ってこと?
カナは何度も「拾えよ」と命じていた。優位に立ちたい、コントロールしたい、という感じ。
口論でさえ避けたいし、喧嘩はしたくない、取っ組み合いの喧嘩ができる仲はすごいなあ。
バーベキューで川辺の岩の影で吸ってたのは、大麻?だからカナはそのあと目が虚ろだったり、彼氏はぐっすり寝てたの?
カナは、会話が足りていないのかなと思った、誰かと話すことは自分を理解することに繋がっているし、カウンセラーと話すようなことを彼氏とも話せたら、カナも、カップルの仲も、安定するのかな。
君を理解できるのは僕だけ!君を一番よく理解しているのは僕だ!、僕が君を守るから!君には僕しかいないから!、だから一緒にいよう!戻ってきて!みたいな、よくあるよな〜
まず、他人を理解することはできないことを念頭に置いて、けれど少しでも相手をよく知りたいと思い、試みを止めないことが、健全なアプローチだと思う。
最初は『愛がなんだ』みたいな感じかと思ったけど、違った。カナが、嫌なことには嫌という反応を示しているから?単なるのドロドロ恋愛映画ではなく、ちゃんとカナの感情を中心に置いた生き様を描いた映画だったと思う。
髭の剃り忘れ、若いイケメンのファッション髭はやっぱり苦手。だらしないし、それがカッコいい良いと思っているから、苦手。
ボーダーの女性の話
他のコメントでも「自分が許されたような気持ちになった」という感想がありますが、自分も同様です。
映画そのものがセラピーのようでした。
主人公は家族を捨てた父親を恨みながら、無理矢理許していた。
父も人間だから仕方ない。親を憎みたくない。
抑圧した怒りの矛先は、恨んでもいい他の男たち。
男性に依存的な態度を見せる一方で激しい攻撃性を持っていました。
女性には攻撃性を見せないあたり、母親との関係は悪くないのだろう。
ちょい役の隣人女性もいい空気感を出しています。
自分が恋人と喧嘩する声を聞いているはずなのに何も知らないように微笑んで挨拶してくれる自然体な態度が、主人公にとっては母親的な包容力を感じたのだと思います。
「お腹すいた」
これは子供のように甘えているのだと気づきました。
「お父さん、お腹すいた」
父親には言えない。叶えてもらえない欲求。
安心感や甘えが生んだ食欲。
一人で食べることを嫌がるのは、恋人が不在の父親の代わりだからでしょう。
ここ、痛いほど共感できます。
共依存の元カレとは違い、「お互いに高めあえる対等な関係」を求めた新しい彼氏は、許しだけでなく厳しい叱咤もする。主人公にとっては理想的な関わり方だと思います。
境界性人格障害、双極性障害というワードが出てきたのには驚いた。
多分、主人公は境界性人格障害だと思います。
女性に対してはアンバランスにならないあたり。
同じ病気を抱えている人や、主人公と似た性質を持ったかたには気づきがある作品だと思います。
ま!!!!!
美人ならではの展開ですけどねっ!!!!!!
意味は分からないがエネルギーは感じる
きっとナミビアも砂漠も出てこないんだろうな、と思っていたら、やっぱりそうだった。一部、スマホで砂漠の映像見てる瞬間があるのと、エンドクレジットのところだけそれらしい映像が映るが、特にナミビアについて語られるシーンは無い。なんの意味があるのか、わからない。でもよく分からないエネルギーは感じる。
冒頭、駅近くのビルを歩いて喫茶店にたどり着いた河合優実が、友だちの話と男たちの風俗の話とを、同時に聞く場面から心を掴まれる。
目の前のことがまるで他人事のように思える。多分この頃から、もう病気が始まっている。
陰惨なストーリーのことを鬱展開と言ったりするが、文字通りのうつ病の物語になっていき、目が離せなくなる。
あと恋人との喧嘩がリアル。特に突然男が暴力的になったり直後に謝ったりとか、すごくよく分かる。自分にも心当たりがある。
男たちの方も病気ではないか。
この才能はいったい何者!?
小栗康平さんの「死の棘」を見てから島尾敏夫氏の原作「死の棘」を読み終え、今「島尾敏雄日記(死の棘までの日々)」を読んでいます。島尾敏雄の「死の棘」の事は以前から知っていましたが夫の不倫がきっかけとなって妻が精神を病み夫を責め続けるというおどろおどろしい内容のため映画を見たり本を読んだりするのを避けていましたが、実際に見たり読んだりするうちに相手を責め続け、いたぶり、時には暴力をふるい、自死を図ろうとする姿がある意味究極の愛の姿のようにも思えてきました。
「ナミビアの砂漠」のなかでも酷似する場面が描かれますがきっと「死の棘」の影響を受けたものと思いパンフレットを買って読んでみましたが「死の棘」関する言及が一言もされていないことに驚きを感じました。「死の棘」は日本文学を代表する私小説であり、実際に島尾敏雄の妻である島尾ミホさんが精神を病んで医者にかかったり果ては住んでいた東京を離れ、最終的にミホさんの故郷である奄美大島に引っ越すという大きな代償のもとに書かれた作品なのですが同じような到達点に脚本・監督である山中瑶子氏が己の感性のみを信じることでたどり着いていることは特筆すべきことだと思います。
観客を楽しませるような展開やら、女優の可愛さをアピールするような映画でなくて監督の中のリアルを追求しているので一見女優にここまでの演技を求めるのか?と思うような場面もありますが「かっこ悪いのがかっこいい」「みっともないのが美しい」と感じる映画でした。見る人を選ぶというか万人受けするような作品ではないと思いますが...
マジで意味がわからなかった。
「不適切にもほどがある」や「あんのこと」の河合優実さん主演だったので予告で見てこれは面白いんじゃないかと思って早速見てみましたがマジで意味がわからなかったです。
何を伝えたいのか、何がテーマなのかよくわかりませんでした。
ただ、どっかでなんかこれまでのことが伏線回収か何かあるのかずっと気になって見てましたが最後まで特に大きな展開もなく終了。
先日見たcloudのように中身がなくてもそれも含めて最高!って感じの作品もありますが、これはちょっとただただ意味不明で終わり方も良くなかったな。本当に今年1番の駄作を見たかもです。
自分的今年ワースト1だった変な家より酷かったかも。
でも河合さんはじめ出演者の方々の演技は素晴らしかったです。
とりあえずわざわざ劇場では見る価値がありません。配信で見るくらいで十分かと。
優しすぎる男と超ワガママ女
優しすぎる男と超ワガママ女の話で、正直、無理〜、という内容でした。
まあ、女は精神を病んでいるんだけど、それでも、やっぱり、無理〜でした。
オアシスを追い求めて
恋人のホンダと同棲しているカナには別に好きな男ハヤシがいる。ホンダはカナに優しくて食事やら家事やら至れり尽くせりで特に別れる理由もないため、ズルズルと二股の関係が続いていた。カナもホンダには甘え放題、でも彼女はなにか物足りない。頻繫にハヤシと会い逢瀬を重ねる。
クソまじめなホンダは誘われるがまま風俗に行ったことをカナに告白、これを機会とばかりにカナはハヤシに乗り換える。冷蔵庫と一緒に。
ハヤシもホンダほどでないにしろ、女性に優しい今どき男子だ。でもカナはやはり物足りない。仕事で構ってくれない彼に不満がたまりブチ切れてしまう。
激しい喧嘩をした勢いで部屋を飛び出したカナは大けがを負う。ハヤシの献身的な介護によりやがて回復するも、それからというもの日常的に激しい取っ組み合いの喧嘩が絶えなくなる。
常に自分を愛してくれる男性がそばにいる彼女は一見恵まれてるようにも見える。でも彼女の心は満たされない。いつも心は飢えている。
ハヤシに男性としてだけでなく、理想の父親像をも求めている。過去に彼が女性に堕胎させたことを責め続けるのはそんな理想像とかけ離れた行為をしたことが許せなかったからだと思われる。
理想の父親像まで自分に求められるのはハヤシには荷が重すぎる。そんな彼に満たされないカナの感情は常に高ぶり、愛情表現ともとれる取っ組合いの喧嘩が絶えることはない。
彼女の思いは求めても求め得ぬものなのだろうか。広大な砂漠の中で小さな針の先のようなオアシスを探し求めるかのように。彼女の心はいつまでも満たされることはないのだろうか。
いくら砂漠に水を撒こうとも、その水はすぐに干上がってしまう。水をいくら注ぎ続けてもけして潤うことはない砂漠のようなカナの心。生半可な気持ちではそんな彼女の心を満たすことなどできないのだ。それともカナにとってけして水が尽きることのない砂漠のオアシスのような人間が存在するのだろうか。あるいは彼女自身が変わるしかないのだろうか。
カナとハヤシがいつものように激しい喧嘩をしている動画をスマホで見ているカナのシーンがある。これは精神療法を受けている彼女がいわゆるメタ認知(自分が思考していることをもう一人の自分がより高次から客観的に捉えて把握し活動に反映させること)のトレーニングをしているシーンと思われる。
しかし動画を見ていた彼女がルームランナーから降りてスタジオらしきところから立ち去る際には砲撃のような爆音が複数回にわたり鳴り響いている。これは高次の客観的な彼女の意識でさえ戦場にいるかのような荒立たしい状況に陥っていることを描いたシーンなのだろうか。だとしたら彼女の状態はかなり深刻ということになるが。
果たして本作で描かれていることは彼女個人の問題なのだろうか。
本作は一見するとただ一人の愛に飢えた女性の激しい愛情表現の日々を描いた作品というように感じられる。その激しさにばかり目を奪われるが、何のことはないカナはごく普通のどこにでもいる女性のようにも思えてくる。彼女はそんな特別な存在ではないと。
心理学者のマズローは人間は生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求の順番で五段階の欲求を人間の基本的欲求とした。
戦前とは違い今の日本では普通に食料も手に入り、命の危険にさらされることもないから生理的欲求、安全欲求は満たされている。それらが満たされると次に人間は三番目の所属と愛の欲求を求める。家族や友人というグループの中で愛されたい、異性から愛されたいという欲求は今の平和な日本では当たり前に誰もが持つものだろう。
カナは親との関係に問題を抱えていたという。家族の中で愛されず、この欲求が満たされていなかった可能性がある。だから彼女は恋人に多くを求めてしまう。男性としてだけでなく父親としての自分への愛情を。恋人としてそして父親として常に自分に構ってほしい。自分のことをすべて理解してほしいと。これは程度の差こそあれ、誰もが持つ欲求ではないだろうか。
彼女はホンダにはそれを求めなかった。彼女にとってはホンダでは力不足だと見抜いていたのかもしれない。確かにカナに帰ってきてほしいがために地面に突っ伏して泣いてるようではカナの父親像としてはふさわしくないだろう。
今の社会では4番目の欲求である承認欲求を求める人間も顕著だ。特に今のSNSの時代、皆がこの承認欲求を満たしたいがためにネット上での自己表現に夢中だ。自己顕示欲を満たしたいがために過激な動画で事件まで起こす人間もいたりすることを考えると、やはりカナは現代社会では普通にどこにでもいる女性に思えてくる。
本作の作り手はカナという一人の女性を通して現代社会に生きる愛情に飢えた若者たちの姿を描きたかったのではないだろうか。私なりに本作をそのように解釈した。
この難しいカナという役どころを体当たりで演じた河合優実には脱帽である。話題作ではたいてい彼女の名前を見かけていたが、ここまで見事に主演をつとめるまでに一気に成長した。彼女が今や引っ張りだこなのも納得である。
【“ティンプトン(ワカラナイ)!”男には基本かまってちゃんだが、時にめんどくさくって、平気で嘘もつくけれども、自分の気持ちに正直に大都会で生きるヒロインの姿が、”何だか自由な人だなあ”と思った作品。】
ー 劇中、カナ(河合優実)が、中国人がルーツであることと、父と確執があった事が台詞で伝えられる。
そして、彼女が美容脱毛サロンで働く21歳の女性であることや、自殺した同級生の話を聞いても興味を持たずに、やり場のない感情を抱えて生きて居る姿が描かれる。
「あみこ」もそうだったが、山中揺子監督は、少し変わってはいるが自分の核を持つ人を描くのが、とても巧い方だと思う。-
◆感想<Caution!内容にやや触れています。>
・カナみたいな女性とは、正直一緒に暮らしたくないなあ、と思う。けれども、遠くの方から見ているのは、良いかなあと思う。(勝手でスイマセン。)
観ていて、面白いからである。(で、映画で観るのが宜しい。)
・カナは男にはかまってほしいが、優しすぎる男(寛一郎)には飽きちゃうし、次のクリエイターの男ハヤシ(金子大地)にもかまってちゃんだが、かまって貰えないと臍を曲げてしまう。
で、喧嘩する。クスクス。
・けれども、カナは彼女なりの生き方がしっかりと有って、遣りたいことはやる!と言う自覚無き心があると思う。
それを、一番象徴しているのが、あの鼻ピアスだと思う。フツーは、あそこまでのピアスは付けない気がするのだが、彼女はそれを平気でして、しかも似合っているのである。ウーム。
・二番目の男に、前の彼女との間に出来たと思われる胎児の写真を見つけたカナが、激烈に怒る姿が良い。”クリエーターとか、言ってる前にお前がチャンとしろよ!”
カナは、自分の気持ちに正直で、正義感もある事が分かる。
序でに言うと、美容脱毛サロンでお客さんに正直に”こんなところに来ないで、医療系の所でキチンとやって貰った方が良いですよ”などと言ってしまい、首になる所とかね。
・けれども、そんな自分を”ちょっと、オカシイのかな”と心配になって、心療内科に相談するところなども、可愛いし、面白い。
<そんなある意味、自由人であり、破天荒なカナを河合優実さんが、実に大らかに演じている。注目されている女優さんと言う事が良く分かる演技力である。
近作「あんのこと」の演技と比較しても、その演技の幅広さや、豊かさが良く分かる。
今作を観た人の中には、今作のラストで彼女にTV電話で掛かって来る中国の親類にカナが言った“ティンプトン(ワカラナイ)!”と思う人も居るかもしれないが、私は”了解了‼”だった作品である。>
<2024年10月6日 刈谷日劇にて鑑賞>
山中遥子×河合優実による新風!
冒頭、河合優実演じるカナのキャラクターの解像度を上げていく演出がなされていき、
共感できる人ではないなと感じます。
友達と話していてもどこか上の空でヒトゴト。そこに共感する人もいるかもしれませんね。
カナと同棲している寛一郎演じるホンダは、カナに優しく接しながらカナのことは何でもわかっているつもりだけれど、
全然わかっていない悲しいヤツだったりして、そこから逃げ出すように金子大地演じるハヤシと付き合うようになるものの
カナとの生い立ちや育った環境が全く異なるハヤシとの生活は徐々にすれ違っていき、
カナは双極性障害になる程、精神的に追い込まれていきます。
自身がおかしくなっていることに気づき医者に診てもらう判断をするカナは
自身を客観視できるほどの冷静さを持っており、しかも、状態を良くしようと善処していくことに
人間的な強さを感じるものの、ハヤシへの暴力はやまなかったりして、なかなかに大変な状況になっていくのですが、
そういう演技をできる河合優実は本当にすごいと思います。
今作で体当たりの演技を見せてくれていますが、今後ますます活躍することでしょう。
最後半のキャンプやエアロバイクを漕ぐシーンなど、現実なのかカナの妄想なのかわからなくなりますが、
それでも生きていくカナに勇気をもらいました。
それにしても山中遥子×河合優実のケミストリーがハンパなく素晴らしい。
今後にも期待しています。
人って単純じゃないよね
人って単純じゃないよね,人一人でも複雑なのに二人,三人…,と関わる人が増えていったらそれはそれは大変なことになりますよ.Complicatedですよ.っていうことを河合優実演じるカナを通して客観的に見ることができました.
人っていろんな顔を持っていると思うんですけど,カナって特にいろんな顔を持っていて,しかもそれがオセロみたいに正反対だったりします.ホンダの前ではワガママで自由奔放,ハヤシの前ではかわいいくて理解ある彼女,職場では無愛想・淡白,映画後半ではバイオレンスで躁鬱な一面も見られました.文章で書くと,この性質全部備わっているカナってやばくない?って思うかもしれませんが,全然そんなことなかったです.人によるとは思うのですが,私はカナのこの性質が好きです.普段は真面目に過ごしているけど,知らない場所で自由奔放に歩き回ったり,バイトでは無愛想だけど,就活では愛想良く振る舞うとか,いろんな顔をひょこひょこ取り出しては仕舞って,自分を生きやすくしたり生きづらくしていることに心当たりがあるな〜って人もそこそこいる気がします.私も心の中にカナがいます.
登場人物の性格と関係性も面白いなって思いました.性格は,カナは体たらく,その場しのぎ,調子良い,頑固,ホンダは面倒見良い,家事する,几帳面,弱気,ハヤシはボンボン,チャラい,高学歴,亭主関白という感じがしました.そしてカナとハヤシはそこそこ対等で,カナとホンダはカナの方が上みたいな力関係に見えました.だからカナと付き合えるのか〜と,カナに惹かれる男性二人の気持ちもなんとなく理解できるのもまた面白いですね.
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