ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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カシューナッツ
至れり尽くせりな彼氏と同棲しながら他の男と浮気する21歳の女性が、自分をみうしなう話。
もう一人の男に彼氏と別れて欲しいと言われ、すすきのを言い訳にして家を出て、もう一人の男と同棲を始めて巻き起こっていくストーリー。
二股こそ頂けないものの、最初はどこにでもいる普通の女の子という感じだったけれど、結構波がある人だな…からの情緒不安定を超えていく感じで、わかると言えばわかるしというちょっと難しい感じ。
ランニングマシンは全然わからなかったしw
つまらなくはなかったけれど、特に中盤ぐらいまでが非常に長く感じたし、ラストもなんかしらの方向性ぐらいはみせて欲しかったかな。
ま、目玉焼きも眼球じゃないしな
心余りて詞足らずが突き抜けるとこうなってしまうんだなぁ。余った、というか持て余したココロを解って(拾って)ほしいけどその伝え方のスキルが無さすぎて謝り倒すか暴れるだけっていう精神的砂漠がいかにも今風なんだが、これはこの映画自体の作風にも当てはまるかも。
河合優実は「あんのこと」に続く好演。
乾いた瞳
河合優実を見る映画。彼女の底知れぬ表現力にとにかく魅せられる。ただ、ホントそれだけの映画で、引くくらい河合優実頼り。彼女なしでは成立せず、言い換えれば良さが最大限引き出された作品ではあるんだけど、この1本の柱で支えられているような、深みのない不安定な脚本が個人的には刺さらず、決してつまらない物語、というわけでは無いものの、心に訴えかけるような何かがまるで足りない。しかも、あまりにスローペースであるため、140分弱の長尺に対して密度が異常に低く、納得のいく満足感が全然得られなかった。
長尺もフィルム風な影像も、意味があってしているのなら何ら問題は無いんだけど、どれも機能している、意を成しているとは思えず、気をてらっているようにしか見えない。カットが掛かるのがヒジョーに遅いため、ワンシーン事に退屈が来てしまうし、故に無駄も多い。もしかしたら意図したものがあるのかもしれないけど、少なくとも脱ぐ必要はなかった。何でもかんでもやればいいという問題じゃない。むしろ、このテイストであれば無駄を排除した洗練な作りをして欲しかった。
これに関しては個人的な好みだけど、終盤にかけて明かされるカナの真の姿が、あーそっち方向に行っちゃうのねとガッカリしたことが上手く乗れなかった大きな理由だと思う。そこに辿り着かなくても良かったんじゃないかと感じちゃったし、こうなると途端に評価しにくくなる。変にメッセージを込めず、もっとエンタメに振り切った作りの方が面白かったろうし、ここに行き着くのであれば、前述の通り多くを語らない、洗練した作りの方が深みのある作品になっていた気がする。ちょっと見せすぎかな。
だが何度も言うように、河合優実は本当に素晴らしく、彼女のプロモーション映画という側面では一見の価値のある秀作。河合優実の影で活躍する、他のキャストもすごく良かった。情けない寛一郎は意外で笑っちゃった笑笑
どうしようもなくつまらない話とか独りぼっちなキャンプとか、共感する部分は結構あって、ハマる人はめちゃくちゃハマる、そんな映画だと思う。何より、唐田えりかに幸あれ。
肉食化する女と飼い慣らされた男たち
注目の若手女優河合優美ちゃん演じるカナは、『わたしは最悪。』のユリヤ、もしくは『お嬢ちゃん』のみのりにとてもよく似ているキャラクターだ。弱冠27歳の女流監督山中瑶子が影響を受けた映画監督として、なぜか中国人ロウ・イエの名前をあげていたが、ヨアキム・トリアーや二宮隆太郎の作品にふれなかったのには何か理由があるのだろうか。さらにいうならば、映画中盤のタイトル表示などは、おそらく濱口竜介のパクりだろう(“こわれゆく女”はカサヴェデスか)。高く評価されたデビュー作品『あみこ』は未見なのだが、未だスタイルが確立されていない山中の作風は(柔軟といえば聞こえはいいが)河合優美ちゃんの体幹同様フニャフニャだ。
『わたしは最悪。』は、欲しいものかなんでも手に入るようになったノルウェーの首都オスロで、選択肢の多さに逆に生き苦しさを覚える北欧女子ユリアの葛藤が描かれていた。『お嬢ちゃん』のみのりは、ナンパ男に見きりをつけ自立した生活を送ることを決心した湘南のマイルドヤンキーだ。では、世話焼き男のホンダ(寛一郎)からほったらかしの脱サラライターハヤシ(金子大地)へと男をうまくのり換えたカナは、何に対してこんなに怒っていたのだろう?それがどうも伝わってこないのである。
自殺話をする昔の友人にホストクラブ、失礼きわまりない風俗嬢スカウト、インチキエステ脱毛の退屈なお仕事、カナに尽くしたはてに捨てられる炊事洗濯男ホンダ、ホンダと別れる前から身体のつき合いがあったハヤシ...そのどれもが21歳の令和女子カナを精神的に満足させることはできなかったのである。それは何となくわかるのだが、結局のところ、少子高齢化の影響でお先真っ暗な日本の将来を悲観して(生存本能に目覚めた肉食系女子というよりも)厨二病におかされたかまってちゃん、にしか見えないのである。
剃っても剃っても女性のデリケートラインに生えてくる無駄毛が、遠いナミビアの地にある不毛の砂漠地帯と何かしら関係があるのかと思いきや....エンドロールでは、ナミビアとおぼしき砂漠に作られた人工池に水を求めにやって来た3頭のオリックス(多分♂)を写し出す。「思っていることとやってることが違う人が、街にいるって怖くないですか?」精神を病んだカナが精神科医に打ち明けたこの不安は、本能に従って男を求めただけなのになぜ病気扱いされなきゃならんのか、という単純命題に行き着くのだろうか。
ホンダやハヤシといった世間に飼い慣らされた草食男子には本心をさとられたくないと攻撃的な態度に出るカナだが、なぜか精神科医やお隣のお姉さん(唐田えりか)、ナミビアの砂漠に生きる動物たちとはうまくコミュケーションがとれる気がするのである。「それはねカナちゃん、単に男に捨てられたくないって女の防衛本能が働いているだけですよ」って教えてあげたいところだが、面倒くさそうな令和女子に声掛けする男など、バカ◯んこ目当てのキャバ嬢スカウトぐらいのものだろう。物質文明に汚染されていない自然物など、もうこの世界にはほとんど存在しないだから。
※もしかしたらこの映画、周囲の操り人形と化して右も左もわからないまま“才能ある若手映画監督”に仕立てあげられた、監督山中瑶子の苦悩が描かれているのではないでしょうか。映画ゴロの言われるがまま無気力に生きてきた山中=カナが、「(あんたたちじゃなく監督である)わたしが決める」とぶちギレたい気持ちを素直に表現した作品なのではないでしょうか。でもね監督、近くにいて何かとご高論をウザくのたまわってくる日本の映画関係者(ホンダやハヤシ)と違って、(日本語を理解しない)遠く離れた海外メディア(唐田えりか)の方が自分の作品を「わかる、わかる」って言ってくれる、なんて勘違いしてはいけませんよ。あいつら、巨匠カブレの気がある山中監督のことを利用しようとしているだけですから。うかうかしていると河瀨直美みたいに誰も見ない映画を撮る監督で終わっちゃいますから、お用心を。
听不懂、聽不懂(ティンプトン×2)
日常をダラダラ、山場というところが特にない。
解釈が難解であまりにもわけがわからなかったのでパンフレット購入。
監督は新進気鋭女流監督の山中氏で、当初原作モノの企画だったのを降りてオリジナル脚本で製作したとのこと。
短期間で作品にしたのは彼女たちの才能による所も多いが、いかんせん即席感は否めず、137分もあるのにキャラクターに共感する前に終わってしまう。
河合優実のセクシー姿が見れるだけの映画(笑)
消費されるということ
冒頭、町田のカフェに入ったカナの後ろの席で男たちがノーパンしゃぶしゃぶの話をしている。いつの時代だよって思うけど、これはノーパンしゃぶしゃぶくらいの露出度の女の子が、最近では街なかを歩いているという与太話であって、視線にさらされる、見られることによる消費を示している。
カナと最初、一緒に暮らしていたホンダは優しく、そしてホンダのところを飛び出して同居するハヤシは育ちの良い男である。でも彼等がカナをチヤホヤしてくれるのは結局、カナが若く可愛くスタイルが良いから。つまりカナは消費されているのである。ホンダの部屋もハヤシの部屋も無駄に物が多い。カナはそれらもののひとつ、一種のトロフィーなのかもしれない。
レビューでは男社会に全身で不平を示すヒロインなどとカナを持ち上げる向きもあるが、私はどちらかというと流されやすいヒトという印象を受けた。ただ人間関係のなかで一定の役割つまりは商品価値をつけられ、他人から消費されていくことについて不安感というか何か収まりの悪さを感じる人なのだろう。
タイトルの「ナミビアの砂漠」だが、カナが劇中にスマホでみている映像、そしてエンドロールで映し出されるのは、サバンナの水場の光景である。ここにはオリックスやインパラといった草食動物や、チーターのような肉食獣がいて、いわゆる食物連鎖が形成されている。つまり消費関係がある。ところが画面には出ないがサバンナのすぐ隣にはナミビアの国名の由来となったナミブ砂漠が存在しここには見事なほどなにもない。ナミブは現地語では「隠れ家」あるいは「なにもない」ということを指すらしい。カナが希求する状況というのは人を消費せず、人に消費もされないことであって、それを象徴しているのが「ナミビアの砂漠」であるというのはうがちすぎだろうか?
大量消費社会の中で自分が消費されないでいることは尋常の覚悟ではできない。山中瑶子はカナに仮託して現代人の試練を生々しく描く。
そして、消費されるのは映画も同じ。だから、ほかの作品でもそうだが、垂れ流され消費されるプログラムではなく何かを残したいという山中の強い意志は感じる。でも映画がエターナルであるためには何か時代を通貫する価値を示すことが必要である。残念ながらこの映画は脚本も演出も撮影も全て凡庸。おそらく山中がもっとも期待したのは河合優実という女優の持つ突出した現代性であったのだと思う。そこの評価についてはどうだろう、私はやや不支持なのだけど。
【追記】
キノシネマで映画を観るたびさんざんみせられる木下不動産の賃貸マンション「プレールドゥーク」のCMに出演している女の子が河合優実であることに昨日気付いた。かなり野暮ったい感じだったんだけど。いや女優さんってキャリアを積めば積むほどきれいになるんですね。これからCMの世界でも引っ張りだこになるんだろうな。
今時の若者はこんな感じなの??
河合優美の無気力な感じ、口をわずかに開けてるのがそれっぽくて良い。そして体当たり演技に拍手。
まじめな彼からチャラい彼にシフトチェンジ。まあ若さ故か分からんくもないが、2人と関係続けてた方が安定してた気がする。
しかし、彼女のあまりの傍若無人さに度肝抜かれる。
なかなかストレスな展開と長々しさでちょっとキツかった。
結局、男は我慢するしか無いのよ。。
この映画が「男社会に不満を持つ女の子の映画」にはまったく見えなかった。
見に行く前にネットでチラッと見かけた紹介文にそんな文言があった。
見たうえで私なりに説明すると、今どきな自由奔放な若い女の子が彼氏を乗り換える中で少しずつ心を病んでいく話。
たしかに男目線での彼女の描写を見られたけど、河合優実が演じる彼女が逆に男に依存しているように思えた。
男女平等というよりは、何があっても男は女性を守るべきなんだと訴えているように見えたかな。。
結局、男は我慢するしか無いのよ。。
自分の感情を我慢して我慢して生きていくしかない。。
理不尽に感じるけど、これが現実なのよね。
悲しいけど、年を取ると強く感じます。。
男目線で、こんな事を考えながら見た映画でした。
それと、河合優実を見るという点では楽しめた。
いつもの彼女な感じの演技でしたけど。。
『あんのこと』も見に行ったけど、彼女は少し陰のある役が多いですね。
河合優実の映画は結構見ている。
キッカケは『少女は卒業しない』から。。
ただこの映画を見たのは河合優実が理由では無かった。
サブスクで見た『アルプススタンドのはしの方』に出てた小野莉奈ちゃんが出てたから。
小野莉奈を見るために見に行った映画に河合優実が出ていたのである。
調べてみると、この前後に映画館で見ていた『線は、僕を描く』『ある男』『ひとりぼっちじゃない』にも出ていた。
最初の二つはどこに出ていたか分からなかった。。
そしたらあれよあれよという間にテレビにも出始め、不適切にもほどがある!でブレイク。
ふてほどのように明るい役をもっと見てみたいと思う。。
そして今回は『ひとりぼっちじゃない』に続いてすべてをさらけ出しての演技。
この辺は興行を考えて監督が望むんだろうけどね。
他にも気になる女優さんが3人出ていた。
一人目は、『異世界居酒屋のぶ』に出ているエーファちゃん役の新谷ゆづみ。
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を映画館で見てから彼女の存在を認識。
二人目は、『悪は存在しない』に出ていた渋谷采郁。
名前までは憶えていなかったが話し方で気づきました。同じ話し方だった。
三人目は、唐戸えりか。
東出昌大の結婚発表があったけど頑張ってほしい。。
ある程度の本数を映画館で見ていると、いま旬の女優さんが分かってくる。
ブレイク間際の人はたて続けに映画が出てくる事が多い。
そんな見方をしながら日本映画を応援しています。
近年の日本映画で最高の成果のひとつ。
これはまあとにかく俳優の動かし方と編集とサウンドスフィアがあざやかにリズムを作りだしていて、それが物語内容から独立した独自の文体を生んでいる。すばらしい才能で、近年あれこれ現れた日本の若手監督を、まったくかすませてしまった名篇。濱口竜介に匹敵する作り手が、こんなにあっさり登場したのは驚きです。
物語自体は、この10年で無数につくられた「東京の片隅に生きる孤独な若い女が人生に衝突する話」を臆面なく踏襲していて、だからこれを見るときは、律儀に物語を追ってはいけないのです。カメラの動き、俳優の視線、そこへフレーム外からしのびこませる音環境の構築、そして何よりもショットからショットへの新しい切りかえの感覚に、注目してください。
主演の河合優美も、たいへん見事。もともと今の日本語は、とくに若い人の間では口先でぼそぼそっと勢いなく話す発声で、そのままでは映画にもドラマにもなりづらい。それを逆手にとって、しっかりとリアリティを与えていることにひどく感心した。
もっとも男優たちは正直大したことがないので、濱口竜介監督のような独自の演技指導メソッドがあったわけではなく、監督と女優のケミストリーによるものかもしれない。
そして終盤にいたって物語を回収しはじめると、やや脚本の弱さが表れてしまう。「登場人物が狂気におちいる」って要するに夢オチの別形態だからね、うまく着地させるのは至難の業なのです。それでも同種の物語上の特徴をもった凡百の作品にくらべて、脚本上のキズをはるかに巧くカバーしているとは言えるかもしれない。カンヌでもここは審査員の間で議論になったはずだけど、やはり作品全体を支配する清新さ・巧みさを見逃すわけにはいかないと結論づけたのだと思う。そしてそれは炯眼だった。
この作品は、「映画が国外で高く評価されるには2つの特徴を持っていなければならない」という教訓にもなっている。つまり「他の誰にも似ていない」と「作り手が生きる地域・社会の現実にしっかり根を張って思考している」のふたつ。日本で映画と映像に仕事でかかわるすべての人はここをよくよく見てほしい。
いずれにしても、これは濱口・三宅の二人と並んで、ここ5年くらいで作られたすべての日本映画の中で最大の成果のひとつであることには疑いありません。ぜひ劇場で目撃して、その成功によってこの監督に次回作を作らせてあげてください。
全編を通じて漠然とした本作の中で、唯一浮かんできたのが「葛藤感」。山中監督の私小説に長々付き合わされている気分でした。
正直に告白すると、「ぶっきらぼうな女性」を主人公とする映画になぜか惹かれる傾向がある。山中瑶子監督による本格的な長編第1作にして今年のカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞に輝く本作は、まさにそんな系譜に連なる作品です。
●ストーリー
東京。とある駅前の全景を捉えたカメラは、首元に日焼け止めを塗りながら、デッキを歩く1人の女性にズームインしていきます。抜群のスタイルなのにどこかアンバランスな身体性がまずは目を惹きます。白い長袖シャツに短いスカート姿、帽子をかぶった彼女は、階段を下りて喫煙所へ。スマートフォンをいじりながら笑った後、上品とは言えない歩き方で別の場所へと移動していくのです。
21歳のカナ(河合優実)は将来についてはっきりした夢や希望はないらしく、考えるのはあまりにも退屈で、自分が人生に何を求めているのかさえわかりません。ただ脱毛サロンで働くカナは、仕事を淡々とこなし、周囲とも無難に付き合う世知はありました。
でも何に対しても情熱を持てず、恋愛ですらただの暇つぶしに過ぎなかったのです。気まぐれな猫のように、フワフワと生きているカナは、気の向くままに快楽を求めてさまよっていました。
同棲している恋人ホンダは家賃を払ったり料理を作ったりして彼女を喜ばせようとします。でもカナは自信家のクリエイター、ハヤシ(金子大地)との関係を深めていくうちに、ホンダのことを退屈に感じ始めるようになるのです。
それでもホンダは、ハヤシと会って泥酔し深夜に帰宅したカナを何も聞かずに介抱してくれるマメで優しい男でしたが、カナはあっさりとハヤシに乗り換えてしまいます。しかしハヤシと意気揚々と同せいを始めるや、かまってちゃんぶりを発揮。カナ最優先ではないハヤシに無理難題をふっかけます。
もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのでしょうか?
●解説
河合優実が演じた美容脱毛サロンで働く21歳のカナ。
世間や人生に退屈し、やり場のない感情を持て余したまま生きています。喫煙所から移動した先のカフェで、親友から2人も知るかつてのクラスメートが自殺したという話を聞いてさすがに顔色を変えるカナでした。でもどこか話に入りこめず、人ごとに思え、近くの男性たちの「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話題の方がどうしても耳に入ってくるのです。 真剣に聞くべき言葉とどうでもいい言葉の区別がつかないという、そんな心境を表す演出と、河合の自然体の演技が見事です。続けてホストクラブ、公園、タクシー、自宅。日中から夜、朝にかけて約17分間、カナの生活が垣間見える一連の場面展開で、ただならぬ作品と感じられるはずです。
但しそんなカナに対して、共感できる人が半分、迷惑なヤツと反発する人が半分ではないでしょうか。自分に素直、気ままたが根はまじめ。いやいや。自分勝手で気まぐれ、チヤホヤされるのをいいことにやりたい放題、しかも無気力。今を生きる若者たちの、心情のリアルがありそうです。
映画もカナと一緒にたゆたうように進み、生活の断片をつなぎ合わせてカナの肖像を描きだします。友人の死をぼんやりと受け止め、ホストクラブではしゃぎ、ホンダやハヤシに甘えてみる。毛色の違うハヤシの家族や友人たちの間で所在なげにたたずむ。映画の後半、ハヤシとの歯車がかみ合わなくなると、取っ組み合いのケンカをしては仲直りを繰り返します。
混迷と混乱が深まって、カナがカウンセリングで自分を知ろうと試みると、映画はリアリズムからも浮いてゆく。脳内を映し出したようなシュールな映像や、ファンタジー調の場面まで入り交じるのです。
ところで本作はもさまざまな表情でたたずみ、感情を出し入れする河合を得て、何にも似ていない映画となりました。
河合は、意地悪で、平気でウソをつき、いわゆる「かまってちゃん」でもあるカナの輪郭を、生い立ちをきめて浮かび上がらせていきます。口々だるそうに生きながら、時に怒りを爆発させるカナ。その瞬間に河合が見せる、形容しがたい目の表情。子供のように歩き、不意に側転をする彼女の身体が作品を躍動させ、引きで撮っても寄りで撮っても映画的な俳優、河合の魅力が全編にあふれています。これほど、作品ごとに全く異なる顔を見せてくれる俳優はまれでしょう。
●感想
ただとんでもない女性を描いただけの物語ではありません。何が彼らをそうさせるのか。現代、心のオアシスを求めるのは誰しも同じではないでしょうか。そんな想像力が働いたなら、大切な1本になるはずです。
映画の後半、カナは別の女性(カウンセラー)と今度は静かな部屋で対面し、「心の中だけなら何を思うのも自由だ」と諭されます。そして親から受けたトラウマについて聞かれたカナは、父親から激しい叱責を受け続けてきたことを告白します。
全編を通じて漠然とした本作の中で、このカウセリングのシーンが核心ではないかと思います。脚本も担当した山中監督にとって、おそらくカナは自分自身を投映したものであり、山中監督もカナ同様に父親への強いトラウマを抱えていることが、本作のモチベーションになっているのではないでしょうか。結局両親のどちらかにトラウマを抱えている人は、潜在意識に愛情欠乏症を抱えており、ついつい「かまってちゃん」になりやすいのです。そういう人は、自分史を振り返り、自らがいかに多くの人から愛されてきたのか内観してみない限り、「愛されていない」という葛藤から抜け出せません。
まるで砂漠のなかで水を求めるかのような「葛藤感」が、本作のタイトルに込められた意味なんだろうと思います。そして突如登場するエンドロールのナミビアの砂漠にあるオアシスで、水を美味そうに飲み続けるオリックスのシーンの意味も同じなんだろうと思うのです。どうせなら何かに満たされるカナを描いて欲しかったですね。
情緒不安定な女の日常
脱毛エステで働く21歳のカナは、将来の夢もなく、何に対しても情熱を持てず、恋愛も暇つぶしだった。同棲している恋人ホンダは家賃を払い、料理を作り、彼女に喜んでもらおうとしてたが、ホンダが風俗へ行った事をきっかけにホンダの家を出て、クリエイターのハヤシとの関係を深めていき・・・さてどうなる、という話。
河合優実目当てで鑑賞した。
ずっと河合優実を追っかけてる作品で、ナミビアは出てこないし、砂漠も出てこない。テレビでナビブ砂漠らしい所の映像が映るだけ。題はどういう意味だったのだろう?
こんな自己中で家事もしない情緒不安定な女と同棲して何が良いのだろう?
セッ○スがすごく良いのだろうか?
カナ役の河合優実は手脚が長くてスタイル抜群で、本作では美しい裸体も見せてくれ、素晴らしかった。
もし、主演が彼女じゃ無かったら観続けられたかどうか。
それくらい、ストーリーもあるのかないのかわからんし、ほとんど彼女ばかり写ってた作品だった。
それと、短かったが、唐田えりかが観れて良かった。
たんたんとした映画
起承転結が少し弱めだが、優しい男から自信家の男へとリアルな女の子の感情が描かれている。中国人ハーフの設定を河合優実が演じるというのは他の女優では描けない味が出ている。躁鬱の発症はパートナーからすればハズレくじのようだが、即座に縁を切れないのもリアル。
言いたいことはわかるが 俺はなにを見せられてんだろう 長時間 感がデカい
時代の寵児に近い 女優河合優実 ✖️ 新鋭 若手天才監督
まさに 2020年台の若者
わかる わかる 全ての 描写理解できたし 難しいとこは一つもない
確かに 今の若い方 は 冷めてるし つまんな〜い 世代 金とか出世より 私生活優先
実は パソコン💻上手で切り替え早くて 優秀な人も多い のだ❗️
河合優実さん役の無気力自分勝手感
優しい寛一郎さん役から 刺激的で面白い 金子大地さん役へ 切り替え
は納得❗️今の価値観ではね。若さの特権
有料🈶パンフはデザインは良いのだけど 文字が読みにくい
だが コラム3本には 大事な事 書いてあった。
河合優実さんの 脱力感
だらしないけど この映画は裁きを下してはいない 確かに。
今時の若者 理解しました。
でも 何だか 映像進行も 少し🤏緩いんだよね。冗長まではいかないけど
全ての画面ストーリー理解できたけども 何だか 進行が緩くて 何だかな
それと 心療内科はともかく カウンセリングは金持ちでないと無理だし
このような性格の方は あんまり 躁うつ は当てはまんねぇ 気がした。そもそも 仕事🆚の構図が前提だと経験則上思う
タイトルが中途半端な時に出たのと ランニングマシンは 申し訳ない❓ナゾ❓でした
ナミビア🇳🇦の砂漠とは 何か 是非本作観て理解して❗️映像と出来れば有料パンフ🈶のコラム群で わかります。
俺的に 一番共感できたのは 寛一郎さんの演じる ホンダの優しさ 愚直さでした。
河合優実さんは 体を張って熱演❗️俺もケツの脱毛はすぐにでもしたいが 鼻ピアスは ハナクソほじりにくいから遠慮しときます。 誰でもわかる 今時の若者 でも 普通すぎて遅くて『俺は何観てるんだろう』感で長く感じました。名画座的とも言います
「ダルい」ということ
非常に、非常に作家性に溢れた作品。エンタメという側面では、河合優実の良さと各カットの迫力や独創性に重点が置かれているが故に、観客にとってリズムを生みやすいプロットの動きが欠けているという構図で、実際近くの席の何人かの方は退屈したのか途中で退室していました笑。誰もが明快に楽しめる映画ではないと言うのは一つ留意すべきところ。そこを前提に、この映画が何を語ろうとしていたんだろう?と言うのを自分なりに推測してみます。
やる気なく仕事に臨み、気怠く煙草を吸い、酒を飲み、男を乗り換え、そのクセ今彼の家族とのデイキャン前には「ちゃんとしてないって見られたくない」と妙に真っ当なことを言い出すカナ。彼女の表情でとても印象的なのは「ダルそう」な顔。薄い共感、決めつけ、ホストの呼び込み。それに限らず、カナは基本的に自分の周りで起こるあらゆることに「ダルい」リアクションを取っているように見えました。
安易な推測かもしれませんが、もしもこの映画が、一言で括れば現代の生きづらさを描くものなのであれば、「ダルい」と言う言葉が表しているのかなと思います。「ダル絡み」とか、「ダルい奴」って表現、新しい言葉では決してないのですが、現代的な表現なのかもな、って思う時がよくあります。SNS、メディア、会社、友達、家族etc...色んな人が色んなことを言っており、「まぁ別にいいんだけど」という、強烈な感情ではないけれど生ぬるい不快感がある。それに対して少なくとも外向きは相手を不快にさせないような言動をしなければいけない。その積み重ねで、病名がつくことになってしまった話のように思えました。
(病名といっても、今の時代「なんだか不安定だけど人間の浮き沈みの中では普通にある状態」と「病名がつく深刻な状態」との間はそんなに離れていないように思います。私の知り合い周りを見ていても、あー病気にかかってたの?ってケースは多いです。そして、少し社会生活を離れたとしても、特に重くない場合はやがて普通に戻ってくる。そういうものが当たり前に存在するのがある意味現代なのかもしれません)
カナは、仕事もしてないんだから診断書なんて必要ないでしょ、という担当医に対して「私は私のことをちゃんと知りたい」と言います。サラッと流されていましたが、この映画で私がとても意味性を感じた言葉でした。
これはいいの?悪いの?私って今どんな感じ?という、内省的な問いの意味のなさと、それに対するフラストレーションを感じたような気がします。全ては「いや現実問題こうするしかないじゃん」という表の合理性、「まぁホストでも行ってパーっとやろうや」という裏の欲望に収斂される。その二律乖離が激しい世の中なんじゃないかな、って少し思います。世の中的に「やっちゃいけないこと」が増える一方で、人間の欲望の捌け口ってぜんぜん減ってないように思えますし。
なんだか名前をつけづらいけど、それでもなんだか気に入らない。ふざけんなよ!という思いは心の中に沸々とずっと残っている。それが、カナにおいては暴力として表出したのかなと。
そして役者論としては、そんな既存のプロットに当てはまらない役柄を演じ切る河合優実の力量たるや!という話につきます。不安定なんだけど、何らかの誠実さも確かに感じられ、そして可愛げがある。こんなに可愛く狂っていく人いませんよね笑 見応え、迫力、十分に感じました。
とはいえ、冒頭にも言いましたが、やはり受け手を選ぶ作品であることは確かなのかなと。こんな意味ありげな書き方をしてしまいましたが「わからん」「つまらん」「意味不明」で切り捨てちゃってもいいような。なんだかよく分からないものを言語化する映画体験を求める人は一見の価値ありかな。スッキリとした読後感で「ここがよかったね」を語りたい人には全然おすすめできないです笑。前者に該当する人は見てみてください。
私小説
な映画って、主人公にどれだけ共感や感情移入できるかが勝負だと思うです。
河合優実さんは、卓越した個性と演技力で、直近No.1なのですが、稀有の個性のため、鑑賞者が感情移入し辛く、ああ優実がな、他人になっちゃうとこが惜しいです。
演出何でしょうが、もう少しこちら側に来て欲しい。暴れている時は、泣かなくて良いから涙して欲しい。
あと、私見ですがPMSが敢えて語られていない気がします。でないとハヤシくんの我慢が理解できないと思うのですが、連れには其処は関係なくない?と言われました。一瞬サニタリーポーチのシーンがあった気がするのですが…
ストレスが溜まり続けた
現在大ブレイク中の河合優実。俺的には推しヒロインランキングにはまだ入れてはいないものの、稀有な空気を持つ女優だと感じており注目はしている。 “あんのこと”でもその存在感を放っていた彼女の主演作ということで、また他とひと味違う何かを見せてくれるのではないかと期待して観賞。
が、しかし・・・
【物語】
カナ(河合優実)はエステ脱毛の施術を仕事とする21歳。特別な生き甲斐も持たずに漫然と過ごす日々。同棲しているホンダ(寛一郎)はカナを大事にしており、特に不満があるわけでもないが、すでに彼との生活も刺激の無いものになっていた。
そんなある日、たまたま繁華街で出会った映像クリエイター、ハヤシ(金子大地)に新たな刺激を求める。 ホンダの留守中に彼と暮らす部屋から自分の家財と共に突然姿を消し、ハヤシと暮らし始める。新生活に心躍らせたのもつかの間、徐々にささいなことが原因の衝突が増えて行く。
【感想】
最初に書いてしまうが、今年観た75作中で一番楽しめなかった。
感受性も、洞察力も凡庸な俺なので、映画観賞本数が増えても作品の理解力あまり磨かれないが、これまでの映画体験で感じることが1つある。「すごく面白い」と思える作品は冒頭の5分で物語や主人公の設定、置かれた状況がスンナリとクリアに頭に入る。中には序盤は謎だらけで後半面白くなる作品も無くはないが、俺が“傑作!”と思う作品は例外なく、スンナリ作品に入れたように思う。
で、この作品だが、全く分からなかった。
まず最初の5分でストレスを感じ、中盤から終盤でストレスが解消することを願いながら、一生懸命観続けたが最後までストレスは増すばかりだった。
残り30分くらいになると「早く終わらないかな」ということばかり思っていた。
主人公の状況や性質はそれでも徐々に分かって来るのだが、共感できるところは皆無と言って良い。ホンダやハヤシが気の毒になるばかりで、カナを応援する気には最後までなれなかった。
ストーリー的にも?
あらすじを書こうとして良く分かった、書くことが無い。
「お前にはこれが分るかな?」と試されている系の作品。
申し訳ありません、私には一切理解できませんでした!
とにかく、俺は観賞を勧めできない。
今年初の☆1
やべえ女に恋してしまった
日常系のドラマだけで、137分はキツイ。河合優実を筆頭に演技力ある役者の演技が劇伴もなしで続くから眠くもならない。
カナは、同級生の自殺した話も退屈してしまうような共感力のない女。ロン毛イケメン男と同棲していながらも、自称クリエーターのおぼっちゃま男と浮気してしまう。
ナミビアの砂漠は、若者にとって生きづらい日本の暗喩だとすれば、草食動物がやってくるオアシスはどこのことをいっているのか。ただ、オアシスで長く休息をしていると肉食動物に襲われる危険性も増す。
勢いで同棲してしまった相手が、やべえ女だった。そんな物語でございますが、やたらと演技とショットがいい。わたくし的には退屈でございますが、見る人が見ると評価される作品なのでございましょう。
唐田えりかは横顔ショットだけで、シーンを支配する力がある。この人もただものではない。
河合優美なればこそ
公開記念舞台挨拶
河合優実◦金子大地◦寛一郎、山中瑶子(監督/脚本)
奔放なのは不安定ゆえ、折々の心持ちが歩き方に溢れだすある女性の人生21年目の記録
河合優美だったからこそ成りたってる137分、ブレを強調した映像がそこに撮影スタッフがいると伝える
彼女の舞台挨拶が興味深かった、色んな解釈の可能性を煮詰めて演じるからなんとも深いんだろうと
ふわっと
解釈や評価は難しい映画でしょうね。ただ個人的には過去のいろんな恋愛やらなんやら思い出しつつ、こんなのないだろと思う方もいるだろうが、普通の映画ではあまり描かれない生々しさがあって、いい意味で雑な描き方とかもあって、なんか頭の中でまとまらないけど、心ではなにかを受け止めたようなそんな感じでした(自分も何言ってんだかわからない、笑)
河合優美のそっくりさんのドキュメンタリーなんじゃないかというぐらいにどっぷり河合優美がずーっと出てきて、とっても素敵です。魅力たっぷりです。もうほんといい女優です。
舞台挨拶付きだったので、生でも見ましたが、23歳とは思えない落ち着きとオーラがあって、美しかったです。よかった。
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