ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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シーンがとぶとぶ
2024年劇場鑑賞224本目。
仲良くしていた2人が次のカットでいきなり取っ組み合いをしていることもしばしばで、混乱の極みですがだんだんああ、そういう心の病気の人なのかと思うと付き合っている男性の根気強さに脱帽。
主演の河合優実のスタイルのいい全裸は見られますが絡みのシーンはありません。トイレのシーンはめちゃくちゃエロかったですが。
河合優実さんの演技が満喫出来るけどよく解らなかった作品。
彼女を全面に打ち出していたけど、それだけの作品名だった感じ。
彼女の演技のプロモーション映画に仕上がっていて海外の映画関係者が観たら、彼女に出演のオファーが行く感じ(笑)
1人の女性の日常を描いていた感じだったけど共感も感動も無し。
カナの着ている服の英文字や部屋のアイテム。
もしかしたら隠されたメッセージがあると集中して観たけど、そんな感じでも無かった(笑)
でも、ひたすら彼女の演技に引き込まれたのは確かだった!!
ってことで+0.5の加点。
因みにナミビヤにある砂漠を調べてみたらナミブ砂漠ってのがあるみたい。
赤い砂丘が代表する光景。
ソススフレイの巨大な砂丘が絶景。
死の谷は枯れ木が立ち並ぶ独特な風景。
という事だけど本作のタイトルにした意味が解らず(笑)
彼女に海外から映画のオファーが来る事を祈ってます( ´∀`)
カナのこと
冒頭のすっかり肩の力を抜いた無気力に歩く姿と矛盾するようにもみえる、歯を矯正したり自分磨きに努力する感じ、二人の男性と向き合う器用さ?、男性に会いに行く際に飛ぶように走ってみせる様子、手荷物を用意しなかったことを申し訳ないと言う甲斐甲斐しさ。
結局、どれもカナさんなんでしょうね。
一人の女性の暮らし、葛藤を覗き見させてもらったような感じにさせられました。
本人もどこか客観的に自分を観ていたりしたんでしょうか。そして、本人も自分が何ものなのかともがいていたりしたんでしょうか。
そして場面ごとに違った表情をみせていた河合優実さんはやっぱり見事でした。次の作品が楽しみです。
古い言葉だとニヒリズムでしょうか…
タイトルのカットイン、脳内再生、キャンプだホイ、最後の砂漠シーンなど、2024年の今を表現する環境音楽の長い長いMusicVideoを観ているようでした…
当て書きされた主演キャストは秀逸ですが、双極性障害を持ち出して説明して欲しくはなかったです。お隣さんの“唐田えりか”が一番印象的でした。
カンヌが好きそうな作品ではある
河合優実はミスキャスト。最近、人気急上昇中の河合優実で、彼女の女優としての実力は素晴らしく、今後の楽しみな若手ではあるが、本作に関してはミスキャスト。
本作の役どころとしては、幾分、イノセントすぎるし、色気が足りない。茶髪の少しスレた感じのエロい女優の方が良かったと思う。
内容に関しては、これを映画として切り取って見せる意味あるの?といった感じ。
前半は女優の私生活にせまった企画ものAVみたいだった。どこにでもいそうな独身女子の生活どうでもいい。
映像表現や音楽・音響の演出も見るところほぼ無し。
タイトルの「ナミビアの砂漠」の隠喩も良くわからず。彼女に象徴される都会の生活が「砂漠」ということか。
「東京砂漠」 内山田洋とクール・ファイブ
あなたの傍で~、暮らせるならば~、辛くはないわ~、この東京砂漠~
かなりびっくり!まさかこんなところで脱ぐなんて
『河合優実』も現時点で二十三歳か。
既に二十本以上の映画作品に出演し、
主演は〔少女は卒業しない(2023年)〕
〔あんのこと(2024年)〕の二本のみだが(除く本作)、
〔由宇子の天秤(2021年)〕
〔PLAN75(2022年)〕
では印象的な役をこなしている。
なので、なぜこのタイミング?と、首を傾げる。
今を時めく女優さんなら、
『麻生久美子』は、映画四本目の〔カンゾー先生(1998年)〕
『吉高由里子』は、九本目の〔蛇にピアス(2008年)〕
『安藤サクラ』は、十二本目の〔ケンタとジュンとカヨちゃんの国 (2010年)〕
『真木よう子』は、十三本目の〔ベロニカは死ぬことにした (2005年)〕
等が、記憶に残るところ。
何れも強烈なインプレッション。
対して、今回のそれは日常の(あまりに)さりげない一コマで、
必要性さえ疑問に思える。
お話し自体は、二十一歳の『カナ』がひたすら周囲を振り回す。
エキセントリックな挙動は、彼氏、友人、職場にも軋轢を生む。
とりわけ彼氏は、
とことん優しく彼女のことを第一に考える『ホンダ(寛一郎)』と同棲しながら、
『ハヤシ(金子大地)』に平然と二股を掛ける無体な仕打ち。
『カナ』のやり場の無い憤懣の一部は理解可能。
『ハヤシ』の親族が集まったバーベキューパーティの場での疎外感。
自身が務める美容脱毛のサロンに、効果の疑いもなく通う客たち。
己の空虚さは自覚しつつ、
奥底から湧き出す漫然とした怒りが抑えられない。
ナミブ砂漠は世界で最も古い砂漠と考えられていると聞く。
彼女の思いは全ての人の心の奥底に潜む
原始的な感情なのだろう。
終いには今カレへの暴言と暴力の形で発露する、
が、不思議なコトに別れバナシに繋がることはない。
異常性に目を瞑りたくなるほど、魅力的な女性ということか。
まさに『河合優実』に当て書きしたよう。
冒頭のシーンからユニークな語り口は満載。
主人公たちの会話と同じ音量で
周囲の会話も耳に入って来るのは一例。
『カナ』の怒りに火が付く、次のシーンへの導入部の意味合いはあるにしろ
極めて異色な処理。
生活音もBGMのように流れ続け
途切れることなく我々の耳に届く。
鑑賞者はそれらを、どう受け止めればよいか。
つい、目の前のシーンに紐づけ、
何らかの意味合いを見つけ出そうとするのだが・・・・。
河合優実の頑張り以外は、疑問だね。
ストーリーは在り来たりなので演出に期待したが、環境音の設計に意味が有るのかも知れないが、私には理解出来ませんでした。映像やカッティングも、ハッとさせられる処が私には感じられませんでした。まさか「現代社会の、加えて女性の生きづらさ」みたいな陳腐なテーマが狙いじゃないよね?「心の病」版の谷崎潤一郎「痴人の愛」かと連想しました。金子大地と寛一郎はいい仕事をしたと思う。「あんのこと」もそうですが、河合優実にこんな役ばかりを期待する日本人監督には残念な気持ちです。折角の逸材の浪費にしか思えません。海外の監督にぜひ揉まれて欲しい。
シュールだわ
内容もそうだけど、かける劇場の規模も
スケールあってるか?と突っ込みたくなる作品だった。
個人的には1作目、レイプされドラッグで発作死をする
少女役で知った女優が、2作目薬中で売女な不幸極まりない女子を演じ、3作目は声だけで演じて、4作目は乾き切った心の中にオアシスを求め彷徨う役柄で見事劇中演技もこなしている。と言うなかなかな俳優ぷりを見せてくれたことに感謝であるが
江口のりこ同様ヌードを観ても勃起しなかった自身にも
驚いた。
まぁ、それだけ面白くもあるが迷作だった訳だけどw
ナミビアと言う恐らく大半の日本人には縁もゆかりもない
エリアの砂漠をタイトルにしてどこまで人を惹きつけるかを実験した作品だとしたら評価は上々だ。
が、砂漠にあるオアシスは幻やで◎
【追記しました】河合優実さんの方向性がわかる一本
この映画、まずわたしが思うのは、「この映画は、ストーリーを追ってはいけない」というものです。
それは、題名に「ナミビアの砂漠」となっている事でわかります。
ナミビアの砂漠の定点カメラを、カナが時々見ていますが、定点カメラで映るものにストーリーはありません。水飲み場にくる動物をただ観察するのみ。この感じで、カナをただ観察する映画だと捉えると、めちゃめちゃ面白いし、笑える映画ですらあります。定点カメラとの違いは、絵の切り取り方、カナを映す絵づくりの斬新さでしょう。
山中瑤子監督も、プレミア上映の舞台挨拶の質問の中で、縦4対横6のスタンダードビジョンの映画である理由として、カナに集中して見てほしいという意図を挙げられていた事からもわかります。カナ自身がいろんな事に気持ちが動く(例えば、冒頭の喫茶店のノーパンしゃぶしゃぶの話が気になる点など)ので、観客にはカナに集中をして欲しいと。
最後の方、ピンクの部屋がワイプインする部分、あれこそが自分で自分を定点カメラで俯瞰した視点で見つめている、冷めた自分を表現していますね。
そして、その後の激しい喧嘩の後に二人でチャンポンを食べるしーんがありますが、その部屋が、その前の部屋とすべてのレイアウトが反転していた事に気づきましたか? 白と黒の太陽の塔から総ての部屋の調度や置物まで、すっかり反転して配置されていますが、文字はちゃんと読めるので、わざわざ反転した間取りの部屋にすべてのモノを反転配置して撮っています。 ここの意味というか表現したかった部分については、山本監督が話されている記事が無いし、ほとんどの人が気づいてないようなのです。
とはいえ、彼女のこころの移り気で、まわりの人が巻き込まれるところに流れはあり、 そして彼女のその場の移り気に翻弄される男二人が、カナをいろいろと理解しようと努力し、真摯かつ誠実に、何とか関係を保とうとしているのに、カナの発する言葉の中には、ひとかけらの真実もない。 にもかかわらず、男の方は、心が通い合っていると信じていて、カナは「こんな女性なのだ」と、自分の信じる「偶像」であるカナとの関係を保とうと努力しているその姿は、まったく笑える以外ない。
はて?ここで男が勝手に女性を自分の「偶像」として捉え、自分の思う関係性を女性に求めている映画が、今上映中であることに思い至る。 そう、「スオミの話をしよう」だ。
あの映画も、従来の三谷幸喜の映画同様、伏線があって最後に伏線の回収がある事を期待し、最後のオチが無かった事に対する批判というか落胆で、評価が最悪の状態だ。 しかし、このスオミの映画も、ナミビアの砂漠同様、ストーリーを追わず、スオミを観察する映画として見ていくと、こんな女性がいる事によって巻き起こされる、男性の愚かさや偶像をあてはめたい気持ちなど、いかに男女の関係のおもしろさが見えてくる。 そもそも、男女の間でお互いを本当に理解できるなどとは思ってはいけないのかもしれない。お互い誤解や偶然を勝手に自分に都合よく解釈して、ズレているにもかかわらず、うまくやっている。。。そういうのが本当の男女関係なのかもしれない。
意外にも、「ナミビアの砂漠」と「スオミの話をしよう」のテーマの共通性を感じてしまった私です。
この映画、河合優実さんは、とってもカッコイイ映画だと言い、おそらく一番好きな映画だと公言して憚りません。 こういうストーリーの妙を見せるのではなく、ただ一人の人間の面白さを見せていくのが、今の映画の流行りのようです。 これからそういう映画がたくさん作られるようになるのだと思います。だからこそ、TOHOシネマのようなメジャーな映画館全部で上映される事になった理由だと思われます。
タイトルが秀逸です
今をときめく河合優実主演の「日常」の映画です。137分にわたって、彼女の恋愛や生活を捉えお話自体はまさに令和の現在の女の子の話なのですが、だんだん壊れていくヒロインに対して嫌悪感しかいだけません。しかし、一時も目が離せないんです(笑)
確かにあくまでも自然な感じで豊満な胸も拝めます(爆)男優とのエロいシーンではないですし、サービスカットとしか思えません。しかし、その胸も含めて立ち居振る舞いがめちゃ魅力的なんですね。今の御時世に逆らうように喫煙シーンも10回くらいは出てきます。ひょっとしたら彼と二人でキャンプ地で楽しんでいたのは◯麻だったかもしれません(汗)
監督の山中瑶子はまだ27歳で、この「ナミビアの砂漠」が初めての長編作品ですが、この作品の演出はとても斬新で、面白いカットも理由のわからないシーンもたくさん出てきますが、一番面白かったのは激しい喧嘩を繰り返すヒロインたちの隣に住む唐田えりかとの「キャンプだホイ」でした。あのシーンでヒロインは少しづつ平常心を取り戻したのだと思います。 途中で何度も切れかけた金子大地もなかなかいい感じで、ハッピーエンドを予感させてくれます。
タイトルの「ナミビアの砂漠」はヒロインがスマホでナビブ砂漠の人工オアシスの定点観測のシーンを2度ほど観ていることと、エンドロールに、その画面が映りますが、彼女の心が砂漠化していくことに対しての彼の優しさがオアシスなのかな?とも思います。
その先の光をみる
終演10分前までは辛い。
何が辛いのかというと、恥ずかしながらカナに共感してしまう部分があるからだ。
おそらく見ている全員がそう認識したくないと思うが、重ねて見てしまうのも事実だろう。
笑えてくだらない描写でさえ、怖くて共感したくないのだ。
カナの生きざまを見ていると、不幸になっていく道筋が見えてしまう。
ただ終演10分前以降で世界はガラリと変わる。
果てしない未来への希望と、底抜けの幸福感で満たされる。
河合優実の凄まじさに圧倒され、音楽が焦燥感をかきたてる。
こんな映画はみたことない。
明日からまた頑張ろう。
もともと「共感」を軸に映画の良し悪しを判断するタイプではないけど、...
もともと「共感」を軸に映画の良し悪しを判断するタイプではないけど、あまりにも登場人物の生きてる社会に僕が身を置いたことがないし、主人公に感情移入することもないのに、最後まで惹きつけられるということは、自分にとって燦然と輝く傑作なのだろうと思う。ところどころ『そこは揺らさなくて良いのに』と思ったりもしたけど、河合優実演じるカナという生き物を、動物園感覚で見る映画だと示すファーストカットの入り方からがっつりと掴まれた。
別にそういうシーンがあったから良いというわけじゃないけども、これまで女性が己の身体性を解放するシーンってどうしても性交渉の場面が多くなるけど、今回そんな場面では着衣してるのに(トイレでのとんでもない性癖シーンがあるが)着衣しない解放する場面が日常のふとしたところというところに改めて感服した。そりゃそうだよなと。むしろそういう場面のほうが日々重ねてるわけだもんなと。ここを切り取ってカナのずぼらな感じを出すのが良かった。
湿度ある日常をテンポとしては淡々と流しているにも関わらず、印象に残るシーンやセリフが多いのは良い映画でしょ。『映画なんて観て何になる』というセリフからの監督の自己批評や、近しい人には粗暴に見えても相手のコミュニティに踏み入れるキャンプシーンの居心地の悪い中で体裁を保とうと必死になる感じ。医者との砂を触るシーン。白黒はっきりつけたいけどわからないことを認められるようになりたいよなー。
脱毛スタッフが主人公の映画を自分は初めて見たので、そのシーンがシュールだったのと、脱毛になぞらえたメッセージ性が良かった。
中島歩と唐田えりかの使い方。
河合優実は本当にすごい女優だ。
カシューナッツ
至れり尽くせりな彼氏と同棲しながら他の男と浮気する21歳の女性が、自分をみうしなう話。
もう一人の男に彼氏と別れて欲しいと言われ、すすきのを言い訳にして家を出て、もう一人の男と同棲を始めて巻き起こっていくストーリー。
二股こそ頂けないものの、最初はどこにでもいる普通の女の子という感じだったけれど、結構波がある人だな…からの情緒不安定を超えていく感じで、わかると言えばわかるしというちょっと難しい感じ。
ランニングマシンは全然わからなかったしw
つまらなくはなかったけれど、特に中盤ぐらいまでが非常に長く感じたし、ラストもなんかしらの方向性ぐらいはみせて欲しかったかな。
ま、目玉焼きも眼球じゃないしな
心余りて詞足らずが突き抜けるとこうなってしまうんだなぁ。余った、というか持て余したココロを解って(拾って)ほしいけどその伝え方のスキルが無さすぎて謝り倒すか暴れるだけっていう精神的砂漠がいかにも今風なんだが、これはこの映画自体の作風にも当てはまるかも。
河合優実は「あんのこと」に続く好演。
乾いた瞳
河合優実を見る映画。彼女の底知れぬ表現力にとにかく魅せられる。ただ、ホントそれだけの映画で、引くくらい河合優実頼り。彼女なしでは成立せず、言い換えれば良さが最大限引き出された作品ではあるんだけど、この1本の柱で支えられているような、深みのない不安定な脚本が個人的には刺さらず、決してつまらない物語、というわけでは無いものの、心に訴えかけるような何かがまるで足りない。しかも、あまりにスローペースであるため、140分弱の長尺に対して密度が異常に低く、納得のいく満足感が全然得られなかった。
長尺もフィルム風な影像も、意味があってしているのなら何ら問題は無いんだけど、どれも機能している、意を成しているとは思えず、気をてらっているようにしか見えない。カットが掛かるのがヒジョーに遅いため、ワンシーン事に退屈が来てしまうし、故に無駄も多い。もしかしたら意図したものがあるのかもしれないけど、少なくとも脱ぐ必要はなかった。何でもかんでもやればいいという問題じゃない。むしろ、このテイストであれば無駄を排除した洗練な作りをして欲しかった。
これに関しては個人的な好みだけど、終盤にかけて明かされるカナの真の姿が、あーそっち方向に行っちゃうのねとガッカリしたことが上手く乗れなかった大きな理由だと思う。そこに辿り着かなくても良かったんじゃないかと感じちゃったし、こうなると途端に評価しにくくなる。変にメッセージを込めず、もっとエンタメに振り切った作りの方が面白かったろうし、ここに行き着くのであれば、前述の通り多くを語らない、洗練した作りの方が深みのある作品になっていた気がする。ちょっと見せすぎかな。
だが何度も言うように、河合優実は本当に素晴らしく、彼女のプロモーション映画という側面では一見の価値のある秀作。河合優実の影で活躍する、他のキャストもすごく良かった。情けない寛一郎は意外で笑っちゃった笑笑
どうしようもなくつまらない話とか独りぼっちなキャンプとか、共感する部分は結構あって、ハマる人はめちゃくちゃハマる、そんな映画だと思う。何より、唐田えりかに幸あれ。
肉食化する女と飼い慣らされた男たち
注目の若手女優河合優美ちゃん演じるカナは、『わたしは最悪。』のユリヤ、もしくは『お嬢ちゃん』のみのりにとてもよく似ているキャラクターだ。弱冠27歳の女流監督山中瑶子が影響を受けた映画監督として、なぜか中国人ロウ・イエの名前をあげていたが、ヨアキム・トリアーや二宮隆太郎の作品にふれなかったのには何か理由があるのだろうか。さらにいうならば、映画中盤のタイトル表示などは、おそらく濱口竜介のパクりだろう(“こわれゆく女”はカサヴェデスか)。高く評価されたデビュー作品『あみこ』は未見なのだが、未だスタイルが確立されていない山中の作風は(柔軟といえば聞こえはいいが)河合優美ちゃんの体幹同様フニャフニャだ。
『わたしは最悪。』は、欲しいものかなんでも手に入るようになったノルウェーの首都オスロで、選択肢の多さに逆に生き苦しさを覚える北欧女子ユリアの葛藤が描かれていた。『お嬢ちゃん』のみのりは、ナンパ男に見きりをつけ自立した生活を送ることを決心した湘南のマイルドヤンキーだ。では、世話焼き男のホンダ(寛一郎)からほったらかしの脱サラライターハヤシ(金子大地)へと男をうまくのり換えたカナは、何に対してこんなに怒っていたのだろう?それがどうも伝わってこないのである。
自殺話をする昔の友人にホストクラブ、失礼きわまりない風俗嬢スカウト、インチキエステ脱毛の退屈なお仕事、カナに尽くしたはてに捨てられる炊事洗濯男ホンダ、ホンダと別れる前から身体のつき合いがあったハヤシ...そのどれもが21歳の令和女子カナを精神的に満足させることはできなかったのである。それは何となくわかるのだが、結局のところ、少子高齢化の影響でお先真っ暗な日本の将来を悲観して(生存本能に目覚めた肉食系女子というよりも)厨二病におかされたかまってちゃん、にしか見えないのである。
剃っても剃っても女性のデリケートラインに生えてくる無駄毛が、遠いナミビアの地にある不毛の砂漠地帯と何かしら関係があるのかと思いきや....エンドロールでは、ナミビアとおぼしき砂漠に作られた人工池に水を求めにやって来た3頭のオリックス(多分♂)を写し出す。「思っていることとやってることが違う人が、街にいるって怖くないですか?」精神を病んだカナが精神科医に打ち明けたこの不安は、本能に従って男を求めただけなのになぜ病気扱いされなきゃならんのか、という単純命題に行き着くのだろうか。
ホンダやハヤシといった世間に飼い慣らされた草食男子には本心をさとられたくないと攻撃的な態度に出るカナだが、なぜか精神科医やお隣のお姉さん(唐田えりか)、ナミビアの砂漠に生きる動物たちとはうまくコミュケーションがとれる気がするのである。「それはねカナちゃん、単に男に捨てられたくないって女の防衛本能が働いているだけですよ」って教えてあげたいところだが、面倒くさそうな令和女子に声掛けする男など、バカ◯んこ目当てのキャバ嬢スカウトぐらいのものだろう。物質文明に汚染されていない自然物など、もうこの世界にはほとんど存在しないだから。
※もしかしたらこの映画、周囲の操り人形と化して右も左もわからないまま“才能ある若手映画監督”に仕立てあげられた、監督山中瑶子の苦悩が描かれているのではないでしょうか。映画ゴロの言われるがまま無気力に生きてきた山中=カナが、「(あんたたちじゃなく監督である)わたしが決める」とぶちギレたい気持ちを素直に表現した作品なのではないでしょうか。でもね監督、近くにいて何かとご高論をウザくのたまわってくる日本の映画関係者(ホンダやハヤシ)と違って、(日本語を理解しない)遠く離れた海外メディア(唐田えりか)の方が自分の作品を「わかる、わかる」って言ってくれる、なんて勘違いしてはいけませんよ。あいつら、巨匠カブレの気がある山中監督のことを利用しようとしているだけですから。うかうかしていると河瀨直美みたいに誰も見ない映画を撮る監督で終わっちゃいますから、お用心を。
听不懂、聽不懂(ティンプトン×2)
日常をダラダラ、山場というところが特にない。
解釈が難解であまりにもわけがわからなかったのでパンフレット購入。
監督は新進気鋭女流監督の山中氏で、当初原作モノの企画だったのを降りてオリジナル脚本で製作したとのこと。
短期間で作品にしたのは彼女たちの才能による所も多いが、いかんせん即席感は否めず、137分もあるのにキャラクターに共感する前に終わってしまう。
河合優実のセクシー姿が見れるだけの映画(笑)
消費されるということ
冒頭、町田のカフェに入ったカナの後ろの席で男たちがノーパンしゃぶしゃぶの話をしている。いつの時代だよって思うけど、これはノーパンしゃぶしゃぶくらいの露出度の女の子が、最近では街なかを歩いているという与太話であって、視線にさらされる、見られることによる消費を示している。
カナと最初、一緒に暮らしていたホンダは優しく、そしてホンダのところを飛び出して同居するハヤシは育ちの良い男である。でも彼等がカナをチヤホヤしてくれるのは結局、カナが若く可愛くスタイルが良いから。つまりカナは消費されているのである。ホンダの部屋もハヤシの部屋も無駄に物が多い。カナはそれらもののひとつ、一種のトロフィーなのかもしれない。
レビューでは男社会に全身で不平を示すヒロインなどとカナを持ち上げる向きもあるが、私はどちらかというと流されやすいヒトという印象を受けた。ただ人間関係のなかで一定の役割つまりは商品価値をつけられ、他人から消費されていくことについて不安感というか何か収まりの悪さを感じる人なのだろう。
タイトルの「ナミビアの砂漠」だが、カナが劇中にスマホでみている映像、そしてエンドロールで映し出されるのは、サバンナの水場の光景である。ここにはオリックスやインパラといった草食動物や、チーターのような肉食獣がいて、いわゆる食物連鎖が形成されている。つまり消費関係がある。ところが画面には出ないがサバンナのすぐ隣にはナミビアの国名の由来となったナミブ砂漠が存在しここには見事なほどなにもない。ナミブは現地語では「隠れ家」あるいは「なにもない」ということを指すらしい。カナが希求する状況というのは人を消費せず、人に消費もされないことであって、それを象徴しているのが「ナミビアの砂漠」であるというのはうがちすぎだろうか?
大量消費社会の中で自分が消費されないでいることは尋常の覚悟ではできない。山中瑶子はカナに仮託して現代人の試練を生々しく描く。
そして、消費されるのは映画も同じ。だから、ほかの作品でもそうだが、垂れ流され消費されるプログラムではなく何かを残したいという山中の強い意志は感じる。でも映画がエターナルであるためには何か時代を通貫する価値を示すことが必要である。残念ながらこの映画は脚本も演出も撮影も全て凡庸。おそらく山中がもっとも期待したのは河合優実という女優の持つ突出した現代性であったのだと思う。そこの評価についてはどうだろう、私はやや不支持なのだけど。
【追記】
キノシネマで映画を観るたびさんざんみせられる木下不動産の賃貸マンション「プレールドゥーク」のCMに出演している女の子が河合優実であることに昨日気付いた。かなり野暮ったい感じだったんだけど。いや女優さんってキャリアを積めば積むほどきれいになるんですね。これからCMの世界でも引っ張りだこになるんだろうな。
今時の若者はこんな感じなの??
河合優美の無気力な感じ、口をわずかに開けてるのがそれっぽくて良い。そして体当たり演技に拍手。
まじめな彼からチャラい彼にシフトチェンジ。まあ若さ故か分からんくもないが、2人と関係続けてた方が安定してた気がする。
しかし、彼女のあまりの傍若無人さに度肝抜かれる。
なかなかストレスな展開と長々しさでちょっとキツかった。
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