ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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【追記しました】河合優実さんの方向性がわかる一本
namibiasuomi
<ナミビアとスオミは同じテーマだ!>
河合優実主演の「ナミビアの砂漠」を見たあと、三谷幸喜の「スオミの話をしよう」を見ました。
映画のテイストや仕上がりは、全く違う作品なのですが、扱うテーマとして共通項を見たような気がしました。
それは、男性が女性に求める勝手な思い込みと、それに対する女性の生きづらさと孤独の表現。
5人の旦那が言うスオミが、総て違うタイプに思えるのは、それぞれの男がスオミに求めているモノが違うだけの話で、スオミがそれぞれの望むタイプの女になろうと努力していただけの事。対してナミビアの砂漠のカナは、スオミほど相手の男性の好みに合わせようとはしないが、男性がカナに投影している女性像と、それを求める「男の優しさ・思いやり」というものに対し、どうしても反抗したり逃げ出したりしてしまう、そういう女性なのではないか。もっとも、スオミは結局、狂言誘拐を起こして5人全員に対し本当の自分を見せると同時に総ての価値観をひっくり返して見せるので、どちらの女性も、男に対する反抗を表現していたという意味で、同じと言えるか。
いずれにせよ、三谷幸喜はそれをコメディとエンターテイメントで表現した一方、山本瑤子はカナにフォーカスし、深くえぐるように微妙な感情のゆらぎと激しい感情表現を通して見せた。テーマは同じであっても、表現がこうも違うというのが面白い。
どちらも、複数の男性側とスオミ/カナそれぞれと「コミュニケーションのズレ」が起きており、そのズレを面白おかしく表現した三谷幸喜と、そのズレを激しく反抗で表現した山本瑤子監督の違いはあるものの、テーマは非常に似ているなと思いました。両方を見て、より両方の内容の理解が深まった気が致します。
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ラッキーにもジャパンプレミアもTOHO日本橋の舞台挨拶のどちらにも参加する事ができ、二回上映を見させていただきました。
年間100本(過去の作品が多い)ほど映画を観ているのですが、いつもストーリーを追いかけ、伏線に気を付け、結末を考えながら見るクセがついてしまっています。この「ナミビアの砂漠」も最初、そのようにして観ていたけれども、それだと一向に映画の輪郭(何を形づくるのか)が見えて来ない。一回目を見終えて、どうやらストーリーを追うのではなく、カナという女性の心の機微を追いかけて観る映画なのだとわかる。これは、プレミア時の質問に、スタンダードサイズにした理由に「観客にカナだけを見て欲しかった」と述べた意味がこれなのかもしれない。
はたして、二回目の鑑賞では、カナのこころの動きを推し測るように、「今なにを思ったか?」「この表情は、どういう感情か?」そういう機微を観察するように見て行くと、なるほどメチャクチャ面白い。三回目を見たら、さらに面白いかもしれない。
カナの彼氏は二人とも、話す言葉は真実であり、まじめに誠実に対応しようとしているのだが、一方、カナの発する言葉は、ことごとく真実を伝えていない。このギャップあるコミュニケーションのズレというか、本当は噛み合ってないやり取りを、観客である我々とカナだけが知って見ているのだ。
かくして、最後に、分かれた彼氏が残した、冷凍のハンバーグを二人で食べながら見合うその部屋は、それまでとは左右が反転した(といってもフィルムを反転させたのではなく、反転した間取りに、反転配置して撮っている)部屋だというところに、この映画のエッセンスが顕れているのかもしれないと思った。
いずれにせよ、この映画は河合優実の高い実力があって成り立つ事のできる、非常に難しい成立の仕方をしているように思う。 若い人をベタ褒めすると、天狗になって失敗する事があるので、控え目に言うのを常としているが、河合優実さんはどんなに控え目に表現しても、天才としか言いようがない。 そう思うのは、彼女を初めて見た手嶌葵のMusic Video「ただいま」を何十回も繰り返し見ていたのに、この女優さんが、PLAN75やある男の、その女優らと同じ人だと気づかなかった。「ふてほど」の純子を見てても、全くそれぞれと結びつかなかった。 それらが全部ひとりの人だと知った驚きよ。その後「サマーフィルムに~」「少女は卒業しない」、Gregoryのミニフィルム、NHKの「家族だから~」にしても、見る河合優実が全部違った人に見えて仕方がない。 そのすごさは、例えば他にも演技力のある俳優さんは、昔も今も数多くいるけれども、例えば二階堂ふみも凄い女優さんだけど、いずれの役も「二階堂ふみ」の範疇に留まる。大竹しのぶは大御所で凄い女優だけど、どうやっても「大竹しのぶ」でしかない。
この先の心配は、ただひとつ。 役づくりに没頭するあまり、役が憑依して彼女自身の本当を見失わないかだけが心配。尤も、演技は事前に十分に計算して仕込んで本番に臨んでいるという話だから、それならそういう心配もないかな。
これほど売れると、様々なオファーが来ると思うけど、いちファンとしては、いろいろ演る時期はあってもいいけど、最終的には自分の表現したい「なにものか」を追求して、映画に新しい境地を切り拓いていってもらえればと願います。
タイトルが秀逸です
今をときめく河合優実主演の「日常」の映画です。137分にわたって、彼女の恋愛や生活を捉えお話自体はまさに令和の現在の女の子の話なのですが、だんだん壊れていくヒロインに対して嫌悪感しかいだけません。しかし、一時も目が離せないんです(笑)
確かにあくまでも自然な感じで豊満な胸も拝めます(爆)男優とのエロいシーンではないですし、サービスカットとしか思えません。しかし、その胸も含めて立ち居振る舞いがめちゃ魅力的なんですね。今の御時世に逆らうように喫煙シーンも10回くらいは出てきます。ひょっとしたら彼と二人でキャンプ地で楽しんでいたのは◯麻だったかもしれません(汗)
監督の山中瑶子はまだ27歳で、この「ナミビアの砂漠」が初めての長編作品ですが、この作品の演出はとても斬新で、面白いカットも理由のわからないシーンもたくさん出てきますが、一番面白かったのは激しい喧嘩を繰り返すヒロインたちの隣に住む唐田えりかとの「キャンプだホイ」でした。あのシーンでヒロインは少しづつ平常心を取り戻したのだと思います。 途中で何度も切れかけた金子大地もなかなかいい感じで、ハッピーエンドを予感させてくれます。
タイトルの「ナミビアの砂漠」はヒロインがスマホでナビブ砂漠の人工オアシスの定点観測のシーンを2度ほど観ていることと、エンドロールに、その画面が映りますが、彼女の心が砂漠化していくことに対しての彼の優しさがオアシスなのかな?とも思います。
人付き合いの砂漠
最初の喫茶店から、人の話を聞いてるようで
聞いてないカナ。
人付き合いの砂漠に降り立った動物のよう。
対人関係は面倒くさいが、自分の感性のまま
生きたいだけ。
あの世の中を蔑んだ目。
だが、常識的に声色を変えて働いたり、彼氏も二人。
要領良く生き延びてる。タクシーから窓を開けて
嘔吐するし、好きな人と会う時は華やかだ。
自由奔放で自分好きだが、本人も分かっている
ようで分かってない。
『日本は少子化とか貧窮で終わっていくので
今後の目標は生存で』のセリフが印象的。
今の若者にも共通する感覚があるのでは。
問いかけのような本能。
自分自身の苛立ちと性格がぐらんぐらんと
大人と少女の間で葛藤している。
言葉にもするけど、出来ない表現を
全身全霊で成し遂げてる感じ。
本質が見れないし、分からない
若しくは本質を見透かされたくない
のか土壇場で悲劇のヒロインに成ってしまう
男性との対比も絶妙。
社会に出て格好良く生きてる割りには逃げたり謝ったり
で目の前を視てない方々も多いのでは。
社会という砂漠で泉を求めて、本能で生きてる
動物のようだった。
その先の光をみる
終演10分前までは辛い。
何が辛いのかというと、恥ずかしながらカナに共感してしまう部分があるからだ。
おそらく見ている全員がそう認識したくないと思うが、重ねて見てしまうのも事実だろう。
笑えてくだらない描写でさえ、怖くて共感したくないのだ。
カナの生きざまを見ていると、不幸になっていく道筋が見えてしまう。
ただ終演10分前以降で世界はガラリと変わる。
果てしない未来への希望と、底抜けの幸福感で満たされる。
河合優実の凄まじさに圧倒され、音楽が焦燥感をかきたてる。
こんな映画はみたことない。
明日からまた頑張ろう。
若者の生態観察映画だけど、無防備すぎて、危うさを感じてしまいますね
2024.9.9 京都シネマ
2024年の日本映画(137分、PG12)
二股をかけていた女子が精神的に崩れていく様子を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は山中瑤子
物語の舞台は、都内某所
脱毛エステサロンに勤めているカナ(河合優実)は、不動産屋で働いている彼氏・ホンダ(寛一郎)と同棲しながら、クリエイターのハヤシ(金子大地)と密会を繰り返していた
彼女には特別な友人はおらず、そう言った関係を煩わしく思っていて、近寄ってくる友人たちをホストクラブに誘導しては沈めていた
その日もうざったい友人イチカ(新谷ゆづみ)と会うことになったが、彼女の話は無駄に長く面白くもなく、他の客席の話題に耳を傾けるほどだった
ある日、ホンダが北海道に出張にいくことになり、カナは「ススキノに行くんでしょう?」と意地悪を言ってしまう
ホンダは「誓っても行かない。無理やり連れていかれそうになったら会社を辞める」とまで言い切った
だが、帰ってきて早々に「拒めなかった」と謝罪し、カナはその日のうちに彼の家を出ていくことになった
その後、カナはハヤシと同棲を始めるものの、クリエイターのハヤシは在宅にて勤務をすることが多かった
構ってアピールをしても無視され、それが原因で喧嘩になることが増えてしまう
そうこうしているうちに職場でも余計なことを言ったために解雇されてしまい、ますます精神的に落ち着かなくなってしまうのである
映画は、カナがライブ動画をぼおーと見ている様子が映し出され、部屋にいる時のズボラな格好であるとか、ぐだぐだな日常を眺めるような感じに仕上がっている
まるで、こちら側が「砂漠にいるカナのライブ中継を見ている」ようなテイストになっていて、それはカナがスマホを覗き込んでいるのと同じような構造になっていた
印象的だったのは、「水」にまつわるエピソードで、ホンダは事あるごとに「水を飲んで」と言って渡し、ハヤシは「水を取って」と言っても「それぐらい自分でできるでしょ」と返してしまう
自由度が「水」によって表現されていて、ナミブ砂漠のオリックスは自分が飲みたい時に飲んでいたりする
カナはある意味でオリックスの自由さに憧れているのだが、それを自分で変えようともしないし、ただ惰性でどうなるかに身を委ねているようにも思える
怪我を機に全く働かなくなるのだが、それでもハヤシは彼女を追い出したりはしない
その理由については明かされないが、まあ察してくださいまし、と言ったところなのかなと感じた
ハヤシ自身も家族はおそらくインテリで、望まぬ将来を迎えていると思われている
また、大学時代の友人・三重野(伊島空)が語る危ないエピソードも、実はハヤシの事なのかなと思った
そう言った事件を起こしたこともあり、有名な大学を出ても泣かず飛ばずで、実家の圧をずっと受けていて、それゆえに帰る場所がなく、自分を必要としてくれるカナのところにいるのかなとも思う
ある意味、ハヤシはカナにとっての砂漠の水飲み場のようなもので、それを許容できるから一緒にいるのかな、と感じた
いずれにせよ、かなり長回しのシーンが多く、本当に生態観察をしている作品になっている
今どきの若者という主語を使うのは心苦しいが、若者はいつの時代もあんな感じなのだと思う
それは、手段さえ問わなければ水場が近くにあるという環境で、それを手放さないために遠出や冒険はしないということなのだろう
それが良いのかはわからないが、そう言った価値観でも生きていける時代にあるというのは今の日本であり、それが危機感の欠如にもつながっているように思える
本作は、そう言ったことへの警鐘の意味はほとんどないのだが、同じに見られたくない若者は行動を変えて、せめて自分の飲み水ぐらいは自分で探し出すのかな、と思った
もともと「共感」を軸に映画の良し悪しを判断するタイプではないけど、...
もともと「共感」を軸に映画の良し悪しを判断するタイプではないけど、あまりにも登場人物の生きてる社会に僕が身を置いたことがないし、主人公に感情移入することもないのに、最後まで惹きつけられるということは、自分にとって燦然と輝く傑作なのだろうと思う。ところどころ『そこは揺らさなくて良いのに』と思ったりもしたけど、河合優実演じるカナという生き物を、動物園感覚で見る映画だと示すファーストカットの入り方からがっつりと掴まれた。
別にそういうシーンがあったから良いというわけじゃないけども、これまで女性が己の身体性を解放するシーンってどうしても性交渉の場面が多くなるけど、今回そんな場面では着衣してるのに(トイレでのとんでもない性癖シーンがあるが)着衣しない解放する場面が日常のふとしたところというところに改めて感服した。そりゃそうだよなと。むしろそういう場面のほうが日々重ねてるわけだもんなと。ここを切り取ってカナのずぼらな感じを出すのが良かった。
湿度ある日常をテンポとしては淡々と流しているにも関わらず、印象に残るシーンやセリフが多いのは良い映画でしょ。『映画なんて観て何になる』というセリフからの監督の自己批評や、近しい人には粗暴に見えても相手のコミュニティに踏み入れるキャンプシーンの居心地の悪い中で体裁を保とうと必死になる感じ。医者との砂を触るシーン。白黒はっきりつけたいけどわからないことを認められるようになりたいよなー。
脱毛スタッフが主人公の映画を自分は初めて見たので、そのシーンがシュールだったのと、脱毛になぞらえたメッセージ性が良かった。
中島歩と唐田えりかの使い方。
河合優実は本当にすごい女優だ。
カシューナッツ
至れり尽くせりな彼氏と同棲しながら他の男と浮気する21歳の女性が、自分をみうしなう話。
もう一人の男に彼氏と別れて欲しいと言われ、すすきのを言い訳にして家を出て、もう一人の男と同棲を始めて巻き起こっていくストーリー。
二股こそ頂けないものの、最初はどこにでもいる普通の女の子という感じだったけれど、結構波がある人だな…からの情緒不安定を超えていく感じで、わかると言えばわかるしというちょっと難しい感じ。
ランニングマシンは全然わからなかったしw
つまらなくはなかったけれど、特に中盤ぐらいまでが非常に長く感じたし、ラストもなんかしらの方向性ぐらいはみせて欲しかったかな。
ま、目玉焼きも眼球じゃないしな
心余りて詞足らずが突き抜けるとこうなってしまうんだなぁ。余った、というか持て余したココロを解って(拾って)ほしいけどその伝え方のスキルが無さすぎて謝り倒すか暴れるだけっていう精神的砂漠がいかにも今風なんだが、これはこの映画自体の作風にも当てはまるかも。
河合優実は「あんのこと」に続く好演。
乾いた瞳
河合優実を見る映画。彼女の底知れぬ表現力にとにかく魅せられる。ただ、ホントそれだけの映画で、引くくらい河合優実頼り。彼女なしでは成立せず、言い換えれば良さが最大限引き出された作品ではあるんだけど、この1本の柱で支えられているような、深みのない不安定な脚本が個人的には刺さらず、決してつまらない物語、というわけでは無いものの、心に訴えかけるような何かがまるで足りない。しかも、あまりにスローペースであるため、140分弱の長尺に対して密度が異常に低く、納得のいく満足感が全然得られなかった。
長尺もフィルム風な影像も、意味があってしているのなら何ら問題は無いんだけど、どれも機能している、意を成しているとは思えず、気をてらっているようにしか見えない。カットが掛かるのがヒジョーに遅いため、ワンシーン事に退屈が来てしまうし、故に無駄も多い。もしかしたら意図したものがあるのかもしれないけど、少なくとも脱ぐ必要はなかった。何でもかんでもやればいいという問題じゃない。むしろ、このテイストであれば無駄を排除した洗練な作りをして欲しかった。
これに関しては個人的な好みだけど、終盤にかけて明かされるカナの真の姿が、あーそっち方向に行っちゃうのねとガッカリしたことが上手く乗れなかった大きな理由だと思う。そこに辿り着かなくても良かったんじゃないかと感じちゃったし、こうなると途端に評価しにくくなる。変にメッセージを込めず、もっとエンタメに振り切った作りの方が面白かったろうし、ここに行き着くのであれば、前述の通り多くを語らない、洗練した作りの方が深みのある作品になっていた気がする。ちょっと見せすぎかな。
だが何度も言うように、河合優実は本当に素晴らしく、彼女のプロモーション映画という側面では一見の価値のある秀作。河合優実の影で活躍する、他のキャストもすごく良かった。情けない寛一郎は意外で笑っちゃった笑笑
どうしようもなくつまらない話とか独りぼっちなキャンプとか、共感する部分は結構あって、ハマる人はめちゃくちゃハマる、そんな映画だと思う。何より、唐田えりかに幸あれ。
肉食化する女と飼い慣らされた男たち
注目の若手女優河合優美ちゃん演じるカナは、『わたしは最悪。』のユリヤ、もしくは『お嬢ちゃん』のみのりにとてもよく似ているキャラクターだ。弱冠27歳の女流監督山中瑶子が影響を受けた映画監督として、なぜか中国人ロウ・イエの名前をあげていたが、ヨアキム・トリアーや二宮隆太郎の作品にふれなかったのには何か理由があるのだろうか。さらにいうならば、映画中盤のタイトル表示などは、おそらく濱口竜介のパクりだろう(“こわれゆく女”はカサヴェデスか)。高く評価されたデビュー作品『あみこ』は未見なのだが、未だスタイルが確立されていない山中の作風は(柔軟といえば聞こえはいいが)河合優美ちゃんの体幹同様フニャフニャだ。
『わたしは最悪。』は、欲しいものかなんでも手に入るようになったノルウェーの首都オスロで、選択肢の多さに逆に生き苦しさを覚える北欧女子ユリアの葛藤が描かれていた。『お嬢ちゃん』のみのりは、ナンパ男に見きりをつけ自立した生活を送ることを決心した湘南のマイルドヤンキーだ。では、世話焼き男のホンダ(寛一郎)からほったらかしの脱サラライターハヤシ(金子大地)へと男をうまくのり換えたカナは、何に対してこんなに怒っていたのだろう?それがどうも伝わってこないのである。
自殺話をする昔の友人にホストクラブ、失礼きわまりない風俗嬢スカウト、インチキエステ脱毛の退屈なお仕事、カナに尽くしたはてに捨てられる炊事洗濯男ホンダ、ホンダと別れる前から身体のつき合いがあったハヤシ...そのどれもが21歳の令和女子カナを精神的に満足させることはできなかったのである。それは何となくわかるのだが、結局のところ、少子高齢化の影響でお先真っ暗な日本の将来を悲観して(生存本能に目覚めた肉食系女子というよりも)厨二病におかされたかまってちゃん、にしか見えないのである。
剃っても剃っても女性のデリケートラインに生えてくる無駄毛が、遠いナミビアの地にある不毛の砂漠地帯と何かしら関係があるのかと思いきや....エンドロールでは、ナミビアとおぼしき砂漠に作られた人工池に水を求めにやって来た3頭のオリックス(多分♂)を写し出す。「思っていることとやってることが違う人が、街にいるって怖くないですか?」精神を病んだカナが精神科医に打ち明けたこの不安は、本能に従って男を求めただけなのになぜ病気扱いされなきゃならんのか、という単純命題に行き着くのだろうか。
ホンダやハヤシといった世間に飼い慣らされた草食男子には本心をさとられたくないと攻撃的な態度に出るカナだが、なぜか精神科医やお隣のお姉さん(唐田えりか)、ナミビアの砂漠に生きる動物たちとはうまくコミュケーションがとれる気がするのである。「それはねカナちゃん、単に男に捨てられたくないって女の防衛本能が働いているだけですよ」って教えてあげたいところだが、面倒くさそうな令和女子に声掛けする男など、バカ◯んこ目当てのキャバ嬢スカウトぐらいのものだろう。物質文明に汚染されていない自然物など、もうこの世界にはほとんど存在しないだから。
※もしかしたらこの映画、周囲の操り人形と化して右も左もわからないまま“才能ある若手映画監督”に仕立てあげられた、監督山中瑶子の苦悩が描かれているのではないでしょうか。映画ゴロの言われるがまま無気力に生きてきた山中=カナが、「(あんたたちじゃなく監督である)わたしが決める」とぶちギレたい気持ちを素直に表現した作品なのではないでしょうか。でもね監督、近くにいて何かとご高論をウザくのたまわってくる日本の映画関係者(ホンダやハヤシ)と違って、(日本語を理解しない)遠く離れた海外メディア(唐田えりか)の方が自分の作品を「わかる、わかる」って言ってくれる、なんて勘違いしてはいけませんよ。あいつら、巨匠カブレの気がある山中監督のことを利用しようとしているだけですから。うかうかしていると河瀨直美みたいに誰も見ない映画を撮る監督で終わっちゃいますから、お用心を。
听不懂、聽不懂(ティンプトン×2)
日常をダラダラ、山場というところが特にない。
解釈が難解であまりにもわけがわからなかったのでパンフレット購入。
監督は新進気鋭女流監督の山中氏で、当初原作モノの企画だったのを降りてオリジナル脚本で製作したとのこと。
短期間で作品にしたのは彼女たちの才能による所も多いが、いかんせん即席感は否めず、137分もあるのにキャラクターに共感する前に終わってしまう。
河合優実のセクシー姿が見れるだけの映画(笑)
消費されるということ
冒頭、町田のカフェに入ったカナの後ろの席で男たちがノーパンしゃぶしゃぶの話をしている。いつの時代だよって思うけど、これはノーパンしゃぶしゃぶくらいの露出度の女の子が、最近では街なかを歩いているという与太話であって、視線にさらされる、見られることによる消費を示している。
カナと最初、一緒に暮らしていたホンダは優しく、そしてホンダのところを飛び出して同居するハヤシは育ちの良い男である。でも彼等がカナをチヤホヤしてくれるのは結局、カナが若く可愛くスタイルが良いから。つまりカナは消費されているのである。ホンダの部屋もハヤシの部屋も無駄に物が多い。カナはそれらもののひとつ、一種のトロフィーなのかもしれない。
レビューでは男社会に全身で不平を示すヒロインなどとカナを持ち上げる向きもあるが、私はどちらかというと流されやすいヒトという印象を受けた。ただ人間関係のなかで一定の役割つまりは商品価値をつけられ、他人から消費されていくことについて不安感というか何か収まりの悪さを感じる人なのだろう。
タイトルの「ナミビアの砂漠」だが、カナが劇中にスマホでみている映像、そしてエンドロールで映し出されるのは、サバンナの水場の光景である。ここにはオリックスやインパラといった草食動物や、チーターのような肉食獣がいて、いわゆる食物連鎖が形成されている。つまり消費関係がある。ところが画面には出ないがサバンナのすぐ隣にはナミビアの国名の由来となったナミブ砂漠が存在しここには見事なほどなにもない。ナミブは現地語では「隠れ家」あるいは「なにもない」ということを指すらしい。カナが希求する状況というのは人を消費せず、人に消費もされないことであって、それを象徴しているのが「ナミビアの砂漠」であるというのはうがちすぎだろうか?
大量消費社会の中で自分が消費されないでいることは尋常の覚悟ではできない。山中瑶子はカナに仮託して現代人の試練を生々しく描く。
そして、消費されるのは映画も同じ。だから、ほかの作品でもそうだが、垂れ流され消費されるプログラムではなく何かを残したいという山中の強い意志は感じる。でも映画がエターナルであるためには何か時代を通貫する価値を示すことが必要である。残念ながらこの映画は脚本も演出も撮影も全て凡庸。おそらく山中がもっとも期待したのは河合優実という女優の持つ突出した現代性であったのだと思う。そこの評価についてはどうだろう、私はやや不支持なのだけど。
【追記】
キノシネマで映画を観るたびさんざんみせられる木下不動産の賃貸マンション「プレールドゥーク」のCMに出演している女の子が河合優実であることに昨日気付いた。かなり野暮ったい感じだったんだけど。いや女優さんってキャリアを積めば積むほどきれいになるんですね。これからCMの世界でも引っ張りだこになるんだろうな。
今時の若者はこんな感じなの??
河合優美の無気力な感じ、口をわずかに開けてるのがそれっぽくて良い。そして体当たり演技に拍手。
まじめな彼からチャラい彼にシフトチェンジ。まあ若さ故か分からんくもないが、2人と関係続けてた方が安定してた気がする。
しかし、彼女のあまりの傍若無人さに度肝抜かれる。
なかなかストレスな展開と長々しさでちょっとキツかった。
大熱演‼️
「ナミビアの砂漠」というタイトルは、ナミビアの砂漠の荒涼とした風景、たまにオアシスがある、でも安心してると天敵に襲われるよ、みたいな事象がヒロイン・カナの心情風景を表してるんじゃないでしょうか⁉️同棲している恋人ホンダとの関係に満足できず、クリエイターのハヤシと関係を深めるも、仕事をクビ、ハヤシの意外な過去を知り、うつ病を患う・・・‼️言いたいことをグサグサと言い、感情が爆発して暴力的になる‼️そんなカナのライフスタイルが一種のドキュメンタリー・タッチで描かれており、しかも主演の河合優実ちゃんが体当たりの熱演で、137分の上映時間を飽きることなく魅せてくれました‼️河合優実ちゃんは「あんのこと」や今作を観ていると将来が楽しみな女優さんですね‼️そしてヒロインのご近所さんで出演されてる唐田えりかさんも短い登場時間ながら印象的で、「3年後にはみんな忘れてる、どうせ100年後には死んでるんだから」というセリフがいろんな意味で意味深・・・‼️
結局、男は我慢するしか無いのよ。。
この映画が「男社会に不満を持つ女の子の映画」にはまったく見えなかった。
見に行く前にネットでチラッと見かけた紹介文にそんな文言があった。
見たうえで私なりに説明すると、今どきな自由奔放な若い女の子が彼氏を乗り換える中で少しずつ心を病んでいく話。
たしかに男目線での彼女の描写を見られたけど、河合優実が演じる彼女が逆に男に依存しているように思えた。
男女平等というよりは、何があっても男は女性を守るべきなんだと訴えているように見えたかな。。
結局、男は我慢するしか無いのよ。。
自分の感情を我慢して我慢して生きていくしかない。。
理不尽に感じるけど、これが現実なのよね。
悲しいけど、年を取ると強く感じます。。
男目線で、こんな事を考えながら見た映画でした。
それと、河合優実を見るという点では楽しめた。
いつもの彼女な感じの演技でしたけど。。
『あんのこと』も見に行ったけど、彼女は少し陰のある役が多いですね。
河合優実の映画は結構見ている。
キッカケは『少女は卒業しない』から。。
ただこの映画を見たのは河合優実が理由では無かった。
サブスクで見た『アルプススタンドのはしの方』に出てた小野莉奈ちゃんが出てたから。
小野莉奈を見るために見に行った映画に河合優実が出ていたのである。
調べてみると、この前後に映画館で見ていた『線は、僕を描く』『ある男』『ひとりぼっちじゃない』にも出ていた。
最初の二つはどこに出ていたか分からなかった。。
そしたらあれよあれよという間にテレビにも出始め、不適切にもほどがある!でブレイク。
ふてほどのように明るい役をもっと見てみたいと思う。。
そして今回は『ひとりぼっちじゃない』に続いてすべてをさらけ出しての演技。
この辺は興行を考えて監督が望むんだろうけどね。
他にも気になる女優さんが3人出ていた。
一人目は、『異世界居酒屋のぶ』に出ているエーファちゃん役の新谷ゆづみ。
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を映画館で見てから彼女の存在を認識。
二人目は、『悪は存在しない』に出ていた渋谷采郁。
名前までは憶えていなかったが話し方で気づきました。同じ話し方だった。
三人目は、唐戸えりか。
東出昌大の結婚発表があったけど頑張ってほしい。。
ある程度の本数を映画館で見ていると、いま旬の女優さんが分かってくる。
ブレイク間際の人はたて続けに映画が出てくる事が多い。
そんな見方をしながら日本映画を応援しています。
近年の日本映画で最高の成果のひとつ。
これはまあとにかく俳優の動かし方と編集とサウンドスフィアがあざやかにリズムを作りだしていて、それが物語内容から独立した独自の文体を生んでいる。すばらしい才能で、近年あれこれ現れた日本の若手監督を、まったくかすませてしまった名篇。濱口竜介に匹敵する作り手が、こんなにあっさり登場したのは驚きです。
物語自体は、この10年で無数につくられた「東京の片隅に生きる孤独な若い女が人生に衝突する話」を臆面なく踏襲していて、だからこれを見るときは、律儀に物語を追ってはいけないのです。カメラの動き、俳優の視線、そこへフレーム外からしのびこませる音環境の構築、そして何よりもショットからショットへの新しい切りかえの感覚に、注目してください。
主演の河合優美も、たいへん見事。もともと今の日本語は、とくに若い人の間では口先でぼそぼそっと勢いなく話す発声で、そのままでは映画にもドラマにもなりづらい。それを逆手にとって、しっかりとリアリティを与えていることにひどく感心した。
もっとも男優たちは正直大したことがないので、濱口竜介監督のような独自の演技指導メソッドがあったわけではなく、監督と女優のケミストリーによるものかもしれない。
そして終盤にいたって物語を回収しはじめると、やや脚本の弱さが表れてしまう。「登場人物が狂気におちいる」って要するに夢オチの別形態だからね、うまく着地させるのは至難の業なのです。それでも同種の物語上の特徴をもった凡百の作品にくらべて、脚本上のキズをはるかに巧くカバーしているとは言えるかもしれない。カンヌでもここは審査員の間で議論になったはずだけど、やはり作品全体を支配する清新さ・巧みさを見逃すわけにはいかないと結論づけたのだと思う。そしてそれは炯眼だった。
この作品は、「映画が国外で高く評価されるには2つの特徴を持っていなければならない」という教訓にもなっている。つまり「他の誰にも似ていない」と「作り手が生きる地域・社会の現実にしっかり根を張って思考している」のふたつ。日本で映画と映像に仕事でかかわるすべての人はここをよくよく見てほしい。
いずれにしても、これは濱口・三宅の二人と並んで、ここ5年くらいで作られたすべての日本映画の中で最大の成果のひとつであることには疑いありません。ぜひ劇場で目撃して、その成功によってこの監督に次回作を作らせてあげてください。
全編を通じて漠然とした本作の中で、唯一浮かんできたのが「葛藤感」。山中監督の私小説に長々付き合わされている気分でした。
正直に告白すると、「ぶっきらぼうな女性」を主人公とする映画になぜか惹かれる傾向がある。山中瑶子監督による本格的な長編第1作にして今年のカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞に輝く本作は、まさにそんな系譜に連なる作品です。
●ストーリー
東京。とある駅前の全景を捉えたカメラは、首元に日焼け止めを塗りながら、デッキを歩く1人の女性にズームインしていきます。抜群のスタイルなのにどこかアンバランスな身体性がまずは目を惹きます。白い長袖シャツに短いスカート姿、帽子をかぶった彼女は、階段を下りて喫煙所へ。スマートフォンをいじりながら笑った後、上品とは言えない歩き方で別の場所へと移動していくのです。
21歳のカナ(河合優実)は将来についてはっきりした夢や希望はないらしく、考えるのはあまりにも退屈で、自分が人生に何を求めているのかさえわかりません。ただ脱毛サロンで働くカナは、仕事を淡々とこなし、周囲とも無難に付き合う世知はありました。
でも何に対しても情熱を持てず、恋愛ですらただの暇つぶしに過ぎなかったのです。気まぐれな猫のように、フワフワと生きているカナは、気の向くままに快楽を求めてさまよっていました。
同棲している恋人ホンダは家賃を払ったり料理を作ったりして彼女を喜ばせようとします。でもカナは自信家のクリエイター、ハヤシ(金子大地)との関係を深めていくうちに、ホンダのことを退屈に感じ始めるようになるのです。
それでもホンダは、ハヤシと会って泥酔し深夜に帰宅したカナを何も聞かずに介抱してくれるマメで優しい男でしたが、カナはあっさりとハヤシに乗り換えてしまいます。しかしハヤシと意気揚々と同せいを始めるや、かまってちゃんぶりを発揮。カナ最優先ではないハヤシに無理難題をふっかけます。
もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのでしょうか?
●解説
河合優実が演じた美容脱毛サロンで働く21歳のカナ。
世間や人生に退屈し、やり場のない感情を持て余したまま生きています。喫煙所から移動した先のカフェで、親友から2人も知るかつてのクラスメートが自殺したという話を聞いてさすがに顔色を変えるカナでした。でもどこか話に入りこめず、人ごとに思え、近くの男性たちの「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話題の方がどうしても耳に入ってくるのです。 真剣に聞くべき言葉とどうでもいい言葉の区別がつかないという、そんな心境を表す演出と、河合の自然体の演技が見事です。続けてホストクラブ、公園、タクシー、自宅。日中から夜、朝にかけて約17分間、カナの生活が垣間見える一連の場面展開で、ただならぬ作品と感じられるはずです。
但しそんなカナに対して、共感できる人が半分、迷惑なヤツと反発する人が半分ではないでしょうか。自分に素直、気ままたが根はまじめ。いやいや。自分勝手で気まぐれ、チヤホヤされるのをいいことにやりたい放題、しかも無気力。今を生きる若者たちの、心情のリアルがありそうです。
映画もカナと一緒にたゆたうように進み、生活の断片をつなぎ合わせてカナの肖像を描きだします。友人の死をぼんやりと受け止め、ホストクラブではしゃぎ、ホンダやハヤシに甘えてみる。毛色の違うハヤシの家族や友人たちの間で所在なげにたたずむ。映画の後半、ハヤシとの歯車がかみ合わなくなると、取っ組み合いのケンカをしては仲直りを繰り返します。
混迷と混乱が深まって、カナがカウンセリングで自分を知ろうと試みると、映画はリアリズムからも浮いてゆく。脳内を映し出したようなシュールな映像や、ファンタジー調の場面まで入り交じるのです。
ところで本作はもさまざまな表情でたたずみ、感情を出し入れする河合を得て、何にも似ていない映画となりました。
河合は、意地悪で、平気でウソをつき、いわゆる「かまってちゃん」でもあるカナの輪郭を、生い立ちをきめて浮かび上がらせていきます。口々だるそうに生きながら、時に怒りを爆発させるカナ。その瞬間に河合が見せる、形容しがたい目の表情。子供のように歩き、不意に側転をする彼女の身体が作品を躍動させ、引きで撮っても寄りで撮っても映画的な俳優、河合の魅力が全編にあふれています。これほど、作品ごとに全く異なる顔を見せてくれる俳優はまれでしょう。
●感想
ただとんでもない女性を描いただけの物語ではありません。何が彼らをそうさせるのか。現代、心のオアシスを求めるのは誰しも同じではないでしょうか。そんな想像力が働いたなら、大切な1本になるはずです。
映画の後半、カナは別の女性(カウンセラー)と今度は静かな部屋で対面し、「心の中だけなら何を思うのも自由だ」と諭されます。そして親から受けたトラウマについて聞かれたカナは、父親から激しい叱責を受け続けてきたことを告白します。
全編を通じて漠然とした本作の中で、このカウセリングのシーンが核心ではないかと思います。脚本も担当した山中監督にとって、おそらくカナは自分自身を投映したものであり、山中監督もカナ同様に父親への強いトラウマを抱えていることが、本作のモチベーションになっているのではないでしょうか。結局両親のどちらかにトラウマを抱えている人は、潜在意識に愛情欠乏症を抱えており、ついつい「かまってちゃん」になりやすいのです。そういう人は、自分史を振り返り、自らがいかに多くの人から愛されてきたのか内観してみない限り、「愛されていない」という葛藤から抜け出せません。
まるで砂漠のなかで水を求めるかのような「葛藤感」が、本作のタイトルに込められた意味なんだろうと思います。そして突如登場するエンドロールのナミビアの砂漠にあるオアシスで、水を美味そうに飲み続けるオリックスのシーンの意味も同じなんだろうと思うのです。どうせなら何かに満たされるカナを描いて欲しかったですね。
よくも悪くも何じゃこりゃあ(ジーパン刑事風(笑))と法則見つけちゃったりして😋
最後までダラダラと続く作品なのに、1回も寝落ちしなかったという、摩訶不思議な作品でした🧐
いろんな感情も沸き起こりました😏
何故かずっと見続けたくなる河合優実の女優力は圧巻だなとか😌
町田のこの場所や、タバコ吸っているあそこは月に何回か通るので、上手くタイミング合えば、遭遇したんじゃね?とか😁
喧嘩するほど仲がいいっていうのはこういう事なのか?とか🤔
この人、今、ホットな東出君の本性を暴き出した元凶の人なんじゃね?って思ってエンドロール見たら、やっぱりそうじゃんとか🤣
ただでさえ、鼻ピアス付けた人は面倒くさいイメージがあるんだから、映画ではイメージよく見せなきゃダメでしょって思うのに、逆に今の十倍くらい面倒くせぇなって思えちゃったし😮💨
人に迷惑かけたくないって言うなら、鼻ピアスしている時点で、他人に嫌な思いさせて迷惑かけているんだからまずはそれ外せ、って突っ込みたくなるシチューエーションは今までに何回もあったぞとか😒
でも、言っている事とやっている事が違うって言うのは自分にも心当たりはあって、人の事をとやかく言う資格はないよなとか(^^ゞ
そうそう、間違ってもおっぱい目当てでこの作品観たわけではありません😅
むしろ、どうせ、ギリギリのところの下着姿が長々続くんだろうよって油断していたら、まさかのポロンで口あんぐり状態でした(✽ ゚д゚ ✽)
江口のりこと言い、今後は、主役が演技派の女優さんで、監督と脚本が同じ人の作品は、主演女優のポロリがあるって期待しちゃうじゃないですか(笑)
情緒不安定な女の日常
脱毛エステで働く21歳のカナは、将来の夢もなく、何に対しても情熱を持てず、恋愛も暇つぶしだった。同棲している恋人ホンダは家賃を払い、料理を作り、彼女に喜んでもらおうとしてたが、ホンダが風俗へ行った事をきっかけにホンダの家を出て、クリエイターのハヤシとの関係を深めていき・・・さてどうなる、という話。
河合優実目当てで鑑賞した。
ずっと河合優実を追っかけてる作品で、ナミビアは出てこないし、砂漠も出てこない。テレビでナビブ砂漠らしい所の映像が映るだけ。題はどういう意味だったのだろう?
こんな自己中で家事もしない情緒不安定な女と同棲して何が良いのだろう?
セッ○スがすごく良いのだろうか?
カナ役の河合優実は手脚が長くてスタイル抜群で、本作では美しい裸体も見せてくれ、素晴らしかった。
もし、主演が彼女じゃ無かったら観続けられたかどうか。
それくらい、ストーリーもあるのかないのかわからんし、ほとんど彼女ばかり写ってた作品だった。
それと、短かったが、唐田えりかが観れて良かった。
たんたんとした映画
起承転結が少し弱めだが、優しい男から自信家の男へとリアルな女の子の感情が描かれている。中国人ハーフの設定を河合優実が演じるというのは他の女優では描けない味が出ている。躁鬱の発症はパートナーからすればハズレくじのようだが、即座に縁を切れないのもリアル。
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