ナミビアの砂漠のレビュー・感想・評価
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ストーリーが面白いかと問われると、なんとも言えないが、作品から演者...
ストーリーが面白いかと問われると、なんとも言えないが、作品から演者のパワーを感じる作品でした。河合優実さんはほんとにすごい。見ていて、作品の中に引きずり込まれた。あと、気になったのが、『今日のさんぽんた』に出演している新谷ゆづみさん。冒頭に友達役で出演。全く違う人にしか見えなかった。ほんとすごい。
これが、現代の若者?
わがままでロクでもない女の日常、なんていったら怒られるかもしれないけど、
前半はそんな感じで見てました。過去の映画には、バイオレンス男にすがる女という
ストーリーが溢れていたけど、今の時代は逆なんだということを
描きたいのかな?なんて感じて。
で、医者が出てきて、そういうことか、病気なのか、と見方が変わりました。
不快だったんですよね、それまで、振り回されてる情けない男たちの姿を
見ていられなくて。で、病気ならしようがないと、納得。
それだけ、感情移入していたということかな(笑)。
でも、これを現代の若者の恋愛を視点で描いた、っていうのは違うだろって思う。
いや、思いたい。
河合優実さんの演技は、拍手だと思うけど。
めんどくさい奴では無い
川合美優劇場
実際ミカみたいなメンヘラがいたらまわりは大迷惑。
何一つ共感できない。
幼少期の環境でこういう人間性になってしまったなら少し同情もするけど。
いつもスマホとタバコを片手に、パンツ一丁でウロウロしているのも不快でしかないけど、川合美優だからかっこよく様になっている。とにかく魅力的でつい見とれてしまった。
こんないい男と付き合えるなら、一度川合美優になってみたいものだ。
どういう終わり方なんだろうと思っていたけど、この種の映画はだいだい何も解決せずの終わり方だよね。
ミニスカートにビッグTシャツがよく似合う。
「拾えよ」とか急にキレ出したり、本当に無理。
まず「ナミビアの砂漠」は一切出てこない。 なぜこんなタイトルになっ...
普通に生きるとは
すごく面白かった。
音の使い方が新鮮、冒頭のカフェのシーンの隣の会話を聞いていて友達の話を聞いていない感覚や、人に強い興味を持たない人の感覚に妙に共感した。
人の過去の過ちを引き合いに出して自分にとって有意な環境を作りだすようなことをしてしまった経験を思い出した
メンタルヘルスや脱毛に懐疑的な目線も何が正しいのか考え直そうという投げかけか?物事を考えることを放棄したくなる人が多いことを問題提起している?監督と共感した
感情が爆発しているようで頭の中は別のことを考えていたりするよなとか
みんな頭の中と表現することは違うものだし、抑制したい感情が表に出てしまうことが病気として扱われてる社会だけど、それって自然なことなの?世界最古のナミブ砂漠ではみんな感情のまま生活してるんじゃないの?的なことなのかなと、思った
それでも生きていくには他者への思いやりや思いやられることが必要だし、
感情的になる理由がわからないときもあるし
理由が何もない時もあるけど何かに叫びたくなることもあるなぁみたいな
言語化できない感覚を表現できるのが、映像なんだからこうゆう映画が増えるといい
全然まとまらないのであとで修正するとして、これは見るべきでしょ
私たちが住む乾いた世の中に憩いとなるオアシスはあるのだろう?
ある意味「砂漠で生きている」とも言えるZ世代への応援歌でもあると思う。
「飽食の時代」とも言われて久しい時勢に生を受けて、物質的にも不自由することなく育ってきた世代にしてみれば、ある意味では「自ら求めなくても与えられてきた」世代を生きる者として、その生き方の「方向性」を自らでは規定できないという意味では、砂漠のなか迷子になっているようなもだと言えるのではないかと、評論子は思いました。
その意味であれば、本作の題名は、それはそれで「名は体を表している」と言うのか、「言い得て妙」と言うのか、本作の製作意図を如実に体現しているのではないでしょうか。
そして、そのように理解することができるとすれば、本作で描かれているようなカナの暴力性は、とりも直さず、彼女の内面の鬱屈(うっくつ)が外面に析出したものだったことも、疑いのないことだろうと思います。
この点、レビュアーの皆さんの評では、カナはメンタルを病んでいるという見方が多いようですけれども。評論子的には、カナの「迷い」・「鬱屈」の徴表と受取りました。
「何でも手に入る時代に生きているのに、何を手に入れて良いのかが分からないという、その「迷い」「鬱屈」とでも言うべきでしょうか。
本作のトレーラーによれば、本作は、いわゆるゼット世代の現代社会での有り様を描いた作品との能書きでしたけれども。
200年の長きにわたり鎖国政策が採られていたこともあり、東洋の小国・ニッポンは「遅れた国」「貧しい国」であったことは、間違いがないと思います。
(そのことは、別作品『35年目のラブレター』にも描かれていたとおり、評論子の子ども時代の昭和40年前後には、義務教育制度が既に施行されて星霜を重ねていたにもかかわらず、経済的な理由などから就学がかなわず、文盲のまま社会に出てしまった大人が、珍しくはなかったようです)
そして、そういう時代のわが国には「一生懸命に働いて経済的に豊かになる」という明確な生きるための基軸が、自ら考えなくても、社会環境から他律的に与えられていたと言えるのだろうと思います。
翻(ひるがえ)って、令和のこの今、別作品『35年目の…』のような文盲の大人が、果たしてどのくらい存在するものでしょうか。高度経済成長を経験し、経済的にはそれなりの成長を遂げた今「一生懸命に働かなければ食べられない」という階層は、社会の中では、少なくとも大勢ではなくなっているようです。
(令和のこの今でも、そういう所得階層の方々も、世の中には現にいらっしゃることを、評論子は否定するものではありません)
本作の場合、現に、カナは、脱毛サロン(=生活に必需な業種ではなく、生活の質を高めるための、いわばプラスアルファの産業)に職を得て収入があり、生活状況に照らしても、経済的にそう困窮しているという設定ではい様子です。
そして、そういう社会になってみると、生きるための基軸というものは、自ら自律的に求めなければ、社会から他律的に与えられるという時代ではなくなっているのでしょう。
本作のカナは、果たして、そのことに気がついていたのでしょうか。
否、そのことに気がついていない…否、気づけていないという彼女の無意識の鬱屈が、外面的には彼女の暴力性として析出していたというのが、本当のところだっと、評論子には思われてなりません。
本作のトレーラーによれば、本作は、いわゆるZ世代の若者の姿を浮き彫りにする一本ということでした。
上記の意味では、彼ら・彼女らが抱える社会的な「立ち位置」を浮き彫りにした一本ということになるのでしょうけれども。
しかし、反面、令和の今は「生きるための基軸は自律的に求めなければ、他律的には与えられない」ということを教示しようとする反面教師的な意味合いでは、いわゆるZ世代に対する「応援歌」になっていると受け止めることも、あながち評論子の管見ではないようにも思います。
充分な佳作だったと、評論子は思います。
憂うつな訳は…
考察できる人ならばきっと素晴らしい作品
このシーンの示すところが、こういった考察ができるといった考察が私はあまり得意ではありません、、、
映画を見終わった後に、ネットで考察している方の記事を拝見してなるほどと思いつつ、確実にそうとも言い切れないよなぁと思いました!
きっと色々な考察が楽しめるという意味では素晴らしい作品なんだと思います!
一つ一つのシーンに意味があるとすると私はミスリーディングしてしまったようです、、、
ハヤシの虫がいるシーンは、ドラッグ禁断症状によくある行動だとか、、、
こけおどし
日本映画には映画の品質より「俺様の才能を知らしめたい」気配を感じます。
自己顕示欲がみえてしまうのです。
海外の映画では監督の自己顕示欲がみえてくる映画がないので、これは日本特有だと思っています。
日本の映画監督全員がそうではありませんが、アート系映画のばあいはほとんどが品質の向上より自己顕示欲を満たそうとするタイプの監督だと感じます。
しかし自己顕示欲が旺盛でも能力があるならばいいわけです。たとえば大島渚は能力がともなった自己顕示型の監督でした。
転じて日本映画がだめなのは、ほとんどが自己顕示型なのに、能力がともなっていないからだと思います。
2025年3月17日にPFFが創設した大島渚賞(第6回)の授賞式があり、本作品によって山中瑤子監督が受賞しました。
山中氏は『大島渚監督は、すごく時代と社会を撹拌して転覆させるような映画を作られてきた方で尊敬しているので、身が引き締まる思いで、わたしもそういった映画をつくりたい。いま一つ企画があり、社会を転覆させる映画を作りたいと思っています!』と受賞の喜びを述べたそうです。
山中氏が表明した「社会を転覆させる映画を作りたい」は、海外の映画産業と日本のそれの違いを如実に表していると思います。おそらく、海外の作家は自身の作品世界を追求しようとしているのであって、社会を転覆させたいとは思っていないでしょう。むろん社会を転覆させたいとは衝撃的な映画をつくりたい──の比喩表現なのでしょうが、それにしても、海外の映像作家はそのような中二発言をすることより、具体的な作品のビジョンを述べるはずです。
日本映画では混沌や悪徳や反社会が、監督の自己顕示欲を満たすために使われるという状況があります。歪んでいる世界は、監督が「歪んでいる世界を描ける俺ってすげえだろ」と言いたいがために使われます。
この現象をわかりやすく例えるなら誰かを脅すときに「おれはやくざなんだからいうこときけ」という感じに似ています。
歪んで気持ち悪くていびつで悪辣で、そのような一般人にとって怖くて近寄りたくない世界を描いて観衆を威嚇することで自己顕示欲を満たすわけです。
たとえば北野武監督には自己顕示欲があり映画にもそれが見えます。暴力的な映画をつくってひたすら萎縮させ、菊次郎みたいな映画を望んでいた観衆に対して「ざまあみろ」とうそぶいてみせるのは、作品と自我が一体化した日本の映画監督らしい姿勢です。しかし北野武監督の映画はわりと面白いから大丈夫なわけです。
バイオレンスを通じて観衆を威嚇する代表的監督は園子温です。園子温の映画には前述の例え「おれはやくざなんだからいうこときけ」という感じが顕れています。「おれ」がはげしく絵に顕れる映画であり、バイオレンスや人間の狂った行動は自己顕示欲を満たすためのパラメータに過ぎません。映画を通じて園子温が言いたいのは「歪んでいる世界を描ける俺ってすげえだろ」ということであり、ほかの目的はありません。自己顕示の手段として映画監督をやっているわけです。
これは日本において映画監督という職業があたかも全知全能の才人のように扱われ見られるから──でもあります。映画監督は測ることの難しい能力にもかかわらず、また、人それぞれ評価が異なる能力にもかかわらず、巨匠や鬼才などといった安易なレッテルと相乗しながらメディアの中で常にすごい才人として扱われます。だからこそ映画と自己顕示欲が結びつくという日本特有の状況が生成されてきたのだと思います。
園子温と似たような姿勢・態度が自己顕示欲型の映画監督にはあります。
その結果、日本映画は海外にくらべ、歪んだ世界やバイオレンス映画が多い傾向にあると思います。この惑星でトップを競えるほど平和で安全な国にもかかわらず、歪んだ世界やバイオレンス映画の比率が高いことは、日本の映画監督がいかに自己顕示型の監督で占められているかの証左にもなっていると思います。
無気力なカナ(河合優美)は、最終的には何かにまとめられる人物なのだろうと思って見始めましたが、結局まとめられることはなく、映画も結論を持っていません。
ナミビアの砂漠は、園子温がバイオレンスで観衆を威嚇するのと同様に、エキセントリックな人物像と男女の救いのない取っ組み合いを見せて観衆を威嚇している映画だと思いました。
日本の映画監督には、観衆に嫌悪感を覚えさせ、神経を逆なでさせることがクリエイティブスタンスであるという誤解があります。かれらは、目を覆いたくなるような修羅場をあえて見せることが「鬼才」だと信じています。
この戦略のことを「こけおどし」といいます。
おそらく山中瑤子監督の目的は、エキセントリックかつ胸糞悪い人物や状況を描いて、観衆を苛立たせることです。映画に結論はなく、カナはよくわからない原因とよくわからない結果の間をさまよっているに過ぎません。なぜならナミビアの砂漠はこけおどしによって鬼才感を出すという山中氏の目的のためにつくられているからです。山中瑤子監督は要するに「こんな胸糞人間を描けちゃうわたしってスゴくね」と言いたいのであり、そのためにこれを書いてつくったわけです。
アリアスターが本作をほめたのは中途でボーはおそれているそっくりの客観視点がでてくるからです。ボーはおそれているは、なかばまでボーの主観で描かれていますが、どこかでボーが劇中劇人物になり映画がメタフィクションに昇華されます。
ナミビアの砂漠も中途でスクリーンに小窓が開き、あたかもカナが劇中劇人物であるかのようなメタ表現がありました。アリアスターはボーはおそれているに酷似した展開に反応したのだと思われます。ただし、カナが自分のメンヘラ気質を客観視する描写はそこからどこへもつながることなく、映画は尻切れトンボでおわります。むろんアートハウスは尻切れトンボな映画だらけですが、ナミビアの砂漠は鬼才感のある尻切れトンボな終わり方をします。なんていうか「こういう尻切れトンボな終わり方が鬼才っぽいんだせ」と言いたい感じの超あざとい尻切れトンボな終わり方をします。
俗にそれも「こけおどし」といいます。
もっとも原始的な鬼才感の出し方は、悪い人間に寄せることで、近寄りがたい雰囲気を醸成することです。北野武や園子温のようにバイオレンスを描くと「怖そう」という雰囲気が醸成され、人々は畏怖しつつ、すげえ監督なんだ──という鬼才値を彼/彼女に置きます。
山中瑤子監督は、嫌悪を感じるメンヘラ女を描くことで、バイオレンス描写と同じような効果を狙っています。そこに流行のメタフィクション細工を足して、理解の上つくっている雰囲気を織り込ませています。利口な人ではあるのでしょうが毎度の日本映画でした。
日本映画界が自己顕示型だらけなのは、日本が左翼に席巻されているからだと思います。全メディア、政界、財界、芸能界、映画界、操觚界、学会、左翼だらけです。左翼という言い方が強すぎるならばリベラルでもいいです。
どこかの映画評価機関が2023年のベスト&ワーストとして花腐しがベストでゴジラ-1.0がワーストだと公表していました。信じられますか。ゴジラ-1.0がワーストだとほざいていたんですよ。どう考えても人気作を貶めることで「おれたちは孤高なんだぜ」と気どっている中二でしかありません。個人的にはそんな評価をする人間と同じ空気を吸いたくありません。
左翼やリベラルが目指すのは日本を憎むように仕向けること──からの社会の壊乱です。人間が怠惰になり生産性を欠いた結果、国家が破滅することを望んでいるのが左翼やリベラルです。
こうした目的をもっているがゆえに日本では映画も、反社会やバイオレンスやいびつや悪辣やゆがんだ世界や反日が主流になっているわけです。わたしはなにもカウンターカルチャーがだめだとか悪い世界がだめだとか言いたいわけではありません。しかしいまの日本映画にはカウンターカルチャーのようなアートハウスしかありません。日本はひどい国で、変な人間ばかりで、クソな日常生活しかない──というような日本映画しかありません。
普通の人は映画で悪を打ち負かす勇気や苦境でも何かをまっとうする気骨とかを見たいと思いますが、今の日本映画にはそういった正義や秩序がことごとくありません。
映画監督ならば、なぜゆがんだ人物を描きたいのか考える必要があると思います。監督自身が、苛酷な体験をしたのでないのなら、恐ろしい話はホラーにすべきだと思います。
海外の映画において、ホラー仕立てではなく、現実ドラマで胸糞系がない理由は「こけおどし」になってしまうことを避けるためです。アスターもこれをホラーとみたはずであり、でなければ褒めなかったでしょう。
結局のところ、わざと不愉快な映画をめざしたのでしょうが、普通の人のわたしにとっては、不愉快な映画だった──としか言いようがありません。
よくわからないがなんか見てられる
自分には必要のない映画でした 読みが浅いんだろうと思いますが、率直な感想です
ちょっといい女の話ですから
恋愛偏差値の低い人間とは人種がちがう
だから、何が不満なのかさっぱりわかりませんし、永遠に交わることの無い異世界の話です
たかが21歳で何も無くて、生きづらいって
もうちょっと生きてからにしてもらいたい
持ってる物の価値もまだわからんでしょう
自分がどれだけ恵まれているか
その持ってる物にあぐらをかいて何もしてこなかったんでしょうが
って思うだけです
彼女を見てると、何がやりたいのか?何が好きなのか?サッパリわからない
ただ生きてるだけ
人生って意外に短い
20歳超えると加速するように歳をとっていく
なんで、このご時世に男に頼ろうとするんだろう
彼女が魅力的に見える要素は皆無です
世話を焼いてくれるけど、退屈な男
でもズボラなあんたには必要不可欠でしょう
退屈なら自分で面白くすればいいのに
カッコイイ男に乗り換えてみれば、ダンボールのトマトを腐らすようなお坊ちゃん男
ズボラ同士がひっつけば、ゴミ屋敷になりますよ
同棲ならいいけど、親に紹介するくらいだから、結婚前提?
大丈夫かなあ?
暴力振るわれてもガマンする男には見えないけどね
そのうち耐えきれなくなって別れるでしょう
更年期障害のヘレンさんを、優しく見守った旦那の西川きよしはエラいと思うよ
会話が空虚だって?自分が人の話を聞かないのに、今さら相手してくれというのも虫が良すぎる
ただのワガママな子供ですやん
まあ21歳ゆうたら子供かな
突然、唐田えりかが出てきて、誰でもわかっているような、あたりまえの事を、さもいい事のように語って出番が終わりました
一体なんだったんでしょうね
で、結局、精神の病気ですか
なんでも病名付けたら満足なんですね
これ、病気の話なの?
カンヌで賞をとったそうですが、あちらの人の評価はどうだったんだろう?
別にどうでもいいけど
ナミビア砂漠は何も無い砂漠の意味もあるとか
ほんま、何も無い映画でした
これをいい作品という人はリア充なんだろうな
羨ましいよ
河合優美が、もてはやされている
まあ、最近にはいない、エロさのある24歳ですね
といって、まだ彼女が出演しているから観ようというほどでも無いけど
ダンスも得意なうえ、英語もペラペラらしいので、さっさとハリウッドに乗り込めばいいのに
いつまでも日本にいたら、あっという間に旬を過ぎてしまうよ
河合優実の美しさ
お笑いとジェンダーに思いを馳せる映画NO1
冒頭、主人公狂ってんなぁと思ってたら、だんだん「主人公病んでるなぁ」に変わっていった。さらに見ていくうちに、「これ社会が病んでんのかなぁ」って気持ちになってきた。
「世の中を男が作ったものが多すぎる」っていうセリフ、確かになぁと思った。ライフでやってた「世の中のものは大体オッサンが作ってる」っていうコントも思い出した。
AKBも乃木坂も、作ったのは秋元康だしなぁ。
僕が好きなお笑いとかヒップホップも、明らかに男が多いジャンルだもんな。
これ、100年後とかにはゴブゴブの時代が来たりするのかな。アスリートみたいに明確な肉体差が必要な場面じゃないなら、性差ってそこまで関係ないはずだよな。
じゃあ、肉体差が必要ないなら、なんでここまで数に差が出ちゃってるんだろう。
ジェンダーとお笑いが絡むと厄介だから、この話はやめとこう。
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