「映画を観る意味」ナミビアの砂漠 sow_miyaさんの映画レビュー(感想・評価)
映画を観る意味
山中監督が、河合優実と出会うことで生まれた作品。脚本も監督オリジナル。そんな中、とあるシーンで、「映画なんか観ても意味ないし」というカナのセリフが出てくる。
それが衝撃的で、監督はどんな思いでこのセリフを語らせたのか聞きたいと思っていたら、本日の上映後の舞台挨拶で、監督自ら「(カナのセリフとして)自然と出てきた」と語られていた。また「カナにそう言わせたからには、映画を観る意味について考えなくては…」として、「人生で実際に出会える人は、おそらく数百人くらいだと思うけれど、映画は、多様な作品を観ることで、人生において出会うことのない人たちと出会えるということに意味があるのではと思うようになった」とも述べられていた。
本作のカナや、元彼のホンダ、今彼のハヤシは、まさに出会うことのない人たちにも見えるし、そこかしこにいるあの人や、もっというと自分自身にすら見える。
そして、そう思える自分は、その出会いを必要としているし、もっというと楽しみや喜びも感じているのだが、今のカナにはそのキャパシティがないのだろう。「少子化と貧困の中、目標は生存」という時代のせいもあるだろうが、そもそもまだ21歳。自分の好き嫌いすら模索中の時期だ。
側から見れば、元彼のホンダの分別ある態度やカナを思う気持ちの深さや責任感に対し、今彼のハヤシの薄ら寒いセリフや、持てる者の幼稚な全能感をもとにした自己中行動に「おいおい、そっちで大丈夫?」と言いたくなるが、カナだってなんでホンダよりハヤシなのか、うまく言えないのだろう。
ただ、自覚的ではないにせよ、鼻ピとイルカのタトゥで互いを束縛しあう関係になったことに関しては、カナもハヤシも互いに誠実(と言っていいかは不明だが)で、どんなに取っ組み合いのケンカをしても、罵り合っても、家を飛び出しても、ちゃんと戻ってくるし、何なら、ぶつかり合いながら、少しずつ新たな関係を築きあげていく様子が描かれる。
とりわけ、ラストでは、元彼が作ったハンバーグを2人で食べながら、「わからない」ことを認められる(マイナスをさらけ出して笑いあえる)関係になったことが象徴的に描かれて、ほんのり明るい気持ちになれた。
とまぁ、自分は年も重ねてきたので、ちょっと主人公たちに対して、上から目線な見方をしてはいるが、主人公自身が持っている自己中な感覚や、他者との関係の中で届いてこない言葉や態度に急に冷めてしまって感じる孤独感とか、打算的な思考回路とか、正直言って全然今もある。
そうしたことを映画を観ながら考えられたのは、スタンダードサイズ画面が持つホームビデオ感が、主観と客観の行きつ戻りつにピッタリだったからだと思う。カウンセラーとのやりとりの後、自分を一歩引いて認知できるようになったカナのイメージシーンの挿入などの演出もよかった。
それにしても、カウンセラーの問い返し(「なぜロリコンを例に出したのか」と「なぜ怖いと感じるのか」)は、自分にも刺さった。自分を知る糸口って、こういう問いの立て方にあるんだなぁと感心した。
また、隣人役としての唐田えりかの登場と、彼女が語るセリフの重みが、彼女主演の「朝がくるとむなしくなる」に重なって沁みた。映画として、とてもいいアクセントになっていたと思う。
ちなみに、タイトルの「ナミビアの砂漠」についてだが、最古の砂漠と言われていて、情報や物質が有り余る現代の東京と対極のようでありながら、実は人口の水飲み場を作ってそこに定点カメラを置いて、YouTubeで収益化をはかっているという。(山中監督談)
対極にあるように見えて、見方を変えると思わぬ共通点が見えてきたり、実は境界なんてあやふやだったりというのは、自分自身の主観と客観を行き来させられたこの作品のタイトルとして、お見事だと思った。
丁寧なお返事ありがとうございました。「関係の作り方がとても苦手な女の子が少し希望をもてるくらいに進化していく話」といつのがとても腑に落ちました!
カナをあたかもモンスターのごとく評価する論評が多くモヤモヤしていました。愛をもって制作されていたんですね。ほっとしました。
共感ありがとうございます。う〜ん「映画なんか観ない」っていうセリフについて山中監督はそんなコメントをしていましたか。
もちろんあれはカナがかまってちゃん状態の時に出てきたセリフでそんなに深く考えなくてもいいのかもですが、でもカナの世代にとってはYouTubeなんかと比べて映画は縁遠いメディアになってきたことはもう少し山中さんあたり意識しててもいいと思うのですよ。どういう文脈でコメントが出てきているのか分からないので的外れかもしれないが映画人としてはやや無邪気すぎるんじゃあないかな?